第42話 予期せぬ再会
今にも虐殺を始めようとしていた竜蜥蜴の動きが、ぴたりと止まった。
レイもまた、つられるように視線を彷徨わせた。そして、竜蜥蜴の右肩――飛翼の付け根で動く小さな影を見付けた。
逆光でよく見えないが、ヴァルよりも小さな体躯で、背中には小さな翼らしきものが見える。
(あれは……どこかで見た気が……?)
声の呑気さのせいか、レイが少しだけぽかんと見上げていると、その小さな生き物は竜蜥蜴のごつごつした首筋を軽やかに駆け上がって、ぴょこっと身を乗り出した。
《殺さないで? オイラ、そいつ好き》
それは、あまりに無邪気な声であった。あの竜蜥蜴の巨体が、どこかたじろいでいるようにさえ見える。
《……吾仔よ》
果たして、竜蜥蜴は観念したようにそう呼びかけた。
やはり、とレイは得心する。
(あれが、五百年かけて孵化した魔獣の仔……?)
そして位置が変わったことで、その姿も見え始めた。
蜥蜴のような体に、太く長い尻尾、額には生え始めのような小さな二本の角、背中には蝙蝠のような羽根もある。竜蜥蜴と同じ特徴を持つそれを、レイは一度見ている。
(もしかして、あの時の……?)
縦坑内の広場にリォーが寝かされていた時のことだ。リォーに群がっていたところをセネに放られた子供たちの中の一匹で、ちょうどレイの手の中に収まった仔だ。太い尻尾をお腹に抱えていた姿が可愛くて覚えている。
とそこまで考えて、レイはあれ、と思った。
(確か、子供たちは横穴にいて、そこに火が来て……)
それが地上から現れたということは、と考えた時、
「長老様!」
背後から、今にも泣きそうな声が飛んできた。驚いて振り向くと、予想した通り、獣化したままのセネがよたよたと走り寄ってくるところであった。
「セネ!?」
その後ろから同じくヴァルが続き、更に後ろでは、崩れて急な階段状になった崖の最上部にしがみつき、ぜぇはぁと肩で息をしているハルウが見える。
レイはひとまず二人には構わず、セネに駆け寄った。
「セネ、まだ危ないよ!」
「竜蜥蜴! 長老様は、みんなは無事なのか!?」
慌てて抱き上げたレイの腕の中から、セネが何百倍も大きな相手に声を張り上げる。制止しようとしていたレイは、その問いにやはりと瞠目した。
セネの視線を追って、再び竜蜥蜴を見上げる。
「やっぱり、知ってるの?」
《…………》
確信とともに問う。竜蜥蜴は返事をしない。
だがあの蜥蜴のような子供が竜蜥蜴の仔で、善性種の里から逃げ出して父のもとまで逃げることが出来たというのなら。
あの横穴がどこまで続いていて、他にあと幾つ出入り口があったのかは分からない。それでも、あの時一緒にいたはずの他の子供たちもまた、逃げられた可能性が高いということなのではないか。
それを、竜蜥蜴は知っているはずだ。
「竜蜥蜴と話せるのは長老様だけだ。だから……!」
レイの問いを後押しするように、セネが言葉を重ねる。けれど竜蜥蜴の沈黙に、レイは縦坑の広場に落ちてきたモノが嫌でも思い出された。
「でも、あの広場に……足が」
火の神法で黒焦げになった、有蹄類の胴体。セネを思うと口には出来なかったが、とても見間違いとは思えない。
そう、暗澹たる思いで睫毛を伏せた時だ。
「あんな貧相な奴らと見間違えてもらっては困るのう」
場違いなほどのんびりとした声が、答えをもたらした。
セネが黄褐色の毛をぶわりと膨らませて森の奥を見つめる。その視線の先にいたのは、見事な白髪と長い顎髭、白に緋色の縞が入った牡鹿のような胴体を持った老人――隠れ里の長老であった。
「長老様、ご無事で……!」
レイの腕から飛び出して、セネが一直線に駆け寄る。それを少し悲しげに見つめてから、長老は優しくその腕に抱き上げた。
「置いていってすまんかったのう」
背中の傷の具合を確認しつつ労う長老に、セネが声もなく額を摺り寄せる。
その間にやっとレイの隣に辿り着いたリォーは、荒い呼吸を整えながら疑問を投げかけた。
「焼かれたのは、もしや山角羊か?」
「ほとんどの生き物は逃げたが、連中は仲間を殺されて興奮していたでな」
「あ……」
その答えに、レイはやっと不安から解放された気分だった。山角羊には悪いが、善性種の誰かでなくて心底安堵している。
「しかし、洞窟からは出られないんじゃ」
「口煩い連中は丁度、遁走しておったのでな」
ふぉっふぉっと長老が笑う。その食えない笑みに、隠れ里が火に襲われた時も大したことではなかったのかと勘違いしてしまいそうになる。
だが長老の前合わせの服の裾には茶色く焼け焦げた跡が見え、ここまでの道のりが容易でなかったことを示していた。
「抜け道があったのか?」
「土は蹄に従う。何事も、臨機応変が良い」
リォーの問いに、長老は右前肢を軽く持ち上げてみせた。ヴァルが言っていた、蹄には土の恩寵がある、ということなのだろうか。
(まさか、ここの縦坑とは別に新たに抜け道を作っちゃったとか?)
神法にも、土に干渉するものは幾つかある。土の恩寵が強ければ不可能ではないのだろうが、それにしても規模が違うので驚いてしまう。
もしかしたら、こういったことまで想定しての横穴構造だったのかもしれない。
そこに、ハルウに付き合ってゆっくり歩いていたヴァルも追いついた。
「あんまりぐずぐずしてる時間はないんじゃないかい?」
「ヴァル。……と、ハルウ」
見れば、ちょこんと座ったヴァルの横に、ぐったりと座り込んでいるハルウがいた。いつもは艶やかな深緑色の髪も、今は土や根が乗っかり、余計に疲れて見える。
「大丈夫?」
「に、見えるぅ? もう両肩が重くて重くて……」
「相変わらず、体力だけは人並みだね」
レイの心配に珍しく汗を掻いて答えるハルウだが、運んでもらった当のヴァルは、大して感謝の念は抱いていないようだ。豊かな尻尾を揺らし、呆れている。
(飛べるって言ったくせに)
風の恩寵があると言っていたのにハルウの肩に便乗した辺り、何かしら言いくるめたか、脅したのかもしれない。長い付き合いではあるが、レイは二人の力関係をいまだに測りきれていなかった。
それはともかく、竜蜥蜴が思い留まってくれるのならば、ヴァルの言う通り長居する理由はない。
レイは改めて長老と、遥か頭上の魔獣へと向き直った。
「長老様、竜蜥蜴。助けてくれてありがとう」
痛む体をおして頭を下げる。リォーもまた、言葉はなかったがレイに倣った。
反応はない。だがヴァルもハルウもいつも通りだったから、レイは少しも緊張はしなかった。
そっと顔を上げると、案の定、竜蜥蜴も長老も動いてはいなかった。そして、父竜の角に辿り着いた仔竜と目が合う。
口元の赤みは、やはり果汁か何かだったらしい。小さな口はきれいで、レイは自然と微笑んでいた。
「それに、あなたも」
《……カタン。オイラ、そう呼ばれてる》
カタンとは、善性種の言葉で「小さい」を意味する。
魔獣の多くは、番となる対としか名前を交わさない。そのためその呼び名は善性種の隠れ里で仮に用いられた俗称に過ぎないが、仔竜は存外これを気に入っていた。
声の抑揚は変わらなかったが、レイはなんとなく微笑みかけられた気がして笑顔を深めた。
「カタンも、ありがとう」
《うん。オイラ、その言葉も好き》
ぱたぱたと、仔竜の背中の小さな飛翼が動く。父竜と同じ琥珀色の瞳はまん丸のままで表情の変化は分からないが、喜んでくれたようだ。
それだけで、レイもじわりと嬉しくなる。
(やっぱり、話せば分かり合えるんだ)
立場が違っても、種族を越えて、ちゃんと微笑み合える。揺らぎかけていた希望が、今この瞬間にか細く、けれど確かに繋ぎ止められている。
そう、確かに感じられた瞬間だった。
「っきゅ?」
死角から出し抜けに飛んできた火が、カタンの小さな体を一瞬にして呑み込んだ。
「ッ!?」
《吾子!》
「カタン!」
火の塊となって父の首から落下する仔竜を、竜蜥蜴と長老が同時に追う。長大な口が開いてその舌に受け止めるよりも、長老がダンッと踏み鳴らした地面が隆起する方が半瞬速かった。
レイのすぐ頭上で、草混じりの土が燃え盛るカタンの小さな体を包み込む。ジュッと火が消える音が上がり、次にはその隙間から白い煙がくゆる。
レイたちが息を詰める中、土塊はゆっくりと地上に戻り、ボロボロと崩れる。現れたカタンの鱗には特に火傷した様子もなく、弱々しくだが尻尾もゆぅらと動いていた。
(良かった……!)
だが、呑んだ息を吐く余裕はなかった。
「火が……!」
見ればその火はカタンだけではなくあちこちに放たれていたようで、次々と周囲の枯れ葉や木々に着火し始めていた。燃え上がった炎が、あっという間に森を真っ赤に染め上げていく。
普通の火では、ここまで素早く燃え広がることはない。案の定、その発射場所には最早見たくもない黒と青の軍服があった。
崩れた足場から這う這うの体で逃げ出したはずの神法士たちが、いつの間にかネストルを囲む輪に加わったらしい。
「ネストルか――」
リォーも舌打ちして周囲を見回す。その視線が止まった先に、いまだ座り込んだままのカーランシェがいた。
「ぁ……――」
「ッカーラ!」
迫りくる炎を、呆然と見つめたまま。




