第41話 小さな訴え
逃げなければならない。
そう、頭では分かっていた。
怒れる魔獣が、目の前の敵一匹を屠ったくらいで満足するとは思えない。伝説の再現さながら、アクラー山を更地にするまで止まらない可能性もある。
レイは加速に使った風鳳の神法のせいで、竜蜥蜴のすぐ鼻先にいた。この現状で助かる術は一つ、神法が完全に解ける前に踵を返して逃げることだ。
だというのに、足は少しも動かなかった。体が瘧のように震えているせいだろうか。だがそれは、決して恐怖のせいだけではなかった。
圧倒的すぎるものに対する畏れは、勿論ある。だがそれを上回るほどの怒りと悲しみが、どうしようもなくレイの体を埋め尽くしていた。
「――なんで……なんで!?」
保身も退却も忘れて叫ぶ。
「リォーは対話しようとしてたのに! 言葉が分かるくせに! それなのに、話をする前に、こんな……!」
酷い、と、レイは胸の裡だけに絞り出した。
竜蜥蜴の言い分からすれば、酷いのはそもそも人間種ということになるのかもしれない。だからこれは正当な報復だと。そしてそれは、善性種のセネの言い分にもあった。
どちらが最初かは分からない。だが一つ前には、人間種の悪行があった。だからやり返す。
それはレイにだって分かる当たり前の、他には置き換え難い感情であり思考回路だ。争いは良くないし、戦争は悲劇しか生まない。それでも、自分だけが不利益を被ったままでは気が収まらない。
けれどサトゥヌスはもういない。復讐相手がいないなら、手頃な別の代替にぶつける。そしてそれが、たまたまリォーだった。それだけのことだろう。
頭では分かる。理屈じゃないことも。それでも。
「話せば、分かり合えるのに……っ」
悔しくて悲しくて、そんな言葉が零れていた。
それは最後の聖砦で暮らすことを強要され、城に戻ることは許されず、母に会うどころか私的な会話もままならないレイの、溜め込み続けた妄執による一つの答えであった。
きちんと話せば、レイが無害であることは分かってもらえるはずだと。
レイを不吉だと忌み嫌う城の重臣たちにも、母にも。
自分は母のために頑張れるのだと、もう二度と母を失望させはしないと、伝えられさえすれば。
悲しい誤解はとけ、全てが良くなるはずだと。
話し合いすらできないレイは、ずっとそう信じてきた。
そして今日、リォーが人語を操る山角羊と交渉をしてみせたことで、それは限りなく確信に近付いた。
だというのに、それは圧倒的な力によって一方的に、残虐なまでに否定された。
それも目の前で、当の魔獣によって。
か細く、今にも切れてしまいそうな希望だと、自分でも分かっていた。それでもそれに縋るしかなかったレイにとって、この現実はあまりに厳しく、そして無情であった。
ふしゅぅ、と竜蜥蜴の荒い鼻息が砂塵を吹き飛ばしながら、鼻面をレイに向ける。見上げる瞳は鋭い刀傷に塞がれた右瞼だが、その黒い鱗の並びの奥から熟視されているのが、嫌でも分かった。
敵意、というには僅かに鋭さがない、と思った時。
《……獣よりも劣る悪辣な生き物に、理を求めると?》
腹の底から響くような野太い声が、そう問い返してきた。
魔獣は、神々が造り給えし生物を好き勝手に弄り回した末の劣化版に過ぎないというのは、賢才種自身の言葉だ。そして知能が高い種ほど、そのことを皮肉と共に理解していた。
だが、そんな痛々しい言葉でも構わなかった。その気持ちがほんの少し前にあればと、思わずにいられない。
レイは口惜しく思いながら、力なく首を横に振った。
「そんなの関係ない。言葉を交わせるなら、友達にだって……なれる」
言いながら、なんて空々しい言葉だろうと、レイでさえ思った。
目の前で奮闘していたリォーを問答無用で丸呑みした魔獣と今更友誼を結べと言われても、レイはそこまで達観も諦観もできない。
そもそも、レイに友達などいない。
ヴァルもハルウも年長者だし、そもそも同年代の他人と関わったことがない。七歳の時に唯一出席した式典では多分同年代の子供と話をしたはずだが、記憶は曖昧だし再びもなかった。
それらを踏まえると、初めて継続的な会話をしたのがよりにもよってリォーということになるのだが、彼と友達になれたかといえば、まるで逆だと言わざるを得ない。
(こんなことなら……頭ごなしに嫌ってないで、仲良くなる努力をすれば良かった)
胸元の首飾りを無意識に握りしめる。
こんな時だからか、子供の頃によく聞いた子供向けの神話が思い出された。
孤独な無。
無は誰とも対になれなくて、果ては世界の外に追い出される。それでも諦めきれなくて、夜ごと世界に手を伸ばす。寂しくて、寂しくて。
そして魔王もまた、天上にて対のない孤独の神だったと、ヴァルは語った。
(話し合えば、みんな……)
後悔は、いつも取り返しがつかなくなってからレイを打ちのめす。双子の妹がいたと知った時も、式典で最悪の失敗をしたと知った時も、母の言葉を盗み聞いてしまった時も、今も。
《世を知らぬ小物の戯言だ》
レイを一呑みできる口で、竜蜥蜴が否定する。
虚無的なその声に、嫌なのに、レイは泣きたくなった。
違う。そんなことない。そんなこと言わないで。否定しないで。
(……違、わない)
くしゃりと、顔を歪ませる。
胸が痛くて、根拠もない言い訳をみっともなく口走りそうだった。
続く声がなければ。
《だが、少しは気骨がある》
「…………? 何を」
今度は少しばかり人間臭い声だと思いながら、レイは自分でも思わぬほど低い声が出た。
その目の前で、地面に接していた顎がゆっくりと持ち上がる。
これも話術の一つだったかと、レイが遅れて身構えた時。
「……どいつもこいつも、俺を勝手に殺すなよ」
鱗に付いた土がぱらぱらと落ちる中、顎の向こう側に、人がいた。
蒼天色の髪は土まみれで、買ったばかりの外套はあちこち破れてズタボロだけれど、二本の足で立っている。下手な女性よりも端麗なその顔は、どこか居心地が悪いような、照れを隠すようなむすっとした顔をしてはいたけれど。
「……うそ……」
あり得ないものを見た気がして、レイはそれ以上舌が回らなかった。橄欖石の瞳を何度も瞬き、上から下までその体を確認する。
頭から土を被っているのは、竜蜥蜴が噛みついた時に一緒に舞ったものだろうか。額には擦れた血が見えたが、ふらついているという感じはしない。
どうやら噛みつくと見せかけて、リォーの体を大きな顎の向こうに隠しただけらしい。
「無事…………」
「フェルお兄様ッ!」
なの、と言い切る前にカーランシェの泣き声が悲鳴に変わった。弾かれたように立ち上がって、けれど竜蜥蜴の巨体に怯んでその場を動けずにいる。
「カーラ」
リォーは困ったように眉尻を下げて、名を呼んだ。兄妹の視線が、レイのすぐ横で交わる。
「心配かけて、悪かったな」
続けるその言葉の一瞬、藍晶石の瞳が確かにレイを見た。そこでやっともう一つの事実に思い当り、レイは咄嗟に目を逸らしていた。
(聞かれた! いや聞かれて恥ずかしいことなんて言ってないけど!)
友達になれると言っただけだ。別にリォーを認めたとか褒めたとか、そんなことは言っていない。ただ、その行動を泣きそうになりながら後押ししただけだ。
それでもレイは無性に気恥ずかしくなって、所在なく視線を彷徨わせた。
だがそのせいで高ぶっていた緊張も少し落ち着いたのか、周囲からかすかに呻くような声がちらほら聞こえてきた。
(まさか、他の人たちも……?)
よく目を凝らせば、散々に踏み潰された草木の間から見える黒と青の軍服には、動く気配があった。
全員丸呑みにされたかと思っていたレイは、思考が追いつかない思いで、まだ目の前にいる竜蜥蜴を振り仰いだ。
「どうして……」
いくら竜蜥蜴が肉食でないといえ、この光景は俄かには信じがたかった。その意図を、当たり前のように問う。それが先入観と偏見から出た酷く不躾な問いだという自覚もないまま。
だが竜蜥蜴はそれを指摘することもなく、当たり前のように答えをくれた。
《……吾仔が孵化したことに感謝せよ》
我が子、と言われ、レイは考える。
伝説の通りなら、竜蜥蜴はサトゥヌスと約定を交わして以降は、この山から動いていないはずだ。竜蜥蜴が対である番を殺されたのもそれ以前とするなら、卵は五百年近く孵らなかったということになってしまう。
その疑問を、リォーがより早く声に出した。
「まさか、ずっと卵を温めていたのか?」
これに、竜蜥蜴は頷く代わりにグルルと喉を鳴らした。
《吾は再び対を得た。ゆえに無益な争いはせぬ。――だが》
ぎろりと、琥珀の中の瞳孔が右に逸れる。その先にあるのは、荒らされた森と、崩れた縦坑と、転がる帝国兵士。
《奴らは吾仔に危機をもたらした。赦すこと、能わじ》
「!」
竜蜥蜴の上唇がめくられ、穴だらけの両翼がばさりと大きく広がる。その風圧だけで体が揺さぶられる中、レイは咄嗟に鈎爪の進行方向に割り込んだ。
「だ、ダメ!」
「バッ、レイ!」
驚いたリォーが慌てて走り寄ろうとするが、見た目以上に限界なのか、幾歩も進めずに膝をつく。その足元にひしゃげた鞘が見えて、竜蜥蜴が言葉に反し半ば本気でリォーに攻撃したことが知れる。
レイはキッと眦を吊り上げた。
「待って! お願いだから殺さないで!」
既に樹頭の高さまで離れた頭部に向かって、喉が破れそうなほど声を張り上げる。
リォーが体を張ってまで止めようとした思い。懸念。それも勿論ある。
だがレイにとって恐れているのは、何よりも。
「人間を殺したら、今度こそ討伐隊が組まれて……またセネたちの里がなくなっちゃう!」
竜蜥蜴ほどの魔獣なら、山をまるごと吹き飛ばして逃げれば済む話かもしれない。だがクラスペダ山岳地帯に住む善性種たちは、きっとレイなどには想像もつかない苦難を乗り越えてこの地に辿り着いたはずだ。
竜蜥蜴が山を壊したら、帝国軍がこの地を殲滅したら、次はどこへ行けばいいというのか。次の土地に辿り着くまで、再び彼らに終わりの見えない茨道を歩めというのか。
けれど。
《皆殺しにすれば済むことだ》
「――――」
願いは聞き入れられなかった。
その声に人間種のような残虐性はなく、ただ合理的で建設的で、酷薄だった。
レイは、言葉が出なかった。伝わらないという絶望感が、言葉を奪う。
そして竜蜥蜴にならそれが可能だと、既に十分実感しているから。
「や……っ」
やめてと、それでもどうにかもつれる舌を必死に動かす。
その直前。
《――ててさま》
舌足らずな拙い声が、どこからともなく降ってきた。




