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第40話 対話の果てに

「――竜蜥蜴グアンロンよ」


 ボロボロのはずの体を、しかしリォーはまるでそうと感じさせない威厳をかもして琥珀色の瞳の前に晒して言った。


「父祖サトゥヌス帝の名にかけて、俺は退しりぞきはしない」

「ちょっ、リォー!?」

「フェルお兄様!」


 あまりに豪胆な宣言に、レイとカーランシェは色を失くして引き留めた。だが背に刺さったままの矢が目に飛び込み、軽々しくその体に触れるのを今更ながら躊躇わせる。

 だがそんなことに魔獣が構うはずもない。

 オォォ……と口腔内で風を逆巻かせて、竜蜥蜴の長大な口が開く。

 禍々しい程のピンクと、喉の奥の赤い暗闇。


「こ、希うは――」


 生暖かい呼気が顔を撫で、レイは本能的に別の神法を口にしていた。

 風の盾も土の壁も、この魔獣の前では無意味だ。それでも今は、リォーを守らなければならない。それが出来るのは、この中ではレイだけだ。リォーの手にあるのは、あの心許ない短剣だけなのだから。

 そしてそれは、僅かながらでも皇族を守るという職務を忘れていなかった兵士の一人も同じだったようだ。


「で、殿下が……!」

「馬鹿! いま近付いたら……!」


 遠く木々の向こうから、帝国兵の焦ったような声がかすかに届く。

 それからは一瞬だった。


 グゥヴォルァァアアア――――!


 竜蜥蜴が一際大きな咆哮を上げ、巨大な顎が破壊音を上げながら横殴りに地を抉る。凶悪な下顎が草木を薙ぎ倒し、隠れていた帝国兵諸共その口の中に飲み込んだ。

 標的が逸れたと安堵していた者たちが、再び叫喚に陥る。ネストルなどは真っ先に逃げ出していた。


「やめろ!」


 それを追って悲鳴のように叫んだのは、たった今その牙の餌食から逃れたばかりのリォーであった。


「ばっ、ダメよ、声出したら!」


 竜蜥蜴が彼らに襲い掛かったのが先程の声に反応したからだとしたら、無闇に叫ぶのは愚策だ。しかしリォーは引き留める声も無視して、人間を襲う魔獣のもとへと駆け寄った。


「やめろ、竜蜥蜴! 人間に危害を加えるな!」


 逃げ惑う人間をなおも牙を晒して狙う竜蜥蜴に、リォーが声を張り上げる。だが猛り狂った魔獣が、そんな説得に応じるとはとても思えない。

 まさか、今まで敵対していた存在を守るために声を上げたのか、もしくは囮になるつもりかと考えて、レイは今の言葉に含まれた可能性に気付いてしまった。


 クラスペダ山岳地帯に押し込められた魔獣たちは、特別凶暴ではないが、肉食もするし、迷い込んだ人間を襲うこともある。山崩れや嵐などで法術が崩れた時などは、魔獣が山の外に出て被害が出ることも、稀だがあるのだ。

 その際に出動するのは帝都の衛兵や警吏だが、規模によっては帝国軍にも要請が回る。ここで竜蜥蜴が帝国軍に甚大な被害を出したとなれば、皇帝は調査か、最悪討伐命令を出すかもしれない。

 それは単に絶滅を危惧される魔獣が消えるというだけでなく、何百年も守ってきた山の生態系が頂上から崩れることを意味する。


(まさか……魔獣まで守ろうっていうの?)


 リォーがどこまでを危惧しているのかは不明だが、止める理由はある。だがこの無手無策の状況では、無謀という他ない。


「リォー! 下がって!」

「お兄様! やめて! 危ないわ!」


 ともすれば竜蜥蜴が上げる土煙で視界が掻き消される中を、二人は叫びながら走った。だが竜蜥蜴は太い首をなお振って、逃げ惑う帝国兵を追っていた。その飛翼と足踏みの烈しさに地は揺れ続け、縦坑付近の脆い足場が堪えきれず更にひび割れる。

 そのひびが、走るカーランシェの足元にも及んだ。


「きゃあっ」

「カーランシェ皇女!」


 カーランシェの体が、突如ぐらりと穴に向かって揺らぐ。レイは咄嗟にその腕を掴んで、胸に引き寄せた。


「大丈夫!?」

「は、はい……っ」


 カーランシェは気丈に肯定したが、その体は震えが止まらず、足元も覚束ないほどだった。

 最早レイたちを狙う者はいなくなったが、自然の脅威がその行く手を阻んでいた。


(早く、どうにかしないと)


 カーランシェを抱きかかえて縦坑から距離を取りながら、レイは焦燥に胸を焦がした。

 このまま竜蜥蜴が暴れるに任せていては、地下の横穴も崩れて塞がれてしまうかもしれない。だがカーランシェを残してヴァルたちを迎えに行くこともできない。

 レイが迷う間にも、リォーは踏み潰される危険を顧みず魔獣に呼びかける。


「竜蜥蜴! やめてくれ! 彼らは……彼らも俺の民だ! 青帝サトゥヌスの民だ! 約束したのではないのか!? 民には手を出さないと!」


 それは、王族という意識に乏しいレイには俄かには信じられない発言であった。


(俺の、民? 矢も剣も向けられて、あと一歩で殺されそうな目に遭わされたのに?)


 だが更に訴えかけるリォーの顔は真剣そのものだった。


「竜蜥蜴! お前の棲み処を荒らしたことは謝る! お前の棲み処は、俺が第三皇子の権限で必ず守る。これ以上の手出しはさせない! だから今は怒りを鎮めてくれ!」


 割れるような叫び声に、ついに竜蜥蜴の動きが止まる。訴えが届いたのか、それとも目ぼしい標的がいなくなったからかは分からない。

 グゥルル……と、洞窟で風が唸るような低音が響く。大きな琥珀色の瞳が、樹頭と同じ高さからリォーを見下ろした。

 そこでレイは初めて気が付いたが、もう一つ眼があるはずの場所に同じ琥珀色はなく、代わりに鱗で塞がれていた。その中心を、恐ろしく鋭い刃で切り裂かれたような引き攣れが縦に一本、走っている。

 まるで、太刀傷のように。


(あんな大きな眼を、一太刀で……?)


 そんな人間離れした所業が成せる者など、レイには何人も思いつかない。そして同時に、リォーの言を思い出した。

 サトゥヌスに負けたことで、帝都に手を出さないと約束した竜蜥蜴。

 相手が騎士なら、矜持にかけて守るだろう。

 だが相手は魔獣だ。怨みに思っていないとどうして言えようか。

 グルル……と、牙を剥く準備のような声を上げながら、竜蜥蜴の長大な顔がリォーに近付く。

 辺りは不気味に静まり返っていた。先程までの惨劇が嘘のように、生き物の気配がない。


(みんな、殺されちゃったの……?)


 いつ食らいついても不思議ではない状況にレイたちが身を硬くする中、不思議な声がもたらされた。


《……青き者》

「!」


 それは山角羊トラゴスのような気持ちの悪い抑揚とも違う、高度な知性を感じさせる低く太い声であった。だが聞き触りは人の発声器官を通したものとは明らかに違い、どこか神法で声を拡大したような揺らぎがある。


(魔獣は、獣と魔法の生物だから……?)


 実際、生物学上の観点から見てあの骨格が人語を喋るというのは理解しがたい。古き邪法で発声の代替を可能にしたと考えた方が納得がいく。

 だがそんな悠長な考察は、続けて発された言葉に吹き飛んだ。


ジオを屠りし人間種ピリトスよ》

「…………」


 リォーは宣言通り一歩も退きはしなかったが、顔色は今までで最悪であった。皇家に伝わる伝説がどんなものかは知らないが、想定通りとはとても思えない。

 そしてレイの方はというと、叫び出す一歩手前であった。


(違うじゃん! 聞いてた話とやっぱなんか違うじゃぁんっ)


 伝説なんてこれだから嫌いだと、レイはしみじみ思った。まるで美談ではない。

 竜蜥蜴が何歳かは推定すらできないが、この巨体が短命ということはまずないだろう。そして古き生き物は概して対への感度が高い。その執着心も。

 案の定、竜蜥蜴がぐわりとその牙をリォーの頭に狙い定めた。


《よくも吾が前に姿を現せたな!》

「リォー!」

「きゃあぁぁあぁっ」


 カーランシェが腰を抜かして蹲る横で、レイは無我夢中で駆けだしていた。風の神へと祈り直して風鳳ふうほうを希う。


(間に合って!)


 間に合うわけがないと状況が言う。たとえ間に合っても、一緒に屠られるだけだと。

 だが見捨てるなどということが出来るはずもない。

 レイは見えない風に背を押されるように、数歩でリォーのもとへと駆けた。必死で手を伸ばす。


「手を出して!」

「来るな!」


 振り向いたリォーの、焦った顔がはっきり見えた。

 それが、あともう一歩の距離で降りてきた、生成り色の牙の向こうに隠れる瞬間まで、はっきりと。

 牙はそのまま下の土をも抉り、その後にガッ、と何かが潰れるような鈍い音が遅れて上がった。

 飛び散る土が、酷くゆっくりとレイの瞳に映る。


「…………リ」

「――ぃやぁぁああぁぁあぁぁッ!」


 遥か後方で、カーランシェの引き攣れた悲鳴が甲高く響き渡る。

 その行いを肯定するかのように、森はやはり静まり返っていた。



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