第39話 大きすぎる脅威
バキバキドシン……バキバキドシン……ッ
神代の神獣の血を引いているとも云われる巨大な魔獣が、まだまだ遠くに見えていたはずのアクラー山から、土煙と木っ端を巻き上げながらゆっくりと降りてくる。
その状況を理解するにつれ、レイは全ての思考がぎこちなく停止していく感覚を味わった。
心も体も、全ての感覚が痺れるように上手くいかなくなり、何を考えても結論がただ一つに帰結する。
すなわち、死。
それ程に、無造作に木々を踏み潰し、地を揺らして近付いてくる竜蜥蜴は圧倒的であった。
戦うとか勝ち目とか、そんな次元での思量が及ぶ存在ではない。文字通り山の頂が動いているようなものだ。山肌を這う生物など、その鉤爪の下の木々よりも簡単に潰せると、歩くだけで示している。
バキバキドシン……バキバキドシン……ッ
竜蜥蜴にとっては、ただ歩いているだけなのだろう。だがその絶望的な破壊の足音に、最早鳥の羽ばたきも獣の鳴き声も何もない。山に棲み、山に近い彼らは、竜蜥蜴が目を覚ました時には既に逃げ散っていたのだろう。
だが人間たちは同族同士で争うことに忙しく、こんなにも間近に迫るまで気付けなかった。明らかな怒気を孕んだ喉の唸りや、遥か上空から降りかかる生温い鼻息が感じられる程の距離に迫るまで。
「こんなの……どうしろって……」
砂嵐のように肌を叩く塵芥を感じながら、どうにもならない思考の一端が口から零れていた。膝立ちになっていた体から力が抜け、成す術もなく巨大な魔獣を見上げる。
その横で、同じく覇気のない声が上がった。
「まさか……これもリッテの仕業だとか、言わないよな?」
カーランシェを抱く腕にも力が入らない様子で、リォーが呟く。第二皇子が一体何をしたのかと思うが、それを発声する前についにあちこちから悲鳴が上がった。
「な、何なんだあれは!?」
「竜……竜蜥蜴ッ? そんな馬鹿な!」
「こっちに来るぞ!」
「――きゃああぁぁっ」
崩れていた陣形を扇形に立て直していた帝国軍、そしてカーランシェだ。
帝国軍は皆一様に頭上に突如現れた黒光りする巨体を振り仰ぎ、カーランシェは泣き顔でリォーの腕にしがみついている。誰もが理性を失い、どの顔も例外もなく蒼白だった。
「か、閣下! ご指示を――ッ」
強靭な精神力でそう叫んだ男を、どこからともなく飛来した盾ほどもある木片が吹き飛ばした。竜蜥蜴の行進により折れて弾けた幹の欠片が飛んできたのだ。
男の筋肉質な体が呆気なく茂みの向こうに消えた瞬間、混乱は火が付いたように広がった。
「た、隊長!」
「手当てを」
「に、逃げ」
「きゃああっきゃああっ!」
絹を裂くようなカーランシェの悲鳴の中、兵士たちの行動は千々に乱れた。倒れた男に駆け寄る者、武器を下ろして逆方向に駆けだす者、反対に竜蜥蜴の胸に矢を向ける剛の者もいた。
さすがに軍人ともなると周囲を押しのけてまで取り乱す者はいないが、この瞬間、指揮系統は死んだも同然だった。
そんな中でも、流石にネストルを護衛する兵士たちには、まだ冷静さが残っていた。周囲の混乱をつぶさに観察しながら、ネストルの指示を仰ぐ。
「閣下、これも予定の……!?」
「こんなものは聞いとらん! 退却だ! 両殿下を確保し、そのまま下山――」
怒りで顔を真っ赤に染めたネストルの怒声はけれど、竜蜥蜴の前肢が背後の樹頭に接触する音に掻き消された。
ミシミシミシッと軋みを上げる木々が傾き、無数の悲鳴が混じる。
「ふ、踏まれ……!」
「逃げ」
「た、退避! 東に退避」
「ぅわあああ!」
藁にも縋る思いで自然の遮蔽物に隠れていた兵士たちが、どばどばと降ってくる裂けた枝葉から一斉に逃げ出した。まるで群れに肉食動物が飛び込んできた草食動物のような有り様だった。そこに官の上下の区別はなく、ネストルまでも巨躯を揺らして惨めな逃走者に加わっていた。
その背を追うように、ついに竜蜥蜴の太い足がすぐそばの大地を踏み抜く。
バリバリッと木が破裂するような音と、耳を聾する地響きとが同時にレイの体を震わせる。立っていられないほどの振動が、足と言わず全身の骨に響く。
身を硬くするレイたちの上にも、杭のように鋭い木片が容赦なく降り注いだ。
(嵐みたい……!)
倒れる木々からの風圧を横殴りに浴びながら、レイはどうにか薄目をあける。木っ端と葉っぱが飛び交う先、すぐ眼前に、黒光りする鱗があった。
一片一片が手の平ほどもある鱗が、視界一杯にびっしりと並んでいる。倒れた木の向こうに見える鉤爪は何度も鍛え直した鋼のように黒く、地面にめり込んでもなお膝丈ほどもある。
「おっ、きい……」
視線を上に向けても鱗はどこまでも続き、首が痛くなる程見上げてやっと、廂のような顎裏に辿り着いた。その顎の鱗がおもむろにたわみ、下顎に隠されていた太い牙の並びが露わになり。
ゥヴォルァァアアアァァァ――!
空を響もす咆哮が、山全体を震撼させた。
「ッ!」
鼓膜が破れるかと思うような音量に、レイは思わず両手で耳を覆った。巨大な音はそれさえも暴力だと、人生で初めて味わった。ビリビリと、肌といわず内臓までをも震わせる。
「こんなの、天災でしょ……っ」
魔獣はかつての強人種や賢才種が生み出したと云われているが、ここまでとなればもはや自然災害と変わりない。
カーランシェが、リォーの腕の中で狂ったように頭を抱えてきゃあきゃあと悲鳴を上げる。鱗の壁の向こうでも、兵士たちの苦悶の声があちこちから上がっていた。
レイもまた逃げなければと思うのに、足が縫い留められたように動かない。睨まれたわけでもないのに脂汗が噴き出し、知らず手が震える。
その手を、力強く掴まれた。
「今のうちに逃げるぞ」
「っ!」
驚いて振り向けば、リォーが膝をずってすぐ隣に来ていた。掴まれた手が熱い。発熱しているのかもしれない。
(バカ、なにをぼけっとしてたの……っ)
レイは、状況に呑まれていた自分を罵った。重症度でいえばレイよりもリォーの方が上だ。率先して動くべきはレイだった。
だというのに、その手と声の力強さに、レイは呆気なく安堵してしまった。動揺と緊張が僅かにほぐれ、狭くなっていた視野がふっと広がる。
「う、うん」
レイは、頷きながら周囲を見回した。
帝国軍は、半数は既に穴の周辺を離れ、残る半数が竜蜥蜴の足の周囲でまごついている。恐らく竜蜥蜴の歩みで何かしらの被害に遭ったのだろう。その中に、地面に倒れたネストルの姿も見える。逃げるなら今しかない。
「ほら、カーラも。しっかりしろ」
「ぃやっ、いやいやぁぁっ……ぃぇ、え? あ……」
いまだ混乱していたカーランシェは、兄に頬を軽く叩かれて、やっと淡褐色の瞳の焦点を結んだ。はっと周囲を見渡し、さっと顔を青くする。
「ご、ごめんなさい、わたくし……」
「気にするな。走るぞ」
「で、でもお兄様の剣が」
「……構うな」
カーランシェの弱々しい声を、リォーが重ねて否定する。
躊躇は一瞬、三人は縺れる足をどうにか前に押し出した。
だがすぐに、真円の琥珀が行く手を遮った。
「!!」
レイは本能的な恐怖からリォーの腕にしがみついていた。
最早視線を左右に動かす必要もないほど、逃げるべき道が全て塞がれたのが分かった。強引に押しのけられた枝葉が、頭上でざざぁっと撓って盛大に文句を言っている。最前まで樹頭の上にあったはずの、大岩のような頭部と飛翼によって。
「あ……あぁ……」
同じく反対側からリォーにしがみついたカーランシェが、息を吸うのを失敗したような声で喘ぐ。それ程に、行く手を遮ったものは絶望的であった。
黒鱗が並ぶ長く突き出た横顔、人の頭よりも大きな鼻孔と耳孔、半開きになった口からは腕よりも太く鋭い牙がびっしりと並び、吐き出された生臭い呼気が不気味に揺らいで見える。
「グ、竜蜥蜴……」
無意識のうちに名前が零れていた。
眼前の琥珀がぎょろりと動き、黒い縦長の瞳孔が確かに三人を捉える。
「ッ……!」
細長い瞳孔に、自分の姿がくっきりと映っていた。蛇に睨まれた蛙のように体が硬直する。
伝説の通りであれば竜蜥蜴は草食で、凶暴性はかなり低い。だがサトゥヌスの冒険譚の中では、竜蜥蜴は番を殺されて怒り狂い、アクラー山の隣の山を一つまるごと消し飛ばしたとある。
(伝説なんて、ただの美化……)
でなかった場合、この先に待つ結末は一つだけ。
次に竜蜥蜴が少しでも動けば、ここに立っているのは三つの消し炭かもしれない。
(それくらいなら……)
剣でも神法でも到底倒せそうになくても、逃げることなら出来るはずだ。空間の神に願う、危機を脱するための神法があると、教本で読んだ。
とは言っても文字通り神頼みになるからどこに移動するかは不確定だし、犯罪防止のため国どころか州堺を越えることもまずできないし、それ以外でも何かしらの法術があれば阻まれる。加えて行使者への負担は他の神法と比べ物にならず、端的に言ってレイの力量では成功率は低く、危険しかない。
だから、それは最終手段だ。穴の底にはハルウとヴァルがいる。二人を残して逃げるなど、考えられない。
(でも、このままじゃ……)
この場に残っていても、レイに出来ることなどなにもない。母に完全な王証を持ち帰ることは勿論、巻き込んだリォーとカーランシェを無事に帰すことも出来ない。
(……それだけは絶対ダメ!)
王証は必要だ。母国のためにも、母の信頼を得るためにも、レイが持って帰らなければならない。
だがそのために切り捨てられる命など、あってはならない。
それはヴァルもハルウも善性種も皆平しく同じだが、駆け出しの神法使いであるレイができる範囲など限られている。
優先するものを決めなければならない。
(カーランシェを守る)
レイは、慄きながらそう決断した。
リォーはともかく、彼女はレイたちが無策に逃げたせいで巻き込まれたのだ。戦う術もない彼女をまずは安全な場所に移す。
その後でまだ力が残っているようなら、またここに戻ってヴァルたちと合流して、もう一度空間神法を使う。
ヴァルとハルウは、洞窟に隠れていれば地上よりは生存確率が高いはずだ。
理想論が過ぎるが、今のレイに他にできることはない。攻撃も防御も、幻惑も飛翔も、あの巨体相手では意味を成さない。
けれど出来なくても、怖くても、今はやらなければならないのだ。
レイは意を決して、口の中で空間の神コーロスに慈悲を希う。
(一人でも多く、どこか安全な場所に送るのよ)
レイは祈った。二人を助けてと。神の力を、祈りの具現を、肌の下に流れる血に感じる。
「!?」
その前で、リォーが竜蜥蜴の前に進み出た。




