第37話 一か八かの作戦
『俺が上に行って合図を出したら、神法士が居る側の壁を崩せれば一番なんだが……出来るか?』
『出来るけど……そんなことして大丈夫なの?』
ネストルの要求を呑んで出て行くと言ったリォーが、その直前に確認してきたことだ。
足場が土なら、リッテラートゥスの侍従文官がしたように砂化する神法はある。レイは子供の頃に一度説教しようとするヴァルを砂に沈めて、散々に怒られたことがある。毛並みに砂が入り込んでむず痒くなるとかで、二度とするなと厳命されたものだ。
レイは土の神への枕詞を唱えた後、ハラハラしながら合図を待った。が、ネストルがカーランシェ皇女に剣を当てた瞬間、重大な見落としに気が付いた。
(そもそも合図がどんなものか聞いてなかった!)
愕然としたレイは慌てて狙いの岩壁に触れると、神言を唱えた。
「希うは一面の砂海、全てを砕け、神怒の震揺!」
瞬間、レイの手が接していた箇所がビシリッと大きな音を立てひび割れた。これまでの騒ぎにも動じなかった、周辺一帯にいた野鳥たちの最後の一群が一斉に空へと飛び立つ。
そこからの連鎖は野鹿が駆けるように早かった。凸凹に尖った岩の間を、蜘蛛の巣のような亀裂が瞬く間に地上まで走っていく。亀裂は一気にその一面に広がり、ズッ……と流砂が走り始める重い音が響く。
その不穏な音を聞きながら、レイは傍らのヴァルとハルウに叫んだ。
「二人とも反対側に逃げて!」
「バカ、やり過ぎだよ!」
ヴァルがくわりと怒鳴り返しながら、最も近い別の横穴に駆け込む。ハルウも炭化した木や小石を踏みながら進み、レイもセネを抱き上げてそれに続く。
それを待っていたかのように、背後で山鳴りのような轟音がどよもした。人工的に起こされた振動で地面は次々と断裂し、剥離した箇所から雪崩をうって岩壁が崩落する。
その上にいた神法士も、突然の事態に一様に慌てふためき逃げ惑った。
「食い止めろ! 無効化して」
「ま、間に合わない! 退避だ!」
「ぅわっ、わぁぁあ!」
混乱する声が幾つも上がり、何人かが無効の神法を唱え、何人かが足場と共に落下した。
レイたちが別の横穴に辿り着いて頭上を見上げた時には、ほぼ円形だった縦穴は裂けた獣の口のように広がり、神法士の半数以上がそこから姿を消していた。垂直だった岩壁も、一部が階段状になっている。
(大丈夫……じゃなかったかも)
中央の岩場や周囲の濠に落ちて呻く神法士が死んでいないことを確認しながら、レイは今更ながらに意見を翻した。
「上部だけ崩せば良かっただろ」
明かに地形の変わった岩壁を見上げて、ヴァルがぼそりと呟く。立ち込める粉塵に対し、これ見よがしに長く豊かな尻尾で小さな鼻を塞いでいる。
隣のハルウも苦笑気味に手で鼻と口を守っているし、腕の中のセネは獣化していても分かる程呆れていた。
「加減……難しい……」
崩すという言葉につられて、慣れない神法を選んでしまった。明らかに先ほど見た神法に引きずられた。
先程横穴を塞ぐために使った陥穽の神法を応用して、地上まで届く穴を開けた方が、慣れている分想像通りに発動できた気もする。
だがそんな反省をしている余裕はなかった。
「お兄様!」
カーランシェの鋭い悲鳴に続き、甲高い剣戟の音が響く。慌てて頭を突き出して頭上を見上げれば、リォーが短剣を片手に完全に取り囲まれていた。
「リォー!」
叫ぶと同時に駆けだす――その手を、存外に強い力で引き留められた。
「レイ。君が行く必要なんてないよ」
ハルウだ。それまでのとぼけた笑みを引っ込め、色違いの瞳でレイを強く見つめてくる。
その意味を、レイはきちんと理解している。その上で、レイは強気に笑った。
「ハルウ。セネをお願い」
「嫌だ」
「信じてる」
即答したハルウに、レイはニッと幼子のように笑ってみせる。それから、まだ力の入らないセネを丁寧にその腕に引き渡した。
ハルウは見捨てたりしない。その確信とともに踵を返す。
「……僕のことなんか、何も知らないでしょ」
神法の風を纏って駆け上がる背中に向けて落とされた声は、レイには届かない。
◆
(合図っつっただろうが!)
後方で軋むような音が聞こえてきた瞬間、リォーはレイへの文句もそこそこに走り出した。音に気付いた兵士の視線が対岸に向く下を、体勢を低くして駆け抜ける。
ネストルが気付いてリォーと目が合った時には、その足元で土を散らして短剣を突き出していた。
「い、いつの間に……ッ」
ネストルが咄嗟に、カーランシェの首に当てていた剣を防御に動かす。その瞬間、駆ける途中に左手で掴んだ土をその顔面目掛けて投げつけた。
「なっ!?」
反射的にネストルの手が緩む。その隙を逃さず、カーランシェの手を奪い返した。
「おに――」
「後ろに!」
広がるドレスのせいでばたつく妹を背に庇って、そのまま左側に逃げる。だが二歩と進む前に、十以上の剣先と鏃が二人の行く先に立ちはだかった。
(長剣があれば……!)
カーランシェと共に彫言の剣も取り戻せれば良かったが、流石に帝国軍で鍛え上げたネストルにそこまでの隙は無かった。
そしてカーランシェを取り戻した今、このまま下に戻っても後がない。リォーに取れる選択はこのまま突っ切って離脱しかなかった。
そして。
「食い止めろ! 無効化して」
「ま、間に合わない! 退避だ!」
「ぅわっ、わぁぁあ!」
対岸の崖が轟音を立てて本格的に崩れ始めた。背中を狙っていた神法士の気配が乱れ、進路を塞ぐ剣士や弓兵の目線が激しく動く。
リォーはその一瞬を逃さず地を蹴った。
「走れ!」
「は、はいっ」
右手に頼りない短剣を構えたまま、左手でカーランシェの手を引いて突っ込む。
「っと、止ま――!」
最初にリォーの動きに反応したのは目前の剣士だった。こんな状況になっても警告しようとした心意気には感心するが、冷徹に剣を持つ指を狙う。
「ぎゃっ」
「きゃあっ」
剣士の悲鳴につられるように、何故かカーランシェまで悲鳴を上げた。予想外だったのは、その瞬間にカーランシェが身を竦ませたことだった。
手を引いていた体ががくんと減速する。
「バッ」
バカと怒鳴ろうとして、相手はレイではなかったと口を閉じる。だがその一瞬が今は命取りだった。
ほぼ立ち止まってしまった二人めがけて、乱れていた弓兵の幾人かが再び弦を引き絞る。
「放て! どちらに当たっても構わん!」
「こんのッ!」
ネストルの怒号に応えて、裂帛の弦音が幾つも発される。刹那、リォーは悪手と知りながら、カーランシェを左腕に抱えてその場で跳躍していた。
二人のいた場所にドスドスッと矢が突き立つ。
「今だ! 狙い撃て!」
足下からの声に、リォーはしがみつくカーランシェの体を横抱きに抱え上げた。そのせいで、跳躍は低木の樹頭にも及ばない。
(落ちる!)
顔に当たる風を煩く感じながら、着地点を探す。まだ敵陣のど真ん中だ。風の彫言があっても、宙を駆けられるわけではない。
(着地と同時に剣を奪う)
兵士のどれでも構わない。足蹴にする敵を見定めて体勢を取る――その背中に、ドスドスッと矢が突き立った。
「ッがは!」
「お兄さ――きゃあ!」
背中に受けた矢の勢いをいなせないまま、受け身も取れず地面に叩き落される。カーランシェを抱き締めていた両腕が地にこすれ、焼きごてを当てたような裂傷が走った。
「っ……ぐ……ッ」
「お、お兄様! フェルお兄様ッ」
痛苦に身を折るリォーに、腕の中から這って抜け出したカーランシェが金切り声を上げてしがみつく。大きな瞳に涙を溜め、新雪のようだった肌には浅い裂傷が幾つも走っていた。
だがその瞳に映るリォーの姿もまた酷いものだった。カーランシェの体重で押し潰された両腕は服が破れ、皮膚は血混じりの土で赤黒く変色している。それに何より、藻掻く背中から生えた、二本の矢。
「お兄様! こんな……わたくしのせいで……ッ」
「い、から……逃げろ……!」
「でも……!」
迫る軍靴に無理にでも立たせようとするリォーの手を、カーランシェがいやいやと握り返す。その手が、びくりと止まった。触れた手のあまりの熱さと、細い指の間を伝うぬめりとした液体の感触に。
「あ…ぁぁ……!」
初めての感触に、その先にある可能性――死に、カーランシェは最早意味のある言葉を何も言えなかった。掠れた呼気だけがその小さな口から漏れる。見開かれた淡褐色の瞳には、自分の両手をべったりと赤く染めた鮮血だけが映る。
無防備なまでに。
「! カーラッ」
「え――っあァ!」
リォーの警告も空しく、背後から伸びた兵士の手が亜麻色の髪を乱暴に引っ張る。カーランシェの軽い体はあっけなく後ろに引き倒された。そこに更に別の手が伸びる。
「ぃ、いやッ」
「カーラに触るな!」
爆発したような怒気を発し、体中の痛みも吹き飛ばして腕と足に力を入れる。だがその体もまた敵の手が押さえ付けにかかった。矢が刺さったままの背中に激痛が走る。
「っ、……ッソ!」
背中だけでなく、治癒が不完全だった肩や足首からもどくどくと血が失われている感覚がする。カーランシェを守りたいのに、のしかかる兵士の体重を押しのけられない。
霞む視界でカーランシェを探せば、皇族を守るはずの軍服が更にカーランシェを拘束しようと手を伸ばしていた。リォーのこの手は、ちっとも届かないというのに。
(やめろ……!)
そう叫びたいのに、声が出ない。恐怖で顔を引き攣らせたカーランシェが、髪を掴んだ兵士に半狂乱になる。その時。
「なッ!?」
カーランシェの髪を掴んだ男の指の先を、空から降ってきた何かが通り過ぎた。ザクッと鈍い音を立てて髪が切り離され、男が尻餅をつく。その足の間には、見覚えのある曲刀が突き立っていた。
「ひっ」
「え?」
男が蒼褪めた顔で後退った。男の指から離れた短い髪が、はらはらと金糸のように風に舞う。
枷から解き放たれたカーランシェは、自分の体も支えられず前につんのめった。その体が地面にぶつかる前に、ふわりと舞い降りた人影が優しく受け止めた。
「髪、ごめんね」
耳元で、柔らかく囁く声は女性。
そして。
「希うは鎌鼬の利鋒、全てを切り裂け、陣風剣舞!」
凛と高らかな詠唱が、眼前の全ての阻害者を蹴散らした。




