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第36話 兄と妹

「な、なんであんな所に皇女がいるのよ!?」


 リォーの背に張り付いて縦坑の上を窺っていたレイが、素っ頓狂な声でそう叫んだ。

 それを後ろ手に押し戻しながら、リォーは盛大に舌打ちした。


「大方リッテラートゥス辺りが差し向けたんだろ」


 思えばこの洞窟の襲撃では、まだリッテラートゥスの姿を見ていない。横穴の方に回ったのだろうと思っていたのだが、思えばあの義兄がこんな場所に留まるとも思えない。

 肉体労働も頭脳労働も嫌いだが、自分が怠けるためなら知恵と努力を惜しまないのがリッテラートゥスという男だ。


(俺が嫌がることを的確にしやがって)


 リォーはくしゃりと蒼天色の髪を掻き上げた。


「どうするの?」

「……出ていくしかないだろ」


 その答えは決定事項だ。だが長剣は奪われたままだ。腰の短剣だげでは心もとない。

 リォーはセネが落とした曲刀の位置を確認しながら、カーランシェまでの距離を目測した。

 それから、左のふくらはぎを貫通していた矢柄を短剣で叩き折った。


「ちょっ、リォー!?」

「……ッ」


 レイが目を剥く前で、淡々と残る鏃側を引き抜く。骨からは外れているが、それで慰められる痛みでもない。鏃で抉られた右肩もじくじく痛む。鼓膜の裏で響く、頭蓋を叩く血流の音の大きさが、失血量の危険を訴えていた。


(だが、まだこの程度なら平気だ)


 外套の裾を短剣で細く裂いて、手早く傷口に巻き付ける。が、すぐに真っ赤に染まった。

 だが経験上、緊張が続いている間は動ける。視界が暗くなり、皮膚の赤味が抜け始めるまでは。


「待って!」


 だが踏み出した一歩を、レイの声と手が引き留めた。肩越しに目線だけで振り返る。


「止めるな」

「え、止めないよ?」

「は?」


 ぱちくりと、レイが橄欖石ペリドットの瞳を瞬かせる。

 リォーは一瞬理解が遅れた。


(……違うのかよ)


 チッと内心で舌打ちした。

 別に、心配して引き留めたんじゃないのかと思ったわけでは、決してない。


「だったら放せよ」

「分かってる。でもその前に、治癒の神法だけでもさせて」


 憮然と掴まれた腕を取り返すリォーに、レイが決然とそう告げる。言われて、リォーはやっとレイの意図を理解した。

 神法を全く使えないリォーは、戦略外の神法の用途をすっかり失念していた。


「あぁ、頼む」


 言って左足を差し出す。その前に、レイが膝をついた。


「レイ、ダメだよ」

「ハルウ」


 従者のような姿勢が気に喰わなかったのか、ハルウがすぐさま止めに入った。ヴァルがそれを冷ややかな声で引き留める。

 しかし当のレイは、外野の声など聞こえていないかのように詠唱を始めていた。


「地上に留まりし慈悲深き神々が二柱、水の神ネロと風の神アネモスよ。その恩寵を賜りし眷属の精霊よ。恵みの一滴をこの手に分け与えたまえ」


 治癒の神法は、体内の水と気の流れを整えることで損傷を治す力を高めると言われている。そのため二柱に祈ることになり、その負担は他の即発的な神法よりも大きい。戦闘中などは、三人以上の神法士がいなければ治癒の神法は後回しが基本だ。


「希うは慈愛の息吹、全てを癒せ、光霞こうか慰撫いぶ


 レイの傷だらけの手が、血で重くなった即席の包帯に触れる。一瞬、血で汚れてしまう、と思ったが、それは今更なことだった。

 先程リォーを抱えて飛翔した時にすでに手は赤黒く染まっていたし、それでなくても顔にも腕にも幾つもの擦り傷や血が付着している。

 そもそもとして、肌が柔らかいのだ。どんなにお転婆でも王女らしくなくても、実戦に慣れていないのはこれまでの反応で明らかだった。


(温かい)


 レイの手が、手が間接的に触れた傷口が、じんわりと温もる。痺れるような痛みが、ゆっくりとだが引いていく。右肩の痛みも、遅れて優しい熱に変わる。


(この声は、嫌いじゃないな)


 いつもの怒鳴ったり自虐的だったりする声とも違う、穏やかな慈母の声。

 意識的に冷静にと思考しながらも、無自覚に焦っていた心まで温かにほぐれていくような気がする。これも、神法の力だろうか。


「フェルゼリォン殿下。怖気づいてしまわれたのですか? カーランシェ殿下が心配しておいでですよ」


 無遠慮に割り込んだネストルの声に、リォーは緩んでいた気をハッと引き締め直した。

 レイの手を押し返して膝を伸ばす。


「もういい」

「え? でも、まだ血が止まっただけ」

「十分だ。動ける」


 妙なことを考えてしまった気恥ずかしさのせいで、口調が幾分ぶっきらぼうになる。だが、十全な治癒を待つ時間がないのもまた事実だ。


「分かった。……気を付けて」


 リォーの言い分を理解してか、レイもふらつきながら立ち上がる。

 どくどくとした鈍痛はまだあるが、問題ない。一歩を踏み出す、その前にふと思いついて、レイに一つ確認をとった。


「――出来るか?」

「出来るけど……そんなことして大丈夫?」

「あぁ。加減はお前に任せる」

「こら、レイに微調整は」

「分かった!」


 足元でヴァルが口を挟んだが、レイが自信満々の諾で掻き消した。

 多少の不安はあるが、多勢に影響を与えるには効果的なはずだ。やるしかない。

 リォーは意識を切り替えると、改めて岩陰の死角から半身を乗り出した。


「フェルお兄様!」


 途端、第一皇女カーランシェが身を乗り出すようにしてリォーの名を叫んだ。その足元で、散々痛めつけられてきた足場からぱらぱらと石の欠片が剥落する。

 今にも転がり落ちてきそうなその様子に、リォーは落ち着いたはずの冷や汗を再び、より強く感じていた。

 ネストルがカーランシェを害することはまず有り得ないことだとは、分かっている。

 リォーの仕業にみせかけようとしても、綻びは必ず生じる。三兄妹全員に手を出したとなれば、母どころか流石に父でさえも黙ってはいないだろう。

 問題は、ネストルが不安定な足場から守るようにカーランシェの腕を取ったことだ。しかも三方には、ネストルの息のかかった兵士が近い距離で配されている。どんなに素早く動いても、あの数と距離でカーランシェを奪い返して逃げ遂せると思えるほど、自惚れてはいない。


「お兄様、お迎えに上がりました! もう大丈夫です。わたくしと共に帰りましょう!」


 リォーが思案を続ける間にも、不安げだったカーランシェの顔がぱぁっと明るくなる。それだけで、いつもの可憐な美しさが戻ってくる。

 それはいつも長旅から帰ってきた時に見せる表情と同じだったが、リォーがいつもの優しい兄の顔を作ることはなかった。


「帰れ」

「……ど、どうしてですか!?」


 兄の冷ややかな拒絶に、カーランシェが大きく動揺する。

 カーランシェは世間知らずだが、愚かではない。この話を持ち込まれた時も、罠の可能性はきちんと考慮していたのだろう。そして今リォーが拒んだことで、その可能性が現実味を増してしまった。


(俺の警戒心を解いてくれとでも言われたんだろうな)


 そしてそれは見事カーランシェの中の天秤を傾けた。だが実際は、リォーを脅すための人質としてこんな山奥まで連れて込られただけだ。

 殺せないと分かっていても、見えない場所に消えない傷を残したり、精神的に束縛や洗脳を行ったり、反吐が出る話だが体を穢すことにも脅しの価値は十分ある。


(だが、カーランシェがこの状況を理解したなら、まだ手はある)


 リォーが黙して見上げる中、カーランシェが更に言葉を続ける。


「お兄様がアディお兄様に何かしただなどと、本気で信じている者などはおりません! 勿論陛下もですわ。ですから今すぐ帰って、きちんと説明すれば」

「俺は自力で、自分の意志で帰る。お前も、母上の元へ帰れ」

「そんな……!」


 悲しげな声を上げるカーランシェは、今にも泣きそうであった。それが演技か本心か、リォーには区別がつかない。何故なら、今まで妹の泣き真似を見破れたことがないからだ。


(頼むから気付いてくれ)


 リォーは敢えて母の名を出した。カーランシェの口にした陛下でも、この場に連れてきたネストルでもなく。

 しかしそんなことを考える時間を、ネストルが与えるはずもなかった。


「男児たるもの、たとえ妹であっても女性を悲しませるものではありませんぞ。我が儘を仰らず、こちらに上がってきてください」


 ネストルが、カーランシェの体を支える手にことさら力を込める。カーランシェが明らかな不快感をその顔に乗せたが、レイと違ってまともな淑女教育を受けてきた彼女に振り払えるわけもない。

 縋るような淡褐色ヘーゼルの瞳に、リォーは限界かと更に一歩を踏み出した。


「……分かった。そちらへ行く」

「リォー、危険だよ!」


 跳躍しようと膝を曲げる背に、レイの制止がかかる。それに一瞥だけで応え、中央の岩場へと飛ぶ。そこから更に跳躍して壁を蹴り、カーランシェたちの眼前に着地する。ふくらはぎの痛みが一瞬強まるが、無視した。

 曲刀を拾っていこうかとも思ったが、カーランシェを囲む兵士の距離が近すぎる。案の通り、着地する直前、ネストルは油断なくカーランシェを後ろに引きずって迎撃態勢を整えてきた。


(さて、ここからどうするか)


 カーランシェが纏っている外套に防護の彫言がされているのは確実だが、外気に触れている肌まではその範疇ではない。顔にかすり傷でも作ろうものなら、家族中から責め立てられるのは火を見るよりも明らかだ。


(理不尽だ)


 三者三様の責め句が脳裏に流れて、少々うんざりする。だがリォーとて、可愛い妹にたとえ針穴の如き傷でさえつけるつもりはない。


「フェルお兄様……」

「応じて頂き、ありがとうございます」


 一歩踏み出そうとしたカーランシェを背後に回して、ネストルが先んじる。そのすぐ左右には抜剣した兵士が二人ずつ、更に背後と両側から弓兵が矢を番えて「放て」の号令を待っている。


(そして背中からは神法士)


 リォーの外套は新しく下町で手に入れたもので、防護の彫言はない。神法をも切り裂く彫言の剣(レスティンギトゥル)はネストルの手中。得物は腰に隠した短剣のみ。

 それらを悟らせないよう、リォーはあえていつもの調子で不敵に笑った。


「カーラに何もしていないだろうな」

「勿論です。殿下の説得のためにお越しいただいたのですから」

「説得か。よくも言う」


 説得という単語の強調ぶりに、リォーは鼻で笑った。そろそろ敵意を隠すつもりはないらしい。ネストルがカーランシェの二倍もある体を揺らして笑う。

 その傍らで青い顔をしていたカーランシェが、何かに気付いたように視線を落とした。


「さぁ、交換と致しましょう」


 ネストルが、カーランシェの左腕を掴む手に力を込めて笑う。それを周辺視野で視認しながら、フェルゼリォンもまた笑う。


「こんな所で? 冗談じゃない」

「では私の屋敷でも構いませんよ」

「城か、アルクス広場でしか応じない」


 アルクス広場は帝都の中心にあり、東西南北の城門から発する二本の主要通りが交差する人通りの多い観光名所だ。どちらもネストルが我が物顔で私兵を大量投入することは出来ないが、暗殺するにも悪くはない。


(これは駆け引きだ)


 リォーに有利すぎては、ネストルに頷く理由がない。ネストルにはいつでもリォーの命を握っていられると思わせる必要がある。


「……では、ひとまず帝都に戻りましょう」


 ネストルが張り付けた笑顔で頷く。

 その横顔に、カーランシェが呆然と問いかけた。


「……ネストル伯爵。なぜ、お兄様の剣をお持ちなの」


 それは、思わず零れたというような声だった。疑問というよりは、確信に近い。

 そして。


「…………」

「っ」


 ネストルが、氷のように冷たい眼差しで、拘束する手に力を込めた。掴まれていたカーランシェの手首に血管が薄く浮き上がり、カーランシェが痛みに顔を顰める。

 刹那、リォーはバネのように地を蹴った。

 左手で妹に手を伸ばし、右手で腰の短剣を引き抜く。だがそのどちらもが届くよりも早く、カーランシェの白い首に冷たい鋼があてがわれた。


「……え?」


 初めて味わう刃物の感覚に、カーランシェが呆然と長い睫毛を瞬かせる。自分の両手を拘束するネストルをゆっくりと見上げ、再び兄に視線を戻す。


「フェルお兄様……ごめんなさい」


 それから、強い後悔の念を滲ませて瞳を伏せた。それだけで、カーランシェの忸怩じくじたる思いは十分伝わった。

 リォーの少ない言葉と態度から状況を推測し、警戒していたはずだ。けれどネストルが持つ見慣れた剣に、一瞬理性を欠いた。もしかしたら、それはカーランシェなりの怒りだったのかもしれない。

 だがそれは責めるようなことではない。


「カーランシェ」


 ネストルの首を斬り落とそうと狙いを定めていた姿勢を緩め、今にも頽れそうなカーランシェに呼びかける。


「俯くな。美人が台無しだ」

「……っ」


 恐る恐る視線を上げた妹に、見せつけるようにニヤッと笑う。


「兄を信じるか?」


 ろくな武器もなく、四方を敵に囲まれ、勝つ見込みも活路もない。癒したはずの傷口からはまた血が滲みだしている。

 それでも、可愛い妹の前で無様は晒せない。

 そしてリォーには、カーランシェが何と答えるかも分かっていた。


「はい。カーラはいつだってお兄様を信じていますわ」


 目尻の涙を散らして、カーランシェが華やかに微笑む。

 その時、ビシビシィッと轟音を立てて、崖が崩れ始めた。



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