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第33話 セネの苦しみ

 燃えている。

 里が燃えている光景を見るのは、これで三度目だった。


 一度目は、アイルティア大陸西端の、端も端にあった小さな隠れ里だ。

 ここと同じく山の中ではあったが、もう少し開けていて豊かで、山頂に登ると遠く青い海が見渡せた。あの海の向こうに、同族がいるという緑の島ヒューレー大陸が――我らが帰るべき故郷があるのだと、セネは大人たちから教えられて育った。

 ヒューレー大陸はその名の通りどこまでも豊かな植物が茂り、大陸の隅々まで満ちて溢れかえる程だという。力強く、生命力にあふれ、美しくて雄々しい緑。

 神代に聞く暴虐なまでに危険だった時代ほどではないが、それでも少しでも気を抜けば植物に負け、人などあっという間に駆逐されてしまうだろう、と。


 その話を長老たちがしだす時、セネはいつもその島に自分が帰る時のことを想像した。アイルティア大陸で見るものよりも遥かに巨大な木々、見たこともない果実、逆に動物を捕食する植物。

 まだ小さなセネは、その中に飛び込んで冒険するのだ。

 他種族を受け入れない人間種ピリトスも奴隷狩りの目も気にせず、どこまでも自由に走り、飛び回り、大きな声で吠える。気に入った場所を自分だけのねぐらにして、好きなものをいっぱいいっぱい溜め込むのだ。

 けれどヴァルは、そんなセネの空想をいつも鼻で笑った。


『そんな島、行けるわけないだろ』

『だったらヴァルは入れてやらないからなっ』


 折角、ヴァルだけは入れてもいいかなと思っていたのに。でもヴァルはすぐセネの物を壊すから、やっぱりダメだ。

 そんな取り留めもないことを考えるのが、あの閉塞した詰まらない村の中での、数少ない娯楽だった。

 けれどその思い出は、全て燃えた。

 ある日突然、何の前触れもなく。

 セネたちを押さえ付けるばかりの大人たちも、排他的な村への嫌悪も。消えてなくなれと思っていた何もかもが、皮肉にも望みの通りに、燃えさかる炎の海の向こうに呆気なく沈んだ。


 二度目にその火を見たのは、自分の意志でだった。

 今から四百八十年程前のことだ。そこはあの山中の小さな里より何倍も豊かで、文明が発達していて、信じられない程の人がいた。だが、そこから聞こえる阿鼻叫喚は一度目と何ら変わりがなかった。


 そして三度目は――三度目は。


(また……また、おれの故郷を……!)


 因果はめぐるという。また、自分の番が回ってきただけなのかもしれない。

 とても受け入れられることではない。

 だがそれでも、向き合う覚悟はあった。己の行いへの応報なのだから。

 だが、子供たちはどうだ。

 子供たちは何もしていない。この小さな隠れ里で、外に出ることも高望みすることもなく、慎ましく生きていただけだ。

 子供たちがセネの行いの報いを受けるのは、違う。

 目の前のこの光景は、絶対に間違っている。


「……チビたちは何もしていないだろ!」


 セネは、叫びながら眼前の炎の滝に向かって駆けだしていた。燃え盛る橋を一足で飛び越え、縦坑の内壁の出っ張りに足を掛ける。

 そこに、声がきた。


「セネ、しゃがんで!」


 ヴァルの声、ではない。だが続く濃い水の気配を察して、セネは咄嗟にすぐ上の取っ掛かりに手をかけて岩壁に張り付いた。

 背後で、ごぉうっと唸りを上げて何かが通り過ぎた。

 水だ。しかも降り注ぐ炎の滝を半分に割るほどの量の水だ。

 じゅぅぅううッという白い蒸気が、振り向くより早く視界を荒れ狂う。縦坑の七割近くも塞いでいた炎が半減し、代わりに焼けるような湯気が肌を舐める。


(あの、人間種の、クソガキ……!)


 腹立たしく足元を睨む。風が動いて、僅かに湯気が晴れる。その視界を、何か黒いものが横切った。


「――――?」


 それは人ほども大きな黒い塊に、棒が数本刺さったような形に見えた。

 それが岸壁に張り付いたセネの背後で落下していき、火が消え黒い焦げ跡の残った広場でぐしゃっと鈍い音を立てた。ぼろりと幾つかの棒が取れる。その棒は中心で僅かに曲がっていて、焼けた枝のようにも見えたが、セネは別のものを連想した。棒の先が太く平たく、まるで蹄のようだと。

 そして次には、大きな塊が黒焦げになった有蹄類の胴体のようにも見える、と気付いて。


「……ぁ、ぁぁ……」


 目の前が真っ赤になった。

 炎よりも、血よりも真っ赤に。


「……ゥォヲオオォォオオッッ!!」


 セネは、岩壁が抉れるほどの脚力でその場から蹴り上がった。炎と蒸気の切れ間に見えた穴の出口に飛びかかる。

 四方から生い茂る木々の間に、同じ服を着た人影が等間隔に並んでいる。その中の一人が叫んだ。


「放て!」


 ビュォン! と破壊的な風切り音が幾重にも唸る。きゅうだ。だが構うものか。

 先程の一瞬で確認できた人間種の首めがけて曲刀を振り切る。


「ッ、防御を――!」


 弓兵の後ろにいた無手の人間種が動く前に、シュパンッと鋭利な擦過音が上がった。セネを狙っていた弩級が真っ二つになり、それを追うように二つの首が宙を舞う。

 それに遅れて、ズズッ……と重い地響きに似た振動が続く。人間種を切り刻む余波で切断された地面が、自由落下を始めたセネの体に引っ張られるように、木々の根元とともにずり落ちたのだ。


「は? うわぁっ!?」

「こ、後退! 崩れるぞ!」


 ボロボロと自壊し始めた地面から、人間種がわらわらと逃げ散っていく。縦穴を覆っていた最後の火も掻き消えた。神法士の集中が途切れたのだろう。

 だが殺せたのはたったの二人だ。

 足りない。まだ足りない。

 こいつらがしたことの報いには、全然、少しも。


「よくも……!」


 セネは空中で起用に体を捻ると、岩壁から伸びた灌木に手をかけた。セネの重みに耐えられず、痩せた枝が大きくたわみ、ボゴッと根が岩から剥がれる。だが落下の速度は殺せた。そこから再び岩壁に足をかけ、大きく跳躍する。


「よくも……ッ!」


 がらがらと落ちてくる崖の欠片を次の足場に、セネは野兎のように跳び上がった。

 今度は崖の上に陣取った人間種全員を殺す。

 血走った目で、ごてごてしい弩弓を構えた人間種を睨み上げる。

 曲刀が再び風を斬る――その背を、十近い氷の刃が貫いた。


「がはッ!?」


 上へと向かっていた力が、強制的に下へと押し戻される。

 反対側の岩壁にいた人間種が背後から神法を放ったのだと、落下を始めた頭で理解する。


(人間種は……恩寵を無節操に……!)


 力の本質も知らず、理解も感謝もなく、使えるからと無節操に手を出す。これだから人間種は嫌いなのだ。


「……ころす……!」


 体が熱い。何か掴むものを求めて手を伸ばすが、体を捻るだけでも焼けるような痛みが全身に走った。持ち上げた顔の先に、黒く煤けた広場が迫る。


「殺す……全員、噛み殺す……!」


 目前の死への恐怖よりも、殺意が勝った。

 まだ、死ねない。

 人間種を皆殺しにするまで、死ぬわけにいかない。


「セネ!」


 ヒュォッと三角耳に当たる風に紛れて、今度こそジオの声が聞こえた。


「セネ、獣化しろ!」

「……ッ」


 嫌だ、と叫ぶ代わりに歯軋りした。

 獣化は弱った時に体力消耗を防ぎ、自然治癒力を上げるための手段だ。と同時に攻撃力は弱まり、限りなく無防備になる。

 こんな敵しかいない場で弱味を晒すなど、セネの矜持が許さない。

 そしてそんな考えは、ヴァルには先刻お見通しだった。


「レイ、無効化しろ!」

「分かった!」


 ヴァルの指示に、人間種の女が短い助走で焼け落ちた橋を飛び越え、広場に向けて走りながら何かを唱える。

 神の力を無に還すなど、それこそ人間種だけが使う許し難き冒涜だ。そのわざのせいで、善性種の仲間が何人も死んだ。


「やめろ……ッ」


 セネは血を吐きながら声を絞り出した。

 敵はまだ弓を構え、神法を放とうとしている。また火の雨が降る。こんな所で無力になるわけにはいかない。

 それに。


「お前まで……!」


 知らず、そんな声が零れていた。

 と同時にセネを取り巻く気流が乱れた。焦げた地面が近付く。

 ぐわしゃ!

 と、先に切り落とした崖の一部が、広場を囲う溝に当たって粉砕した。あれが数秒後の自分の姿だ。


(くそ……ッ)


 ギュッと身を固くする、その体に、温かな燐光が触れた……気がした。

 次には全身がじわりと熱を持つ。


「大丈夫。小さく丸まって」


 こんな切迫した状況だというのに、それは不思議なほど穏やかだった。

 気付けば、本能のように手足を引いて体を丸めていた。カラカランッと、背に食い込んでいた氷の刃が次々地に落ちる。

 そして女の手が、ずっと隠していたセネの尻尾に触れる――と同時に再び炎が空から降り注いだ。


「ッッ!」

「ぅわっ!?」


 真っ赤に染まった視界に、しかし獣化したセネは息を呑むことしかできない。女の間の抜けた声がそれを追い、ジュウッと何かが焼ける音が近付く。


(これで終わりなのか……ッ)


 ギリリと牙を噛む。しかしいくら身構えても、毛皮を焼く熱は一向に届かなかった。


「…………?」


 いまだヂリヂリと焼ける音に、本能的に伏せていた耳をそろそろと上げる。その視界の端に、火勢を弱めた炎と、見覚えのある服が灰燼となって風に攫われるのが見えた。強制的に小さな獣の姿になったせいで脱げた、セネの服だ。


(服、だけ? なぜ……)


 神法士が目測を間違えたのかと、崖の上を見上げる。と目と鼻の先の視界で、赤く細かな火の粉がチリチリと舞っていた。その体を更にぎゅっと抱きしめられた。


「あーっ、怖かった! 熱くないけど熱かった!」


 そう叫んだ女の顔は、炎の熱のせいだけでなく赤かった。セネの毛並みに触れる手の平もぐっしょり汗ばんでいる。


(……この、女)


「レイ、無事かい!?」

「うん、無効化が効いてた!」


 洞窟の奥から叫ぶヴァルに、女がぎゅっと震える手を握り隠して答える。

 それから手のぬめりに気付いたように腕の中のセネを見下ろし、申し訳なさそうに囁いた。


「治癒の神法をかけるから、それまで我慢して」


 言いながら、外へと続く洞窟へと踵を返す。

 その頭上に、再び号令が鳴り響いた。


「放て放て! 間を空けるな! 続けて攻撃しろ!」


 縦坑の壁全面に反響する野太い声が草木を踏み荒らし、幾本もの矢が続く。


「わっ、わっ!」


 矢に神法の無効化は効かない。女はひ弱な悲鳴を上げながら横穴の死角に滑り込んだ。

 それを待たず、青髪の男が叫ぶ。


「走るぞ!」

「ダメだ。足音が幾つも聞こえる」


 既に走り出していた男に、ヴァルが否を唱える。その通り、女に抱かれたままのセネの耳にも、どくどくと唸る自分の心音よりも遥かに乱れた汚い足音が聞こえていた。


(火を放って追い詰めて……まるで狩りだ)


 何百年も前の故郷での惨禍が、嫌でも蘇る。

 ごうごうと唸る炎の音。めきめきと燃える生木の悲鳴。何もかもを踏みつけて逃げ回る足音。子供の狂ったような泣き声。追い立てる人間種たちの野太い笑い声。夜なのに、何もかもが炎の赤に染まっていて鮮明だった。

 忘れたいのに、忘れられない。


(いや、忘れるものか……!)


 噛み締める牙の隙間から言葉にならない恨み言が零れる。失血のせいで力が抜けていく。


「くそ、寝過ぎたな……」


 青髪の男が、剣を抜きざまに毒づく。

 つまり、こいつらが別の人間種たちと一悶着を起こして気絶している間に、洞窟の出口と縦坑の両方から回り込まれたということだろう。洞窟側の連中が追い付けば、挟み撃ちの完成だ。


(やはり、助けなければ、良かった……)


 今更の後悔が、セネの脳裏をぐるぐると回る。傷付いて転がっている人間種など無視して、今日も昨日までの安穏と鬱屈した日常の続きをすれば良かった。死にそうでも、苦しそうでも、無視して遠くに捨てて、何もなかったことにすれば。


『助けてくれ』


 同族だけ助けて、他の奴らは全部無視して。


『あたいはこいつを死なせたくない。頼む、助けてくれ』


 五百年以上振りに会ったジオの懇願など、今更だと振り切れば良かった。


(善なるものなど、おれの中には、うにないのに)


 だというのに、セネが捨てようとした女は何の迷いもなくセネを抱き留め、男の足下にしゃがんで治癒の神法を唱え始めた。

 風の神と水の神。体の中の気と水の巡りを高め、傷を癒す。それでも血は完全には止まらないし、流れた血は消えない。女は自分の外套を脱いで、セネの体に巻き付けた。

 そんな女を守るように背に庇って立っていた緑髪の男が、縦坑の向こうを見上げてこう言った。


「あの髭の男、いるね」

「場所は」

「穴の上、南西の木の陰」

「兵団長様が、木の陰とはな」


 青髪の男が呟く。その身動ぎした影を狙い打つように、降る矢ごと燃やして三度みたび火の滝が降り注いだ。


「ぎゃっ」


 女がセネをギュッと抱きしめて身を小さくする。

 その傍らを、青髪の男が一切の躊躇なく飛び出した。


「リォー!?」


 女の声など聞こえないかのように、男が広場を囲う溝の手前で大きく跳躍する。それは人間種の身体能力を大幅に超えた力で、そのまま壁のように立ち塞がる炎へと突っ込んだ。


(死ぬぞ!)


 残る痛みで、声にはならなかった。だがその心配は、男の直剣が横ざまに振り切られて霧散した。


「げっ、切れた!?」


 女の言う通り、男を焼くはずだった火は剣の軌跡をなぞって掻き消えた。千切れた炎の端があちこちに飛び散る。その中を、男は真っ向から突き抜けた。


(恩寵の気配はあれか)


 風か水かは分からないが、気の塊とは別に感じていた四元素の気配の出所に納得する。

 その一方、ヴァルが女の足下まで戻ってきて急き立てた。


「レイ、入口側を塞ぎな!」

「えっ? でも、そんなことしたら」

「今は両方を相手はできない」

「っ分かった!」


 頷くなり早口で土の神に祈りを捧げ、右手を地面について希う。途端、その手を起点に洞窟がぼこぼこと盛り上がり、乱暴な轟音を立てて見る間に新しい壁がそそり立った。風の流れが止まり、岩陰の向こうに微かに見えていたヒカリバエの幼虫の青光も、呆気なく闇に塗り潰される。

 その間にも、青髪の男はセネが切り崩して段になった崖に足をかけ、更に跳躍していた。そこに十数の矢と氷の刃が一斉に襲いかかる。


「単調なんだ、よ!」


 力任せの大振り。だが触れた矢はことごとく矢柄を真っ二つに斬られ、反対側の氷は風を起こす靴に巻き込まれて男に僅かに届かない。

 そして。


「随分手荒くやってくれたな」


 這うような低い声とともに、青髪の男は縦坑の崖上に降り立った。



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