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幕間 侍従文官メノン

 その部屋は、狭く薄暗く、黴臭い匂いが充満していた。

 所々生地の破れた硬い寝台と、末期まつごにしか使い道のなさそうな書き物机、何が入っているか分からない水差し。

 光源は、部屋の入口に掛けられた松明だけ。神法の照明はない。

 目が覚めてすぐは牢獄だと思ったが、侍従文官のメノンをこの部屋に押し込めた男曰く、「粗末ながら客室」であるという。


(どうせ、代々使っている尋問部屋とかでしょうが)


 それを証明するように、メノンの足に繋がれた長い鎖の先は、塗装が剥がれて錆がきている寝台の足に溶接されている。狭い扉は鉄製で、しかも上部には監視用と思しき横長の穴もある。

 メノンは神法を使えないが、どうせ神法封じの法術も抜かりなくあるのだろう。


(……殿下は、ご無事でしょうか)


 座っても寝ても痛いだけの寝台のシーツを、すさびに延々と細く裂きながら、メノンはアドラーティと別れた時のことを何度も繰り返し思い返した。

 第一皇女の誕生会を抜け出し、フェルゼリオンと密会し、玉妃宮の一室でアドラーティが行動を開始すると宣言した夜。

 サエウム州に視察に行くという名目で侍従武官のマクシムと侍従文官のメノンが準備のために部屋を出た隙をつかれて、刺客が室内に押し入りアドラーティに襲い掛かった。




       ◇




『――ッ、敵だ!』

『!』


 常から性急せっかちな侍従武官マクシムが早速メノンを追い越した所で、その緊迫した声は響いた。

 メノンが動揺した一瞬で既にマクシムがメノンを追い越し、アドラーティの私室に舞い戻る。と、すぐにガンッと派手な音が続いた。


『殿下!』


 心臓が握り潰される思いでメノンが部屋の扉に手をかけると、一人の男が椅子の手摺にしたたか顔面をぶつけたまま、背中から馬乗りにされている所であった。

 その傍らには、左腕を血で染めながらも気丈に立つアドラーティの姿がある。


『無事か!?』

『……あぁ。彫言が利いた』


 マクシムの確認に、アドラーティが呼吸を整えてから返す。どうやら、致命傷を左腕で庇ったようだ。

 皇太子の服や外套には必ず防火や防護の彫言が施されている。それを承知で、咄嗟に簡易の盾代わりにしたのだろう。刺客の足元に落ちている装飾のまるでない無骨な短剣は、アドラーティの左腕を浅く裂くだけに留まった。

 もしかしたら暗殺ではなく拉致が目的だったためかもしれないが、とにかくそこに一瞬の間が出来た。


『良かった……』


 マクシムが早速刺客を締め上げているのを見ながら、結局何もしていないメノンが安堵の息をつく。

 だがそこで、違和感を覚えた。


『一人?』


 怪訝に声を上げて周りを見回す。

 アドラーティが襲撃を受けることは初めてではない。主犯は第三皇子を皇帝にと望む過激派がほとんどだが、その絶対数は決して多くはない。先走った者が一人で襲撃に現れたこともあるが、それは他州の視察の時で、過去に一度だけだ。

 十数年前の飢饉の余波が残っていた時代ならまだしも、警備が厳重なレテ宮殿内に単身乗り込んで来るような者がまだいるとは思えない。

 この部屋に戻ってくる時には気付かなかったが、どこかに仲間が潜んでいるのではと、メノンが扉から離れ、周囲を警戒した時だった。


『ッ』

『メノン!』


 その首を、背後から容赦なく締め上げられた。


『近付くと首を落とします』


 声を上げたアドラーティに、メノンを拘束した男が冷たく告げる。皇太子の私室に押し込んだというのに随分な余裕だ。やはり他にも仲間がいるのか、あるいは護衛を買収したのかもしれない。だとすれば、ここから脱出するだけでも容易ではない。


『要求は何だ』


 アドラーティもまた、額と鼻から血を流して項垂れる一人目の刺客の首に奪った短剣をあてがいながら問う。果たして、男は意外にもあっさりとその正体を暴露した。


『我々の要求は常にただ一つ。神帝サトゥヌスの愛児の聖代』

『……ハィニエル派か』


 何度も聞いた台詞に、アドラーティは苛立ちというよりもいい加減呆れを滲ませてそう呟いた。

 ハィニエルとは、双聖神と共に天上から遣わされた神仕カマリエラの名で、もう一人の神仕ラフィエルと共に二柱に仕えたことで有名だ。

 のちに二人が袂を分かつと、ラフィエルはユノーシェルに、ハィニエルはサトゥヌスに忠誠を誓い、その治世で羽翼の臣となった。

 そのハィニエルも、サトゥヌスの薨去と共に表舞台から姿を消したが、ただ一つ、彼女の思想だけは連綿と受け継がれた。


 神帝サトゥヌスこそ真の英雄である。


 ハィニエル派とはその思想に賛同した者たちのことで、サトゥヌス派とも呼ばれるエングレンデル国教会の中でも、更に青い血筋をこそ至上とする原理主義の過激派を指す。

 彼らは皇家に青の王子が生まれるたびに活発になり、是が非でも青の王子を帝位につけようとあらゆる手を講じてきた。

 第三皇子フェルゼリォンが生まれた時もまた同様で、以来アドラーティはハィニエル派と思われる連中に何度か襲撃を受けている。

 異端として排除する動きは前帝アルターリーの時代にやっと本格的に動き出したばかりだが、アドラーティとしては早急に消えてほしい教派であった。


『神の子は戻ってきました!』


 メノンの首に刃を当てたまま、男は恍惚と声を張り上げる。


『今こそその地位を神の子に譲り渡す時です! 殿下の企みもここまでですよ』

『企み?』

『我々は知っているのです。ご帰還なされた青の王子の御身を、今度こそ亡きものにしようと狙っていることを!』

『またそれか……』


 最早定型句と成り果てた口上に、アドラーティは唸るような声しか上げられなかった。

 最初の頃こそ、六歳下のフェルゼリォンがまだ幼いことなどを説明し理解を得ようとしていたが、結局彼らはアドラーティやリッテラートゥスが居なくならなければ納得しないのだ。


『何度も言うが、俺にそんな考えはごうもない』

『では今すぐ皇太子をご退位ください』

『それは出来ない』


 これもまた、毎度のやり取りであった。否、この問答があった分だけ、今回の敵は理性的であったと言えるかもしれない。


『では、御免!』


 男が口元を歪ませて、剣を握る手に力を込める。と同時にマクシムが走りだしていた。最小限の動きで下から掌底を繰り出し、メノンの首元から剣を弾き飛ばす――直前、廊下の暗闇から放たれたナイフがマクシムの頬を掠めた。


『ッ』

『マクシム!』

『っはは! 神は我らにお味方せり――がは!?』


 男の哄笑が不自然に途切れ、ガランッと剣が落ちる。気付けばメノンの首筋を捉えていた剣は消え、背後の男もまたその場に頽れていた。


『ご無事ですかな?』

『!?』


 何が起きたのかというメノンの疑問に、廊下の奥から届いた新たな声が被さる。メノンは反射的に振り返り、そこに見付けた予想外の人物に目を丸くした。

 玉妃宮の護衛、ではない。


『……ネストル伯爵。何故こんな所に?』


 手元の男からは注意を逸らさないまま、アドラーティが静かに問う。その通り、護衛とともに廊下を歩いてきたのは、令妃の兄であるフィデス侯爵家嫡男、ネストル伯爵であった。


『不審者が入っていくのを見てしまいましてね。ご無事で何よりです』


 警戒心を隠さないアドラーティに、ネストルは舞踏会で見せた笑顔のまま吊り気味の双眸を細める。その視線が自分に向く前にと、メノンは蹲ったマクシムへと駆け寄る――その腕を強引に背後に引き寄せられた。


『ッ?』

『おっと、不用心はよくありませんな』

『メノン!』


 気付けば再び、気道がぐっと圧迫されていた。視界が一瞬霞む。


(なん、なのですかこの男は!)


 味方のように現れておきながら、善人の顔で当然のようにメノンを人質に取る。だが何より腹立たしいのは、文官とはいえ呆気なく敵の手に落ちる己の不甲斐なさであった。


『……目的は何だ』

『交換と致しましょう。フェルゼリォン殿下から受け取った物と』


 表情を変えずに問うアドラーティに、ネストルはあくまでもにこやかに笑う。王証を持ち帰っただろうと問い詰めないのは、確信があるからか、それとも自身の優位性を崩さないためか。

 だがメノンはこの発言に安堵した。この交渉は成立しない。何故なら。


『私などが交渉材料になるわけが』

『すぐにとは申しません』


 たかが文官一人と、皇太子位に等しい王証では、交渉の余地すらない。そう言おうとしたメノンの言を遮って、ネストルが強引に話を進める。


『返してほしくなったら、いつでもどうぞ』


 そうして、メノンは玉妃宮から連れ出され、気を失った。




       ◇




(応じる必要など欠片もない)


 目が覚めてからは、ずっとそのことばかりを考えていた。

 王証を渡すということは、皇太子位を第二皇子リッテラートゥスに譲ることと同義だ。そんなことは、たかが従者メノンの身一つのためにするようなことではない。

 物心ついた頃から皇太子位にいるアドラーティが、そんなことで揺らぐとは微塵も思っていない。アドラーティは誰よりも皇族という立場を理解し、私欲も自由も全て捨てて向き合ってた。その重みが何にも代え難いモノだと、彼自身が一番よく知っている。

 だが。


(殿下は、お優しすぎる)


 懸念も不安も、狭く暗い空間では隅に溜まる埃のように際限なく積もる。出来るなら早くこの首を切り落としてほしいとさえ、メノンは思った。

 メノンの母はラティオ侯爵家の傍流ではあるが寡婦で、メノンには継げる爵位もない。フィデス侯爵家に対抗できる力もなければ、ここから抜け出す才覚もない。出来るのは、アドラーティの決断を妨げないことだけだ。


(あの時機タイミングで現れたのだから、どうせ私を掴まえた言い訳も用意してあるでしょうし)


 ハィニエル派を仕向けたのも十中八九ネストルだろうが、それを示す証拠が見付からなければ反撃はできない。最初から襲撃者がある程度負傷させてから現れ、戦闘力の低いメノンを浚う予定だったのだろうが、あの時の口上通り助けに来たと言われれば、最早それ以上の糾弾も難しい。


(次に現れたら、挑発でも何でもして殺すように仕向けるしか……)


 昏い覚悟を腹の底に生んだ出口のないその破滅思考はしかし、不意に感じた視線によって中断された。


「本当にこんな所にいるとはねぇ」

「!」


 出し抜けに気だるげな男の声がかかり、メノンは慌てて細く裂いていたシーツから手を放た。

 声のした方に目を向ければ、無愛想な鉄扉が錆を剥がすような音を立てて開かれる。そして予想通りの人物が現れた。


「やはり、リッテラートゥス殿下も荷担していたのですね」

「あー、その問答には真実に価値がないからしないから」

「は……?」


 メノンの恨み言のような問いに、第二皇子リッテラートゥスは面倒臭そうに手を振る。それから、入口に掛けられた松明を手に取った。

 相変わらず、思考回路が読みにくい相手である。そして次には、独り言のようにこんなことを呟いた。


「しっかし」


 何の躊躇もなくメノンの前に仁王立ちする。メノンの顔に松明を近付け眼鏡を凝視すること、たっぷり数十秒。


「見たくないものを見てしまったなぁ」

「ではご退室を」


 狐のように狡猾な瞳を細めるリッテラートゥスに、メノンは象牙の眼鏡を押し上げながら慇懃無礼に提示する。宮廷では絶対に出来ないが、こんな場所でへりくだっても意味はない。


「そう毛嫌いするな。これでも小生は平和的解決を望んでいるんだ」

「この状態で、その言葉の何を信じろと仰るのですか」

「? 死んでいないのだから平和だろう?」

「…………」


 真顔で首を捻るリッテラートゥスは、嫌味でなく本気でそう思っているようであった。戦争を起こす気なら既に殺して首を晒しているとでも考えているらしい。

 思考回路どころか価値観が違い過ぎて、メノンは早くも会話が嫌になった。

 だがリッテラートゥスは構わず進める。


「そうそう、部屋の血は綺麗に拭き取っておいたぞ」

「…………」


 無視する。血と聞いても動揺など見せない。


「あとは兄上の行き先だが」

「…………」


 無視する。行き先、と聞いて、捕まっていないのだと安堵する気持ちは、徹底的に押し隠す。だが。


「放っておいても、問題はないだろうな。あの様子では、帝都ここに戻る前に手遅れになるかもしれないし」

「まさか、そんなはずは……!」


 予想外の言葉に、堪らず声を上げていた。

 まさか逃げる時に重傷を負わされたのか、それとも病状が悪化したのか。

 だがその危惧は、リッテラートゥスの狡猾な笑みに的外れだと知れた。サッと血の気が引く。


「……まさか」

「兄上は、相変わらず我慢強くていらっしゃる」


 かまをかけられたのだ。忠誠心とメノンの性格を逆手に取られて。


(こんなに容易くては、殿下に顔向けできない……!)


 メノンは歯軋りを堪えて視線を逸らした。


「……何のことだか」


 しかしそんな反応には興味がないとでも言いたげに、リッテラートゥスは思索を続ける。


「しかしまた随分唐突に突飛な行動に出たものだ。やはり長年の持病というよりも、ここ最近の発症だと思うんだが」

「…………」


 無視だ無視、とメノンは改めて自分に言い聞かせる。侍従文官のくせに、メノンは残念なほど腹芸が出来ない。ましてやリッテラートゥスのように本心を完璧に隠すなどは逆立ちしても不可能だ。

 しかし、そんな心構えもとっくに手遅れだった。


「貴下には特に症状はなさそうだな?」

「!」


 灰みがかった青眼が、変わらず感情を宿さずにメノンを射る。そこでやっと、今までの視線の意味を知る。

 リッテラートゥスは、メノンの偽証を暴こうとしていたのではない。体調を観察していたのだ。それこそ扉を開ける前、あの監視窓の向こうから。


「……何を、根拠に」


 口が勝手に乾く。目の前で揺れる松明の火が急に恐ろしくなる。だが反駁はんばくを試みることすら、最早無意味であった。


「感染症じゃないとなると遺伝の可能性もあるな。確か、ラティオ侯爵家の三代前の当主が血を吐いて死んだとか。でも四親等まで含めるとそんなの誰にだって起こりうるって話になるしな」


 ぶつぶつと、リッテラートゥスがひとり思考を進める。こうなれば、この奇人の耳に他者の意見など届きはしない。否、最初からそんなものはどこにもなかった。


「何故……」


 リッテラートゥスの独り言が終わり、再び沈黙が訪れてから、メノンは力なく呟いた。リッテラートゥスがやっとメノンを振り返る。


「他人の顔も名前も興味がないが、顔色や感情には大いに関心があるものでね」


 淡々とそう応える顔は、城で動植物を観察していた時と何も変わらなかった。第二皇子にとってメノンとはつまり、その程度なのだ。


(自分が嫌になる)


 後悔ばかりだ。

 メノンはアドラーティの乳兄弟で、年も一つ上だ。子供の頃は乳母である母から共に文字や神識典ヴィヴロスを学び、遊び回った。その時から既に、メノンは劣っていた。だがそれはまだ、単純な向き不向きとか好き嫌いとかの話だった気もする。

 だがある時から、それは圧倒的な努力の差により完全に突き放された。


(あれは、いつだったか……確か)


 祖父であるラティオ侯爵家の城館に、玉妃レリアとともに滞在した年のことだ。

 その時は当時一歳になったばかりのカーランシェもいて、確か初めて会う姪を心待ちにしていた玉妃の姉テオドラも実家に帰ってきていた。

 何でもない、平穏な数日だった。

 侯爵領にはアドラーティの瞳をとやかく言う者も、フェルゼリォンの髪色を指さす者もいない。気ままに歩けるし、聖拝堂に行かなくても怒られないし、何より乳兄弟の悲しげな顔を見なくて済む。

 その、はずだったのに。


(あの頃から、アディはあまり笑わなくなった)


 それまでにも、宮中ではよく負い目のような、視線を逸らすような仕草はあった。だがその頃から、悄然とした様子は益々酷くなったように思う。

 意気消沈したような、怯えたような、厭うような。そして時折、憎悪するような。


(青い瞳を持っていないがために)


 アドラーティは常にそのことに苦しめられてきた。

 年を重ね、知恵を貯え、周囲が見えてくるにつれ。


(その上、この私まで)


 主の重荷になるなど、あってはならない。


「……早く、殺してください。皇太子殿下は悪辣な取引になど応じない」

「一度で会話が通じない奴って面倒臭いから嫌いなんだけど」


 己が足枷になる苦しさに、メノンは息を殺して喘ぐ。しかし受けるリッテラートゥスは、あくまでも淡々と黒髪を掻き上げた。

 そして。


「仕方ない。それじゃあ、遠慮なく」


 松明を片手に、躊躇なく詰め寄った。



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