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第28話 ヴァルの秘密

 非常事態という単語に改めて現状を認識すると同時に、レイは落下していた時に聞こえた獣の咆哮のようなものも思い出した。

 あれは単に山の魔獣が、落下してくる余所者へ威嚇か遠吠えでもしたのだろうと思っていた。だが思えば、獣ならば最も身近な場所にもいたではないか。

 と気づいて、レイは一つの可能性に思い至った。


「あ! もしかして、落ちたのに無事なのもヴァルのお陰とか?」


 芋虫状態のまま、ヴァルの顔を後ろから覗き込む。

 同族だから助けたということなら、ヴァルがあの咆哮で助けを呼んでくれたのかと思ったのだが、紅玉の瞳は頷くでもなくふいと視線を前に戻してしまった。


「……さてね」


 いつもの文句で誤魔化し、尻尾をふるりと揺らす。はぐらかす時の定型だ。

 成る程、そういうことらしい。

 レイは一人勝手に納得した。


「あり――」

「恰好でもつけてる気か」


 が、礼を言いきる前に女の吐き捨てるような声に遮られた。その手がヴァルの右耳に伸び、ピッと小さな擦過音を上げて耳環を奪い取る。


「セネ!」

「真の姿を見せろ、カナフ=ヴァルク。祝福されし翼の、その無残な姿を」


 ぐるると牙を剥くヴァルから、セネと呼ばれた女が素早く後ろに飛び退いて間合いを取った。右手に曲刀、左手に耳環を掲げてヴァルを牽制する。

 だが先に声を上げたのはレイの方であった。


「え! ヴァル、変身するの!?」

「するか!」


 思わずわくわくしてしまったら、間髪容れずヴァルに吠え返された。

 えー、と声を上げるレイに、ヴァルがむすりと説明を補足する。


耳環アレはただの制御装置だ。盗られたからって、すぐに元の姿に戻ったりしない」

「あぁ……でも、変身はするのね」


 そういう意味での否定だったのかと、レイは苦笑い気味に納得した。

 ただの猫でないことは十六年の付き合いで十分理解したつもりでいたが、まさか変身までするとは。

 聖砦の雰囲気から誰のこともお互い詮索しないのが暗黙のルールではあったが、善性種エピオテスであることも、大陸に他に仲間がいることも知らなかった。他にあと幾つ秘密があるのだろうか。

 だがそんなことに悠長に驚いている余裕はなかった。

 セネがヴァルの言葉を訂正すると同時に、鋭く踏み込んだ。


「だが、維持は格段に難しくなる!」

「!」


 ヒュンッと、レイの目の前で曲刀の刃先が風を切った。ヴァルが真上に跳躍して避け、着地と同時に右に跳ぶ。その尾を曲刀が容赦なく追いかけた。

 それを見上げながら、レイはあんぐりと口を開けた。


「ちょっ、何で斬りかかるの!? 同族だから助けたってさっき言ってたじゃない!」

「大丈夫。本気じゃないよ」

「ハルウもあの人を止めてよ!」


 縛られたまま叫ぶレイに、傍観していたハルウが小声で囁く。

 神法は、最悪声が出なくても神への祈りが届けば使えるというが、レイは手を翳さなければ指向性がぼやけ、威力も半減する。狭い空間で、しかも崩落の危険性がどれ程かもわからない洞窟では、それはより危険なだけだ。

 けれどハルウは、あっさりと首を横に振った。


「やだよ。僕にはそんなことできない」

「それは、そうだけど……でも!」

「それに、まずはこれを解かなきゃ」


 相変わらずの非力発言に声を荒らげるレイにも構わず、ハルウはレイの背中に回って手首に触れる。縄を解くつもりらしい。


「でも、の人が怒るんじゃ……」

「敵のご機嫌をとるために縛られてあげるの? 死んじゃうよ」


 あははと笑いながら、ハルウがいとも簡単に縄を解く。手首にはまだ擦過熱と痛みでまだジンジンと痺れている感覚は残っているが、痛いほどの圧迫は消えた。


「そんなんじゃ、ないけど………」


 レイは手首をさすりながら、今度は足首の縄に取り掛かったハルウにぽそりと言い返す。

 レイは単に彼女が助けてくれたという恩に、義理で報いたいと思っただけだ。勝手に拘束を解くのは、それに反する。

 だがハルウの言い分が正論であることも分かっていた。

 善性種の憎悪は、決して甘くない。それは五百年前の大喪失クレヴォ終息後、ユノーシェルが他種族の奴隷解放を行った結果、善性種を中心とした暴動が各地で頻発したことからも瞭然だ。


「セネ! いい加減にしな!」


 レイの足の拘束が外れた途端、ヴァルがセネに向き直ってぐわりと吠えた。恐らくレイたちの動きも視界の端で捉えていたのだろう。その頭上に、曲刀が容赦なく襲いかかった。


「カナフ=ヴァルク。何故そんな姿に甘んじる! 本来のお前は、誰よりも美しかった!」

「馬鹿言うな! あたいは、あたいだ!」


 ヴァルが後ろに飛び退いたその足場に、ガンッと曲刀が火花を散らしてぶつかる。それを飛び越えて、ヴァルが短い助走だけでセネに飛びかかった。

 刃を返した曲刀が黒い尾に追いつく――寸前、大振りの短剣がそれを弾き飛ばした。


「!」

「レイ!?」


 レイだ。傷一つない短剣を逆手に持ち、ヴァルを背に庇うようにセネの前に飛び込んできたのだ。

 レイたちが縄を解いていたのは、セネも気付いていた。だが今は、何をおいてもヴァルだった。そこに不躾にも割り込んでくるような存在がいるなど、思いもしなかった。

 だからこそ不意を突かれた。無理やり身を捻って躱した反動でセネの帽子が飛び、そこからぴょんっと黄褐色の三角耳が飛び出す。


人間種ピリトスが……!」


 弾かれた曲刀が、憎悪の光とともに標的をレイに変える。黄褐色の耳に目を奪われていたレイは、慌てて短剣を防御に構えた。


「な、仲間割れはダメだよ!」

「馬鹿!」

「ぅわっ!?」


 その襟首を、後ろからぐいっと引っ掴まれた。ビュンッと凶悪な風切り音が、レイが寸前までいた空間を容赦なく薙ぎ払う。

 それを湿った岩場に再び尻餅をついて聞きながらも、レイの体はすぐには動けそうもなかった。後ろから誰かが引っ張ってくれなければ今の一撃で死んでいたという事実が、馬鹿みたいに体を震わせる。立って逃げなければと思うのに、その何倍もの速さで、今しがた通り過ぎたばかりのはずの曲刀が再びレイに斬りかかる。


「ッ」


 レイは最悪手だと分かっているのに、ぎゅっと身を固くするしかできなかった。残像を纏うほどの白刃が、すぐ焦眉に迫る。それがレイの前髪に触れる寸前、すぐ脇から伸びた長くしなやかな肢体が、曲刀を握ったセネの右手を高らかに蹴り上げた。


「!」

「……へ?」


 鈍い打撃音と共に曲刀が宙を舞い、ガランッと洞窟の壁にぶつかった。短くない沈黙に、鋼の放つ残響だけがぐわんぐわんと木霊する。

 そして。


「……なんと、醜いことか」


 深い嘆息に苦いほどの侮蔑と諦念を混ぜて、無手となったセネが眼前の人影を睨め付けた。

 その言葉に導かれるように、レイもまた、目の前に立つ裸身の女を見上げていた。

 レイを庇うように仁王立ちしていたのは、薄くも均整の取れた筋肉を持つ、戦士を思わせる美しい体躯であった。盛り上がった筋肉が見える臀部の中央からは黒い毛並み豊かな尻尾らしきものが垂れ、視線を上げれば短い黒髪の頭頂部からも、長い三角耳がそよいでいる。その先端はどちらもきらきらと白い。

 それはどう見てもどこかの黒猫もどきの特徴とそっくりだったが、何よりも目を引いたのは、筋肉質な両の肩甲骨辺りにだけ生えた黒い毛並みであった。まるで肉体の組織をそこで切り落としたように、中途半端に膨らんでいる。


「ヴァル、その背中……」


 レイは呆然と、薄闇に浮かぶ人と同じ体躯を指さしていた。翼、というセネの声があったせいだろうか。レイにはその背中の膨らみが、まるで鳥の翼を根元から叩き切った痕のように見えた。


「お前のカナフは、おれのものでもあったのに……」


 セネが頭部の耳を寝かし、ぎりりと歯を食いしばる。

 善性種は、旧暦まで各地で奴隷として扱われた。大喪失クレヴォ前後の混沌とした時代には、逃亡を恐れて翼や足を切り落とす者や、それだけを売買する者もざらにいたという。

 ヴァルだった女は、レイを困ったような寂しげな眼差しで一瞥してから、つかつかとセネに歩み寄った。


「いい加減、返せ」


 嘆息と共に、セネの左手にあった耳環をパッと奪い返す。セネは、特に抗うことはしなかった。ただ、左耳に耳環を嵌め直すヴァルを小豆色の瞳で睨む。


「また獣に戻るのか」

「あたいはこっちの方が楽なだけだ。押し付けるな」

「おれのジオが、獣に……奴隷に甘んじるなど」

「え、対って……」


 対と聞いて、レイは更に驚いた。

 世界の始まりである『無』を除いて、命ある者には必ず対があるというのが、双聖神教の教えの一つだ。

 その考え方には、生まれた瞬間から生涯の対は決まっているとか、生まれ落ちた瞬間は親と、成長するにつれ人生の節目ごとに変わるとか、流派によって様々ある。

 けれど対と結ばれた場合、その生は実り豊かに祝福され、死さえも分かつことが出来ないと言われている。


(私にも、いるっていうけど……)


 レイは無意識に胸元の首飾りを握り締めていた。

 対を感じる程度は、人それぞれだ。それでも、対は常に惹き合うという。どんなに離れていても、ふとした瞬間に存在を感じ、運命を共にする。

 種として短命な人間種は世代が変わる度に神の血が薄まり、対への感度も徐々に弱まり、今ではほとんどの人間種がそれを意識することはないというが、それ以外の五種族はいまだ血が濃い分、対への感度も高いともいう。

 ユノーシェルも味わった対への喪失感を知らないのは、幸運なことなのか、それとも。


「ディーン=セネ。茨を往く審判よ」


 紅色の淡い燐光を放ちながら、ヴァルが瞬く間に黒猫もどきの姿に戻る。それからいつものように四つ足でセネの前に座ると、優しく呼びかけた。


「あたいのことは忘れろと、あの日に言ったはずだ」

「忘れるものか! おれの対を奪った人間種を、おれたちの里を焼いた連中を!」

「……だから、逃げろと言ったのに」


 セネの烈しい剣幕に、けれどヴァルはただ悲しげに肩を落とす。

 ヴァルがユノーシェルと出会う前はどこにいて何をしていたか、それさえもレイは知らない。聞いても「話すほどのことなんかないよ」とはぐらかされるから。

 だが改暦以前はアイルティア大陸にも他種族がいて、それぞれに小さな里を作っていたという記録はある。けれどそれは文字で事実を伝えるだけで、その中にある悲嘆も憎悪も語りはしない。

 ヴァルとセネがいたという里で、人間種がどんな非道を行ったのかも。


「お前は憎くないのか! おれたちを獣人と呼び、奴隷に貶めて、物のように扱った人間種どもが!」

「報復はしたはずだよ。ユノーシェルが解放してくれた恩を、あだで返して」


 窘めるようなその声はいつもの飄々としたものとは違い、そこはかとない寂しさが滲んでいた。

 ユノーシェルがプレブラントの地で王に即位し、聖国を作り上げた初期の頃に行われた他種族の解放。それは魔王討伐後のことだから、その時には既にヴァルはユノーシェルの傍にいたはずだ。

 善性種で、奴隷でもあったヴァルは、自由とともに報復と殺戮を選んだ同胞たちを、どんな思いで見ていたのだろうか。


「ヴァル……」


 ヴァルは、背中を撫でるのも、抱き上げるのも嫌う。唯一怒らないのは、そのふさふさの尻尾に触れることくらいだ。

 だからその時も、無意識に手が伸びていた。

 その腹に、重い一撃が入った。


「ッァ!」


 レイの体が横ざまに吹っ飛んだ。

 セネが凄まじい速さでレイを蹴り飛ばしたのだ。


「おれの対に気安く触れるな!」


 二度、三度と岩肌の上を跳ねながら、レイの矮躯が壁に至る――寸前、ハルウがそれを受け止めた。


「レイ!」

「ッ……へい、き」


 横抱きにしながら顔を覗き込むハルウに、レイはどうにか声を上げる。蹴られた腹はぐつぐつと熱く、岩肌を擦った箇所もじんじん痛んだが、やせ我慢出来ないほどではない。

 それでも、見上げるハルウの虹彩異色オッドアイはぞっとするほど冷たかった。黒猫もどきに戻ったヴァルもまた、再び四足を立てて毛を逆立てる。


「……セネ」


 レイを蹴ったことで隣に並んだセネに、ヴァルが低く呼びかける。


「お前は昔から潔癖で、そのせいでお前の審判ディーンはお前を苦しめてきた。けどね」


 風が吹く。洞窟を抜ける冷たい風が、あるいは別の何かが、ヴァルの黒毛を靡かせる。


「レイに手を出したら赦さないよ」


 だがその静かな風を払い散らして、セネはハッと嘲笑った。小豆色の瞳が、酷薄に歪む。


「許さない? そもそも、人間種は全て殺すと言ったはずだ」

「それがそもそも間違っている。こいつも、あのガキも、純粋な人間じゃない。神の末裔だ」

「……ならばこそ、余計に殺そうぞ」


 刹那の沈黙の後に続いたのは、より一層冷え冷えとした殺意だった。

 善性種は、神々をも憎んでいる。番わせたことも、見捨てたことも、助けなかったことも。何より、善なることへの憎しみが枯れることはない。

 だがそれを、まるで些事とでも言うような失笑が遮った。


「まぁ、君なら簡単に殺せるだろうけど、他の子たちはどうだろうね?」


 レイを抱き起しながら、ハルウがうっそりと瞳を細める。それはいつもの笑顔と変わらないはずなのに、まるで言葉一つで命を奪えるとでも言うように、どこか鋭利で。


「なにを……――は!」


 セネが怪訝に気配を探る。そしてすぐ、何かに気付いたように洞窟の奥へと走り出した。

 状況が理解できないのは、レイだけである。


「……え、え? 何?」


 まだ痛む腹を押さえつつ、セネの消えた先を目で追う。と言っても奥は外光が届かず、目を凝らしてももう人がいたかどうかすら判別できない。

 目覚めた時もセネは光源らしき物は持っていなかったから、夜目が利くのだろう。

 だが混乱するレイとは反対に、ヴァルは焦る様子もなくぽてぽてと歩み寄ってきた。


「起きたみたいだね」

「うん。丁度良かったよ」

「…………。何が?」


 地獄耳の二人だけで何やら納得し合っている。

 レイにはさっぱりであった。



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