第27話 知らない世界
ぴちょん……ぴちょん……
遠く、水音が反響するような音で、レイは意識を取り戻した。
(…………水?)
なぜ水が、と考える。けれど少しも頭が働かなかった。まるで水中に落ちたように、思考も体も、何もかもが重い。
(落ちた……そうだ)
落ちる、という単語に触発されて、あやふやだった次々と記憶が蘇る。
レイたちは、リッテラートゥスたちから逃げるために崖の下へと飛び降りたのだった。だが風鳳の神法を無効化され、墜落した。
(でも、生きてる……?)
どうしてと考えて、そうとは限らないかもしれないと思い直す。
死者は生と死の神に導かれて新たな命を紡ぐ前に、一度無に還る。だが神に愛された英雄は天上に召し上げられ、星となり、神々と共に無から世界を守る役目を与えられるという。
つまりレイは魂となって天上に昇り、今は神々が顕現なされるのを待っている状態の可能性もあるということ。
(……それはないな)
自分で考えたくせに、あまりの現実味のなさに物凄く劣等感に苛まれた。レイは血統でいえば英雄の子だが、悲しいくらいに英雄には向いていない。
などと考えて、そろそろ無自覚な焦燥と動揺も収まってきたと思う。と同時に、張り付いたように重かった瞼にも力が入る。
見えたのはけれど、変わらない闇であった。
(……? 夜……だっけ?)
墜落したのはまだ昼頃だったはずだ。気絶した間にすっかり日が暮れてしまったのだろうか。
まだずきずきと痛む頭に顔をしかめつつ、起き上がろうとしたのは、多分無意識だ。だが両手を地面に付こうとして、がくっと何かに押し返された。
誰かいる、と思考するよりも早く、
「動くな」
「!」
眼前で、何かが鈍く光った。白い。
声も、聞いたことのないものだ。
(……誰?)
考えているうちに、徐々に視界が戻ってくる。
白い光は細長く続いていた。それを辿って目線を上げていくと、ぼんやりと人の姿が浮かび上がる。その中で二つの小豆色の目が、レイを貫いていた。
(まさか……)
最悪の可能性に、レイは血の気が引いた。
レイが飛び込んだのは、山中に出来た断層の底だ。上から見えたのは森林の樹頭ばかりだったが、恐らく峻険な谷底には違いない。そこにも、クラスペダ山岳地帯に生息する魔獣が何頭もいるはずだ。
そんな危険地帯にいる、刃物を持った人間。
(帝国軍……!?)
導き出された可能性に気付いた途端、両手首も両足首も縛られていることにも気付く。そして同時に、目の前の白いものが何であるかも理解した。
鋼の刃だ。リォーのそれと違い緩やかに弧を描いた曲刀で、斬ることに特化した凶器。
「……だ、誰?」
現状を理解するどころか窮地を察しただけという最悪の状況だったが、レイはとにもかくにも声を絞り出した。
だが小豆色の瞳の人物は、地べたに転がるレイを冷たく見下すばかり。
(なんか……怖い……)
帝国軍に追い詰められた時にも敵意は感じたが、あれは軍隊特有の機械的な視線だった。こんなにも冷たく、憎悪すら滲むような眼差しではなかった。
次に身動ぎ一つでもしようものなら、躊躇なく刃先が眼窩に押し込まれると、嫌でも分かる。
だが、こんな状態でいても何の解決にもならない。
「あの、話を……」
意を決して、言葉を続ける。
その瞬間、かちゃりと鍔鳴りがして切っ先が視界いっぱいに大きくなった。
「ッ」
「やめな!」
その刃先を押しのけて、怒声と共に小さな黒い体が飛び込んできた。ヴァルだ。
剣の代わりに、むぎゅっと柔らかい肉球が、身動きできないレイの額と鼻の上を踏みつける。
「こいつには手を出すなと言ったはずだよ」
「……人間種は全員殺す」
レイの真上で、いやに物騒な単語が飛び交う。そこに漂う緊張感は、肌をヒリヒリさせるほどだ。
だが、今はそれよりも重要なことがあった。
「……重い」
ヴァルはレイの顔面に四肢を置いて凄んでいるため、動くたびにむぎゅむぎゅと肉球が押し込まれていた。それがとにかく重いのだ。
「…………」
「…………」
会話が止まる。
代わりに、ヴァルの長くふさふさとした尻尾がぺしりと頬を打った。ぺしりぺしり。
「いた、痛いっていうかくすぐったい!」
もっさもっさと襲い掛かる尻尾から、首を振って逃げる。その頬を極めつけのようにむぎゅっと踏み込んで、やっとヴァルがレイの顔面から飛び降りた。
「ったく、どいつもこいつも失礼な奴だね。折角助けてやったっていうのに」
「あ、ありが……あ! ハルウは? リォーは無事なの?」
どいつもこいつもと言われて、周りに二人がいないことにやっと気付く。
ハルウも心配だが、リォーは胸に矢を受けていた。その上で崖底への落下だ。とても無事とは思えない。
「あいつらは……」
ちょこんと座ったヴァルが、紅玉の瞳を伏せて声を潜める。
まさか、とレイが息を呑む、その横面に飛び込むものがあった。
「レーイ! やっと起きた! 心配したよぅ」
「わぁっ!?」
突然首に巻き付いてきた両腕に、レイは両手両足を縛られた蓑虫状態でその場に飛び上がった。ハルウだ。
「ハルウ! 無事だったの?」
「レイの目が覚めるまで全然無事じゃなかったよ」
首筋にぐりぐりと緑髪を押し付けられた。どうやら平常運転らしい。一先ず安心する。
だが引っかかることもあった。
「っていうか、なんで二人とも縛られてないの?」
ヴァルは人型でないからとも思ったが、ハルウもどうやら自由の身らしい。これに、ヴァルは渋面で、ハルウは笑顔でこう言った。
「なんか、解けちゃった。緩かったのかな?」
「……そう?」
レイは改めて自分の足首の結び目を見るが、薄闇の中で見ても緩みそうにない程がっちりと縛られている気がする。が、追及するのはやめた。
代わりに、もう一つの懸念を問う。
「なら、リォーは――」
だがその先は、苛立ちに満ちた声に遮られた。
「いい加減にしろ」
「!」
それは、目覚めて最初に聞いた声であった。ハッと声のした方を振り仰ぐ。
この頃には、視界もどうにか闇に慣れてきた。
レイに曲刀を向けていたのは、褐色の肌を持った美しい女であった。似合わない小さな帽子を被っている。筋肉質な体はすらりと高く、低くドスの利いた声と相まって、女性と確信するのに数秒かかった。
だが何よりも目を惹いたのは、小豆色の虹彩の周りの色だった。人間の白目に当たる部分――強膜が、赤味の強い肌色をしていたのだ。
(まさか……この人……)
レイを『人間種』と呼んだことに、違和感はあった。
人類に付けられた古代六種族の名称は便宜上の意味合いが強く、実際に自分たちが名乗ることは少ない。特に善性種などは、自分たちを翻弄したその性質を憎悪するほどで、その呼び名もまた同様に毛嫌いしていると聞く。
だがそもそも、人間種が逃げ込んだこの大陸に、他の五種族はもういないはずである。歴史の上では。
(……悩んでても仕方ない)
細々《こまごま》と考えるのは苦手だ。
レイはハルウに背中を支えてもらいながら上半身を起こすと、曲刀の女に向き直った。
「あの、あなたが助けてくれたんですか?」
「はっ。おめでたいんだな、人間種ってのは」
ありがとう、と頭を下げる準備をしていたレイは、明らかな嘲笑と侮蔑に反応が一瞬遅れてしまった。だが怒り返そうにも、こんなにも敵意を向けられる理由が皆目見当もつかない。
困惑してヴァルとハルウを見る。ヴァルはレイと女の間に座ったまま無言だ。代わりにハルウが、にこにこといつもの笑顔で説明してくれた。
「崖から落ちて気絶したレイを、ここに運んで寝かせたのは彼女たちだよ」
「ここ……」
言われて、改めて周囲を見回す。
薄暗いのは変わらないが、手の平から伝わる湿った岩肌の感触で、ここが洞窟か何かだとは分かった。背後を見れば、遠く霞がかった光が天井に反射しているのが見える。
谷底を流れる川か滝か、水場も近いのだろう。最前からしている水音も、洞窟の天井から滴っているらしかった。
(そっか、崖に落ちてそのままだと、すぐ帝国軍に見つかるから)
身を隠す場所を貸してくれたということなのだろう。となると、やはり恩人らしい。
「あの、ありがとうございます」
レイは改めて、痛みでぎこちない体を押して頭を下げた。
他にも疑問は山とあるが、まずは礼が先だ。
だが女はやはり敵意を収めることなくこう返した。
「おれが助けるのは同族だけだ」
「同族……」
女の視線が、微かに下を向いた。
そこにいるのは、黒猫よりも一回り大きな体を持つ、分類しがたい生き物――ヴァル。本人曰く、猫でも魔獣でもなく、長命種の血が入っている。だがその素性を正確に問い質したことはない。
(同族ってことは、やっぱり善性種?)
教科書から知る善性種の歴史は、悲しいものだ。
人類の祖である最初の十二人は、神々の指示のもとに番ったと云われている。だがそこには、それぞれの血に宿った顕著な性質が関係していた。
その性質とは、腕力の強弱、容姿の美醜、生命の長短、繁殖能力の高低、知恵の賢愚、倫理の善悪の十二種である。
人間種は生命の短さを補うために繁殖能力の高さを宛がわれた。それと同様にして、善性種は倫理の善と、余り物の知恵の愚を押し付けられた。
その結果、善性種は疑うことを知らず、信じることを美徳とし、常に隣人を愛した。それが倫理の悪を自ら引き受けた強人種相手でも、貪欲に叡智を求めた賢才種相手でも。
その結果、必然のように彼らは搾取される側に回った。
食べ物がないと言われれば自分の分を分け与え、服でも土地でも、自らの体でさえ惜しみなく与えた。そうして、彼らは奴隷となった。
圧倒的な人口を持つ人間種は、彼らを扱いやすい労働力として利用した。賢才種は、研究と称して様々な実験の被験体にした。強人種はそんな彼らを玩具のように扱い、ただ面白いからと獣と交わることさえ強要した。
その非道に、同じく余り物である容姿の醜を押し付けられた長命種は、いち早く山に隠れた。また、容姿の美を得たことでその種を最も求められることとなった麗姿種は、神や強者に取り入り、愛されることで身を守った。
そうして長い永い時が経ち、獣や他の種族の血を入れることで善性の薄まった彼らは、当然のごとく他の五種族を憎んだ。
特に賢才種と強人種と違い、人間種は改暦まで彼らを奴隷とし、またその奇抜な姿から愛玩や蒐集のため売買した。
今でこそ大陸にはそういった人種はいないとされているが、ヴァルはそうではないとはっきりと断言した。
(自分が、そうだったから……)
ヴァルが善性種であるならば、様々なことに納得がいく。
獣の姿なのに人語を解することも、歴史や他の種族に詳しいことも。背中を撫でられるのを嫌がるのも、本当は猫扱いが嫌だからではなく、そこにぼこりと盛り上がった古傷があるからだと、レイは知っている。
「ヴァル……」
いつもは何でもない呼びかけが、どうしても弱々しく力がなかった。それを宥めるように、足の先でヴァルが長い耳を揺らして振り返る。美しい紅玉が、微かに揺らいだ気がした。
しようのない子だね、とでも言うように。
(何を言えば……でも今さら謝るなんて変だし)
呼びかけたのにその先が続かなくて、レイはこんな状況だというのに胸が締め付けられるような思いがした。
ヴァルは今までどんな思いで人間種の傍にいたのかとか、本当は自分たちのことをどう思っているのかとか。素性を話さなかったのは、やはり少なからず人間種を恨んでいるからなのか、とか。
考えるには今更な、本当に今更なことが埒もなく脳裏を巡り、思考がどんどん迷宮化する。知恵熱が出そうだと、そろそろレイが自分の思考に負け始めた頃。
ふと、違和感に気付いた。
「あれ、耳環って左じゃなかった?」
瞳と同色の宝石が嵌め込まれた耳飾りが、右耳の先に揺れている。それは難問にぶちあたって膿んだ思考の逃げ先として、ただ目に付いたというだけのことだったのだが。
「――ははっ」
笑われた。一瞬の瞠目を挟んで、実に愉快そうに目を細めて。
「な、なんで笑うのっ?」
「いや、それでこそレイだと思ってね」
「すいませんねぇ……」
くつくつとなおも背を揺らして笑うヴァルに、レイは僅かに頬を赤らめながらいじける。話の流れから外れているとは分かっているが、目についてしまったのだから仕方がない。
「こんな時でこんな暗い話だってのに、そんな話題に行くのがあんたらしいよ」
「話題って……だって、耳飾りの場所って、今まで一度も変わったことなかったじゃん」
気になったことを後回しにすると半分は忘れてしまうレイである。だが場違いであったことは間違いないので、しゅんと肩を落とす。
と、それを笑顔で見守っていたハルウが再び助言をくれた。
「一度取って、付け直したせいだよね」
「え、外すことなんてあるの?」
衝撃の事実に驚いてヴァルを見る。
ハルウの腕輪もそうだが、ヴァルが耳飾りを外したことなど一度も見たことがなかった。装飾品というよりも、最早体の一部なのではと思っていたくらいだ。
だがこの驚きに、ヴァルはあっさりと肯定した。
「まぁ、非常事態にはな」
「へぇ。非常事態って……今か!」
なに、と聞こうとして、今まさに直面していると気付くレイであった。




