第25話 転落
「リッテ! どういうつもりだ!」
神法で砂礫と化した岩の雪崩に巻き込まれて落下したネストルが、岩の下から怒声を張り上げた。
それを涼やかに一瞥して、リッテラートゥスは実におざなりに微笑んだ。
「お疲れでしょう。交替して差し上げます」
「はあ!? おい、こら!」
岩の下からは未だに怒声が続いていたが、リッテラートゥスは一切構わず弟に向き直った。
刺繍の施された上等な外套についた砂埃をはたきながら、一歩前に歩み出る。
「久しいな、愛しき弟よ。息災であったか?」
本人は会心の笑みと思っているらしい口元を歪ませる顔で、両手を広げる。それをリォーは淡々と、右の拳を左の胸に当てる宮廷式の挨拶で返した。
だがすぐに、左手に持ち変えていた剣を右手に戻し、心を許していないことを示す。
「先日のカーラの誕生会でご挨拶申し上げたばかりです」
「ん? そうだったか? ならそうかもな」
ハハ、と適当に笑う。本当に記憶にないのだろうと、リォーは知っている。
(相変わらず、全然笑えてないな)
だが今は、不器用な笑顔などどうでもいい。出不精で面倒臭がりの異母兄がこんな場所に現れるなど、異常事態でしかない。
リォーはとっととこの場を終わらせることに決めた。
「助けて頂き、ありがとうございます。ですが、戻るのはまだ危険なようなので、俺は暫く身を隠します」
「あぁ、それがいい。但し、神に匿ってもらおうとはしないことだ。面倒なことになる」
リォーのすげない言い回しに、リッテラートゥスはまるで気にした風もなく鷹揚に頷く。
だが後半の言葉の神――つまり神職者は、第三皇子を支持する連中を示している。頼るなら容赦しないということだろう。
「勿論、承知しています。では」
余計な会話をする前にと、リォーが小さく頭を下げる。リッテラートゥスにどんな思惑があるにしろ、与える情報は最小限にしなければならない。
だが、事はそう簡単には運ばなかった。
「まぁ、そう急くな。荷物が重いだろう? 小生が預かるぞ」
早速踵を返そうとしたリォーを、リッテラートゥスがにこやかな声で引き留めた。互いの青い瞳がぶつかる。
リッテラートゥスは数年前から、彼我のことを古めかしい言い回しで呼ぶようになった。顔も名前も覚えられない性質だが、常に謙っていれば問題ないことに気付いたのだと、大真面目に言われたことが毎回思い出される。
リォーは、下げていた剣先をゆっくりと持ち上げた。
「ご高慮感謝します。ですが、俺の荷物はこの剣くらいですので」
「剣? 小生はそこのお姫様のことを言ったんだが?」
「…………」
「へ? 私?」
間抜けな女が馬鹿正直に反応した。
チッと、思わず舌打ちが漏れる。ヴァルとハルウの警戒心が倍増しなければ、心のままに罵倒が口をついていたかもしれない。
(兄上はどこまで知ってる?)
ネストルは、どこから嗅ぎ付けたのかリォーが王証の半分を持ち帰ったことを掴んでいた。その甥であるリッテラートゥスも、情報を共有していても不思議ではない。
だが、レイのことはどうだろうか。
ネストルはレイの利用価値を、脅迫か婚姻政策程度にしか考えていなかった。そしてそれは正しい、はずだ。
「プレブラントの王女様。お久しぶりです」
リッテラートゥスは弟から視線を外し、レイに歩み寄る。その足が二歩目を踏む前に、リォーはレイを背に隠した。ヴァルとハルウも、敵意を丸出しにしてレイを両側から挟む。
それを見て、リッテラートゥスはすぐに諦めてその場で宮廷式の挨拶をするに留めた。
人の顔を覚えない義兄ではあるが、さすがに他国の賓客は覚えがあるようだ。口の両端だけが、不器用に上がっている。
レイは僅かに躊躇った後、外套の裾をドレスに見立てて挨拶を返した。
「はい。あの……、先日はありがとうございました」
(何故頬を赤らめる!?)
口元も、緊張というにはどうにも緩んで見える。いちいちイラッとする女である。
「いえいえ。それよりも、探し物は見つかりましたか」
「あ……いえ、それは、まだ」
唐突に確信を突いたリッテラートゥスに、レイは笑顔で「お陰様で」と応じるべきであった。
けれど橄欖石の瞳は正直に泳ぎ、一瞬だがリォーを見た。
「嫌味な根性悪にでも邪魔されましたか」
「えっ」
(そこで俺を見るな!)
リッテラートゥスの思う壺であった。
怪しまれてでも、話すなと釘を刺しておくべきだったかもしれない。
だが後悔は遅い。
「ラリス。王女殿下をお連れしろ」
リッテラートゥスが、背後に控えていた従者に下知する。細面の青年で、よく見なければ目が開いていないのかと思うくらい目が細い。
ラリスと呼ばれた青年は恭しく頭を下げ、
「嫌です」
即行で断った。
リッテラートゥスが、敵対者が目の前にいるというのに吊り目を開いて振り返る。
「おい、いま何と言った?」
「私めはこういうことをしたくないがために、神法士にならず侍従文官を選んだのです」
「終わったら、小生の髪を好きにいじることを許そう」
「お任せください」
ラリスが見事に手の平を返した。
「……なんか、第二皇子殿下って、こんな感じだったっけ?」
レイが目をぱちくりさせて耳打ちしてきた。どうやら、レテ宮殿ではリッテラートゥスの外面にまんまと騙されたらしい。
(あんなもの、ただの定型句だぞ)
リッテラートゥスは顔を覚えるのが苦手なら、他人に個人的な感情や褒め言葉を使うのも苦手であった。
それをいつ頃からか克服したようなので理由を聞いたら、背丈や容姿、年齢、骨格などで大まかに特徴分けした対人用の定型句を作成し適用していると、笑顔で説明されたものだ。
そんなものに引っかかるなど、レイは全く見る目がない。だが、今は悠長にむかついている時間もない。
ラリスが、侍従文官らしく優雅に一歩踏み込む。と同時にレイの足下だけが、渦の中心になったかのように砂礫と化した。
「ッ」
「「レイ!」」
バランスを崩したレイにヴァルが跳びかかり、倒れかけたその腕をハルウが引っ張る。それを横目で見ながら、リォーは迷わずラリスに斬りかかった。
(最初の砂化もこいつの仕業か)
数歩で距離を縮めて下段から斬りかかる。
神法を二つ以上同時に発動することは最上位の難易度だ。連続しての発動はそれに劣るが、それでも最低限の間は空く。その隙を逃さずラリスの右上腕を切り裂く――つもりだった刃が、その手前でガッと軌道を逸らされた。
(風の盾!? なんで)
小さいながら風の盾が、ラリスの右腕の前にだけ出現していたのだ。
リォーは咄嗟に後ろに飛び退きながら、ラリスの挙動をつぶさに観察した。まさか二つ同時に神法を発動したのかと伺うが、その視線はいまだレイのもとにある。
何故、と思考を巡らせた時、リォーは嫌な気配を感じて横を振り向いた。
「小生も少しだけなら使えるんだ」
ひらひらと、リッテラートゥスが下手な笑顔で手を振っていた。イラっとした。
「くっそ!」
剣を構え直し、今度はリッテラートゥスに剣先を向ける。
(俺は全然使えないのに、なんで信仰心の欠片もなさそうなアイツが!)
それは単純な劣等感ではあったが、選択としては悪くはないはずだった。リッテラートゥスの神法は弱いし、剣は型を習った程度で投げ出しているのを知っている。
ラリスとは反対側から回り込んで、一足飛びにリッテラートゥスの前に躍り出る。そして剣を大上段に振り上げ、
「!?」
グサッ、と鈍い音を立てて、リォーの胸に矢が突き立った。
◆
「ッリォー!」
足を飲み込もうとする砂からようやく体を引き上げたレイの目の前で、リォーの胸に一本の矢が生えていた。一拍遅れてぐらりとリォーの体が倒れていくのが、奇妙なほど緩慢に見える。
「相変わらず、熱くなると視野が狭くなるな」
それを冷淡に見下ろして、リッテラートゥスが淡々と呟いた。その間にも、二の矢三の矢が岩の下から唸りを上げ、岩の上に転がったリォーに向かっているというのに、制止させようという気配もない。
それを理解した瞬間、レイは今までにないほど頭を回転させていた。
(風盾、はダメ! 土を)
風の盾は、維持しなければ消失してしまう。土の壁ならばその後も残るが、岩盤に土と同じように干渉するには、レイの力量ではまだまだ及ばない。
神法の力の源はこの体に流れる血と神への祈りだが、現象を発現させるには更に知識と想像力と構造式への理解が必要だ。
だが勉強を怠ってきたレイに、そんなものはない。だから加減も出来ないし、複雑な神法も出来ない。
(それでも……!)
苦手でも不恰好でも、今、やらなければならない。でなければ、胸に矢を受けたリォーにこれ以上に傷を負わせる事態になってしまう。
「希うは不屈の陵、全てを守れ、金城なる大地!」
高速で土の枕詞を唱え、岩に両手を付けて祈る。頭の中では想像は出来上がっている。あとは祈るだけだ。ひたすらに。
果たして、数拍を開けて岩がグブブ……と生き物のように蠢いた。周りを陥没させ、薄い壁が立ち上がる。
ラリスに比べれば何倍も遅い発動だった。それでも、倒れたリォーを辛うじて守るように不格好な岩壁がせり上がり、倒れたままのリォーの半身をどうにか覆ってくれた。
(でも、全然弱い……!)
矢が一本掠めるだけで、ぼろりと角が崩れていく。何本もは持ちこたえられない。
レイは縋るようにリッテラートゥスを見上げていた。
「リッテラートゥス様……! お願いです、やめさせてください!」
「ん? 何故ですか?」
しかし返されたのは、まるで理解できないという風な問いであった。きょとんとしたその顔に、レテ宮殿で見た誠実な皇子の面影は微塵もない。
立場上やむなく現れたと思っていたレイは、その反応にこそ驚いた。
「何故って……だって、こんな……ご兄弟でしょ!?」
「あぁ。大丈夫ですよ。王女様に危害は加えませんので」
「そ、そういうことじゃありません! 私は……!」
「? そういうことでしょう? あなたが大事にすべきなのは、その御身と、両国の友好を壊さないことだけだ。違いますか?」
「そ、れは……」
それは、王族としては論破のしようもないほどの正論であった。人命が懸かっているというこんな状況においてさえそれを優先する考え方は、ある意味王族としての自覚が強いともいえるが。
(バカだ、私。考えなきゃいけない順番を間違えてた)
これで裏切られたなどと思うのはあまりに自分勝手だ。ネストルもリッテラートゥスも、強い目的があるからこそこんな山の奥まで現れた。平時の常識論を持ち出す方が悪い。
それでも、レイは自分を恥じた。こんな時に、相手の真意も見定められず情に縋ろうとした自分の浅はかさに。
「――ヴァル、ハルウ、掴まって!」
忸怩たる後悔をぐっと飲み込んで、レイはリォーに駆け寄るとそのぐったりした体を抱き上げた。
(ぅ重いっ)
「……ぅっ」
腕の中でリォーが小さく呻く。まだ息はある。
治癒はあとでかけよう。今必要なのは、迷わないことと、火事場の馬鹿力だ。
「地上に留まりし慈悲深き神々が一柱、風の神アネモスよ。恩寵を賜りし眷属の精霊よ。恵みの一滴をこの手に分け与えたまえ」
風の神への枕詞を唱えながら、ズッ……とリォーの体を引きずるようにして矢が放たれる側とは反対――崖の端まで後退する。
「? それで避けたつもりですか?」
訝るリッテラートゥスの声は無視して、背後を振り返る。岩の途切れた先――はるか谷底に、鬱蒼とした森が緑の絨毯のように広がっていた。首を出した無謀者を勇めるように、ヒュォッと、下から吹き上げてきた風がレイの結わった髪をてんでに巻き上げる。
相変わらず、初夏の山林が作る濃淡はどんな名工が織り上げた細密画も敵わないほどに生命力に溢れ、見事の一言に尽きる。そう、見るだけならば、だが。
(……怖い)
心臓が、冷水をかけられたようにギュッと縮み上がる。だが、レイにはこれしかないのだ。
「希うは神獣の鼓翼、この身に宿れ……」
続く神言を唱えながら、腕の中のリォーをぎゅっと抱き締める。身を低くして追い付いたヴァルとハルウも、それぞれレイの体に触れる。
「失敗したらごめんね」
「レイは僕が守るからね」
「いつものことさね」
栓ないことと思いながらの小声の懺悔に、二人がいつもの調子で返す。それだけで、勇気が湧いた。
レイは覚悟を決めて、遠い遠い谷底へと全員の重心を傾けた。
「あっ、こら」
リッテラートゥスの驚いた声が後を追う。が、その先はすぐに鼓膜を激しく叩く風の音に掻き消された。四人分の自由落下が、一瞬で加速する。
(怖い……けど、やるしかない!)
ただ落ちるという初めての感覚に震える体を無理やり捩じ伏せて、レイは神言を唱えきった。
「風鳳の大翼!」
飛べ、と強く祈る。
風鳳とは、七色の美しい羽をもつ神獣で、神々が天上に昇った際の乗騎の一つだ。その翼を借りるように、ごうごうっと落下していた体が突然ぶわりと持ち上がるように速度を落とす。
(飛べた!)
実際には、神法士一人を高く跳躍させ、風に乗って滑空するような神法だ。三人分以上の過重を上昇させることは出来ない。
それでも、落下の速度は明らかに緩まった。
(このまま、山を下りて谷沿いを行けば)
ゆっくりと、慎重に力を操作する。木々を避け、谷底に降り立つ自分の姿を、頭の中で何度も何度も想像する。
だがその耳に、何故かラリスの小さな声が追いつき、
「困ります」
「へ?――きゃあッ!?」
身構える暇もなく、ドンッと重い衝撃がレイを襲った。支えのない中空で体が弾かれ、視界が一瞬暗くなる。
(無効化……ッ)
強制的に解除された風が、解けて荒れ狂ってレイの体を掻き乱す。リォーだけはと必死に抱きしめるが、掬い上げた水が零れるように、全身から力が抜けていた。
「レイ!」
「神言を唱えろ、何でもいいから!」
ハルウがリォーを支えるレイの腕を掴み、ヴァルが割れた声で叫ぶ。だがどんなに必死に思考を働かせても、レイの唇が次の神言を紡ぐことはなかった。
意識だけが、否応なしに薄れ、遠くなる。
(助けなきゃ……私が、守らなきゃ……)
その中で、そんなことばかりが頭を巡った。けれど意に反し、体は少しも言うことをきかない。自分の実戦での限界値も知らないまま、神法を連続して使い過ぎたせいだ。
けれどもう、そんなことも考えられなかった。
(守らなきゃ……私が、みんなを巻き込んだ、から……)
ただ、それだけが頭にあった。
風の音さえも遠くなる中、遠く、野太い獣の咆哮だけが残響していた。




