第24話 第二皇子との再会
「ここに来るまでに、少々手間取ってしまいました」
にこやかな笑みを浮かべてそう言ったのは、鹿毛のような濃茶の髪や髭にちらほらと白い物が混じる、壮年の男性であった。
体つきは屈強で、腰にはリォーの長剣の倍は身幅がありそうな獲物を吊るし、軍服の胸元には幾つもの略綬が所狭しと並んでいる。
前回は夜会服だったために印象が少し異なるが、その吊り上がり気味の目許には、見覚えがある。
「ネストル伯爵」
岩肌を半分以上登っていたリォーが、レイの頭上を飛び越えて着地し、対峙する。
男――第二皇子リッテラートゥスの母・令妃の生家であるフィデス侯爵家嫡男で、次期当主と目されるネストルは、細い目を更に細めて階段を上りきった。
「皇太子殿下に続きフェルゼリォン殿下まで行方を晦ませたと聞いて、慌てましたよ」
左右と背後に二人ずつの護衛を配置して、ネストルがゆったりとリォーの正面に回る。そして、大袈裟なほどに眉尻を下げた。
「何故、お逃げになったのですか?」
それが心配の体を取った決定的な追及であると、レイにでさえ分かった。
身を守るためと答えても、兄を探すためと答えても、何故皇子自らとの問いが返る。どんな問答を経由しても、最後にはこうなる。
後ろめたいことがあるからではないのか、と。
(でも、王証のことは言えないし)
もし持っていると知られれば、リォーを殺してでも取り上げようとする可能性すらある。
皇太子は行方不明で、最重要容疑者であるリォーもまた失踪中。王宮に発見の報を届ける前の今であれば、どんな情報操作もネストルの思いのままだ。リォーの死の偽装など朝飯前だろう。そう動かれれば、こちらに交渉の余地はない。
レイは静かにリォーの斜め後ろに回りながら、逡巡の末、口の中で風の神への枕詞を唱えた。ヴァルもその足元でいつでも飛びかかれるように身を低め、ハルウですらその締まりのない目尻を険しく尖らせている。
それらの前で、リォーは大仰に肩を竦めてみせた。
「仕方ありません。俺は、兄上を殺した容疑者だそうですから」
「なんと。それは初耳です。心当たりでも?」
「まさか。誰かが嫌疑を誘導したとしか思えません」
そう答えるリォーは、すぐ周囲で燃え続ける火の壁などまるでないかのように笑んでいた。蒼天の髪にも藍晶石の瞳にも炎の赤が映り込み、その完璧な美貌と笑みと相まって、目を惹く凄味がある。
その外套に山角羊の返り血が付着していなければ、ここを舞踏会場とでも勘違いしそうな穏やかさだ。
「そうだ」
と、リォーが貴婦人をダンスに誘うような微笑で続ける。
「ネストル伯爵が俺の無実を証明してくれませんか? そうすれば、大手を振って帰るんですが」
「えぇ、勿論、そのつもりでした。あなたがお逃げになる、前であれば」
「…………」
にっこりと、ネストルが少しも温かみのない笑みで断言する。それは、リォー自身の行動が自分の首を絞めたのだと、己の失態だと突き付けるも同然であった。
しかしそうしなかった場合の末路など、レイにだって分かる。
「でも逃げなければ、リ……皇子を捕まえていたでしょ?」
あまりの理不尽に、レイは思わず口を開いていた。
ネストルが第二皇子の即位を望むなら、リォーの存在が疎ましいのは変えようがない。
たとえばリォーがどんな意図であれ泣きついたとして、それを嘘をついているとか、無実を証明できないとか、情けないと言って拒絶することが、この男には簡単に出来る。
「逃げるしかないと知ってるくせにそんなことを言うのは、ただの意地悪だよ」
それは、権謀術数渦巻く宮廷で生き抜いてきた貴族に言うにはあまりに子供じみた理屈だったろう。だが聖砦で権力闘争など知らずに生きてきたレイにとって、分かりきった嘘をつく大人の考えなど分かるものではなかった。
「……お前……いや、まさか」
リォーに向けていた視線を僅かにずらしたネストルが、レイの容貌を見て一瞬瞠目する。
ボロボロの外套の下に見えるのは、決して上等ではない亜麻の上下に、袖のないチュニック。少女らしからぬ服を着るレイの姿は、どう見ても貴族には見えない。腰から下には動きやすさを重視してスリットがあるし、もう少し背が低ければ農村の少年だとは、ヴァルの感想である。
だがその上を流れる髪は、くすんだ麦穂色。そしてその瞳は、吸い込まれそうな橄欖石の翠色。リォーと共に姿を消した者の名を知るならば、導き出すのは容易であった。
「プレブラント聖国第二王女、レイフィール様……?」
名前を呼ばれ、レイはそこでやっと自分の失敗に気付いた。
(しまった。もしかして、まだバレてなかったのかも……?)
フェルゼリォンに接触したことを理由に捜索の対象になっているとはいえ、共に逃亡しているとまでは見られていなかったのかもしれない。
だがレイが余計な義憤を出したせいで、たった今、存在に気付かれた。
「……バカ」
「ぅっ」
足下で警戒態勢を崩さぬまま、ヴァルがぼそりと呟く。ぐさっと胸に刺さる。
一方、ネストルは何かを合点したかのように顎髭を撫でた。
「同行している神法士とは、あなたのことでしたか」
「?」
何のことかさっぱりであった。
帝都に入る時にこそ神法士としての検査は受けたが、レテ宮殿ではそのことを明かしてはいない。そもそも、レイは聖国でも正式な神法士の資格は受けていない。名乗ったことも一度もなかった。
「私は神法士じゃないし、別に同行もしてないけど」
リォーといるのは王証を返してもらうためだけだ。だがその事情は言えない。
言えないでいる間に、ネストルは勝手に解釈を進めていく。
「アドラーティ殿下と最後にお会いしたフェルゼリォン殿下が、直後にお会いしたのがあなたとか」
「そ! それは、だからただのぐうぜ」
「青い髪に美しい女顔がお目に留まりましたか」
「ん……はあ?」
字面だけ聞けば十分怪しい文脈に動揺したレイはけれど、続いた言葉に素っ頓狂な声を上げていた。
(顔が……何だって?)
フッと口元を笑みに歪めたネストルを見ながら、言葉の意味を考える。
レイがリォーに会ったのは、舞踏会を抜け出した後だった。その理由が顔というのはつまり、顔が気に入ったから追いかけたのではないかということで。
「ちょ!? 全然違うから!」
全力で否定していた。
まさかこんな所で、レイがリォーに一目惚れしたなどと誤解されてはたまらない。リッテラートゥスのような絵に描いたような貴公子ならともかく、下町も魔獣の巣窟も関係なくうろつくような変人など、御免こうむる。
「こんな男女、こっちから願い下げよ!」
「誰が男女だ!」
すかさずくわりと吠えられた。怒鳴っても、やはり綺麗なものは綺麗である。
一方のネストルはというと、リォーにときめかない女がいると知ってかどうか、嬉しそうに変なものを勧めてきた。
「そんな女々しい顔よりも、リッテラートゥスの方が男らしくて好ましいですよ」
「えっ? う、うーん……。確かに、自分より美人な夫よりは、まだ男性らしい分」
「いい加減にしろよお前ら!」
リォーの堪忍袋の緒が切れた。ネストルとの会話で発揮された冷静さは、どうやらここでは使われないらしい。
「人の顔を女顔だ女々しいと……下らない話をするだけだったら帰れ!」
眉を吊り上げ、レイとネストルを交互に指さして怒鳴る。
その後ろで、ヴァルとハルウはすっかり呆れていた。
「見事に乗せられてどうする」
「劣等感すごいねぇ」
「あ、そういう作戦?」
二人の言葉に、レイはまさか心理戦を仕掛けられていたのかと驚く。
その視線をにやりと受けて、ネストルは続けて不可解なことを口にした。
「ご存知ですか? 聖国の王女は今朝、正式にレテ宮殿を出たことになっているのです」
「……何だと?」
そこでやっとリォーが冷静さを取り戻して目を細める。
レイは、リォーと一緒にレテ宮殿を不正に脱出した。そんな記録は残るはずがない。
だがその後ろでは、ヴァルがにこにこし続けるハルウを紅い瞳で睨んでいた。
「あんたはまた……」
「えー? だってあの時は、ああすれば追われる理由がなくなるかなぁと思って」
「え、なに、どういうこと?」
一人分かっていないレイだけが首を捻る。
だが事態はそんな簡単な話ではなかった。
「これでウルビスの通過記録があれば、王女殿下がどこで消えようと、我が国は無関係ということです」
「!」
ネストルが続けた言葉に、レイはようやくその意図を理解した。
(つまり、私のこともいつでも消せるってこと?)
それは、ぞっとしない想像であった。
今ネストルに捕まれば、レイを葬ることも、人質として未来の皇太子となるリッテラートゥスの妃とすることも出来るということだ。
プレブラント聖国と女王陛下が、第二王女を見捨てないかどうかは別として。
(……そんなことは、絶対できない)
知らず震え始めた手で、胸元の首飾りを握る。
レイは母のために王証を探しに来たのだ。こんな所で、母に迷惑をかけるなどあってはならない。
(聖大母ユノーシェルよ……)
無意識に祈っていた。
肌を炙る周りの火がことさらに熱くて、それなのに顔はどんどん蒼褪めていく。
そんなレイの様子をつぶさに見たネストルが、益々満足そうに口元を歪めた。
「まぁ、もしお荷物の王女を処分できるとなれば、詮議されるどころか感謝されるかもしれませんがね」
「……ッ」
「だってそうでしょう? 隣国に赴くのに上等な馬車も十分な護衛もないなど、有事には見捨てると言っているようなものですよ」
ネストルの吊り上がった狐目に、隠す気のない嘲りの色が浮かぶ。
それは公式行事に参列するために聖都に赴く数少ない機会に必ず浴びる視線と、全く同質だった。
だから、違うとは言えなかった。
祖母はヴァルに十分な信頼を寄せているし、事は秘密裏に成さなければならないことなんだとは。
(やめて)
『あれが、死にぞこないの第二王女か』
『聖砦から出て、危険ではないのか?』
『見ろ。本当に目が緑だぞ』
『ユノーシェルの血筋に現れる緑眼は、不実の証しというのは本当なのか?』
ひそひそと、顔も出自も知らない貴族たちが人の壁の向こうからレイを指さす。根拠もないただの噂で、下卑た好奇心で、レイの稚い心を踏み荒らすのだ。
『知っているか? 本当は双子の両方とも、赤子の時に死んでいたって話』
『ならば、あそこにいるのは偽物なのか?』
『だって似てないだろ、全然』
『緑眼だからそういう話にしたのかもしれないぞ』
くすくすと、悪意にも満たない勝手な憶測が常にレイの周りを飛び交っていた。紛い物など要らないのにと。姉と妹がいれば十分だと。
そんな声が四方八方から強制的に聞こえるというのに、レイは耳を防ぐこともできず、笑みを保ち続けるしかなかった。
レイは、王女だから。衆目の前で怯える子供のような無様は晒せないから。
けれど。
(いやだ……!)
聖砦に帰ると、いつも独り隠れて泣いていた。祖母にも、誰にも知られぬように。
だって、どれも真実だったから。
「……下種だな」
ヴァルが、低く唸り声を上げながら吐き捨てた。
「僕、そろそろ限界なんだけど」
ハルウが、凍えた声で応じる。
「交渉決裂だな」
リォーもまた、鞘に納めていた剣を再び抜き放っていた。
だがその切っ先を見つめても、男の笑みは変わらなかった。
「いえいえ。交渉はこれからです」
「なに?」
「殿下が持ち帰った物を渡してください。そうすれば、殿下を保護することができます」
その言葉に、その場にいた全員に緊張が走った。
リォーが持ち帰った物。
旅から帰ってくるのだから様々あるだろうが、こんな時に言われる物となると、一つしか思い当らない。それがカマかけでないとも限らないが。
焦りが顔に出たのはレイだけで、リォーはゆっくりと間合いをはかる。
「……渡さなければ?」
「伝説など、幾らでも作れます」
その言葉が合図であった。
待機していた帝国軍の六人が一斉に動き出す。左右の四人が剣を構え、背後の二人は無手――神法士だ。
まず前に出た剣士二人が、リォーに両側から斬りかかった。リォーは左の一人を横に跳んで避け、右の一人の刃を剣で受け止める。
それを見ながら、レイも後退しつつ風の盾を作る。
「希うは一陣の風巻、全てを阻め、鉄壁の風盾――ッ!?」
詠み終える――寸前、衝撃がレイの体を後方に吹き飛ばした。
背後の神法士からの攻撃だと、岩の上に転がりながら理解する。完成間近だった風盾のお陰で、辛うじて衝撃を受けるだけで済んだらしい。
だがそこから顔を上げる僅かな間にも、火の矢や氷の矢が次々とレイたちに襲い掛かる。リォーがうちの一つを剣で弾き、陽動に回ったヴァルが軽やかに跳躍して避ける。
レイは心配して駆け寄ってきたハルウを背に回し、もう一度風盾の神言を詠み上げ直そうと口を開く。
その時だった。
ずじゃじゃァァ……!
「なっ?」
「何だこれは!?」
足元の岩が、砂礫と化して周囲の火の上になだれ落ちた。
レイは慌てて後ろに飛び退き、リォーも風靴で大きく背後に跳躍する。
だがその目の前で、崩れた岩場の中央に立っていたネストルたちが全員砂礫に巻き込まれて流された。
「……ど、どういうこと?」
「失敗、したのか?」
完全に岩の下に落下したネストルを確認して、リォーと視線を合わせる。岩の下で待機していた兵士たちの攻撃支援かと思ったのだが、肝心のネストルが落下したのでは目的が分からない。
首を捻る二人の前で、その答えはすぐにもたらされた。
「はー、疲れた。山歩きするなどとは聞いてないぞ」
「クラスペダに山岳地帯とついているのですから、山があるのは当然かと」
その崩れた足場をのこのこと歩いて上がってきたのは、二人の男だった。うちの一人はやはり軍服を着てはいたが、ひょろりとした痩躯にはちぐはぐで、随分場違いに見える。
(うそ、まさか……)
こんな魔獣だらけの山中にはあまりに似つかわしくない人物の登場に、レイが口を開け、リォーもまた驚きの声を上げる。
「リッテ兄上」
リォーの言葉に、やはり間違いではないと、従者を一人だけ連れて現れた男を見る。ヘレン令妃と同じ見事な黒髪に、切れ長の目尻。その中に納まる瞳は、薄いながら帝室を示す青。
(なんで、王子さまがこんな所にまで来るの?)
本物の王子こと第二皇子リッテラートゥスが、そこにいた。




