第23話 会敵
聖砦で、目下の目標は制御だと神法の教師に言われ続けて早九年。
共に行動をしてまだ半日も経たない男からも同じことを言われ、レイは流石に考えこんだ。
(やり過ぎ、かな? でも……)
被害はちょっと地面がぬかるんで、草がなぎ倒された程度だ。水は空気中の水分を集めただけだし、流れたものは下方で再び大気や地面に戻る。生態系は変えていない。
(うん、大丈夫!)
レイは周囲を見渡して自己完結した。
「行くぞ」
「ちょっ、待ってよ!」
見れば泥濘を越えて、早くも旧道に戻っている。レイも慌てて追いかけた。
先程の兵士は、水で僅かに押し流されただけだ。ぼうっとしていたらすぐに戻ってきてしまう。
再び細い荒れ道を駆け上がり、木に身を隠しながら先を進む。だがすぐにリォーに止められた。
「いる」
幹の一つに身を寄せるリォーに倣い、視線の先を見る。レイには見付けられなかったが、何かの気配があることだけは感じられた。
魔獣か、帝国軍か。
「この先にも捜索隊は来てるようだね」
足元でヴァルが言った。どうやら、既に麓を先回りして山狩りを始めているらしい。
(北門であれだけやったんだし、仕方ないか)
森だけをいつまでも捜索してもらえるほど、帝国軍も無能ではない。
「どうするの?」
「道を外れる」
即答したリォーに、レイはぎょっと目を剥く。穴狗狗こそどうにかまけたが、山角羊の警告もある。
「それ、大丈夫なの?」
「人間よりはましだろ」
言うが早いか、リォーは左手に広がる斜面に足を踏み出した。
だが確かに悩んでいる時間はない。今もリォーの気配を追跡しているのなら、最も必要なのは速さだ。
レイはリォーの後に続いて、うねるように張り出した太い根を踏みつけた。低い枝を握って急斜面を一息に昇り、あちこちに転がる岩を跨いでどんどん道から外れていく。
無数の靴に踏みならされて滑らかになった市街の石畳とは違い、ここに転がる石はごつごつと尖り、靴が良く引っかかる。
「止まりな」
後でちゃんと道に戻れるのだろうかと考えていたところに、ヴァルの制止が入った。木々が細くまばらになり、背丈を軽く越える岩肌が目立ち始めた辺りだ。
「この先、魔獣の巣がある」
「……仕方ねぇ。北に進むぞ」
リォーが、ヴァルの言葉に従って進行方向を変える。その背を、レイは奇妙な感慨で見上げた。
(あんなに扱き下ろされてたのに)
いつの間にか、一番最初に信頼を得たようだ。不思議なものだと思いながら、レイも後に続く。
その目の前で、木が燃えた。
「はっ!?」
驚くレイの腕を、真後ろにいたハルウが強引に引っ張った。たたらを踏むレイと入れ替わるようにして、リォーがすかさず剣を抜き放つ。
その間にも矢を象った火の塊は次々と放たれ、周囲の木々を焼き払っていく。
レイも体勢を立て直して短剣を構えながら、同時に風の枕詞を唱えた。
「どっち!?」
「帝国軍に決まってんだろ!」
叫びながら、リォーが火の矢と反対に駆けだす。それを追いかけて、けれどすぐにその足は止まった。
「山角羊……!」
立ちはだかる岩肌の上に、山羊の頭に雄牛の角と体を持つ三つ目の魔獣が二頭、レイたちを見下ろしていた。
《荒ラシタナ……》
《踏ミ潰セ……》
くぐもったようなひび割れた声が、唸り声とともに降る。
そして背後の木々の向こうからも、その声を掻き消すような大音声が響いた。
「目標を発見!」
複数の呼応の声とともに、地鳴りのような靴音が続く。それが地続きの足の裏から如実に伝わり、レイはいよいよ蒼褪めた。
「ど、どうす……」
「こっちだ!」
叫ぶリォーが向かったのは、山角羊が立つ岩の脇だった。岩と岩の間には痩せた木々が続き、その間に辛うじて通れる苔むした急坂が、岩肌の上へと続いている。
だがリォーがそこに近付くごとに、山角羊の目はどんどん敵意を剥き出しにしていく。岩の下からでも、その短い体毛がさわさわと揺れているのが見えた。風で威嚇しているのだ。
しかし、斜面の下からは既に幾つもの人の陰が見えだしている。うち複数は弓矢を構えている。登るしかない。
「レイ、走れ!」
「分かってる!」
ヴァルの怒声に追い立てられるようにして駆け出す。リォーに続きながら、レイは風の盾を祈った。
「希うは一陣の風巻、全てを――っ!」
だが神言は最後まで唱えられなかった。背後に迫った火の矢と山角羊が起こした風がレイの前で絡まって、力が反発して爆風を起こしたのだ。
眼前で巻き起こった熱風に外套が巻き込まれて足が浮き上がり、レイの矮躯を岩肌に叩きつける。
「っあぁ!」
「レイ!」
真っ先にハルウが手を伸ばした。地面に落ちる寸前で少女の体を受け止める。
「レイ、平気?」
「……ん、へいき……っ」
耳元で囁く声に、レイは詰めていた息を吐き出してなんとか答える。背骨を打ったようで、肩から指の先まで痺れていた。
ハルウの腕に縋ってどうにか立ち上がりながら、レイは岩の上を這うように走る細い根に手をかけた。先を行くリォーを追いかける。
「…………」
その背を、ハルウが緑眼を険しく細めて凝視していた。呼応するように、左腕の腕輪に嵌った同色の宝石が輝きを増す。
そして首だけで反対側を振り向くと、火の矢と普通の矢が容赦なく襲い来る先に向かってその左腕を持ち上げた。
「ハルウ、止めな!」
その寸前、レイのすぐ後ろにいたヴァルが鋭く制止した。紅玉の瞳を煌めかせて睨む。それを短く一瞥したあと、
「っとっと」
ハルウはたたらを踏みながら後ろに飛び退いた。その足元に矢が突き立つ。続けて外れた火矢が岩に焦げを作り、巻き付いた枯れ根を焼いた。
やっと急坂を登り切り、山角羊がいたのとは反対の岩の上からそれを見たレイは、血相を変えて叫んだ。ハルウは武器も防具もなければ、戦う術もない。
「ハルウ、大丈夫!?」
「うん。平気だよ」
だが返る声は、いつもと変わらず飄々と明るかった。レイに手を振って応え、ハルウも慌てたように根に手をかける。がそのすぐ近くで、バリッと生木を裂く音が上がった。一番太い根の真ん中に、氷柱のような氷の矢が突き刺さっていた。
「げ。酷いや、僕が王族じゃないからって」
「無駄口叩いてると置いてくよ」
一歩足をかける位置が横にずれていたら致命傷だったというのに、ハルウがいつもの調子で嘆く。その前で、ヴァルがぴょんぴょんと岩の隙間に爪を掛けて急な斜面を駆け上がていた。
「もう既に置いていっているよね?」
「さてね」
そんなハルウたちを待つ間、レイは山角羊を警戒しつつも、改めて周囲を見渡した。
この先はこれまでの草木の多い山道と違い、幾つもの岩が噛み合うようにして険しい斜面が続いている。木は更にやせ細り、岩に股がり、ぐねぐねと奇妙に曲がっている。
だがその分遮るものが減り、視界は広い。一部の木々は膝下になり、遠くまでよく見えた。
(青空が広い)
何だか久しぶりに空を見た気がする。だがその感慨も長くは続かない。
「周囲の木を燃やして退路を塞げ! 隙間は土壁で埋めろ! 一人も逃すな!」
岩の下からの下知に、レイは思わず声を上げた。
「燃やすって、これ以上そんなことしたら……!」
確実に魔獣が怒りだす。そうなればこの山を下りることは絶望的だ。
レイは咄嗟に水の神へ枕詞を捧げる。
だがその先は続かなかった。
《約束ヲ破ッタナ!》
「ッ!」
高らかな蹄と風を切る音が、嗄れた怒号と共に頭上から降ってきた。山角羊だ。纏う風が、旋風のように周囲の枝葉を切り刻んで迫ってくる。
「こ、希うは始源の天水――!」
上擦った声で雨幕の神言を続ける。だが双方がぶつかる前に、レイめがけて幾つもの矢が襲いかかった。
「ッ」
短剣を握る手が汗で滑る。迫る風切り音に体が硬直して動かない。
そこに、一瞬速く飛びかかる影があった。
「レイ!」
「バカ!」
先に登り終わっていたヴァルが、動けないレイの胸に体当たりしたのだ。倒れかけたその体を、引き返してきたリォーが更に引き寄せる。
二人して尻もちをついていた。と、やにわに怒鳴られた。
「弓の前で無防備に立つ奴があるか!」
「でも、火を放つって……!」
「もう手遅れだ」
言われて、リォーの視線を追う。
岩の下――今まで逃げてきた道が、既に半分以上火の海に飲まれ始めていた。
取り囲む範囲の外側は木々や枝を伐採しそれ以上の延焼を防いでいるようだが、酷い光景に違いはなかった。麓に比べて木々がまばらな分燃える速度は遅いようだが、それも時間の問題だ。
「ついでに、この先はもう崖だ」
「うそ!?」
レイを置いてとっとと先に進んでいると思ったから、道の先を見に行っていたらしい。その言い方からすると、神法でも飛び越えられない幅なのかもしれない。
麓からここまで、道を外れた後は一心不乱に登ってきた。その先にある幅広の崖となると、落ちれば即死だろうか。
「進むなら、山角羊を蹴散らすしかない」
その言葉を証明するように、岩の下の木がどんどん燃え広がっていく。退路はほぼ消えていた。
(風で煽ってるんだ)
神法士の数が多ければ、複合技はより素早く、容易になる。目で追う間に火はあっという間にぐるりを取り囲み、水の神法ではとても鎮火出来ない程の規模に広がっていた。
(熱い)
徐々に伸び上がってくる炎に、肌がヒリヒリする。その腕を、ハルウに取られた。リォーの腕の中から抜けて、中腰の姿勢をとる。
「大丈夫?」
「うん。ハルウも、怪我はない?」
「ある。擦り傷がいっぱい。痛いよぉ」
平気と安心させるどころか、泣き言と共に抱きつかれた。意外に余裕があるのかもしれない。
だが安堵は出来そうもなかった。ハルウの肩越しに、レイは見てしまった。うちの一頭の山角羊が、風に乗って大きく跳躍するのを。
「! 危ない!」
ハルウの長躯を両手で突き飛ばすのと、パカラッと高らかな蹄の音が鳴るのとは同時だった。山角羊の影が頭上を覆い、レイも必死にそこから走る。逃げられた――と思ったその左肩に、鋭い痛みが走った。
「ったぁッ」
「レイ!」
弾かれたように岩の上を転がる。その背後で、山角羊がこちらの岩場に着地する音が上がる。しかしその姿は遠い。ぶつかる距離ではなかったはずだ。それなのに。
(まさか、風が掠っただけで?)
裂けた外套の上にじわりと血が滲む。角でも蹄でも、風を纏わせた部分は触れなくても切り刻まれるらしい。
(そんなの本には書いてなかった!)
聖砦の教師に胸中で泣訴する。
その目の前で、山角羊に向かって走る影があった。リォーだ。
山角羊が口を歪ませてリォーを迎え撃つ。
《嘘吐キメ!》
「それは謝る。だが今は」
突進してくる山角羊に、リォーも正面から突っ込む。風を纏わせた雄牛の角が、リォーの腹を狙う。対するリォーの長剣は、馬鹿正直にその角に狙いを定めていた。
「ダメ! 角にも風が――!」
レイの警告も空しく、角の先が剣に触れる。小さな旋風が渦を巻き、白刃を飲み込み、
「退いてくれ!」
その風ごと、リォーは右の角を真ん中から斬り落とした。その衝撃で灰色の体躯が横に吹き飛び、ズザザッと岩の上を滑る。
「な、何で!?」
ただの剣で、神法と同質の力に対抗できるはずがない。だがリォーの剣は、当たり前のように風までもを斬り捨てた。
しかしその疑問を処理する暇はなかった。
雄牛の四肢がバタバタと宙を掻く間に、残っていたもう一頭の山角羊がひび割れるような雄叫びを上げたのだ。
涎を飛び散らせ、興奮した闘牛のように猛烈に岩肌を蹴り付ける。
(挟まれた……!)
リォーが、今度は岩上に残った山角羊に剣を構える。しかしその背後では、角を斬られたもう一頭がどどうっと起き上がっていた。
「リォー、後ろ!」
「分かってる! 下がってろ!」
そう言われて素直に従えるわけもない。レイは膝立ちの姿勢のまま火の枕詞を唱える。
致し方なかったにしろ約束を一方的に破った上に攻撃することにはまだ躊躇いがあったが、足止めや回避の加減が出来ないなら、腹を括るしかない。
しかし枕詞が終わらないうちに、視界をヒュンと何かが横切った。
また帝国軍の攻撃かと身を低くするが、それはレイとは離れた所でグサッと命中の音を上げた。続けてドウッと重たいものが倒れるような音が響く。
「え?」
見れば立ち上がったばかりの山角羊が、横様に倒れていた。その丸い腹からは、見覚えのある矢羽根が生えている。
「まさか……!?」
帝国軍が放ったのかと、矢の飛んできた方を驚いて振り返る。だがそこにいたのは、
「やった。当たっちゃった」
振りかぶった格好で止まっていたハルウだった。いつの間にやら、帝国軍が放った矢を拾っていたらしい。
「うそ……」
呆然とする間にも、ズズッと肉を裂くような鈍い音が耳に届く。ハッと振り返ると、リォーが飛びかかってきたもう一頭の首を見事に切り落としたところであった。
鮮血が、ごとりと落ちた首の後を追って凝灰岩の岩肌に広がっていく。
「約束を守れなかったこと、済まなかった」
二つに分かれた肉体を見下ろして、リォーが口の中で謝罪と祈りを述べる。
それから、まだとくとくと血を流す獣の胴体を、岩の下――燃え盛る火中へと蹴り落とした。
「ちょっ!?」
「っぅわああ!」
魔獣とはいえ死者に鞭打つ行為に非難の声を上げようとしたレイの声は、下から上がった野太い悲鳴に掻き消された。どうやら、レイたち同様岩の間の急坂を登ろうとしていた兵士にぶつかったらしい。
「蛮族みたいだねぇ」
呆気にとられるレイに代わり、ハルウが感心した声を上げる。
だがそれも束の間だ。
「行くぞ」
とっとと血溜まりを跨ぎ越して、リォーがレイたちを一瞥する。確かに、唯一の進路の障害は取り除かれた。
レイはどうにか気持ちを切り替えて、慌ててその後を追いかける。
「……ッ」
駆け出した瞬間左肩がじくじくと痛んだが、今は無視した。
右側と背後は火の海、左側は岩壁が途中で途切れ、道がない。目の前の急斜面も道は狭く、木々がまばらに広がり見通しも悪かったが、進める道となるとそこしかない。おそらくこの先に、山角羊の巣があるのだろう。初夏という時期を考えれば、もしかしたら生まれたばかりの仔でもいたのかもしれない。でなければ、こんな人間種同士の争いに、山角羊がむきになって首を突っ込む理由がない。
(ごめんね)
クラスペダ山岳地帯の魔獣は、比較的大人しい。それをここまで怒らせたのは、レイたちが土足で縄張りに入り込んだからだ。相手が魔獣とはいえ、彼らの事情を考えれば申し訳なさしかなかった。
できればこの後も彼らの住処をできるだけ荒らしたくないのだが、レイたちにはこの道以外に進める場所はない。崖下の鬱蒼とした緑は絨毯のように綺麗だが、落ちれば死ぬ。
(神法でも飛べるけど、三人もくっついてちゃ……)
レイの技量では落ちるだけである。
レイは自分の力不足に落ち込みながら、先を行くリォーに続いた。目の前の岩肌の出っ張りに足をかけ、身を低くしたまま進む。だがそこで、レイは気付いた。
視界が高くなったことで、ほぼ全面を塞いでいたはずの火の壁に、切れ目があることに。そしてそこには、明らかに人工的と思える不自然な土の階段が出来ていた。
そして。
「お待たせいたしました」
何人もの軍人に囲まれながら、見覚えのある男が階段を上ってきた。




