第18話 発見、追跡、逃走
南北の城門を繋ぐクビクルム通りは、常に人や荷馬で賑わっていた。
開門直後から昼前までは、特に朝市に向かう人波がひっきりなしに続き、下町はみるみる活気に溢れていく。
荷鞍を付けた驢馬から、村で採れた野菜や卵、乳製品を下ろす人々。露店を開き始める主人。上下に分かれた鎧戸の下の板に、作り溜めた工芸品を並べる職人。
工房の親方が動き出せば、まだまだ子供のような徒弟が水汲みや使いっ走りに出かけ、井戸の周りでは主婦たちが小鳥よりも高らかに囀り合っている。
一段下がったところにある水路でも、洗濯を始める女たちが賑やかに手を動かし、反対の橋の下では暇そうな老人がぼーっと通りを眺める姿もあった。
(こういう所は、エフティヒアと変わらないかも。規模は全然違うけど)
勿論、プレブラント聖国は中立を掲げているから、鍛冶屋はあっても武具屋はここまで多くないし、他にも色々違いはある。それでも、彼らの送る日常の中では国も思想もさほどの変わりもないようで、レイは不思議な感慨と小さな喜びを感じていた。
城門が近付くにつれ無意識に緊張が高まっていたが、僅かながらほぐれた気がする。
レイは改めて外套のフードを深くかぶり直すと、前を行くハルウとリォーの背を追いかけた。流れてくる人通りを避けてどうにか進めば、ついに城門の入口上部に掲げられた神像が見えた。
四極が一人、北を守護する男神ヴォラスが、風に踊る領巾を巻きつけた両手を頭上に突き出し、天を支える格好をしている。
四極の神々は時間と空間の神の子供で、神々の中では最も巨大な体を持つとある。だが人類が誕生するきっかけとなった四季との争いで世界の四隅に追いやられて以来、天を支え、無を退ける役目を担わされ、以降神話には登場しない。
肉の体を持たない四情よりもある意味で存在感の薄い神々なのだが、使命を放棄することもなく、黙々と役目をこなす彼らは謹厳実直の象徴であり、門の装飾以外にも、願掛けの御守りなどに好んで用いられる。
(四極の神々よ。人々の祖が一柱よ。この旅の目的が弛まなく果たされるまで、ひたすらこの道を歩みます)
自然、左手で首飾りを握り、右手でそれを包む略式の祈りを捧げていた。
次に顔を上げれば、目の前にいたはずの人垣が先に進み、北門の全容が視界に収まる。
両側に円柱型の城壁塔を備えた城門は、見る者を圧倒する威容を備えて目の前に立ちふさがっていた。
外側に広がる濠代わりの水路の上には跳ね橋がかかり、その上には杭を並べた落とし格子が不埒な侵入者を待ち構えている。
(東門は新しくて豪華な感じだったけど、こっちは古くて無骨という感じね)
東の方が港が近く出入りが多いためだろう。その違いは、少なからず門衛の勤務態度にも現れていた。
「次」
城外から橋を渡って入ってくる者たちを、おざなりに確認しては送り出す。顔見知りも多いのだろう。毎朝数時間続く流れ作業。
だが反対側は違った。
「次」
ついにハルウが呼ばれる。
ハルウは左右色違いの目も深緑色の髪も隠さず、いつものへらへらした笑顔で門衛の前に歩み出た。通行手形の確認、次の行き先と目的の聴取、荷物と身体検査。淡々としながらも門衛の動きは緊張をはらみ、その顔は強張っている。
しかしそんなことは意に介さず、ハルウは毒気の抜けるような声で話しかけた。
「なんだか物々しいなぁ。何かあったんですか?」
「知らなくていい」
「ハァ。仕事増やされて大変ですねぇ」
「全くだ。関係ない所で騒がれて、責任だけがこっちに来るなんて」
「おい。口を慎め」
ハルウの体を触って確認を続ける門衛を、もう一人の年嵩の門衛が遮って止める。だがそれ以上のお咎めはなかった。朝からこんなやり取りばかりで、お互い鬱憤が堪り始めているのだろう。
「これは何だ」
「剣です。中古ですが、立派でしょう。思ったよりも儲けが出たので、弟に土産です」
荷物と一緒に、布で包んでおいた長剣を見せながら答える。
「目の色が左右で違うのは何だ」
「左目を病気で失明して、これは義眼なんですよ」
身体検査とは関係のない質問だったが、ハルウは気にした様子もなくにっこりと笑う。
レイも子供の頃に気になって聞いたことがあったが、その時もハルウは屈託がなかった。左目は見えないというが、彼が不自由そうにしたところは見たことがない。もう慣れたと、やはりハルウは笑っていた。
その後、沈黙が下りたが、ハルウが通行税とは別に銅貨を数枚渡すと、すぐに「行け」と許可が下りた。
「次」
(来た)
呼び声に、レイの緊張が否応にも高まる。だが対するリォーの背にそんな様子は微塵もなかった。女性らしい仕草でゆっくりと歩み出る。レイも慌てて後を追う。
と、突然リォーに右手を掴まれた。
「っ?」
驚いて見上げるが、事前に一言も口を利くなと言われていたので、レイはどうにか声を飲み込む。一方のリォーは、門衛二人を見上げると「ふふ」と優しく微笑んだ。
「妹は今回初めて一緒に来たので。入った時よりも門衛さんが怖いお顔なので、驚いているみたいです」
貴族よりも商家の娘のようなその口調は、少し掠れて低くはあるものの、十分女性らしかった。喋り方だろうか。
「姉妹で荷下ろしか? 大変だな」
「えぇ。でも妹は働き者ですから」
レテ宮殿でも一度も見せたことのない爽やかな笑顔で、リォーが門衛の言葉に応じる。それを皮切りに、ハルウの時と同様の問答は順調に進んだ。
荷物の確認に身体検査。女二人旅だからと、念のため男装しているとも告げた。外套のフードをはがされた時が最も緊張したが。
「……あまり似ていないな」
「えぇ。髪色だけなの」
びくつくレイを優しく抱き寄せて、リォーが頷く。レイは赤面しないようにするので必死であった。
(何でなんかいい匂いするのよ!?)
髪粉の匂いである。レイの麦穂の髪も、リォーが買った髪粉によってリォーの付け髪と同じ茶色に染めていた。これでお尋ね者の容姿に合うものはない。
他にも、リォーの長剣はハルウに預けたし、長旅を思わせる保存食なども同様にした。
通行証はセレニエルが特注した要人用のものがあったが、今回はリォーの馴染みの店の紹介で偽造の通行証を二つ作った。市場利用者用の商会認可のあるものだ。料金は大いに足元を見られたが、穏便に通れるのであれば背に腹は代えられない。
「あんた、昨日北門を通ったか? こんな美人なら、忘れないんだが」
「一昨日ですよ。妹のために、観光も兼ねていたので。行きは……恥ずかしながら、乗せてもらった荷馬車で寝ちゃってたと思います。でも、妹は起きていたはずですよ」
「あぁ……」
ちらり、と門衛の視線を受けた。毎日の流れ作業の中では、リォーの目の覚めるような美貌ならともかく、こんな凡百な容姿は一々覚えていないとでも言いたげな眼差しであった。
(悪かったなあ!)
完全な被害妄想とも言えたが、レイは勝手に憤慨しておく。そして同時に、リォーの受け答えのそつのなさに舌を巻く思いであった。
(役者か、こいつ)
皇子のくせに幾つ特技があるのかと、いよいよ呆れてしまう。だが顔に出すのはまだ先だ。
果たして。
「……行って良し」
ついに門衛の許可が下りた。出そうになる息をどうにか飲み込んで、レイは再びフードを被る。
「次」
その声が背後で聞こえる頃には、二人は無事跳ね橋へと進み、帝都を囲む水路の上を渡っていた。
ハルウの姿は見えない。だが予定通りアーウェルサ街道を北上しているはずだ。と思っていると、帝都に入る列の足下を縫って、黒い影が駆け抜けた。ヴァルである。
(猫は便利だなぁ)
これで全員関門は突破である。
視線を上げれば、城壁に隠れて見えなかった森と街道とが目前に広がった。町特有の混ざり合った雑多な匂いが消え、代わりに水辺と木の幹の匂いが吹き抜ける風に舞う。
石畳の敷かれた街道は、北東に広がる森を避けて西に曲がっている。その向こうからも、疎らではあるがまだまだ人がやってきていた。
ちなみに、他の東西南の門と違って、北にだけは城外区の居住区や農村はほぼない。完全に森の中にあることと、クラスペダ山岳があるためだ。
「……もう安全?」
手を繋いだままのリォーに、小声で聞く。
「あの角を曲がったらだな」
どうやら、まだ握った手は離さないらしい。むずむずした居心地の悪さを我慢しながら、歩き続ける。
眩惑の神法の時は集中するのに必死だったから平気だったが、今は振り返ることもできないし、リォーの背中と手しか見るものがない。指先を包み込む手の大きさや、意外に硬い皮膚の質感が、どうしても自分の指を通して伝わってくる。
(いやもう三度目だし! 平気だし!)
意識しない意識しないと念じて、どうにか道の先に視線を移す。
街道は一旦城壁に沿って曲がり、そのあと森の中の整備された道を進んでいる。ハルウも、待っているとしたらその辺りだろう。
あともう少しと、ついに安堵の溜息を吐いた時だった。
「そこの二人、止まれ!」
「!?」
背後で鋭い制止の声がかかった。先程の門衛の声ではない。
瞬間、リォーがレイの手を強く引っ張った。
「走れ!」
「ええっ?」
つんのめるように走り出す。理由は、跳ね橋をガタラガタラッとけたたましく蹴りつける馬蹄の音で嫌でも分かった。
「気付かれた!?」
「知るか! だが神法士に追跡されれば、門くらいは簡単に特定されちまう」
神法の中でも、風の神に祈って対象者の行方を追う神言がある。特によく使っている品物が手元にあれば、その精度も上がる。
城内も城壁も神法を感知はするが、使えないわけではない。そして正統な手順を踏めば、術の外まで神法を届かせることは可能だ。
やっと正式に神法士に依頼したか、それとも応援で派遣された帝国軍に随行してきたか。
入城のために街道を歩いていた人々が、ざわつきながら道をあけていく。
「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」
増える馬蹄の音の中、制止の怒号が追ってくる。矢か神法か。
だが逃げ込むべき森の木々はまだまばらで、姿を晦ませるには心許ない。
「どうすんの!?」
「眩惑の神法は!」
「あれは集中しないと無理!」
「またそれか!」
リォーが呆れの大声を上げた時だった。
ヒュン! と鋭い風切り音が唸り、と同時にリォーが振り向きざま隠していた短剣を抜き放った。カンッ、と矢が地に落ちる。
そこからはもう容赦はなかった。
「多少の負傷は構わない! 行かせるな!」
先陣切って現れた班長らしき男が、馬上から下知するが早いか、その両側から更に二本の矢が二人に襲い掛かった。リォーがレイを乱暴に引き倒す。その合間に見えたのは騎馬四頭。だが、すぐに門衛もこれに加わるだろう。
それぞれ弓を手に持ち、腰には剣。うち二人は無手で、利き手をかざして二人を射程に捉えている。神法士だ。
神法は神言を敵に聞かせることも、肉体の動作も本来は不要だ。だが対象に干渉する類のものは手や指を向けることで指向性が向上し、命中率も威力も格段に上がる。
(攻撃か、捕獲か)
どちらにしろ、リォーの長剣もハルウに預けたまま。短剣一つで切り抜けられる場面ではない。形勢は圧倒的に不利だった。
(どうしたら……!)
逡巡するレイの耳に、リォーと、木々の間から駆け戻ってくるヴァルの声とが同時に飛んできた。
「止まるな、走れ!」
「レイ、加減するんだよ!」
正反対の声。その瞬間、覚悟が決まった。
冷や汗で湿った両手を力強く握り締める。
「地上に留まりし慈悲深き神々が一柱、火の神ピュール。その恩寵を賜りし眷属の精霊よ」
迫る騎馬隊と唸る矢に、今までにないほど枕詞が早口になる。
「希うは神鳴の火杭、全てを貫け――」
言い切る前に、レイの髪を滅茶苦茶に揺らすほどの突風が吹き荒れた。蒼天にはどこからともなく黒雲が押し寄せ、目に見えない風が手足を拘束しようと纏わりつく。だが構わず言い切った。
「雷獣の吼怒!」
刹那、蒼天が白く光り、一瞬で湧いた黒雲から稲妻が駆け下りた。
城壁と森に挟まれた街道のど真ん中――騎馬たちの眼前に直撃し、一拍遅れて地響きのような轟音が耳を劈く。と同時に、全てを薙ぎ払うような衝撃がごうっと四散した。
「きゃあ!」
レイの体が後ろに吹き飛ぶ。標的を除けば最も近くにいたせいだ。そして、自分の力の最大値を理解していなかったからでもある。
「レイ!」
呼び声はヴァル。けれど地面に叩きつけられそうだった体を受け止めたのはリォーだった。
「バッ……お前、何してんだ!」
「ご、ごめんっ。でも拘束神法だったから」
レイを背後から抱き留めた格好のまま怒鳴るリォーに、レイは必死で言い訳する。
弓矢と神法士の視線は、レイとリォーの両方を完全に捉えていた。しかも神法士は、迷うことなくレイたちを風で拘束しようと動き始めていた。それを押し返して強引に神法を発動するには、手加減などしている余裕はなかったのだ。
が、さすがにやり過ぎた気はする。
(咄嗟だったから、力加減が……)
あまり減じすぎて効果がなくても困る。そう思った結果だったのだが。
「この街道、しばらく封鎖かもな」
馬車二台が余裕ですれ違えるはずの道幅のほとんどに跨る大きさの穴が、もうもうと白煙と土煙を上げていた。整然と並べられた石畳は、見る影もない。
「ごめん……」
レイは肩身も狭く謝った。
煙の薄膜の向こうから響く怒号――指示を飛ばす班長の声や、驚く馬を宥める声に変わりはなさそうだから、死人などは出ていないはずだ。それでも街道に物理的被害が出れば、後々多方面に細々とした面倒が出るだろうことはレイにも分かる。
だが。
「いいから走れ」
「わっ」
問答に構わず腕を引っ張られた。縺れるように立って走り出す。
顔を上げれば、周囲はいつの間にか石畳から緑の木々へと変わっていた。吹き飛ばされた時に森の端まで転がされたようだ。
リォーはレイの手をぐんぐん引っ張って、行く手を塞ぐ木々を軽やかに躱して進んでいく。背後で「行かせるな!」という怒号や、矢が幹に突き立つ音が連続して上がるが、リォーは一顧だにしなかった。
そのうちヴァルも足元に合流し、視線の先にはハルウの姿も見える。
レイは覚悟を決めて、リォーの手を振り払った。
「放して」
「なっ」
「自分で走る」
一瞬瞠目したリォーに、気合いを入れ直してそう告げる。
リォーが、挑発するように口端を上げた。
「当たり前だ」
二人は横に並ぶと、森の奥へと競うように速度を上げた。




