第11話 空しい葛藤
「……ねぇ」
掛布に吐息を零しながら、レイはそっと呼びかけた。
「王証のこと、教えてよ」
今更、否、既に遅すぎるくらいだとは、重々承知していた。
王証とは何なのか。どのようにして始まり、どのような歴史を持つのか。
プレブラント聖国史を学ぶ中で当然一度は聞いたことのある内容ではあったが、深く追及されればレイは呆気なく言葉を詰まらせるだろう。
そもそも、これは祖母より頼まれた時点ですべき質問だった。
だからと言って、知らないままでいては、あの腹の立つ皇子に交渉も出来ない。
だが暫く待っても、声は返らなかった。寝てしまったのかと不安になった頃、ぱたり、と尻尾で布を叩く音が聞こえた。
「王証が双聖神の神気から出来ている、という話はしたね?」
「うん」
「そもそも正史では二人が天上に戻らず、人間の国の王として留まることを赦し、認めた証として、四双神から王証を授けられたとなっている。だが事実は、少し違う」
「え、そうなの?」
始まってすぐの否定に、レイは思わず寝台の中で体を浮かす。
プレブラント聖国の歴史を習う時、建国神話から始めるのが一般的だ。
大陸中の生命を脅かした魔王を倒した二柱。人々を憂え、地上に留まり王となった二人の下に、天上の神々の御手から二つの王証が下賜される場面は、吟遊詩人も画家もこぞって題材にするところである。
レイもそのように教えられた。
王証がただの宝物ではなく神気で出来ているということすら、今回の話をされた時に初めて聞いたのだ。
「二柱が人となると決めた時、天上からの御使い――天使の奴らがやってきて、二人の神気を根こそぎ奪った。その時に二人は神ではなくなり、病気にもかかるし寿命もある普通の人間になった」
天使と言えば、神仕と並んで英雄神と共に魔王討伐に参加したことで名が知れている。
だがヴァルが言うには、天使とは天上の仕組みを管理する制御機構そのものであり、人型を取っていても絡繰り人形に過ぎないという。
それぞれ主人と定めた神のために動く神仕と違い、奴らに恩情や深慮はない。神でなくなる者から神気を奪い、追い出すのは当然の処置でしかない。
「けれど四双神はその無情を憐れんで、神気に質量を与え、祝福と加護を与えて二人に戻したんだ」
このため、二人は生涯王証とは呼ばず、天授と呼んで大切にした。二人からすれば、生みの親からの形見であり餞別でもあったのだ。
「だから神弓にはユノーの気配が、天剣にはサトゥヌスの気配が残っている。あたいが分かる気配ってのは、そういうことだ」
「でも、お祖母様にも分かるなら、私にも分かりそうなものだけど」
条件が直系ならという単純な発想だったのだが、これにはいつもの「バカ」で返された。
「セレニエルは在位中ずっと接していたから分かるんだ。自分たちの血を辿るのと同じでも、知らないモノは辿りようがないだろ」
「あ、そっか」
レイは王証を見たことはあっても、間近に接したり、触れたこともない。気配を感じるなどということも、思えば一度もない。自明であった。
「それで、どうして半分になっちゃったの?」
「それは……」
核となる質問に至り、ヴァルが言葉を濁す。その沈黙の長さに、レイはひょっと掛布から顔だけを覗かせた。
つるつるのシーツの上で丸まった黒い体の中、耳と尻尾の白い毛並みだけが月明りを反射して鮮やかだ。
(これも、触れちゃいけない話題だったのかな)
そう、レイの意気地が萎えかけた頃、ぱたり、と再び尻尾がシーツを叩いた。
「詳しいことは、あたいも知らないんだ」
声調を一段落として、ヴァルは続けた。
「ユノーが天寿を全うする直前、フュエルに譲る話をしたのは聞いたんだ。四双神から形を頂いたから、死後も消えないはずだと言い添えて」
そしてその言葉の通り、神弓は残り、代々の女王に王の証として受け継がれた。
「だがユノーの死後すぐ、フュエルは神弓を持ち出して帝国に入った」
「えっ」
「恐らく父親――サトゥヌスに会いに行ったんだろうが……」
それは、歴史に照らし合わせると衝撃的な事実であった。
ユノーシェルの死後すぐということは、二代目女王であるフュエルが王位を退き、斎王として聖砦に入った頃ということになる。その翌年にはサトゥヌスも崩御し、後に冷酷王とも渾名されるサトゥヌスの嫡男サナーティオ王が即位、時を置かず聖国に第三次信仰戦争を仕掛けた年として記録に残っている。
そんな時期に、休戦協定があったとはいえ敵国に王族が単身乗り込むなど、見つかれば国益を損なうどころの話ではない。
だが、レイには政治的なことよりも気になることがあった。
「フュエル女王は、会えたの?」
子供の頃に離れ離れになった父に。
求めていた言葉に。
フュエルは会えたのだろうか。
「…………」
赤い耳環をつけた左耳をぴくりと動かし、ヴァルがのそりと顔を上げる。紅玉が双つ、薄闇に浮かび上がる。
『フュエルは生真面目で堅物で、融通が一切利かない奴だったな。それが美点でもあり欠点でもあったが。あいつの人間臭い所と言えば、父親を恋しがっているのを隠していたことくらいだろうな』
詰め込むだけ詰め込んだ授業のせいで頭が痛くなって森に逃げ込んだ時、偶然ユノーシェルの墓の前で出会ったヴァルが、気を紛らわすように話していた昔話のような雑談が蘇る。あの時は、目を細めて懐かしんでいたように見えたのだが。
「……さぁな」
果たして感情の読めない声とともに、紅玉は消えた。
「フュエルがその時に何をしたのかは、あたいは知らない。奴は戻ってきた後、斎王として黙然と聖砦に閉じこもっていた。次に王証を見たのは、フュエルが万死の床に臥した時だった」
「その時には、もう欠けてたの?」
「あぁ。ラフェナンシェルはそれを受けて複製を作成し、イリニス宮殿の宝蔵庫で保管することに決めた」
ラフェナンシェルは第三代女王で、帝国との和平を成立させた立役者でもある。平和を強く望んだという彼女であれば、王証の破損を隠匿しようとする意図も分からないではない。
「王証は、なんで欠けたんだと思う?」
「さぁね。ただ……王証を傷付けられるのは、唯一王証だけなんだよ」
「あ、だから帝国に行ったって……」
ユノーシェルの死後、姿を消したフュエル。その行く先や目的をヴァルが知っていたのは、そういうことだったのか。
であれば、先程のも答えを誤魔化したわけではないのかもしれない。
「第三皇子、どうして見付けられたと思う?」
レイはいくらか気持ちを慰めて、もう一つ気になっていたことを尋ねる。
ユノーシェルの王証を持ち帰った、サトゥヌスの先祖返り。法具を使うということは、神法は弱いか使えないのだろう。
探索の神法もなく、ユノーシェルの血筋ですらないあの男が、どうやって見つけ出したのか。
「ただの偶然だろ」
「えぇ?」
あんまりな答えが返ってきた。
ヴァルは猫と魔獣の単語には子供のように怒るし、背中を撫でようとすると脱兎のごとく逃げるが、それ以外は淡々としたものだ。本心なのか誤魔化そうとしているのか、いつも判然としない。
という自覚があったのかどうか。レイの不満足げな声に、ヴァルは言葉を足してくれた。
「ユノーとサトゥヌスは、魔王を倒すまでの道のりで大陸中のあちこちで魔獣や魔者――強人種を退治しては、その土地土地を浄化して回ってたからね。その時の借りを返そうとする連中の一人や二人はいても不思議じゃない」
「えっ、五百年前の話でしょ? 生きてないでしょ」
「人間種はな。他の五種族や魔獣なら、五百年くらいは平均寿命だ。長命種の血が入ってる奴なら更に長く生きる」
創世神話に登場する最初の十二人は、それぞれに一つの大きな特徴を持っていた。彼らは神々の指示のもとに番い、六つの種族の祖となったと記されている。
強い繁殖力を持つ代わりに短命な人間種。
長い生命力を有す代わりに醜い長命種。
美しい容姿を備える代わりに繁殖力の弱い麗姿種。
卓抜した知性を得た代わりに非力な賢才種。
最も善き心根を宿す代わりに愚かな善性種。
圧倒的な力の強さを誇る代わりに善良さを持たない強人種。
古代六種族とも呼ばれるこれらの内、最も搾取されたのは善性種で、最も望まれた血は長命種と麗姿種であった。純血には比ぶべくもないが、五百年、時に千年と生きる者さえいるという。
「魔獣も助けたの?」
「悪さをしてなきゃ、退治する必要はないだろ?」
「へぇ、そういうもんなんだ?」
魔獣とは、開闢の時に生まれた動植物以外の不自然な、又は人造の生き物のことを指す。その多くは賢才種の好奇心と強人種の座興によって生み出された異形で、姿形や寿命は種々様々だ。
血肉や殺戮を好む凶暴な魔獣などは、大喪失の時代に勇者や冒険者によってほとんどが討伐された。他の希少種などとともに必然的に淘汰され、今では本の中にしかいない伝説の生き物だ。
現在残っているのは森や山に隠れ住む一部分で、付き合い方を弁えれば大きな危険とまではならないとされている。
「でも、助けたのは英雄神のふたりでしょ? 第三皇子は関係ないじゃん」
「魔獣や他の種族は、特別親しい相手以外は顔形で判別したりしないもんさ。その点で言えば、サトゥヌスと同じ色と気配を纏ってる奴がくれば、一緒くたに扱っても不思議はないさね」
「ふぅん……?」
自分たちにはない感覚に、レイは曖昧に相槌を打つ。
実際、レイはプレブラント聖国西部から帝都ウルビスまで主要街道を通ってきたが、森や山などの危険地帯は避けてきたために魔獣などには一度も遭遇しなかった。
対してフェルゼリォンは、その放浪具合こそ知らないが、アイルティア大陸の西端の国まで行くくらいだ。魔獣との遭遇率も相応にあったのだろう。
護身術の一環で短剣の扱いを教わった程度のレイと違い、彼の腰に吊るされていた剣は全体的に使い込まれ、決して飾りではないことをその身で主張していた。
ヴァルは偶然と言ったが、それは畢境、王証に出会うまで行動を続けたからこその結果ではないのか。
「……つまり、努力の違い、ってやつ?」
皮肉を言ったつもりはなかったのに、耳に届いた自分の声は厭味ったらしく震えていた。
(……もう。妬むなバカ。私はまだ何もしてないでしょ)
頭まで掛布を被り、自分を戒める。真っ暗になった世界で胸元の首飾りを握り締めていると、ヴァルの声が三度かけられた。
「……さぁな」
「…………」
優しい嘘は、時々かなしくなる。
レイは、嫌なものから逃げるように、更に体を縮こませた。そうすれば、都合の悪い言葉は全てレイを傷付けられなくなるとでも言うように。
「もう寝な」
「…………」
声にならない声で、レイはうん、と頷いた。




