第101話 それぞれの願いも、いつか
双聖暦三十七年。
エングレンデル王国第一王子サナーティオに嫁いできたプレブラント聖国第二王女ルシエルの不義発覚により再び始まった第二次侵攻戦争は、サトゥヌスが重傷を負ったことで一時停戦、休戦協定が締結された。
双聖暦十五年から始まったこの戦争は断続的ながら既に二十年以上続いており、誰もが戦争に嫌気が差していた。過激派の筆頭である国王サトゥヌスが負傷したことにより、この休戦協定が和平協定になることを誰もが望んでいただろう。
それは、後に冷酷王と諡名されるサナーティオもまた例外ではなかった。
(これで、父上の執着も収まってくれるといいが)
隣国プレブラントへの最初の侵攻は、サナーティオが六歳の時に始まった。
ゆえにサナーティオの記憶にある父とは戦場に行く後ろ姿と、満々と溢れる怒りと疲れを纏って凱旋する姿しかない。一度目の休戦協定でやっと長く玉座に座る姿を見たが、隣に座る王妃ミセリアにはちらとも視線をくれず、ただただ冷たい印象しかない。
つまるところ、サナーティオは父が嫌いだった。
母ミセリアからは、幼い頃から次期国王としての自覚を持ち、サトゥヌスを支え、力になるようにと事あるごとに言われてきた。だがどんなにサナーティオが努力しても、良い成績を修めても、サトゥヌスが子供たちを顧みることはなかった。
だが二十歳も過ぎれば、最早幼稚な期待をすることもない。
特に今はサトゥヌスの傷がなかなか完治に至らず、政務からも離れていることで、国王としての政務のほとんどは実質サナーティオに移されている。
国と大陸のためにも、何より自分と母のためにも、サトゥヌスにはそのまま寝込んでいてもらうのが最善だった。
そして実際、サトゥヌスはまるで気力が途切れたように政務への興味を失っていた。
このまま休戦協定が和平協定になれば、きっと何もかもが良くなる。それが現実になるように、サナーティオは何年も奔走した。
だがそれを、あの女がぶち壊した。
サトゥヌスの最初にして最後の、真の愛し子――プレブラント王国二代目女王フュエルが。
◆
双聖暦四十五年。
母ユノーシェルが死んだ。
終わりの砦で、静かに、眠るように息を引き取ったと、カナフ=ヴァルクが教えてくれた。
フュエルは、その報せを聞いた時は矢も楯もたまらずイリニス宮殿を飛び出したが、いざ命の灯が消えた母と対面するとなると、言葉に言い表せない恐れが足を竦ませた。
それは単純に、あの勇ましく元気の塊のようであった母が沈黙し冷たくなっていることを想像する恐怖でもあったし、結局母の期待には応えられなかったという負い目でもある。
だがそれ以上に恐れているのは、
(私は、ちゃんと泣くことができるのだろうか)
ユノーシェルが死んだことで、フュエルはやっと誰に気兼ねすることなくサトゥヌスに会いに行ける。悲しみよりも、その事実に気持ちが逸ってはいないか、ということだった。
『私が死んだら、神弓はお前に譲ろう。御守り代わりにするでも権威にするでも捨て置くでも、好きにしたらいいよ』
斎王となっても、ずっと肌身離さず持っていた天授。それはユノーシェルが死んでも消えずに残るという。
それを、ユノーシェルはフュエルに譲ると言った。
そしてサトゥヌスは、ユノーシェルの天授を求めて飽くなき侵攻戦争を続けていたようなものだ。
天授さえあれば、戦争を終わらせられる。
サトゥヌスは望むものを得られる。
フュエルは、父と争わなくて済む。
(そうだ。それが最善じゃないか)
そう結論付けたあとは、不思議と心も思考も晴れやかになっていた。
娘として、後継者としてきちんと挨拶を済ませたつもりだが、もう記憶にない。
次に気付いた時には、フュエルはずっと焦がれた場所に立っていた。
父サトゥヌスの前に。
「…………フュエル?」
薄暗い寝台の上で、人影が身を起こす。どこか億劫そうなその仕草はフュエルの記憶にあるものと一致しなかったが、その声は間違えようもなく、この世でたった一人の父のものだった。
「父様。お会いしたかった」
フュエルは感極まって、ゆっくりと歩み寄った。しかしサトゥヌスはそれに応えることなく、警戒心を顕にした。
「何故お前が、神弓を持っている……? まさか」
フュエルが隠し持つ神弓の気配を、やはりサトゥヌスは敏感に感じていたのだ。フュエルは誤解が生まれる前にと、言葉の先を引き取った。
「お返ししに参りました」
「……そうか。死んだか」
端的な言葉に、サトゥヌスが言葉少なに頷く。
そもそも、二人は対だ。フュエルがわざわざ伝えなくとも、死の気配は何となく感じていたのかもしれない。
フュエルは懐に手を入れると、何重にも布に巻いた神弓を取り出した。
「父様。是非受け取ってください」
「…………」
寝台に身を起こしたままのサトゥヌスへ、フュエルは神へ供物を捧げるように神弓を差し出す。
サトゥヌスは、すぐには動かなかった。うっすらと赤く輝く弓身と、弓柄に嵌まった紫色の宝石を睨んで、暫し。
自身もまた懐に手を伸ばし、刃のない短剣を取り出した。剣身は薄く青色に輝き、柄の中央には黄緑色の宝石が嵌まっている。実用には全く向かない、水晶のような明澄な宝剣。
(美しい……)
まるで父そのものだ、とフュエルは思った。
真っ直ぐな剣身はどこまでも透き通り、決して闇に染まることはない。その剣に研ぎ澄まされた鋭利な刃はなくとも、気安く近寄ろうとする者を決して許さない高潔さがある。
サトゥヌスが、すぅっと息を吸う。
扉が開かれたのは、その時だった。
「……父上?」
耳に障る男の声が、父娘の間に割り込んだ。二人のよく似た目元が、鋭くそちらを向く。
サトゥヌスと人間種の子供――サナーティオだった。
目があった瞬間、二人は皮肉にも同じ行動を取っていた。
つまりは、攻撃。
「「ッ!」」
サナーティオが目にも止まらぬ速さで肉薄し、フュエルもまた咄嗟に手に持っていたもの――神弓でその首を狙う。瞬きの間に二人の距離は消え、次には薄闇の部屋に赤と青の火花が散り、リィィ……ン、と高く澄んだ音が辺りに響き渡った。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
手を伸ばせばあともう少しで届きそうだった父は遠ざかり、代わりに両者の間には憎き簒奪者が立っている。まるで父を悪の手から守ろうとでもいうように。
その構図を理解した時、からんからん、と二つの音がした。
一つはフュエルの足元で。
もう一つは、サナーティオの向こう側で。
何の音か、と考える前に、サナーティオがその忌々しい口を開いた。
「英雄気取りの女神の娘が、こんな所まで父上を苦しめに来たのか」
「……何だと?」
「父上をここまで苦しめているのは、お前と、その母親だろう。まさか自覚がないとは言わせないぞ」
「違う! 私は……ッ」
見当違いの言いがかりに、フュエルは込み上げる怒りで反駁していた。だがその先を、苛立ちを含んだ重い声が遮った。
「やめよ」
「「!」」
サトゥヌスだ。二人が刹那に放った殺気にも一切動じずにいたと思ったのに、二人がハッとそちらを見た時には何かを投げたような姿勢で右手を振りぬいていた。
その手に、先刻まであった天剣はない。
「眼前で血を分けた子らの争いを看過するほど、落ちぶれてはいない」
その言葉が続けば、最早何が起こったか問う必要などなかった。
襲い掛かってきたサナーティオに神弓で応戦しようとしていたフュエルを、天剣を投擲して牽制したのだ。二つの天授は二人の間で鋭くぶつかり合い、互いの身を削り合った。
そうして欠けた神弓の先はサナーティオの後ろに、天剣の刃先はフュエルの足元に。
だが今は、神気の塊であるはずの天授が欠けたことよりも、サトゥヌスに子と呼ばれたことが、フュエルの胸を占めた。
(子……『血を分けた子』……父様は、私のことをまだ子と呼んでくれた……!)
それは、フュエルが長年知りたかったことだった。
父はフュエルを見捨てたのではないか。疎ましく思っていないか。戦場で会えば、敵として迷わず殺すのではないか。もう、子供とは思っていないのではないか。
愛してほしいとは、もう言わない。それでも、存在を否定されていないという確証が欲しかった。
それが今、叶った。
「父様……私は」
「出ていけ」
「!」
言い募ろうとした言葉はけれど、端的な拒絶に粉々に砕け散った。
ふらりと、足元がぐらつく。
それに追い討ちをかけるように、サトゥヌスは吐き捨てた。
「俺が欲したのは……形などではない」
「――――」
サトゥヌスの深い群青色の髪が、藍晶石の瞳を覆い隠す。それがフュエルの行いを完全に否定して、フュエルはついにその場に頽れた。戦場でどんなに傷付いても、追い詰められても、唯一の半身である双子の弟を完膚なきまで叩きのめしても、決して崩れることのなかった膝が地につく。
「とう、さま……」
「……痴れ者め。敵国の女が、父と呼ぶな」
茫然と呼び掛けるフュエルへ、サナーティオが憎々しげに吐き捨てる。本当なら、ハルウとも違う、真に血を分けた異母姉弟と言えるはずなのに。
まるで父の愛を受けられる者はこの世に一人しかいないとでも言うように、フュエルを睨めつける。
「ッ……」
同族嫌悪のようだ、と思った時には、足元の欠けた刃先を握り締めていた。
「何を……!」
「親愛なる父様……おさらばです」
気付いたサナーティオなど既に眼中になく、最早振り向く気配のないサトゥヌスに向けて渾身の別辞を向ける。
そして現れた時と同様、フュエルは風の音すら立てず、その部屋を後にした。
◆
フュエルは、あろうことか天剣の欠けた刃先を持って、忽然と姿を消してしまった。
神法の使い手として、現代でフュエルを凌ぐ人間種はいない。こうなってしまえば、追いかけることも難しい。
(何故、あの女が今さら……!)
まんまと逃げられたことや、どさくさに紛れて天剣の刃先を奪われてしまったことよりも、我が物顔で父に会いに来たという事実が何よりサナーティオから冷静さを奪っていた。
だが反面、サトゥヌスはやはり冷淡だった。はるばるやってきたかつての娘を、歯牙にも掛けず追い返した。
それは、いみじくも長年サナーティオが不安視していたこと――サトゥヌスは聖国にいる子供しか我が子と認めていないのではないかという懸念を晴らすことに役立った。
それに、女王のくせに折角和平に向けて動いているこの時期にこんな軽率な行動に出たことは、後々の良い交渉材料にできるかもしれない。
サナーティオは深く息を吐き出すと一転、気持ちを切り替えた。
「……父上。お体は……」
「それを」
しかし心配する息子の言葉を遮って、サトゥヌスはその背後に視線を飛ばした。サナーティオもつられて振り返る。
薄闇が満たす寝室において、見付けられないなどあり得ないうす赤い輝きを放つ異物。寸胴な弓の、弓柄よりも下の部分で鋭く切り落とされた、床に転がる本弭側。
サナーティオは苦い思いを抱きながらも、素直にその命に従った。拾う時には一瞬の躊躇があったが、実際に触れてみた神弓の欠片はサナーティオを拒むこともなく、ただ静かだった。
(父上に、少し似ている)
この世に二つしかない神気だからだろうか。僅かに温もりを持つ神弓への畏れも冒涜的な考えも、刹那に洗い流されてしまった。
そっと捧げ持って、病床の父へと渡す。
受け取る手は、記憶にあるよりもずっと細く、筋が浮き、年老いていた。
思えば、神の身を捨て人の身となったのは、改歴と同じ頃だった。その頃に全盛期の肉体だった二人は、今では年齢的にも六十歳をとうに過ぎている。病み衰えてもなんらおかしくはない。
あの誰からも恐れられた勇猛な父が死ぬ。
それはまるで現実的でなかったはずなのに、今サナーティオは急に隠されていた真実を突きつけられたような気がして、酷く動揺した。
そして続いた言葉に、更に打ちのめされた。
「サナーティオよ。この二つの天授を、決して二度と離してはならない」
「え…?」
「決して……決してだ」
サトゥヌスが、らしくなく何度も念を押す。その声の震えに、サナーティオはきりぎりの理性で気付かぬふりをした。
フュエルが神弓を持っていたことから、天剣もまた自分に譲り渡されるのではないかと、期待したわけではない。
それよりも、サトゥヌスが今さらに聖国に戻ってしまうことをこそ恐れていた。
だが、サトゥヌスはそうは言わなかった。その言葉は、ある意味二度とあの地は踏まぬという決意にも取れる。
だから、サナーティオは頷いた。
父からの、初めての頼みのようにも思えたからだ。
「御意に」
これだけは、何としても叶えてみせる。
いつの間にか自分よりも小さくなっていたその背に向かって、サナーティオは固く誓った。
◆
翌年、サトゥヌスは呆気なくこの世を去った。ユノーシェルのいない地上など、何の未練もないとばかりに。
サナーティオは父の遺言を守り、互いに欠けたままの天剣と神弓を棺に眠るサトゥヌスの両手に持たせた。
葬儀は盛大に執り行われた。
サナーティオは次期国王として、立派にこれを務めた。
夫を終生嫌い抜いたはずの王妃ミセリアは、意外にも涙を見せた。棺に納められたサトゥヌスを長らく見つめ続け、最後には二人きりで別れを言わせてほしいと、全員を神殿から一時退出させた。
それでも、この時は全て恙無く終わった。
その数ヶ月後、和平まかりならぬ、と強硬に意見したミセリアの働きかけにより再び戦争が再開されたが、時代の流れを見れば避けようのないこととも言えた。
手に終えない問題が発覚したのは、それから六年後。
夫の後を追うように儚くなった王妃ミセリアの葬儀が終わったあとのことだった。
ミセリアの遺言は、痛ましいものだった。
『あの人の隣には行きたくない。でも、あの人の隣を誰にも渡したくない……』
ミセリアの遺体は、神殿にあるサトゥヌスの隣ではなく、歴代の王墓に葬られることになった。こうして、ヘセド・エメス大神殿は、今に至るまでサトゥヌスの遺体のみを安置し続けている。
だが問題というのは、それではない。
ミセリアの部屋を片付けていた寝室付き女官が、顔面を蒼白にしてサナーティオに報告に来たことだった。
「へ、陛下! 王妃殿下の部屋から、け、剣が……!」
「……なに?」
女官はサナーティオの所に来るなり膝が崩れ、国王の御前だというのに礼も取れず泣きべそを掻き始めた。その胸元にしっかりと隠すように握られていたのは、サトゥヌスが生前肌身離さず持っていた天剣に違いなかった。
サトゥヌスと共に埋葬されたはずのそれが寝室から出てきて、この女官は死ぬほど驚いたのだろう。そして数年とはいえ、それに気付かずに過ごしていた事実に戦慄した。
この涙は、きっと死罪を言い渡される覚悟で、秘密を打ち明けに来たに違いない。
だがサナーティオは、それよりも別の気掛かりがあった。
「これとともに、弓の欠片はなかったか?」
「弓、でございますか……?」
女官は、心当たりがないと首を横に振った。
サナーティオはすぐに自ら神殿に赴き、サトゥヌスの棺を秘密裏に開けた。案の定、そこには天剣がなく、そして神弓もまた見当たらなかった。
サナーティオはこの後、懸命に母の行動を洗い直し、神弓の行方を追った。
だが分かったのは、滅多にレテ宮殿から出ないミセリアが、サトゥヌスの死後一度だけ城下に出たこと。そこで露店に顔を出し、すぐにレテ宮殿に戻ってきたことだけだった。
恐らく、そこでミセリアは神弓を二束三文で売り払ったのだ。王女として生まれたミセリアは、金の価値も知らない。きっとその代金もどこかに捨てるかしたのだろう。
サナーティオには、その時のことが手に取るように分かった。
(父の、初めての頼みだったのに……!)
この時から、サナーティオは神弓を探し出すべく奔走した。プレブラント聖国への侵攻を中断し、別の隣国への侵略戦争に心血を注いだ。それもまたひとえに神弓を探し出すためだった。
また国土を拡大するとともに、自らを皇帝と名乗り、国号も帝国と改めた。父サトゥヌスを初代皇帝とし、天上から授かった王の証である天剣が覇道を求めていると宣い、冷酷に周囲の国々を併呑していった。
こうして、双聖歴八十九年にプレブラント聖国第三代女王ラフェナンシェルが大陸全体の和平を掲げ、エングレンデル帝国と対等な条約を結ぶまで、大陸には戦禍が吹き荒れた。
誰の願いも、叶えることはなく。




