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第98話 「またね」と「よろしく」

 王配サフィーネが兵を連れて戻ってくるまで、レイはわんわんと子供のように泣いていた。

 その頭を大きな手に撫でられてやっと、レイは自分の声の大きさに気付いた。顔を上げると、涙を必死でこらえるような父の真っ赤な顔があって、また涙が溢れた。

 けれどその更に向こうにずらりと並ぶ聖国騎士団の制服を見付けて、途端に羞恥に塗り替わった。

 涙と鼻水でボロボロの顔は間抜けに口を開け、とても年頃の淑女のするものではない。


(は、恥ずかしいぃぃっ。十六歳にもなってぎゃん泣きって!)


 今までで最速で母の胸から離れて衆目に背を向ける。エレミエルがすぐに察して立ち上がり、夫や騎士団に現状の説明や指示を出してくれたお陰で、視線はそちらに逸れた。

 ホッと胸を撫で下ろしたレイだが、目を開けると今度はリォーの顔が目の前にあった。


(なっ)


 なぜそこで待ち構えているのかと責めることもできず、レイは居たたまれずまたその場に蹲った。


「? レイ? 何して……」

「はい」


 怪訝な顔をするリォーの横を通って、綺麗な手巾ハンカチが差し出された。ハルウだ。

 そっと腕の隙間から見上げれば、にっこりと手巾を手に押し付けられた。使えということだろう。


「ハルウ……」


 こんな殺伐とした状況で、一体どこに隠し持っていたのかとは思うが、有り難く拝借することにする。

 ごしごしと顔中の水分を拭えば、かしゃん、と細かな金属音がした。


(……何かはさまってる?)


 不審に思って手巾を広げれば、見覚えのある革紐が零れ出た。


「これ……」


 それは、黒泪ダクリュオンが無くなり空となった首飾りの台座だった。紐の一部は、千切れて繋がっていない。

 黒泪がないのだから最早レイには無用の長物なのだが、戻ってくると何だか途端に安心できた。

 空の首飾りをぎゅっと握り締めて、改めて礼を述べる。


「……ありがとう」

「どういたしまして。でも、どんなレイも、僕には可愛いけどね」


 首飾りに対してお礼を言ったつもりだったのだが、ハルウはあくまで手巾についての言葉を返した。それがまた本気か冗談かいまいち判断しかねるいつもと変わらない軽薄な口調で、笑みも本当にいつも通りだったものだから、レイはまた泣き出しそうになってしまった。

 優しくて穏やかで、けれどどこか飄然として空虚な、十六年見てきた笑み。

 その真ん中にある寂しさは、やっぱりレイには消すことのできないものだけれど。


「そう言ってくれるのは、ハルウだけだよ」


 くしゃりと笑う。

 昔と同じように、けれど少しだけ、万感の想いを込めて。

 見ていてくれてありがとう。

 伝えてくれてありがとう。

 傍にいてくれてありがとう。

 それでも、笑ってくれてありがとう。


「ありがとう」


 それがどれ程辛くて苦しくて難しいことだったか、今のレイになら少しだけ分かるから。


「君って子は……」


 ハルウが、優しく、優しく微苦笑する。その右手を伸ばし、レイも当たり前のようにその手を掴んで立ち上がろうとして、


「それ以上近付くな」


 野太い声が、それを遮った。


「お、お父様」


 イリニス宮殿の破損範囲を確認していたはずのサフィーネが、いつの間にか二人の傍らに仁王立ちしていた。

 太い両腕を組み、接近しようとしていた双方の手を、接触した途端毒を発生させる危険物のように睨み下ろしている。


「ハルウと名乗った不審人物を確保。プレブラント聖国及び女王陛下への叛逆、並びに第二王女への暴行」


 そう罪状を並べながら、青筋の浮かんだ手でハルウの腕をがっしと掴む。


「と誘拐、略取、虚誑こおう、洗脳、脅迫、殺人未遂、その他諸々……及びわいせつの罪で捕縛する」

「お、お父様!?」

「多いなあー」


 目を丸くするレイの後ろで、クロンがけらけらと笑う。

 当のハルウは、気持ちは分かるとばかりに肩を竦めただけで、抵抗はしなかった。神法を無効化する法具を、黙って装着される。厳密に言えばハルウの力は神法とはまた違い、神法の無効化も完全には効かないはずなのだが、それをここで言うのは野暮だろう。

 そうして、眉間に皺を寄せたままのサフィーネと、その周囲を固める騎士団に促されて、踵を返した。


「ハルウ……」


 宝蔵庫の壁や扉はほとんど無に呑まれ、敷居を僅かに残すのみだった。廊下も似たような状況で、騎士団は無事な階下から梯子をかけて上ってきたようだ。

 その梯子に足をかける直前、立ち止まったハルウが、肩越しにレイを振り返った。拘束された手を、小さく左右に振る。


「バイバイ」


 そして、小声でそう言った。

 もしかしたらそれは、今生の別れを意味したのかもしれないけれど、レイは精一杯、能天気に笑った。


「ハルウ! 私、一人で立てるよ!」


 そして、ぴょんっと元気に立ち上がった。転ぶたびに、ハルウの手を借りていた今までとは違う。もう、ハルウがいなくても、自分の力で立てると示す。

 そして、大きく手を振った。


「またね!」

「…………」


 泣き腫らして充血した瞳が、虚を突かれたように開かれる。ハルウに再会の意思などなかったからだろうが、そんなことはレイには関係ないのだ。

 会いたいなら会いに行く。

 いつだって、自分がどうしたいか、それだけなのだ。


「……うん」


 先程と変わらぬ声量で、ハルウがそう頷く。目尻に光る涙と、子供のような笑みが、レイの記憶に強く焼き付いた。

 だが、サフィーネが見過ごしてくれるのもそこまでだった。ハルウの腕を強く引っ張ると、そのまま一緒に階下に飛び降りる。

 神法が使えなければ非力な優男に過ぎないハルウの、情けない悲鳴が細く響いた。


(だ、大丈夫かな?)


 父は偉丈夫だし神法も使えるから心配ないが、ハルウの足腰は普通に心配だ。階下はまだ建造物としてのていを保っているから、普通に階段を探して床を歩かせてもらえることを祈るしかない。


「まったく」


 梯子の下を覗くに覗けないレイの背に、呆れた嘆息がかけられた。ヴァルだ。


「少し前まで自分を殺そうとしていた相手の心配を先回りするなんて、相変わらずおかしなことをするよ」


 振り返れば、黒猫もどきがわしゃしゃっと首の下を後ろ足で掻いていた。すっかり気を抜いている。

 それを見て、レイもやっと張り詰めていた気が緩んだ気がした。


「ありがとね、ヴァル。やっぱり亀の甲より年のこうだね」

「誰がババアだい!」


 くわりと怒られた。真心を込めたのに。

 しょぼんと落ち込んで視線を滑らせると、リォーも何だか不機嫌そうだった。眉間の皺が凄い。


(なんで?)


 ハルウにまだ文句を言い足りなかったのだろうかと首を捻っていると、くんくんとヴァルが鼻を近付けた。


「それはそうと、右手に何をずっと持ってるんだい?」

「え?」


 言われて、ハルウやエレミエルに抱き付いた時も握ったままだった右手を見下ろす。そして、思い出した。


「あぁ、そうだった」


 ゆっくりと開く。すっかり爪の跡がついた掌の中央に、小さな黒い何かが、ころんと転がった。


「これは……」


 ヴァルが後ろ足で立ち上がって覗き込む。それに気付いたリォーも、仏頂面のままレイの隣に立った。


「何だこれ?」

「これ、もしかして無の残滓?」


 首を傾げるリォーの横から顔を出したクロンが、あっけらかんと言った。

 言われてみればその黒は黒泪よりも黒く、けれど宝石というには質量を感じさせない。

 やはりクロンには分かるのかと首肯すると、ついにヴァルの怒声が飛んできた。


「まさか……あんたは何を考えてんだい!?」

「だ、だって、独りは嫌だっていうから」

「子供の駄々と同じに扱うんじゃないよっ」


 ヴァルにぎゃうぎゃうと怒鳴られ、レイはひぇっと縮こまった。隣では、リォーが信じられないというように顔をしかめている。あのクロンまで真剣に考えこむような顔付きになって、レイは益々肩身が狭くなった。

 独りは嫌だという声に、レイは衝動的に最後の一欠片を掴んでいた。孤独だったレイとリォーがジオとなったことで、取り込まれる心配もなくなったという確信もあった。

 だがそれ以上に、自分だけ孤独でなくなったことへの罪悪感が、レイにはあった。

 しかし、ヴァルの怒りももっともではある。


「でも……」


 あんなにも果て無く無限のようだった無が、こんなにも小さく儚くなってしまえば、どんな脅威があるのかと思うのだが。


(それでも、『ウーデン』……なんだよね)


 魔王と畏怖された孤独の神にも、天上の四双神にさえ御しきれない原初の存在。

 人の手に負えると思うなど、驕慢きょうまん以外の何物でもない。


「やっぱり、返さなきゃ、ダメ?」

愛玩動物ペットみたいに言うんじゃないよ!」


 怒られた。ヴァルは基本足元にいるから、上目遣いのお願いが効かなくていけない。

 一方隣では、リォーが腕を組んで顔を青くしていた。


「返すにしたって、一体どうしたら……」


 その顔色が、イリニス宮殿の前庭に降り立った時よりも悪いように見えて、いよいよレイも取り返しのつかない失敗をやらかしたのかと血の気が引いた時だ。


「それを再利用したら?」


 クロンが、レイの左手を指さした。そこにあるのは、ハルウが渡した手巾と、空の台座だけの首飾り。


「これ?」


 レイは、千切れた革紐を持ち上げて聞き返した。クロンは首肯したが、さっぱり分からない。

 代わりに、頭脳担当のリォーが話を進めた。


「再利用って、どうするんだ?」

「その首飾りには、ユノーシェルが刻んだ術が残ってる。黒泪ぼくの存在をこの世界に定着させ、確定し、一つの命のように偽装させたものがね」

「そういうことか。根本的に釣り合わない神気ディーオと人の命を、一体どうやってジオにしたかと思ってたが……台座そっちに仕組みがあったんだな」

「全っ然分かんない」


 クロンの説明にリォーが得心顔で頷くが、レイは既についていけていなかった。

 レイには前世であるミハルの記憶もなければ、無の中で見たものもほとんど覚えていない。ユノーシェルがミハルのために首飾りに細工をしたというところから、既に置いてきぼりだった。


「けど、無は魔王あんたと違って、魂とも命とも異なる存在だよ。一体どうやってそこに収めるつもりだい」


 希望が見えてきた話し合いに、やっと怒りが収まってきたらしいヴァルが口を挟む。

 クロンは思量しながら言葉を紡いだ。


「無は神の中でも原初の、純粋な力であり存在だ。恐らく、訊くだけで十分なはずだよ」

「訊く?」

「そんな窮屈な場所でも構わないなら、共にいるか、とね」


 その言葉と共に、クロンが片目を瞑ってみせる。

 随分適当な話だなと思いながらも、レイは右手に握った無の欠片と、左手に握った首飾りの台座を交互に見比べた。

 半信半疑のまま、両手を近付ける。


「…………一緒に、いる?」


 まるで、生まれたての子に問うような声になってしまった。けれど右掌で、どくんと一度、微かながら確かな脈動があった。

 レイは今度は確信をもって、両手を重ね合わせた。音はなく、熱もなく、変化は何も感じられなかった。

 けれど次にそうっと開けば、手巾の上で、見慣れた首飾りの姿へと戻っていた。

 雫型の台座に、誂えたようにぴたりと嵌った、艶のない漆黒の宝石が鈍く輝いている。黒泪ダクリュオンとは違うけれど、それは確かに、レイの首飾りだ。


「よろしくね」


 生まれた時からずっと一緒にあった、けれど新しく出会った存在に、レイは穏やかに語りかけた。

 もう二度と、この寂しがり屋を仲間外れにしなくて済むのだと思うと、子供の頃の願いがまた一つ叶ったような気がして、自然と笑みが深まった。


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