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第97話 いい子

「どう、して……」


 開けてはならない箱を開けるのを見てしまったかのように、エレミエルがはしばみ色の瞳を震わせる。その表情が今にも泣き崩れてしまいそうなほど脆く見えて、レイは慌てて言葉を継ぎ足した。


「子供の頃、イリニス宮殿で、聞いてしまったんです。お母様が、お父様にそう言っていたのを」


 それは、レイが母に愛されたいと願う要因となった出来事の一つだった。聞いてしまったのは偶然だったが、その日以来、母の余所余所しさの意味を知ってしまった気がした。

 だからこそレイは、より一層努力した。自分に邪心はないと、母をおびやかすことはないと、役に立つ存在になろうと、頑張った。

 だが本当は、そう尋ねれば良かっただけなのだということも、分かっていた。自分は愛されていないとか、捨てられたのだとか、勝手な憶測や陰口に振り回されて悩む前に。

 けれど、怖くて聞けなかった。

 もし万が一にも、是と答えが返れば。

 きっと、生きる意味を見失ってしまうから。

 果たして。


「……怖いわ」


 エレミエルは、肯定した。今にも零れそうな涙を湛えて。


「目の届く所にいてくれないと、何をしているか分からなくて、怖くて不安になる。けれど見ていると、やはり……怖くなるの」


 それは、子供に打ち明けるには赤裸々な、けれど子を育てる親としてはごく普通の心配だった。だがそれを、赤子の死と、エレミエル自身の強すぎる責任感とが助長させてしまった。

 赤子を喪ったのは彼女の力の及ばない次元のことだったというのに、自分を責め、心を病んでしまったフロリアのように。


「あなたに近付いたら、また……自分の我儘で、罪もない子供を喪うかもしれないから」

「お母様……」


 自分の両手の平を、エレミエルはまるで罪にまみれているかのように睨む。不安を吐露するというには、それはあまりに痛々しくて。


「だって、あなたがわたくしの許に来るたびに、危険な目に遭うのよ? ユフィールも……お母様に預けていれば死なせずに済んだかもしれないのに!」


 それは、レイが育つのを見る度に肥大化する棘だった。ユフィールの死に顔を見た時から刺さって、恐らく一生抜けない棘。それが、レイを見る度に痛んで、とても直視できなかった。

 ユフィールは、きっと恨んでいる。どうして自分だけ、死ななければならなかったのかと。

 それはただの強迫観念で、声など一度も聞こえたことはない。いっそ聞こえた方が、まだしも救いがあったかもしれないのに。


「これが、どうして怖がらずにいられるというの……?」


 罪に身を沈めるように、エレミエルが両手に顔をうずめる。指の間から零れる雫は、もしかしたら彼女には緋色に見えているのかもしれない。

 けれどレイには、それはただの透明な涙でしかなくて。零れるなら掬ってあげたいと、当然のように手をのばす。


「……お母様」

「来ないで!」


 その傷だらけの手から、エレミエルは身を捩って逃げた。罪人つみびとが触れたら、一瞬にしてその手を穢してしまうとでもいうように。


「もし、あなたを抱きしめて……ユフィールのようになってしまったら……」


 目の前の少女が冷たい赤子と重なって、十七年間溜め続けた恐ろしい想像が胸の内を埋め尽くす。そうなればもう、とても、とても握り返すことなど出来はしない。

 そう、目に見えない未来に怯えるエレミエルに、レイの手が行き場を失うように力をなくす。

 その手を、


「「!?」」


 ぎゅっと、横から伸びてきた手が力強く握り込んだ。

 レイと同じように傷だらけで、でも少し節くれだって大きな、温かい手。


「……リォー?」


 それは少し前までしっかりと握りあっていた手だから、顔を見るまでもなく誰のものかはすぐに分かった。だがリォーは、大事な話に遠慮も断りもなく割り込んでくるようなことはしない。

 どうしたのだろうかと、二人の間に割り込んできた腕を辿って視線を上げる――前に、その頭頂部に出し抜けにげんこつが降り下ろされた。


「いったぁ! 急になにす――」


 反射的に自由な左手で損害を受けた箇所をさする。何をするのかと抗議の目を向けようとすると、今度は背後からぎゅうっと抱き締められた。ハルウだ。


「え、え? 今度はなんなの?」

 

 ハルウが急に抱き着くのはいつものことだが、しかし何故この時宜タイミングでと首を捻る。その目の前では、エレミエルが蒼白になって目を剥いた。


「なっ、何をするの!? レイから離れて!」

「ちょっ、お母様、落ち着い……てぇ!?」


 目を剥いて警戒するエレミエルを慌てて宥めるレイの言葉が終わる前に、今度はレイの頭上にのっしと結構な重量物が乗っかった。視界の端に、ふさふさと揺れる黒毛が見える。ヴァルだ。

 神法を使うわけでもないのに、なぜか三人が寄ってたかってレイにくっついてきていた。訳が分からない。

 レイはたまらず叫んだ。


「な、なんなのっ、みんなして!?」


 レイは今、右手はフェルゼリォン、背後にハルウ、頭上をヴァルで固められる形になっていた。まるで逃亡犯を捕まえるがごときである。

 そんなレイの手を、照れを隠したフェルゼリォンがエレミエルに見せつけるように持ち上げた。


「見ての通り、こいつはそんなにやわじゃない」

「リォー……」


 その言葉に、レイはやっと三人の意図を理解した。

 それは、レイに触れるのが怖いと怯えていたエレミエルに証明するための、三人なりの方法だったのだ。触れても、乱暴にしても、たとえ押し潰したって、レイは平気なのだと。

 だがそれでも、エレミエルの表情は晴れなかった。


「……わたくしが言いたいのは、そういうことでは――」

「お母様」


 ゆっくりと面を伏せる母を引き留めようと、レイは呼ぶ。

 伝えきれていないことが、まだたくさんある。離れていた分だけ、知らないことがあるのは当然だ。そして知らなければならないことが足りていないうちに核心に触れようとしても、正しい答えには辿り着けない。


(私、焦ってた)


 今更に、レイは自分が言葉足らずだったことを自覚した。いつかのエレミエルと同じように。

 だからまずは、小さなことから始めよう。


「私、今回の旅で、神法がとっても上達したんです」

「…………、え?」


 突然の話題の転換に、エレミエルが瞠目して困惑する。それに平気に笑って、レイは続けた。


「帝国では、非公式だけどちゃんと皇帝陛下に挨拶もできました。あと、舞踏会に出てダンスもしたんですよ」

「足を踏まれそうになったけどな」


 横からの茶々に、ブンッと左手で拳を放つ。残念ながら、目標の足には逃げられた。


「他にも、初めて魔獣と会話をしましたし、また会いたいと思える知人……友達もできました」


 善性種エピオテスの人々のことは、彼らに許可を得ていないので伏せた。だがクァドラーにもう一度会うことは、レイの中ではもう決定事項だ。


「魔獣、と……?」


 それは危険なことなのではと表情を曇らせるエレミエルに、レイは満面の笑みで頷く。他にも話したいことはいっぱいあったが、レイには何より伝えたいことがあった。


「でもこの旅で一番素敵なことは、お母様に会えたことです」

「…………!」


 本当は、王証を手渡すことができればそれが一番だったが、贅沢は言わない。本当の贅沢は、もう既に味わっているから。

 けれどエレミエルは、見開いた瞳を伏せて、やはり首をゆるゆると横に振った。


「……そんなはず、ないわ……」


 その言葉に、やはり伝わっていなかったのだなと、レイは苦笑した。フェルゼリォンの手と、ハルウの腕をほどき、踞ったままの母の顔を覗き込む。


「私、お母様に会えるの、いつも楽しみにしてたんですよ。ほら、会えたらいつも真っ先に伝えてたじゃないですか」


 年に数度しかない謁見の際には、お会いできて光栄ですとか、お会いできるのを一日千秋の思いでとか、思い返しても身の丈に似合わない言葉をよく使っていた。

 そしてエレミエルもまた、毎回似たような言葉で労をねぎらってくれた。微笑んで良いのか、毅然とした方が良いのか、その公明正大な女王の仮面にいつも迷いを隠して。


「あれは、ただの定型の挨拶で……」

「定型だけど、本心です。だから何度も練習したし、失敗しないで言えたんです」


 戸惑うエレミエルに、レイが苦笑とともに恥を告白する。

 実際、黒泪ダクリュオンとなって共に様子を見ていたクロンも、その健気な努力は覚えている。


『「こうえい」って、どういういみ?』

『誇らしくて嬉しいという意味よ』

『「いちじつせんしゅう」って、どういういみ?』

『一日が千年にも思えるほど、待ち遠しかったという意味よ』


 母に会える時期が近付くと、レイはいつもセレニエルに適切な挨拶を教えてもらっては、分からない言葉を何度も尋ねていた。勉強でもあそこまで熱心に学べば、きっと優秀な成績が修められただろうにと思う程に。


「それに、きちんとしないとお母様に恥をかかせてしまうからって、いつもは優しいお祖母様があの時だけはすんごく怖かったんですから」

「……お母様……斎王聖下が……?」


 信じられないというように、エレミエルが繰り返す。

 思えば斎王は基本的に聖都での儀式には参加しないので、母と祖母が話している姿も、レイは見たことがなかった。必然、レイが伝えなければ、祖母の思いを知る機会もなかったのだろう。

 そう気付いたレイの顔面に、ぺしりと尻尾が降ってきた。


「わっぷ!?」

「いい加減、覚悟を決めな」


 もう降りてもいいはずなのに、ヴァルがなぜかレイの頭上に居座ったままエレミエルに迫る。


「リリレィツェルも、セレニエルも、レイ(こいつ)も、自分のために、勝手に頑張っただけだ。それは、ユフィールも同じだ」

「!」

「あんたにいつまでも憐れまれて、やらない理由に使われるために生まれてきたんじゃない」

「――――!」


 その口調はまどろしくて堪忍袋の緒が切れたという風ではあったが、その通りだとクロンは思った。

 誰かのため、という思いは大なり小なりそれぞれにあったろうが、結局は誰も彼も、頼まれたから頑張ったわけではない。多少の使命感などはあったろうが、最後には自分で決めて、自分で動いたに過ぎない。

 役目が嫌な奴は逃げるし、実際その立場を放棄した者も何人か見た。務めあげることができるのは、いつだって自分のために頑張れる者だけだ。


「そんな、つもりは……」


 エレミエルの反駁はんばくは、けれど尻すぼみに消えていく。それを蔑むでもなく見下ろして、ヴァルはやっとレイの頭から飛び降りた。


「どんなに短くても、赤ん坊(ユフィール)だって、自分のために、勝手に頑張っただけだ。長生きすることだけが、命の価値じゃない」

「……そう、でしょうか……」


 言いたいことだけを言って去ってしまう尻尾に、エレミエルが力なく零す。それはヴァルにしては珍しく多分に慰めが含まれていたが、クロンはそれもまた一つの救いだろうと黙した。

 人間種ピリトスは短命であるがゆえに、どの種族よりも長命であることを尊ぶ。赤子でなくとも、十歳や二十歳に届かず命を終えれば、やはり若すぎると嘆いた。だがそれを言っても、失った命は戻らない。悲しみがいや増すだけだ。

 それを身をもって知っているからこそ、エレミエルは救いを見出すように受諾とも拒絶ともとれる言葉を漏らした。

 今までのレイなら、そこで立ち止まって、ともに悩んで進めなくなっていただろう。

 けれど今のレイは、意を決して一歩にじり寄った。

 エレミエルが恐る恐る顔を上げ、それに合わせるようにレイもまた大好きな榛色の瞳を覗き込む。


「お母様」


 更に近付いた二人の顔は、こうして見ると映し鏡のようによく似ていた。かつてのユノーシェルとルシエルのように。愛しいフロリアとハルウのように。

 その違う色の双眸に揺れる、苦悩と希望さえ。


「私、頑張りました。だから、その……」


 少しだけ言い淀んで、レイが頬を染める。それでも、目を逸らさずに言い切った。

 心の底から、大真面目に。


「いい子ってしてくれると、嬉しい、です」


 それは、今まで何度も望んでは、口に出すことのできなかった望みだった。

 姉や妹が当たり前のように受けていた承認を、褒美を、レイは欲しいと言えなかった。母の顔色を窺って、嫌われないことに必死だったから。

 けれど今は、言わなければ伝わらないという、当たり前のことさえ分かっていなかったことに気付けた。それで返るものが拒絶でも、それは終わりではないと、今なら分かる。

 それを、母にも知ってほしかった。


「――レイフィール!」


 きつく握り締められていた両手が、バッと開いてついにレイを抱き寄せた。既にくしゃくしゃの髪を乱暴に掻き寄せ、涙で濡れた頬をぎゅうぎゅうに押し付ける。


「いい子……っ、いい子よ。あなたは、とっても良い子……!」

「…………ッ」


 そして続けられた言葉に、レイは自分で望んだことだというのに、声さえ出なかった。瞬間的に込み上げた涙に喉が詰まって、鼻の奥が熱くて、初めて触れた母の胸があまりに温かくて、しがみつくのが精いっぱいだった。

 ずっと、自分よりも遥かに大きくて冷静で、どこまでも遠いと思っていた母の手が、自分だけを抱きしめている。女王としてではなく、ただの母親として、同じ力でひたすらに、がむしゃらに。

 そのつたなさが、言葉以上に雄弁にレイを包み込むから。

 嬉しくて嬉しくて、レイは益々母の柔らかな胸に顔を押し付けた。

 とくとくと、速過ぎる鼓動が二つ、耳元でずっと響き続けていた。



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