表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
105/112

第96話 ずっと聞きたかったこと

 無の脅威が消えるとすぐ、王配サフィーネは現状確認と人手の確保に動き出した。

 レイが誰とも知れない危険な男を抱きしめていることにははらわたが煮えくり返りそうだったが、殺意と紙一重の睨みを利かせる魔王の視線に抗することは、常人には難題過ぎた。お陰で、サフィーネもエレミエルも、忽然と戻ってきたレイを制止も接近も出来なかった。

 だが王配たるサフィーネには優先すべきことは他にも無数にある。まず壁も天井もなくなり、夕暮れの風がじかに吹いてくるイリニス宮殿の現状確認と、避難させた兵士たちの無事を確認することだ。

 レイのことは、エレミエルがいる。

 そう思って隣を振り向いたサフィーネはしかし、呼びかけるべき言葉を寸前で塗り替えた。


「……エレミエル」


 イリニス宮殿の公的な空間では、サフィーネは常に妻を立て、陛下と呼称している。だがそこにあった横顔はいつもの清冽な女王ではなく、戻ってきた子供に何と声をかけていいか分からない、ただの母親だった。

 状況はまだ予断を許さないとはいえ、彼女にはまだもう少しだけ、母親のままでいる時間を与えたいと、サフィーネは願った。


「私は人を呼んでくる。衛兵が捕縛するまで、ここを頼めるかい」

「……え? あぁ……」


 サフィーネの言葉に、エレミエルがどうにか頷く。ハルウのあの様子では、隙を見て逃げるということもなさそうだが、念のためだ。

 だが肝心のエレミエルは、サフィーネが去った後もまだ、動き出せずにいた。辛うじて残った床に座り込んだまま、欷泣ききゅうする二人を呆然と眺めている。

 それを横目で眺めながら、クロンは少しだけ落ち着きを取り戻したレイに声をかけた。


「レイ」


 ハルウの緑色の頭を抱え込んでいた少女が、ゆっくりと振り返る。その目元は、泣き腫らしたようにうっすらと赤くなっていた。ハルウのこともそうだろうが、きっとそれだけではないだろうと、クロンは知っている。


「君に続く命の旅はどうだった?」


 無に囚われるというのは、全か零のどちらかだ。全てを知るか、全てを失うか。どちらが幸運かは、誰にも分からない。

 レイがどちらを味わい、どちらを選んだかは、クロンにさえ分からない。それでも、何を見たかは想像がつく。

 無の中で見ることができるのは、所縁のあるものだけだ。無関係なものを、好きに知ることは出来ない。

 彼女は見たはずだ。自分に繋がる何かを。たとえそれを、全て忘れてしまっていたとしても。


「……実を言うと、よく覚えてないんだ」


 寸前まで、一回りも二回りも大人びて戻ってきたと見えたレイはけれど、いつもの情けない苦笑でそう言った。

 だが、瞳は真っ直ぐにクロンを捉える。


「けど、あなたの名前は覚えてる」

「……そう」


 レイは、クロンが黒泪から現れたところは見ていない。それでもクロンを魔王と理解しているのは、無の中で全てを見たからだろう。だから、じんわりと喜びが込み上げた。


「名前を呼ばれるの、久しぶりだなぁ」


 ふくふくと、ほわほわと、心が笑みで埋まる。

 クロンと呼ぶのは、名付けたフロリアと、それを聞いたユノーシェルだけだった。ユノーシェルに呼ばれるのは少しも嬉しくなかったが、呼ばれなくなれば、寂しさは募った。

 無から戻ってきたレイが何かを憶えている確率は限りなく低いのに、レイはよりによって名前を憶えていてくれた。クロンにとって、何よりもフロリアの温もりが残る、嬉しい土産。


「名前を呼ばれるの、嬉しいなぁ……」


 本心を言えば、フロリアに会えるなら自分が会いたかった。初めて会った初々しいフロリアも、ユノーシェルに真っ向から立ち向かうフロリアも、きっととびきり美しかっただろう。

 特にユノーシェルに封じられてしばらくは記憶が曖昧で、フロリアの最後の言葉もあまり覚えていない。ユノーシェルが約束を守ってくれたことを知ったのも、随分後になってからだった。

 だがそれは、確かに今に続いている。


「クロン」


 にこにこと笑みが止まらないクロンに、レイが優しく呼びかける。


「ありがとうね。ずっと守っていてくれて」

「…………」


 そして続けられた言葉に、クロンは少しだけ呆気に取られた。


(この子は無の中で、何を見て、何を知って、何を忘れたのだろう)


 それは決して、自分で選ぶことはできないはずなのに。


「どういたしまして。四六時中可愛い孫娘にくっついているくらい、お安い御用さ」


 クロンは、嬉しさと気恥ずかしさをぐるりと混ぜて、その場で一回転してみせる。と、途中で瞬発的な敵意を見せた少年と目が合った。

 その青色に浮かぶ嫉妬がいかにも子供じみていて、クロンはつい、にやぁ、と笑ってしまった。


「っ」


 気付いたフェルゼリォンが、しまったと視線を逸らす。が、クロンは構わず水を向けた。


「しっかしねぇ?」


 どんな言い訳が始まるかと、うきうきしながらフェルゼリォンの鼻先を飛び回る。


「ぼくは君を送り出す際、『一生の愛を捧げ、魂のジオとなることを誓うと言え』と助言したはずなんだけど?」

「言えるかそんなこと!」


 食い気味に反論された。それまでどうにか澄ましていた顔が、一気に茹で上がる。

 どうやら言い訳するほど往生際は悪くないらしいが、まだ開き直るほどには至っていないと見た。


(まぁ、ハルウへの啖呵たんかだってどうせ無自覚だったろうし)


 にやにやと覗き込めば、青い目がしきりにクロンの背後を気にする。そこには、事情を知らないレイが目をぱちくりさせている。


「?」

「…………」


 ついでに、レイを抱きしめたままのハルウは目が据わっている。


(うーん。いいねぇ)


 何を気にしているか察した上で、クロンはあえて声量を大きくした。


「君がちゃーんと言っていれば、もっとすんなり戻ってこられたのになぁ」

「バッ……」

「えっ、何を?」


 今度はレイにもしっかり聞こえたらしい。聞き捨てならない内容に、フェルゼリォンが止めるよりも早く反応が返る。


「あのねあのねっ」


 クロンは親切心で答えようとしたのだが、その首根っこをむんずっと掴まれた。と言っても、動揺の極みにいる子供の動きなど、避けるのは造作もないけれど。


「まぁ、言えなくてもいいさ。行動は、できるみたいだから?」

「ッ!」


 おちょくるように目の前を飛びながらちらりと視線を向けると、フェルゼリォンがどきりと瞠目した。どうやら思い当たることがあるらしい。

 だがクロンはひとまず、レイの左薬指にはまった紫色の宝石に視線を合わせてやった。


「……ぁ、あぁ、宝石ソレか」

「んー? 宝石ソレじゃないのってナニかなー?」

「…………ッ」


 渾身の力で殴りかかられた。勿論避けた。

 睨む青い瞳に小癪なサトゥヌスを思い出したが、フェルゼリォンの方が青くて、全く良い。


「ねぇー? だから何のことぉー?」

「今忙しいからちょっと引っ込んでろっ」


 気になって仕方がないらしいレイの食い下がりに、リォーが顔を赤くして怒鳴り返す。レイがむっと可愛らしく顔を顰めたが、フェルゼリオンの言葉を真に受けて渋々引き下がった。

 そんなレイから顔を背け、再び声量を落としてフェルゼリオンが文句を続ける。


「勝手に……指輪になんか、しやがって」


 怒っているのか照れているのか、とりあえず表情が険しい。

 様々な美人にどんなに言い寄られても全く動じなかったくせに、好きな相手にはいっかな冷静になれないらしい。よくもこれで、指輪を渡したり手を握ったりできたものだ。


「奥手な男の子への親切心のつもりだったんだけど?」

「親切心っていうなら、情報をもっと正確に寄越してもらう方が何倍も有り難かったぜ」

「ん? 正確だったでしょ?」


 盛大な感謝を待っていたクロンは、期待外れの皮肉に小首を傾げた。

 じろりと、フェルゼリォンが睨む。


「命を懸けろなんて、脅しやがって」


 その目に先程までの稚気はなく、明らかに根に持っている。

 何のことだかと記憶を辿ったクロンは、別れ際の忠告を思い出した。


『君の命全てが要るんだ』


 身代わりになるのではなく、孤独でないことを証明するという話をした時だ。だがあれは、別に誇張したわけではない。


「脅しじゃないよ。真実(ジオ)となるというのは、それ程のことだ」


 クロンは肩を竦めて、正当性を主張した。


「愛による結婚は簡単だけど、愛は消えることがある。けれど対のえにしは解消することなど出来ないし、傍に居続ければ時に憎しみにも変わる。それでもなお対であり続ける苦痛がどれ程のものか、君は知らない」

「でも対ってのは、そもそも一生で何度か変わるものだろ?」

「それは、人が作り上げた感覚に過ぎないよ。魂の共感や共時性を感じることはあっても、命そのものを縛ってはいない」


 フェルゼリォンの反論に答えながらも、その感覚が分かる者などもう地上のどこにもいないと、クロンは知っている。

 フロリアの命を懸けてまで対とすることがどうしても出来なかったように、ユノーシェルとサトゥヌスもまた、断つことのできない絆に死ぬまで苦しんだ。

 レイと対になれば、二人は今後、益々苦難に喘ぐだろう。因縁のある国の王族同士、その身に神の血を宿す者同士、無数に散らばる恩讐に二人は常に脅かされる。


(運命の子供たち、か)


 十七年前、先代斎王リリレィツェルに預けた忠告が蘇る。

 二人の持つ運命とは、世界に繋がるものだ。それが今日のようなことなのか、良い意味なのかまでは、クロンにも分からない。

 だが心躍る出会いや愛を暗示するものでは、決してない。


「命を縛るって……」

「それって、私がリォーの負担になったってこと?」


 リォーの疑念に、レイの不安げな声が被さった。声量を戻していたのに、聞き耳を立てていたらしい。ハルウを抱きしめたままだったレイが、年相応の顔に戻ってクロンを見上げている。

 クロンは横目でそれを振り返りながら、視線を奥に滑らせた。全てのやり取りを、入り込めないように眺めるしかなかった、女王エレミエルへと。


「その答えは、彼女の方が幾分知っているかもね?」

「っ……」


 クロンの誘い水に、いまだ力の戻りきらなかった榛色の瞳が、ハッと揺れる。明言を避けるように視線が逃げるが、永遠に目を背け続けることなど出来やしない。


「子は生まれるまで、胎の中で母と繋がっている。それこそ、麻縄で縛るように。生まれ出でて繋がりを切っても、子はしばらくは母なしでは容易には生きられない。親子が最初の対と言われる所以だよ」


 対の信仰がどのように広まったのかは興味がないが、その屁理屈を聞いた時には、言い得て妙だと感心したものだ。

 子供には実感がなくとも、実際に臍帯を見、母乳を与える間に、母親たちはその信仰を信じ始めるのだろう。


「……負担、なんて」


 まだその場から立ち上がれないまま、エレミエルが縋るような娘の緑眼を見返した。その否定が母親の最低限の体面なのか本心なのか、クロンには推し量れない。

 それはレイも同じはずなのに、レイは一つ息を呑むと、覚悟を決めたように立ち上がった。

 心配するハルウを残し、エレミエルの前で膝をつく。


「レイ、フィール……」


 今までで一番近い距離に、勝手に震える拳を握り締めて、深呼吸を一つ。

 何かに怯えるような母の、まるで似ていない榛色の瞳を真正面から見据えて、レイはついに問うた。


「お母様は、今も、私のことが怖い、ですか?」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ