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第93話 辿り着く場所

「レイ。今年の誕生日は、聖都で祝うことができますよ」


 ある日、勉強も終わって次はご本を読んでもらおうと会いに行ったレイに、斎王である祖母セレニエルがそう告げた。

 その通達に、六歳のレイは飛び上がった。


「ほ、ほんとうっ?」


 六歳の誕生日まで、レイは最後の聖砦(エスカトン・フルリオ)で祝うに済ませていた。体は徐々に健康体になりつつあったが、イリニス宮殿での長時間の挨拶には、まだ耐えられないという判断だ。

 だがこの一年、レイは神法を習い始め、聖砦の森を庭にして走り回るようになった。これを手紙で知らされていたエレミエルが、今度エングレンデル帝国で行われる和平記念式典に同行させることを見据えて、話を進めたのだ。

 レイは大いに喜んだ。

 母は自分を忘れてはいなかったのだ。今年は王墓のユフィールへの黙祷のついでではなく、いっぱいお話ができる。

 レイは舞い上がって勉強に精を出した。特に行儀作法は、普段の十倍は頑張った。

 頑張って頑張って、誕生日には父と母に完璧な挨拶が出来た。両親は笑顔で拍手をくれたし、姉は抱きしめてくれたし、妹とも会えた。

 だからもっと頑張って頑張って、式典では両親が誇らしいと思ってくれるぐらい、完璧にしようと思った。そのせいで、ついに当日に限界が来てしまったのだと、七歳のレイは思った。


(できるって、思ったのに……)


 身動きの取れない闇の中で、レイは自分の不甲斐なさを嘆いた。

 声は聞こえず、見えるものも何もない。ただ、闇に囚われて、手も足も思うように動かせない。心細さだけが周囲を取り巻いている。


(こんなんじゃ、わたしまた、おかあさまに……捨てられちゃう)


 そんなのいやだと、ぎゅっと縮こまった時だった。


「――やだ……っ」


 声が、聞こえた。


「やだっ、いかないで……!」


 男の子の声だ。泣きじゃくる声。

 生垣の裏に隠れて、膝を抱えて、声を殺して泣いていた。その姿を見付けた時、自分と重なって、レイはとても放ってはおけなかった。


『泣いてるの?』


 ひょんっと、無理やりその顔を覗き込んだ。

 生垣から見えた髪が、走り出したくなる時の青空と同じ色だったから。その瞳も、見せてほしかったのだ。


『……こわく、ないの? 髪も目も、へんなのに』


 青い目に涙をいっぱい溜めて見上げる顔に、レイは一瞬で惹き込まれた。髪と目の色がみんなと違うと嫌がるのが、とてももったいないと思った。


『血はね、みんないっしょなのよ。髪も目もちがっても、血の色はみんないっしょなの。だって血はいのちだから。だから、おんなじなのよ? だから、だいじょーぶ』


 励ますようにそう言ったけれど、それはレイ自身が祖母からよく言われる言葉だった。

 亡くなった曾祖母も、四歳の時にやってきた祖母も、母と同じはしばみ色の瞳をしていた。レイと同じ緑色の瞳など、どこにもいない。

 自分は間違いの色なのだと、ずっと思っていた。

 だから、男の子がそう泣くのは、仲間を得たような気がして、実は少しだけ嬉しかった。人生の先達になった気さえした。

 だから、名前を聞いた。仲良くなりたかった。


(でも、聞きそびれちゃった……)


 仲良くなれると、思ったのに。


(わたし、もうずっと、ここにいるのかな……?)


 それもいいかもしれないと、心のどこかで思う。

 だって、誰も自分のことなんか必要とはしない。

 そんなこと、本当はもうすっかり分かっているんだ――



「レイフィール!」



(……ッ)


 新たな声が、闇を切り裂いた。

 ずっと望んでいた、焦がれ求めていた、母が自分を求める声。余所余所しくも、腫れ物に触るようでもない、心から呼ぶ声。


(おかあさま……!)


 続く母の祈りの声が、レイを包んでいた闇を少しずつ剥がし始める。


 生きて、と。


 その祈りが、まるでレイを守っていた最後の薄い膜に力を与えるように。

 はらはら、ほろほろ、完全に融合できなかった闇が、レイの体から音もなく落ちていく。


 生きて、生きて。

 逝かないで。

 まだ死ぬ時ではない。

 まだ生きなければならない。

 戻ってきて、と。

 あなたの命を、乞い願う。


 そう、何度も繰り返し祈る声に。



「――おねがい……もどってきて……!」



 男の子の声が、光となった。

 その光を頼りに、あの時は必死に藻掻いた。戻りたいと。

 でも。


(今は、聞こえない)


 この闇の中に、そんな声はどこにもない。


――……イ。レイ。


(……リォー)


 リォーの声はいつも光を放っていた気がすると、レイは複雑な気持ちで想起した。

 真っ直ぐ揺るぎない瞳と同じように、その声には自信が満ち、行動が伴っていた。

 劣等感に落ち込むレイを下らないと一蹴する声も、腹は立ったが、嫌いじゃない。嫌な奴だけど、間違っていない。

 たった一度でも、認めてくれた時は嬉しかった。

 友情も損得も、何も無いからこそその言葉は信じられた。

 だってリォーは、最初からずっと、レイをちゃんと見てくれていた。双子の残り物でも、不義の王女でも、厄介なお荷物でも、憐れな少女でもない。レイを、ただのレイとして見てくれていたから。

 その声に背中を押してもらえば、不思議ときっと、一歩、踏み出せるような気がした。


(……でも)


 どこに向かって踏み出せばいいのかさえ、今のレイには分からない。

 闇の中は、心細くて怖いから。

 闇の外に出ても、誰も自分を必要としていないかもしれないと、戻ってこなくても良かったのにという顔をされるのではと考えると、怖くて動けなくなるから。

 強張った足を叱咤して、そんな不安など下らないと笑って、最初の一歩に力を分けてくれたなら。

 そうすれば、この足の先に何があるのか分からなくても、今まで怖いと避けていたことにも、きっと向き合える。


(そう、思うのに……)


 リォーは、こんな所まで来ない。彼は大国の皇子だ。誰からも求められる青の王子だ。危険を犯すべきじゃないし、その必要も理由もない。

 彼はレイよりもずっとちゃんと王族としての意識がある。選択を迫られれば、ちゃんとわたくしよりもおおやけを優先する。

 兄である皇太子のため、兄が治めることでより平和な国と民のため。

 そこに、レイを入る余地などない。

 二人は、利害が合致したから一緒にいただけだ。

 絆なんか、なかった。

 そんなこと、分かってる。



「お前の目は節穴か」



「ッ?」


 すぐ耳元で声がして、レイはその場で飛び上がった。と言っても、足が地についていたわけでもなければ、体が自由に動くわけでもない。

 声の主も、少しも傍にはいなかった。


「ここまで辿り着くのに、どんだけ大変だったと思ってんだ」


 不服そうなその声に目線を少し先に向ければ、リォーが腕を組んで仁王立ちしていた。闇の中なのに、蒼天色の髪も藍晶石カイヤナイトのごとき瞳も、女よりも美しいその顔も、鮮やかによく見える。


「リォー……?」

「他に誰に見えるってんだよ」


 信じられずに名を呼ぶと、実に不満そうに肯定された。その顔がいかにもリォーらしくて、レイはやっとそれが自分の妄想ではないらしいと信じられた。


「なんで、ここに……?」


 問いながら、レイは徐々に自分の状況を思い出した。


「ここは、無の中、でしょ? こんな所にいたら、リォーも……」


 喋りながら、七歳の頃の記憶も蘇る。

 あの時、子供のリォーも同じ黒泪を持っていると言っていた。それはつまり、リォーもまた斎王に懸念された孤独な者ということだ。


『無はね。生まれたその瞬間から今この時も、ずっと孤独に狂ってるんだよ』


 ハルウの囁きが嫌でも耳に蘇る。

 孤独な者は、無に狙われる。

 黒泪を持っているということは、つまりリォーも危険ということのはずだ。

 もしやリォーもまた無に囚われてしまったのかと、最悪の結果が脳裏をよぎる。

 だがその心配に、リォーはしかめ面で目線を逸らした。


「そんなのは分かってる。こんな場所に長居するわけないだろ」


 何だか居心地の悪そうなその横顔に、レイは知らず身勝手な期待がきざしていたことを思い知った。


『誰も、レイ自身を求めてはいない』


 ハルウの声が呪いのように甦る。

 自分だけは違うと言ってくれたのに、結局最後にはレイから黒泪を躊躇いなく奪い、無の中に追いやった。

 認めたくはないが、それが現実だ。


「……そう、だよね」


 リォーのことを考えている時に現れたから、浅ましい期待をしてしまった。

 もしかしたら、背中を押してくれるのだろうかなどと。

 そんなこと、あるわけがない。

 無が孤独で、孤独には孤独が必要で、それがレイしかいないのなら。

 レイはずっとここにいるべきなのだ。無がこれ以上何かを求めて奪っていかないように。五百年前の大喪失クレヴォを、二度と引き起こさないためにも。


(なんだかすごく、丁度いいな)


 誰からも求められていない者が、誰かを求めている者のもとに留まる。

 都合が良くて、誰も困らない。

 先程まであんなに怖いと思っていたのに、今はそれが最善のような気がしてきて、レイはなんだか笑えてしまった。

 そう、一人で勝手に納得してしまったところだったから。


「だからとっとと帰るぞ」

「…………へ?」


 続けられた言葉に、レイは一瞬理解が追いつかなかった。


「ほら」


 意味が分からないまま、リォーが普通に歩み寄る。そして、手を出した。


「……?」


 剣だこのあるその硬い手の平には、宝石が乗っていた。多面体に加工された紫色が、幾つもの複雑な濃淡を孕んでいる。そしてそれを支える石座には、小さな環が付いていた。丁度指が一本入りそうなくらいの大きさで、継ぎ目がどこか分からないくらい美しい円環だ。

 つまり。


「……なんで、指輪?」

「げぇ!? い、いつの間に……っ!」


 首を傾げたのはレイなのに、なぜかリォーの方が動揺した。その顔は見事に真っ赤で、目が合えば更に顔ごと背けられた。

 指輪を乗せた手も、サッと引っ込められる。


「え? 何で引っ込めるの? くれるんじゃないの?」

「ちがっ、これはそのっ、魔王が勝手に――!」

「魔王? 何それ?」

「…………ッ」


 逃げた顔を追って、赤面したリォーの正面に回り込む。じぃっと見上げれば、奇麗な顔が益々赤くなった。

 それがなんだか可笑しくて、レイは先程までの悲壮感も忘れてふふっと笑っていた。


「なっ、何だよっ?」

「べっつにぃー?」


 先程まで、あんなにも孤独で寂しくて劣等感に苛まれていたのに。

 リォーが現れただけで、この底なしの無窮の暗闇が、何でもないと思えるなんて。


(……変なの)


 こんな時、いつも優しくしてくれるのはハウルだった。けれど今ここにハルウが来ても、どんなに謝っても、レイは受け入れられずにもっと頑なになっていただろう。

 だがだからと言って、別にいつの間にかリォーには素直になれるようになったというわけでもない。それでもこんなに嬉しくて気持ちが楽になったのは、リォーがいつもの喧嘩腰を引っ込めて、その手を差し出してくれたから、だろうか。


(いつもこうだったらいいのに)


 いや、それもちょっと気持ち悪いかもしれないなと、失礼なことを考えた時だった。

 ぐにゃりと、世界が歪んだ。


「!?」

「なっ、なにっ?」


 それまで質感も手触りもなかった闇が、突然レイの体を絡めとるように纏わりついてきた。まるで意思でもあるかのように闇は足元から這い上がり、足首、ふくらはぎ、腿と、まるで飢えた蛇のようにレイの体を闇に呑み込んでいく。


(違う、突然じゃない……!)


 リォーが現れたからだ。

 無は言った。レイと二人きり、一対だけの命しかない、寂しさのない世界を創ろうと。

 この中で、リォーは三つ目の存在だ。三つめは、誰とも向かい合えない。最初の一人を奪わなければ。

 そんなことを、無が赦すはずがない。


「リォー……ッ」


 明白な帰結に、レイは焦って抗った。リォーがこのまま無の中にいて、追い出されるだけならまだいい。だがもし、存在そのものを消されるようなことになれば。


(やだ……ッ)


 自分が無に囚われて会えないのなら、仕方ないと諦められる。けれどリォーの存在が消えてなくなるのは、嫌だ。絶対に嫌だ。


「リォー……!」


 けれど抗うことも虚しく、闇は指先からも這い上ってきた。視界にまでじわりと闇が覆い被さる。それはゾッとするほどに冷たくて、触れた箇所から重く苦しく、レイの自由を奪っていく。

 それでも。


「リォー……逃げて……!」


 リォーだけは、ここから逃がさなければと。

 闇が完全に自分を覆う前にと、レイは必死で手を伸ばした。


(くる、し……っ)


 苦しくて痛くて辛い。無に押し潰される。まるで無が今まで味わってきた孤独が、毒となってレイの心も体も蝕むようだ。そんなもの、猛毒だ。そしてどこにも解毒の術はない。

 この身に触れたら、孤独の毒まで移してしまう。


(あぁ、だから、みんな、避けるんだ……)


 唐突に、理解できた気がした。

 伸ばす手から、力が抜ける。

 その手を、力いっぱい引っ張られた。



「ばかやろう!」



「!?」


 光が、射した。


「一緒に帰るっつっただろ!」


 一条の青い光が、刹那にレイの心を射抜いたと思った。

 強くて温かくて揺るぎない、たった一つの光。どんなに細くても遠くても、迷いなくレイだけに届く光。


「…………ッ」


 それだけで、訳も分からず涙が溢れそうだった。

 体にはまだ重苦しい無が纏わりついていて、体中が痛くて悲鳴を上げている。視界にはまだ闇ばかりで、希望などどこにもないように思えるのに。

 それでも。


「でも、……誰も、私のことなんか――」


 無を引き離せないと、リォーを巻き込みたくないと、そう言うつもりだったのに。

 心が闇に引きずられるように、なお、弱音が零れた。

 それを。


「お前は!」


 リォーは容赦なく突き放した。


「一度でも自分から努力したことがあるのかっ?」

「ッ」

「自分から必要とされる存在になろうと、がむしゃらに頑張ったことがあるのかよ!?」

「…………ッ」


 それは、レイには下らない自己憐憫だと蔑まれるよりも胸を抉る非難だった。

 ちっぽけな劣等感を盾にする前に動けと、殻に閉じ籠ろうとするレイを無理やり引きずり出そうとする。全ては結局独り善がりなのだろうと、文句を言うだけで何もしていないのではないかと、レイの今までを否定する。

 知らないくせに。否、知っているくせに!

 涙がパッと散るほどの悔しさが、油然ゆうぜんと込み上げた。


「……私、頑張った!」


 自分の手首を掴むリォーの手首を握り返して、叫ぶ。


「何度も何度も! 頑張ったよ! 勉強も行儀作法も、式典の時も、毎年の誕生日も! 家族の輪の中に入れなくても、周りの人たちから嫌なことばっかり言われても、見てもらえるように、役に立てるように、いつか、いつかはって……!」


 母の目が痛ましそうでも、父や姉の目に憐れみが浮かんでも、名前も知らない貴族たちの目が蔑みで濁っても。

 居場所なんか、どこにもないように思えても。

 レイは、レイの出来ることを頑張った。

 人一倍器用じゃなくても、要領が悪くても、苦手なことばっかりでも、レイは自分なりに努力を続けてきた。上手く出来なくて逃げることはあっても、投げ出したりはしなかった。人よりずっと遅くても、最後には辿り着いた。

 挫けそうな夜も何度もあったけれど、そこには、祖母の励ましや、ヴァルの正論や、ハルウの慰めがあったから。


(そうだ……私、独りじゃなかった)


 ジオはいないし、母の側にはまだいけない。少しも完璧にはなれないけれど。

 全然、独りなんかじゃなかった。

 こんなことにならなければ、本当には気付けなかったけれど。


「私、みんなに助けてもらって、頑張ってきたよ……!」


 だから、まだ諦められない。

 こんな所で、いじけて蹲って立ち止まっていられない。目も耳も塞がれたって、希望を捨ててなんかいられない。

 止めどなく溢れる涙を飲み込んで、レイは腕の先のリォーを見上げる。

 美しい青い瞳が、驚くほど近くでレイを見ていた。

 そして。


「――あぁ。知ってる」

「!」


 ぎゅうっと、ひたむきなまでの力で抱き締められた。

 耳朶を、熱い吐息が間近に掠める。

 ずるい、とレイは思った。


(知ってくれてるって……私、知ってたよ……っ)


 だから、この何も無い暗闇で、リォーの声だけが鮮やかだった。


「お前のことは」


 抱き締めていた腕を少しだけ緩め、リォーがレイの瞳を覗き込む。


「その体も、心も、魂も、全部俺が貰うって、さっき決めた」


 一言口にする度に、リォーの言葉が青い光となって、絡み付く闇をいとも簡単に打ち払う。いじけたレイの、胸の奥にまで根深く巣食う孤独の毒まで、力強く踏み込んで。


「だから、無にもハルウ(アイツ)にも、お前にだって、くれてやったりしないんだよ」


 それは、随分自分勝手で、レイの意見など聞く気もなくて、あまりにも強い言葉で。


「だから、大丈夫だ」


 間違いの色の瞳をまっすぐに見つめるリォーに、レイは頷くしかなかった。

 だって。


「! ……うん……ッ」


 もう何年も前、誰かを救いたいと思ってかけた言葉が、巡り廻って自分を救ってくれるなんて。


(そんなの、思わないじゃない……っ)


 涙が、ぼろぼろと溢れて止まらない。押し流される雲間からゆっくりと光が射し込み広がるように、レイの心も体も捉えようとする闇が遠くなる。

 まるで光が生まれるようだと、レイは思った。

 もう、全身を取り巻いていた重苦しい痛みはどこにもない。

 ただ、リォーの腕の温もりが心地良い。


「……受け取れ」


 そんなレイを泣き止ませようと思ったのか、リォーが仏頂面で指輪を差し出す。互いに掴んで絡み合ったままの手の指に、その環は誂えたようにぴったりはまった。

 不思議と温かく、どこか懐かしい。


「これ、どういう意味――」


 なの、という言葉は、声にはならなかった。

 乱暴に近付いた唇で、自分の唇が塞がれてしまったから。

 息を呑んだ刹那、吐息が、鼓動が、見えない舌の先で涙の味と混ざり合う。

 けれどそれは一瞬のことで、すぐに離れてしまった。


「ッ!???」


 理解が追いつかずぱちくりと瞬く先、鼻先が触れ合うよりも近くに、藍晶石の瞳がある。

 けれど、声が一つも出なかった。まるで今の一瞬で、リォーに全てを奪われてしまったかのように。


「レイ」


 青い瞳が、レイだけを見つめて呼ぶ。

 名前を――レイの存在をこの世に繋ぎ止める、最も端的で的確な、命の始まりの言葉を。


「お前を、恋願う」

「――――ッ」


 そして再び、今度はひどく丁寧に、リォーの精悍な顔が近付く。熱い吐息を連れて、蒼天色の長い睫毛が、目の前でゆっくりと閉じられる。


「……っ……」


 その直前、同色の髪が揺れるその向こうで、最後に残っていた闇も散り散りに消えていくのが、レイの視界の端を掠めた。

 レイは瞼が完全に降りきる直前、唯一自由な右手をそっと伸ばした。掻き消える寸前の最後の闇を――ウーデンの欠片を、その手に握り締める。



――独りは、嫌だよ……――



 声が、遠くなる――。



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