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第91話 果たせない約束

 ハルウが目の前の光景に手を伸ばすに伸ばせないでいると、リォーが左手に握り締めた宝石がほんのりと光り出した。それに気を取られた一瞬で、景色が変わっていた。


「これは……」


 部屋に満ちていた光は消え、天井も消え、空には重そうな厚い雲が垂れこめている。


「ここは――フロリアを置いてきた空き家だ」


 隣にいたフェルゼリォンが、考えるような語調を途中でがらりと変えて、そう断言した。

 それで、ハルウも同じことを理解した。

 今は改暦以前の、大喪失クレヴォの真っ只中だ。天臨暦の何年かを知らないのは、人の決めた暦など神にはどうでもいいから。

 そしてこの場所は、恐らくエングレンデル王国のどこか。ライルード伯爵領を出た後、街道を進み、そこから少し外れた小さな村だ。

 そこに、孤独の神――魔王はフロリアを連れて逃げてきた。


(フロリアって……)


 誰だ、という思考の差し挟む余地もないまま、記憶が怒涛のように押し寄せる。誰かの、あるいは世界が記録してきた記憶が。

 宿を取っても良かったが、東に行けば行くほど、捨てられた家屋も多い。フロリアと話し合って、空き家を見付けてはこまめに休憩に使うことにした。

 何しろ、フロリアは身重だ。長時間の移動は出来ないし、させたくない。

 けれど天上から追ってきた使者は、すぐ間近に迫っていた。フロリアを傍に置いたまま戦うことなどできない。

 だから、ここに置いていった。

 必ず戻ってくると言い置いて。


「……でも、戻ってこなかった」


 瞬きの間に駆け巡った記憶に、ハルウはやっと言葉を絞り出した。意味はないと知りながら、隣の青眼を睨む。

 いつもの生意気な反論が上がるかと思ったが、フェルゼリォンは意外にも静かに目を伏せた。

 きっと今、二人の脳裏には、同じ記憶が再生されている。


『行ってくる。少し……時間はかかってしまうかもしれないが、必ず戻る。フロリアは、元気な子を産むことだけを考えていてくれ』

『では、この子と二人、クロンの無事を祈って待っています。帰ってきたら、今度は女の子の名前を決めないとですから、考えておいてくださいね?』

『あぁ。沢山考えておく』


 今この時より少し前の、男女の別れ際の会話。見たことも聞いたこともないはずの、けれど知っている場面。

 栗色の髪と瞳をした女性が、葉っぱ色の髪の男に抱き付いている。縋るのではなく、温もりを分け合うように。


『戦う時は、子供の姿になってはダメですよ?』


 男の胸から顔を上げ、フロリアが自分よりも長身の男の顔を見上げる。男は、緑玉エメラルドのような瞳を和らげて首肯した。


『そんな愚かなことはしない』

『あっ、でも、もうダメという時は、なってもいいですよ? 許してくれるかもしれません』

『そんなわけ……』

『なにせクロンの子供姿は、可愛いですから』


 にっこりと、フロリアが頬を染めて断言する。その愛らしさが、これから死地に向かおうという男の心をじんわりと温めた。

 フロリアは、何もかも見通しているようなのに、時々何よりも無垢な顔をする。どちらが本当の顔なのか、結局最後まで分からなかった。


「……戻ってくるつもりだったんだ。でも、勝てなかった」


 まるで誰かの言い訳を代弁するように、フェルゼリォンが言う。

 相手は、第三の神々の中でも特に戦闘に長けた二柱だった。そこに、神々のためだけに尽くす神仕カマリエラと、天界の秩序を死守する天使アスファリアスまでいたのだ。単純な頭数だけで見ても六対一だ。

 孤独の神がたとえ他の神よりも卓越した力を持っていたとしても、どんなに強人種スクリロスをけしかけても、魔獣で壁を作っても、敵うものではない。

 情報としては、知っている。だからこそ、許せなかった。決して勝てない戦いだと知りながら、待っていろなどと言うなんて。


「勝てないって知ってたなら、逃げれば良かったでしょ。それなのに、希望を持たせるようなことを言って、彼女を……母さんを待たせた……!」


 忌々しいと、ハルウは思った。

 この感情は嫌いだ。知りたくないものだ。母親はユノーシェルだけで十分だ。いや、違う。その彼女すら、母ではなかった。慕いはしない。

 ましてやハルウのことを忘れ、探しもしない女など、要らない。求めたくなどない。

 そして、憐れな母のために無責任な父を詰るなどという、そんな衝動さえも知りたくなかった。


 そこに、再び足音が聞こえた。ざっざっと、すぐ目の前の道を行く。

 ハルウとフェルゼリォンは、揃って顔を上げた。その視界の端を、金の光が泳いだ。


「「!」」


 そう思った刹那、目が合った。月も星もない暗闇の中、太陽のような二つの目と。


「ユノーシェル」


 どちらともなく、そう呼んだ。けれど金朱の髪を靡かせたユノーシェルは、二人を一瞥しただけで道の先を進んでしまった。そのまま、唯一灯りの零れる家の前で、足を止める。

 コンコンと、控えめな叩扉が続く。反応はない。ユノーシェルは、構わず何度も木戸を叩いた。

 暗澹あんたんとした夜闇に、叩扉は幾度となく上がった。コンコン、コンコン。しつこく諦めないその音に、ついに家主――仮の家主が、音を上げたように扉を押し開けた。


「こんな夜更けに、どなたでしょうか?」


 現れたのは、記憶にある通り栗色の髪と目の、二十歳前後の女性だった。目元が少し下がっていて、緊張した顔でもどこか柔和な印象がある。細身のようにも見えるが、着ている服はゆったりと大きく、腹部は僅かに大きい。

 フロリアだ。


「お初にお目にかかる。第一の神々の意思を受け孤独の神を討伐しにきた、狩猟の女神だ」

「まぁ。間に合ってますので」


 ユノーシェルの端的でいて耳を疑う衝撃的な自己紹介に対し、フロリアはまるで押し売りでも追い返すようににこりと笑って、さっさと木戸を閉めにかかった。

 その隙間に、ユノーシェルがガッと手と足を挟み込む。そしてなぜか、同じく笑顔で同意した。


「そうだろうな。孤独の神の力があれば、猪でも鹿でも、射止めるのに苦労はしまい」

「クロンです。孤独だなんて、呼ばないで」


 フロリアは、言下に笑顔を消して訂正を求めた。たとえ救世の神だろうと、大切なひとをモノのように呼ばれるのは、我慢ならないというように。


「そうか。良い名だ」


 だが神を睨む不遜な女に、ユノーシェルはただ柔らかく笑った。

 それが、内心緊張していたフロリアには拍子抜けだったらしい。閉めようとしていた木戸から手を離し、改めてユノーシェルに向き直った。


「……英雄神の噂は聞いております。もう少し早く、地上にいらして頂ければ良かったのに」


 巷に溢れる人々の嘆きを、フロリアが直球の皮肉に置き換える。だがユノーシェルは、一切の動揺を見せず頭を下げた。


「すまない。全ては、天上のご意志だった」

「まあ。いよいよ後がなくなって、重い腰を上げたのがですか? それとも、クロンを生け贄にすると決めたのがですか?」

「……そこまで純真な瞳で辛辣なことを言われたのは、あなたが初めてだ」


 にこにこと核心を突くフロリアに、ついにユノーシェルが笑みを苦くして私情を吐露する。

 実際、大喪失クレヴォはもう十年以上続いていた。天災にしてはあまりに長く、徐々に、けれど確実に迫る恐怖に、人々は疲弊していた。

 神々は地上での出来事に干渉しないと決めてから、千年以上。そこに現れた英雄神は、やっと与えられた唯一の希望であると同時に、もっと早く現れてくれればという声も、ひたひたと広がっていた。

 魔王の正体が、天上から逃れた神の一柱と知られれば、その声は爆発的に大きくなるだろう。魔王を討伐した後、英雄神をも殺せと言う者も現れるかもしれない。

 ユノーシェルは、その覚悟を常に持っていた。そしてクロンを知るフロリアには、それが可能だ。

 そのことを全て承知しているというように、フロリアはユノーシェルを見上げた。


「わたし、あなた方を糾弾いたしませんわ。ですから、わたしたちのことも、見逃してくださいな」


 交換条件だと、神を脅す。真実を暴いて、英雄神どころか天上への憎悪が爆発して引きずり降ろされるのが嫌なら、自分たちを見逃せと。

 教会の手伝いをするくらいで働いたこともない、伯爵家の令嬢が、この世を恐怖に陥れた魔王を殺しにきた神相手に駆け引きを持ち掛ける。

 それは涙ぐましいくらいに鬼気迫る迫力があった。

 だがやはり、意味はなかった。


「悪いが、あたしの使命は人の世を救うことだ。生憎、そこに自分や天上は含まれてなくてね」


 ユノーシェルが、頑是ない子供を諭すように、優しく言い含める。そこには聞くものが聞けば背信とも捉えられそうなものだが、今この場にそれを糾弾する者はいない。

 果たして、フロリアはそれまでの皮肉を収めると、物思わしげに長い睫毛を伏せた。


「わたし、大事なものは最後まで守ると決めているんです。大事なひととの約束も」


 その声はか細く、けれど鍛え上げられた鋼のように硬く揺るぎなかった。それを見下ろして、ユノーシェルもまた表情を改めた。


「なら、あたしにもその約束を守らせてもらう。……あなたの記憶と、胎の子を貰う」

「嫌です」


 言下に、フロリアは拒絶した。鉄壁の笑顔を取り戻し、愛らしく小首を傾げる。


「あの方以外の記憶でしたら、全て差し上げます」

「分かってて言うんだな。あなた、意外と性悪だ」


 ユノーシェルは、思いがけず強敵に出くわしたというように苦笑した。

 今、ユノーシェルがその胸に何を思い出しているか、物陰からこっそり見ているハルウたちにも、手に取るように分かる。


『……おれは、死にたくない』


 声と映像が、その時の痛みさえ伴って、頭の中に蘇る。

 右腕は肩から千切れ飛び、左足も膝から消え、腹には狩猟の女神の矢で大穴が開けられていた。

 追い詰められ、今にも首を落とされるという瞬間、魔者の王などと畏怖された男は、みっともなく命乞いをした。

 体中に纏わりつく自分の内臓の臭いも、掘り返された土の臭いも、もう遠い。死にたくないと勃然と思った時に感じたのは、彼女の匂いだった。

 彼女の肌が放つ、花の蜜ような香り。うずめた髪に感じる、太陽の匂い。甘い、蕩けるように甘い、彼女の吐息。クロンと呼ぶ、匂い立つような彼女の声。


『死にたく、ないんだ……』


 何十年も、何百年も探していた、自分だけのジオ。偽物の対とは違う、自分の欠けた部分を埋めてくれる大切な温もり。

 偽物の対を手放しても、彼女が傍にいてくれるなら、無はもう、クロンを見付けられないはずなのに。


『殺しはしない』


 自分と同じか、それ以上にボロボロの顔をして、狩猟の女神は言う。


『殺すよりも、もっと残酷なことは、するけれど』


 どこにも、救いのない言葉を。

 だから、慈悲を求めた。


『だったら、代わりに願いを聞いてくれないか。カミサマ?』


 その願いで、この女がこの先どれ程の苦悩を抱え、喪失に喘ぐか、簡単に想像できたけれど。


「だってわたし、忘れたくないんです」


 彼女の悲しみも憎しみも、全部余さず真っ先に受け止めることが出来ない自分の代わりに、受け取めてほしい。


「神は万能じゃない」


 フロリアの願いを、女神は慈悲深く拒絶する。


「相反する二つの願いを聞くことはできない。そしてあなたの願いは、あいつよりも弱い」


 クロンの望みのせいで、フロリアを傷付ける。その役目を、ユノーシェルに押し付けた。

 狩猟の女神は、正義の女神だ。いつだって、真っ直ぐに正鵠を射抜くことを至上とする。そう定められた存在カミに、正義のため、もう一つの正義を傷付けることがどれ程の苦悩か、同じ神に想像出来ないはずがない。

 けれど、そう願った。


「わたし、あなたが嫌いになりました」


 フロリアは、やはり笑った。嘘つきの言葉は聞かないと、ユノーシェルを拒絶する。


「わたしの願いが、想いが、あのひとよりも弱いはずがありません。だから、この子を手放すこともできません」

「あなたはただの人間だ。その体に、半神の力は強すぎる。育つほどに、命を奪われるぞ」


 胎児が纏うのは父譲りの神気ディーオだが、過ぎれば毒なのは魔気ゼーンと同じだ。フロリアの胎の子はまだ七か月程だが、母体への影響は既に出始めていた。

 夜目にも血色の悪さは明らかで、食べても食べても飢餓感が募る。クロンが傍にいなければ、立っているのも辛いほどだ。

 それでも、フロリアは毅然と言い放つ。


「この子は、クロンとわたしを選んで生まれたのです。大きなお世話です」

「死にたいのか?」

「まぁ。死にたくなんかありません」


 本気で心配するユノーシェルに、フロリアはとぼけたような返事をする。けれどその声は、どこまでも本気だった。


「わたしは、生きて、クロンが戻ってくるのを待ち、一緒にこの子を育てるのです。今度は女の子の名前を決めなければならないんです」

「……幻想ばかりを口にするな」

「あら、あなたも女なら分かって頂けるものと思いましたが……違いました?」


 ついに本音を見せたユノーシェルに、フロリアは子供をあやすように笑った。力があるのも正しいのもユノーシェルの方なのに、すっかり降参寸前のような情けない顔をしている。


「こど――クロンが骨抜きにされた理由が、分かる気がするよ」


 短い沈黙を挟んで、ユノーシェルがついに音を上げた。


「男の子なら、何という名前にするんだ?」


 頬はやつれ、目の下には消えない隈が入り、唇もひび割れたフロリアを、眩しそうに見詰める。

 フロリアは、宝物を教えるように、言った。



「ハルウ、と」



「…………ッ」


 その名を聞いた瞬間、ハルウはその場に頽れた。フロリアとクロンの記憶が、感情が、嵐のように頭の中を吹き荒れて、とても立ってはいられなかった。


『男の子なら、ハルはどう?』


 枯れ木ばかりで何もない、細い街道を二人で歩きながら、フロリアが唐突に思いついた。

 ここ最近は毎日何かしらを思いついている。川を見ればマイム、夜空を見ればコハブ。今日は天気がいいから、遠くの山がはっきり見える。


ハル? それなら、ハラーの方がいいんじゃないか? 山じゃ、動きが鈍そうだ』

『じゃあ、二つを混ぜて……ハルー……ハルウはどう?』

『そうやって、おれの名前も決まったんだな? さすがフロリアだ』


 考え込んだフロリアの横顔を愛しげに眺めて、クロンは緑色とか小枝と名付けられた時のことを思い出した。彼女の命名は、相変わらず独特だ。

 フロリアが、焦って頬を真っ赤に染める。


『で、でも! 山も空もなら、ほぼ世界の全部です! それって凄くないですか?』

『……さすが、フロリアだ』

『もうっ!』


 クロンには辿り着けない超理論に、クロンはしみじみと称賛を送った。他愛もない、ぽつぽつと続く何でもない会話。

 欲しかったのは、その程度だった。


「……そうか。良い名だ」


 ユノーシェルは、もう一度そう言った。そして、幸せそうに笑うフロリアの頬に慈しみ深く触れる。

 フロリアは、逃げなかった。傷だらけでガサガサで、触れるだけで痛むような血だらけの手を、挑むように見つめる。

 けれどその瞳は、すぐに力なく伏せられた。ユノーシェルの指先が触れた途端、そのままフロリアの体からも力が抜ける。

 既に限界だったのだろう。ユノーシェルが何か酷いことをしたわけではない。ただ、魔王との終わりの見えない逃避行に、身重の体に、赤子に奪われる生気にと、戦う術も知らない女性の身には、艱難辛苦が重なりすぎたのだ。

 その体を支えていたのはただただ気力と、魔王と子供への愛だけだった。それを奪ってしまったから、もう立っていることも、意識を維持することもできないだけで。


「ッ」


 思わず飛び出そうとしたハルウの腕を、フェルゼリォンが引き留めた。無言で、関わってはならないと首を横に振る。

 ハルウは手の届かない場所から、意識を失い、ユノーシェルの腕に抱き留められた母を見るしかなかった。その手が、ゆっくりと膨らんだ腹に触れるのを、止めることも出来ず。


ハルハラー、全てを合わせても足りないくらい、愛してる、か」


 ユノーシェルに触れられた腹が、淡く赤く光る。次には腹の膨らみが少しだけ萎み、フロリアの服に鮮血が滲む。

 そしてそれは、ユノーシェルも同様だった。よく見れば戦闘後のようにあちこち傷だらけの体に、更に大きな鮮血が追加される。

 準備の整っていない体に、胎児を無理やり移したせいだ。その苦痛は、フロリアに勝るとも劣らないはずだ。

 けれど、ユノーシェルは笑った。その頬を、一滴の涙で濡らしながら。


「とても、良い名だ……」


 そしてフロリアをそっと床に横たえると、自身もついに力尽きたように、その傍らに倒れ込んだ。



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