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第8話 皇太子の秘密

 ぱたん、と扉が閉まると同時に、アドラーティはソファの肘掛けにしがみついた。


「――ぐ」

「殿下!」


 苦しげな呼気を飲み込んだ主に、壁際に控えていた侍従文官の男が駆け寄る。丸まった背を何度もさすり、あらかじめ神殿で祝福された水をコップに満たし持ってくる。

 それを一気に呷ったところで、再び扉の開閉音が上がった。


「!」


 侍従文官が瞬時に警戒してアドラーティをその背に隠す。だが現れたのは今しがた退室した弟ではなく、同僚の侍従武官であった。


「お見送り致しまし――殿下!」


 アドラーティを見た瞬間血相を変えて戻ってきた侍従武官が、声を上擦らせて足下に膝を付く。それを手で制して、アドラーティは掠れた声を上げた。


「……いい。平気だ」

「どこがですか! 薬は」

「お飲みになられた」


 背中をさすっていた侍従文官の方が早口で答える。

 どちらが病人か分からない青い顔の二人に、アドラーティは苦笑しながら大きく息を吐き出した。喉を焼くような咳が、どうにか過ぎ去る。


「メノン、マクシム。騒ぎすぎだ」


 旧知の二人の名を呼びながら顔を上げたアドラーティは、やはり蒼白であった。玉妃譲りの整った容貌は白皙を通り越して血色が悪く、栗色の髪には以前のような艶がない。淡褐色ヘーゼルの瞳にも、疲労が色濃く浮かんでいる。

 アドラーティは、その瞳が青帝サトゥヌスの血を示す青であれば完璧だったのにと、幼い頃から憐みに隠れた陰口をずっと耳にして育ってきた。おかげで反骨の気性が強く、神経質なほど皇族としての意識を高く持ち、皇太子の公務にも必要以上に真面目に取り組んできたのだが、最近はとみに顔色が悪い。


「ですが、舞踏会からずっと咳を我慢なされていたでしょう」


 そう諫言したのは、舞踏会に護衛として付き従った侍従武官のマクシムである。レリア玉妃の従妹で、皇太子兄妹からは大叔父に当たる。二十代半ばの好漢で、元々帝国軍から転属したこともあり、長身で筋肉質の男だ。


「妹の祝いの席だぞ。無粋はしない」

「せめて弟君にだけは話されては」


 一方コップを元に戻しながら眉尻を下げたのは、侍従文官のメノンである。象牙の眼鏡をかけた優男で、アドラーティの乳兄弟でもある。


「あの猪突猛進に話しても、面倒なだけだ」


 苦笑しながら、アドラーティは立ち上がる。二人が慌てて止めるのはいつものことだ。だがアドラーティにはいつも時間がない。

 口元を押さえた時に付着した血は握って隠し、本題に入る。


「祖父と話をつける」

「ラティオ侯爵と? ですが、あのお方は現在領地で療養中ですよ」


 さすがの六侯爵が一人も、寄る年波には勝てないらしく、先月から風邪をこじらせて寝込んでいた。重篤とは聞いていないが、格好の根回しの場であるカーランシェの誕生会にも、嫡男である叔父が当主代理として出席していた。そこそこ思わしくないということなのだろう。


「知っている。だから行くんだ。明日から隣のサエウム州視察の名目で一週間予定を空けてある」


 サエウム州は、ラティオ侯爵家が州長官を務めるウィーヌム州の東隣に位置し、今の州長官になってから治安が悪化している。大義名分は幾らでも作れた。


「そんなことを、いつ……」

「侍従を通さなければ、割と隠せるものだな」


 驚くメノンに、アドラーティはにやりと口角を上げる。

 メノンは乳兄弟として接した時間の方が長く、信頼もしている。だが皇族にそれぞれ付く侍従は家政室長官の部下であり、情報は吸い上げられ、動向は常に監視されているに等しい。水面下で動くには、城中にいる侍従や女官の目を誤魔化す必要があった。


「フェルが帰ってきてすぐだ。何かしらの行動は必要だろうと考えていた」


 親切に答えてやると、盛大に溜息をつかれた。メノンが頭を抱えて首を振る。


「だーかーらー……ッ、いい加減私のこと信用してくださいよ!」

「お前が侍従文官になってすぐ俺を売ったこと、忘れていないぞ?」

「あっ、あれはだから……!」


 にやりと蒸し返せば、メノンが目尻を赤くして口籠った。

 あれはまだ二人が八歳か九歳の頃だ。

 勉強の時間だったが、アドラーティは逃げ出して蔵書室に隠れていた。人気のない片隅で、寝室付き女官の事務記録やサトゥヌスの王妃ミセリアについての記録など、未来の皇太子には必要のないものばかりを読んでいた。それを、侍従見習いとなったばかりのメノンが見付けたのだ。

 そしてそれは、見習いになる前にもよくあった光景であった。それが災いし、アドラーティと別れたメノンは上官の質問に普通に答えた。


『殿下なら、蔵書室で見かけましたよ』


 と。

 お陰でアドラーティは呆気なく捕獲された。挙句、常の三倍の宿題を言い渡された。めでたしめでたし。


「そういう仕組みになっているって知らなくて!」

「おいメノン。はぐらかされるぞ」


 からかう口調に頬を赤くするメノンに、マクシムが半眼になって口を挟む。

 メノンが侍従職に携わるようになってすぐの失敗を持ち出すのはいつものことで、本心でないことぐらいは分かっている。ただ、全てを一人で処理してしまおうというのも、アドラーティの抜けない性分ではあった。


「んんっ」


 年長者のマクシムの忠告に、メノンがずれた眼鏡を直して口調を戻す。


「とにかく、今動かれては危険です」

「今しかない。フェルが王証を持ち帰ったことはじきに知れる。その前に先手を打つ必要がある」


 それは推測ではなく、確信であった。

 現帝はまだまだ若く頑健で、内憂も外交上の火種も少ない。宮廷もある程度御せている現段階では、アドラーティの皇太子位はまだ長いだろう。だがそれは、蟻の一噛みで揺らぐようなものだ。


 六侯爵家は魔王討伐後の戦後復興にいち早く尽力した歴史ある名家だが、その後の力関係は度重なる婚姻や政権の奪い合いによって何度も書き換えられている。

 それは今現在も進行中で、表では議会、裏では間諜を送り込むなどして常に互いに足を引っ張り合っている。ラティオ侯爵家に属するアドラーティも、その泥仕合から逃れることはできない。

 そして一つの家でも行動に出れば、被害はアドラーティ一人に留まらない。巻き込まれるのは、母か、妹か、弟か。事が起きれば、最悪命を狙われる可能性もある。

 それだけは、絶対にあってはならない。


「お供します」

「あぁ、頼む」


 膝をついて頭を垂れたのは、侍従武官のマクシムであった。アドラーティが、そう答えると信じて疑わない顔で頷く。そうなればもう、メノンにも否やはなかった。


「私は、お供させて頂けないのでしょうね」

「留守はお前にしか任せられないからな」


 いつも通りの諦めを滲ませて同じく跪くと、苦笑と共に嬉しい言葉を与えられる。それだけで、メノンは主に付き従えない悔しさを飲み込める。


「勿体なきお言葉」

「このことは陛下にだけお伝えしろ。俺の不在は誤魔化せるなら三日としろ。あと、フェルには言うな」

「御意」


 無理難題をとは、最早言わなかった。信頼の裏返しだと、承知している。

 一拍の間。顔を上げ、三人で視線を交わし合う。一緒になって悪巧みをしていた子供の頃と、少しも変わらない。フッと、誰もの口元に笑みが零れた。


(……だがそれも、俺の秘密が秘密であるうちか)


 そのうちの二つに、微かな苦みが上る――直前。

 こつり、と扉の向こうで靴音がした。


「……フェルか?」

「確認して参ります」


 小声で問うたアドラーティに、既に動いていたマクシムが頷いて把手に手を掛ける。

 慎重に開けられた扉の向こうに、人影はなかった。動いた空気に、ジジ、と燭台の蝋燭の火が揺れる。


「……誰もいないようです」


 音を立てずに扉を閉めたあと、マクシムが眉根を寄せる。再び三人の間で目線を交わし合う。

 そこからの行動は早かった。


「マクシム。今すぐ出る」

「はっ。すぐ手配を」

「メノン。特にファナティクス侯爵家とフィデス侯爵家には気を付けろ」

「承知しております」


 応答の声と共に、二人が静かに迅速に部屋を後にする。それを見送りきる前に、アドラーティもすぐさま自分の準備に取りかかる。

 その背後で、白刃が静かに振り下ろされた。



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