第2話
三
俺は、前の日に出張でこの町に来ていた。出張と言っても、ここは、以前勤めていた会社の元上司が作った会社があって、情報交換が主な仕事だ。
元上司の会社から仕事を回してもらったり、俺の会社からも仕事を回したりしている。別にFAXでも電話でも、メールでも仕事上で困ることはないが、深耕を深める意味合いもあって、月に一度はここに来ている。まあ、お互い助け合いながら、仕事をしている取引先だ。
月に一度しか来ていないとはいえ、五年以上も来ていると、みんな顔見知りのようなものだ。当然夜は酒がつく。いつもは、元上司や従業員と、何軒も飲み歩くのだが、明日は純との約束があったので、早めに切り上げた。そして、駅前の大きな時計を確認すると、ホテルへ帰った。
ホテルへ帰ると、ベットにある目覚まし時計をセットした。携帯の目覚ましもセットした。普段は目覚ましがなくても起きれる自信はある。しかし今日は、初めて女の子とデートする前の晩のように、何回も目覚ましがセットされているか確認した。
シャワーを浴びて、ベットに横になって寝ようとしたが、なかなか寝付けなかった。不思議な感覚だ。金を出せばホイホイついてくる女はいるが、明日、その女と会うことになっていても、こんな感覚は起きないだろう。
夜中、何度も目が覚めて時計を確認した。そんなことが何回か続いて、ようやく朝を迎えた。目覚ましなんてなくても大丈夫だった。
朝起きて外を見ると、雲ひとつない天気だった。最初に純にあったのが、物凄い天気の時だったせいもあってか、寝不足の体でも、心は晴れ晴れとしていた。
熱いシャワーを浴びて寝不足の体を起こすと、ひげを剃り、着替えをした。時計を見ると約束の時間まではたっぷりと時間があったので、その日はゆっくりと朝食を食べた。朝食といっても、ホテルの一階のレストランで食べる普通のものだ。
朝早くからホテルのレストランは混雑していた。前の日のうちに泊まりにきて、この町を観光する観光客が多いようだ。やたらとアベックが多かった。ビジネスマンらしい客もいた。相変わらず下品な食べ方をしている奴もいたが、今日は気にならなかった。なんとなく、自分は、こいつらよりちょっと幸せな人間だと思ったからだ。
部屋に戻って、テレビを見たり、新聞を読んだりしていたが、そわそわして落ち着かなかったので、ホテルを出て純との待ち合わせ場所に向かった。
歩いていると、木々を揺らした初秋のさわやかな風が、体を通り過ぎるときにこの町の匂いを運んでくれた。まぶしい太陽の光は、スポットライトのように自分を照らしているようだった。仕事で来ているときはなにも感じない町並みも、温かく自分を迎えているような気がした。すれ違う人達にもなんとなく懐かしさを覚えながら、大きな時計を目指した。
待ち合わせ場所には十分程で着いた。約束の時間まで三十分以上もあるので、大きな時計の近くにあるベンチに腰を下ろした。
純は隣町から電車で来る予定になっていた。この町は、そこそこ人も集まり、町行く人もそれなりにおしゃれだ。だが、決してすれちゃいない。人の良さを残している。俺に言わせれば「いい町」だ。
約束の時間の十分ほど前に懐かしい声が聞こえた。懐かしいといっても、つい一ヶ月前に会ったばかりだが。
純は「ユウさん、ここです」と言って、手を振ってこっちに向かってきた。今日も女の子らしい服装をしていた。それを見てなんとなく嬉しかった。そういう服装をするのは、純の素直な感情の表れだ。しかし、純の告白がなければ、俺は純をずっと少女と思っていただろう。それほどまで、純は一人の少女そのものだった。
「早かったね」
「ユウさんも早かったですね」と言って、俺のこめかみを見た。
「本当だ、直ってる」こめかみを触りながら言った。
「そうだろう。もう、たんこぶも全然なくなったよ」純はホッしたようだ。
しばらく、二人でベンチに座って話しをしていた。
「ユウさん、この町に何回くらい来たことがあるんですか」
「そうだな、かれこれ五年くらい前からだから、五十回以上は来てるかな」
「じゃ、だいぶこの町のこと詳しいでしょう」
「いや、実はネオン街は詳しいんだが、いつも、次の日の朝、真っ直ぐ帰るから全然分からないんだ」
「そうですか。それはちょっともったいないですね」
「じゃ、ちょっとこの町を案内してくれるかな」
「いいですよ。ついて来て下さい」
純に案内されるままに町をいろいろまわった。大きなビルが立ち並ぶところもあれば、急に緑が深くなったかと思うと、大きなお寺が現れたりする。城下町と近代が入り混じった町だ。それぞれを単独で見れば、アンバランスに見えないこともないが、全体的には、微妙な調和がとれて、見るものを飽きさせない。いつも、ここに来ていたのに、今までなにも感じなかったものが、今日はなんとなく新鮮に感じられた。しかし、この町は映画館のやたらに多い町だ。
「へー、こんなに映画館があるんだ」言っちゃあ悪いが、人口の割りに映画館が多かった。というか映画館が多すぎた。この町の人は、よほど映画が好きなんだろう。むかしの名画ばかり流しているところや、最新のものを流しているところまで、それこそ、よりどりみどりといったところだ。
「でしょう。ところで、何か観たい映画あります?」
俺は、純と映画を観る約束を思い出した。
「ああ、そうだな・・・そういえばさっき看板にあったんだ。なんて言ったかな、昔の映画で、ほら、刑務所に入れられて・・・なんだったかな、最後は脱獄して・・えーと」
「ショーシャンクの空に!」
「そう、それ!それが見てみたいな。君は見たことはあるかい?」
「えへへ、実は見たことがないんです。じゃ、それにしましょう」
純は笑顔で答えたが、よく考えれば純が見たい映画ではないかも知れなかった。
映画館に行って、上映時間を見た。少し時間があるので、近くのデパートで時間をつぶすことにした。
俺たちは、デパートの一階でブラブラしていた。少女は、やっぱり、アクセサリーや小物に目が行くらしい。あれこれ手にとっては眺め、ピアスを眺めては、今度は指輪を見るといった具合だ。加奈とだったら、あくびをかみ殺していただろう。しかし今は、純が笑顔でいることが嬉しくて、あくびなんぞ出る訳がなかった。
イアリングを見ていると、店員がつかつかと近寄って来た。
「どうぞ、手にとってごらん下さい。ああ、こちらなんか、よくお似合いだと思いますよ」と言って。何個かケースから出した。値段を見て、純がちょっと驚いたような顔をした。
それを見て店員が言った。
「今日は、お父様とご一緒ですから、そのくらい大丈夫じゃないですか。ねえ、お父様」
俺は軽いショックを受けた。いや、軽いなんてものじゃないショックだ。
純は、そんな俺を見て、笑いをかみ殺していた。
「また、今度ね」と言って、俺はその場を立ち去った。
純はといえば、まだ笑いをかみ殺していた。
「そう笑うなよ。ショックだったんだから」
「そうですね。でも、はたからみたら、そう見えるんでしょうね」純は笑っていた。
純に感じている愛情は確かに、そういったものかも知れない。ただ、俺は結婚もしてなければ子供もいない。そういった感情はよく分からない。
「そうか、純も俺をオヤジだと思っていたな」
「いえ、違います」純はまだ笑いをかみ殺していた。
「そうだろ。俺をインディ・ジョーンズだと思ってるだろう」
「今はそうです」純は笑いながら俺の顔を見た。その目からは、俺に対する愛情のようなものが感じ取れた。
しかし、純が俺に対してどういう愛情を持っているのかは、俺には分からなかった。ただ、それを感じ取れただけで、それはそれで嬉しかった。
そんな感傷に浸っていたら、純は今度は吹き出して笑った。なにもそんなに笑わなくてもいいのに。
「純には言ってなかったかも知れないが、俺はこれでも三十二才なんだ。せめてお兄様と言ってくれりゃな、あの店員も」俺は言った。
「えっ、もう三十過ぎてるんですか。もっと若いと思ってました」
その言葉にちょっと自信を取り戻した。
「そうだろ、そう思うだろ」
「でも、年は関係ないです。ユウさんはフリージアのようですから」純は笑い過ぎて涙が出たのか、ハンカチで目の辺りを拭きながら
言った。
「ああ、フリージアね。なんで、フリージアなの?」
「それは秘密です」純は、またいたずらっ子のような目をした。
俺はあいまいな顔をした。花のことは本当によく分からないが、ま、悪い花ではなさそうだ。
デパートを一通り見て、映画館に向かった。この映画館は、繁華街からちょっと離れたところにあって、遠くから見ただけでは、映画館とは思えないような造りをしていた。どこかのオフィスビルといった感じだ。建物は三階建てで、一階から三階まで、それぞれ別の映画を放映しているようだ。俺の青春時代の頃の映画が多く、なんとなく懐かしさを覚えた。
館内はやや狭かったが、清潔感のある内装だった。人も混雑しておらず、ゆっくり映画を鑑賞できる雰囲気だ。
「この映画、観たことないんですか?」純が聞いた。
「実は途中までは見たんだ。ところが、見ている途中で地震が起きてね。それで、係員が館内の点検をするとか言って全員映画館から出されたんだ。そのうちバイトに行く時間になって、結局、全部観れなかったんだよ」」
「そうなんですか」
「そう、それで、最後まで観た友達が、面白かったって言ったのを思い出したんだ。そいつは、ラストは実は・・・って言ったから、言うな、俺が見るまで言うなって言ったんだ。でもそれきり観てなかった・・・おっ、始まるぞ」俺たちはスクリーンを見た。
放映中、俺は映画を夢中になって見ていた。それは純も同じだった。映画が終わって、俺たちはしばらく椅子に座ったままその余韻に浸っていた。
「いい映画でしたね」
「ああ、こんなラストだとは思わなかったよ。あの時、友達にストーリーを最後まで聞かないでよかった」と言った後「グー」っと俺の腹の虫がなった。
「お腹空きましたね」
「そうだな、なんか食べにいくか」
俺たちは映画館を出て、食事のできる場所を探した。
「どこかないかな」
「ごめんなさい。私が調べてくればよかったのに」
「いや、いろいろ探すのも楽しいものさ。それに、純と会うのはこれが最後じゃないし」
純は俺を見て、嬉しそうに言った。
「そうですね。今度は私が探しておきます」
俺たちは、いつの間にか人通りの少ない所を歩いていた。昔のメインストリートだったのだろう、昔ながらの商店が立ち並んでいた。
そんな中で、一軒のレストランを見つけた。そこは、その通りにしてはしゃれた感じで、土曜日ということもあり、アベックが多かった。お奨めはシェフ自慢のハンバーグだった。俺たちはそれを注文した。当然、デザート付で。
「今日の映画、面白かったですね」純が言った。
「あの主人公は辛抱強いな」
「毎日、毎日、少しづつ、脱獄するための穴を掘ってたんですね。やっぱり、なにか、目標を持って頑張るって大事ですよね」
「そうだよ。純はアメリカに行って花屋さんになるんだろう。少しづつ、少しづつ、頑張ってごらん」俺は純の顔を見た。
「うん」と頷いただけだったが、純の目は、なにかを決心したようだ。そして俺の顔を見て「今は一人じゃないし」と言った。
俺はそれがとても嬉しかった。こんな俺でも、純は俺を必要としている。俺との出会いが、少なからず純にはいい影響を与えている。それが感じられたからだ。
「いただきます」俺たちはいつものように食べ始めた。
純の食べるのを見ていた。
「しかし、純は、和食でも、洋食でも、食べ方が綺麗とういうか、上品だよね。いつも感心するよ」
「おばあちゃんのしつけだと思います。おばあちゃんは昔、学校の先生をしていて、食べ方とか礼儀には厳しいんです」
「なるほど、そういう訳か。そういえば、おばあちゃんが、こないだ電話に出たとき、ちょっと安心したんだ」
「えっ、どうしてですか」純は不思議そうな顔をした。
「純が言った通り、優しそうだったからさ」
「そうですね。おばあちゃんは優しいです。ずっと育ててもらってますけど、本当に大好きです」
「ずっとって、いつから」
「両親は、私が生まれてすぐ事故で死んでしまったんです。だから私、両親の顔は写真でしか見たことがないんです。おばあちゃんはそれ以来ずっと、私を育ててくれています。おじいちゃんもいたんですけど。五年前に病気で死んでしまって。そう、おじいちゃんも優しかった。だから、おじいちゃんが死んだ時はショックでした」
「なんだか、悪いことを聞いてしまったね」
「いえ、ユウさんには、私のことを隠すつもりはありません」
「そうか、俺も純にはなにも隠すつもりはないよ」
「そうですか、じゃ、私から質問です。なんであだ名がユウさんなんですか?」
「うっ・・それは、その・・」俺は仕方なくあだ名の由来を話した。
「そんな風には見えないですよ」純は笑った。
「当然、俺もそんな人間だとは・・・思ってなかったりして・・・」俺は笑うしかなかった。でも、心の中で、純が両親がいないこと
を乗り越えられていることが分かって、ホッとしていた。
デザートも食べ終わり、コーヒーも飲み終えて、時計を見た。
「そろそろ、電車の時間だね」
「そうですね、あっという間でしたね。ユウさんは、今日はここに泊まるんですか」
「ああ、今日はここに泊まって、明日の朝帰るよ」
店を出て俺たちは駅までの道を歩いた。辺りはすっかり暗くなっていた。街路樹の葉が、風に吹かれて揺れていた。茶色に統一された歩道の脇の街灯がそれを照らし、人があまり通っていないこともあって、なんとなく、神秘的な感じがした。
「ユウさんは、付き合ってる人いるんですか」純は突然聞いてきた。
「ああ、いるよ」
「どんな人なんですか」
俺は純を見た。純は前を向いて歩いていた。
「そうだな、どんな人と聞かれたら、いい人だと答えられる人さ」純は相変わらず前を向いて歩いていた。
「じゃ、私と会っていたら、その人と会う時間がなくなっちゃいますね」と言って純は俺の顔を見た。
「俺は、純に会いたいから会っているんだ」それは偽りのない気持ちだ。
純は立ち止まった。
「私、ユウさんといると、なんとなく勇気付けられてる気がします」そう言って純は、また、前を向いて歩き始めた。
純は気を使っているのだろう。その気持ちは嬉しかった。たしかに、俺は、純を見捨てて、今まで通りの生活に戻る気になれば戻れる。しばらくすれば、純のことも少しずつ、忘れてしまうに違いない。しかも、俺のできる事といえば、純とこうして会って、笑顔を思い出させること、夢を忘れさせないこと、そのくらいしかできない。それが、純の人生にとってどの程度プラスになるのかも分からない。しかし、純をこのまま一人にさせて置くことはできない。偽善者と言われようが、なんと言われようが、俺は純を守ってやらなくちゃいけない。
しばらくは二人ともなにも話さずに歩いた。駅に近づくにつれ、人通りは増えてきていたが、二人は、時間を惜しむようにゆっくりと歩いた。
駅に着いて、プラットホームまで純を見送った。純は、電車に乗るとき笑顔で手を振った。その時俺に見せた笑顔は、いままで以上にやさしい笑顔だった。そして、それは、純の俺に対する愛情を感じさせるものだった。
しかし、電車が発車したとき、ふと純の顔から寂しさを感じ取った。それは、また、現実に戻らなければいけない、その寂しさだからだろう。ゆっくりと動き始めた電車の座席に座っている純に言った。
「また会おうな。今度は美味しい店を探しておいてくれ」
純は笑顔で頷いた。俺は電車が見えなくなるまで、純を見送った。純もずっと窓を開けて、俺に手を振っていた。
「まるで、映画ようだな」
ホテルまで俺はゆっくり歩いた。どこにでもいる酔っ払いがフラフラ歩き、飲み屋の呼び込みは服を引っ張り、香水の香りをプンプンさせた女が声を掛ける。飲んでいる時以外は、面倒くさいとばかりに早足になるところだが、今日はこの町の雰囲気をずっと味わっていたい気持ちだったので、町の賑わいや空気を体に染み付かせるかのように、わざとゆっくり歩いてホテルに向かった。
ホテルに着くといつものように缶ビールをグイっと飲んで、熱いシャワーを浴びてベットに横になった。
今日の純は、前より明るく元気そうに見えた。それを感じただけで今日は満足だった。でも、これで終わりじゃない。これからも純を見守ってやらなければならない。と自分の心に言い聞かせて、眠りについた。
四
「やばい、もうこんな時間だ」俺は慌ててホテルのベットから飛び起きた。今日は、純とお昼ご飯を食べる約束をしていたんだ。待ち合わせ場所は一ヶ月前と同じ、駅前の大きな時計の下だ。
俺はそそくさとシャワーを浴びた。ひげを剃ってる時間はない。急いで着替えると、待ち合わせ場所に急いだ。
今日も、前に純とこの町で会った時のような快晴だった。しかし今日は景色やすれ違う人達には何も感じなかった。そんな感傷に浸れないほど頭が痛かった。そうだ、昨日は元上司が是非にというんで、飲み屋をハシゴしたんだった。記憶もとぎれとぎれなことに気がついた。この調子だと息も酒臭いに違いない。
ちょっと遅れてしまったが。純もまだ来ていないようだ。辺りを見回したが、純の姿は見えなかった。座って待つか。俺は、近くのベンチに腰を下ろした。
「よっこいしょっと」ああ、つい言ってしまった。
次の瞬間「まだ、そんな年じゃないですよ」その声は純だった。なんだ、聞かれてたか。
「ごめんなさい。遅くなってしまって」と言って純は俺の隣に座った。
「いや、俺も、今着いたところなんだ」
「あれ、なんか、今日顔がむくんでいませんか」
「そう、昨日、取引先と遅くまで飲んじゃって。実はさっき起きたばかりなんだ。ほら、ひげも剃ってないし。いい男台無しだよ」
「それに、ちょっとお酒臭いです」・・・やっぱりそうか。
「今日は、単なるオヤジだな」
「でも、お仕事も大変ですよね、夜遅くまで、付き合わなくちゃいけないなんて」
「まあね。でも、ハタから見れば、楽しく酒を飲んでるとしか見えないと思うよ。本当はいろいろ気を使っているんだけど、お互いにね」
そう、お互いに気をつかっているんだ。大人になればなるほどそういう機会は増えてくる。そういったことは、そつなくこなしていると自分でも思う。
しかし、親友や、加奈といるとき以外は、本当は一人でいるのが好きだ。だから一人旅をしていた。だが、純といるときは違う。なんというか、純の純真な心が、世間の垢を落としてくれているような気がしていた。もちろん、そのために純に会っているのではない。純に会いたいから会っているんだ。
「じゃ、今日は私が、おいしいところを案内します。ここなんですけど」と言って純は雑誌の切抜きの案内図を見せた。
「場所分かるの」
「さっき、下見に行ったんで大丈夫です。さあ、行きましょう」と言って純は立ち上がった。
「それから、今日は私がご馳走します。おばあちゃんが、いつもご馳走になってばかりじゃ悪いからって、お金をくれたんです」純は笑顔で言った。
そうか、純が遅れたのは、下見に行ってたからなのか。俺は、無精ひげをなぞりながら、自分が情けなく思うと同時に、純のやさしさが嬉しかった。
「その店、どんな店なの」
「スパゲッティーが美味しいそうです」
「そうか、スパゲッティーか。それなら、今日の俺の胃袋でも大丈夫だ」
「ユウさん、本当に具合悪そうですね」純は心配してくれていた。
「なに、すぐ直るよ。いや嘘じゃないよ。何度も経験しているからね。俺から言わせれば、蚊にさされたようなもんだ」と強がったが、蚊にさされたほうがだいぶマシだ。
「いつも、そんなになるまで飲んでるんですか」
「昨日はたまたまさ。いつもは紳士的に飲んでるんだ」
「体に気をつけて下さいね」
「はい。すみません」つい反射的に言ってしまった。
それは、お袋にも、加奈にも言われていることだが、純の口から言われるとは思っていなかった。男の二日酔いに理解を示してくれる女はそうはいないらしい。でも、そう言ってくれるのは、逆に嬉しいことだ、どうでもいい人間にそんなことは言わない。
確かにこの町は映画館も多いが緑も多い。木の葉が大きな通りを包むように、まるでトンネルのように覆っていた。こんな町は今まで見たことがない。ここを歩いているだけで、異空間に来たような感じさえする。その木の葉が風に揺られてさわやかな曲を奏で、健康的な香りを道行く人に振りまいていた。
純の案内してくれた店は、その街路樹に覆われた通りのビルの一階にあった。外見からして若者向けといった感じだ。外に出た看板の横文字の多さ、文字の修飾は、自分にはちょっと抵抗がないといえば嘘になる。
入ってみると予想どおり、この店の客は若い女の子が多い。俺の他はみんな女の子だ。ちょうど純と同じ年頃だろう。箸が転がっても可笑しい頃なのか、あちこちで笑い声が聞こえる。
店の雰囲気も、音楽も、その年代に合わせてあって、無精ひげの酒臭いオヤジはかなり浮いている気がした。いや、間違いなく浮いている。
店員も俺よりはるかに若い。おそらく学生のアルバイトだろう。ちらっと厨房に見えた、ここのオーナーらしい人間は、どうやら、俺と年は同じ位らしい。なんとなく親近感を覚えたのは気のせいではあるまい。
俺が、周りに圧倒されていると、店員がメニューを持ってきた。
「たくさんメニューがありますね」純がメニューを見ながら言った。
「じゃ、俺はこれにしよう」さっぱりしてそうな、サラダスパというやつに決めた。
「デザートはいらないんですか」純が聞いた。
「今日はちょっと、ムネヤケするんだ」この店で、ムネヤケするなんて言うのは俺くらいかも知れないが、本当なのでしょうがない。
「そうですか、ここ、チーズケーキが美味しいって書いてあったのに、しょうがないですね」純はちょっと残念そうだ。
「そうなのか。チーズケーキは好きなんだ。俺、チーズケーキ食べるよ」せっかく純が探してくれた店なのに、食べないと純に悪い気がしてチーズケーキを注文した。
「じゃ、私もチーズケーキを注文します」うれしそうに純が言った。
この店の雰囲気に圧倒されながら、一気にコップの水を飲み干した。
「あれ、この水、美味いな。なんか、田舎の民宿で飲んだような味だ」
「そうですか」そう言って純も水を飲んだ。
「本当だ、美味しいです」
店員がそれを見ていて、つかつかとやって来てコップに水を注いだ。
「この水は清水なんですよ。毎日、マスターの奥さんが山から湧き出る清水を汲んでくるんです。おいしいでしょう」店員が言った。
「なるほど、じゃ美味いわけだ。ごめん、もう一杯いいかな」そう言って、また一気に飲み干した。店員はくすくす笑いながらコップに水を注いだ。前を見ると純も笑っていた。
「ふーうまい。これは、料理も期待できるぞ」
「楽しみですね」
俺と純が頼んだ料理が一緒に運ばれてきた。
「いただきます」俺はサラダスパを一口食べた。ふと、純が俺の顔を心配そうに見ているのに気付いた。
「うまい!」俺は言った。
「よかった!」純は嬉しそうだった。純もいただきますと言って食べ始めた。二日酔いのせいもあってか、味はごくごく普通に感じていたが、しかし、「うまい!」と言ったのは嘘ではなかった。
俺は、子供の頃、四十度近い熱を出したことがあった。医者は風邪だと言って、注射をして薬を出したが、熱は三日間下がらなかった。その間は食欲もなく、水しか飲めなかった。
三日目の夜、熱は嘘のように下がった。急に空腹感を覚えた俺は「母さん、腹減った」とお袋に言った。お袋は、その時、ご飯と大根おろしを持ってきてくれた。体を考えてのことだ。普通ならば、ご飯と大根おろしでは、あまりにも物足りなかっただろう。だが、それが美味い事といったらなかった。今でも、「一番美味しかったものは何ですか?」と聞かれたら、キャビアでも、Tボーンステーキでもなく、「ご飯と大根おろしです」と答えるだろう。そのくらいあの時は美味しく感じた。それは、きっと肉体的に食べ物を欲しがっていたからだ。
そして、今、美味しく感じているのは、一生懸命雑誌を見ながら、俺のためにこの店を選んでくれた純の気持ちが、そう思わせてくれるのだ。美味しいと感じているのは、精神的なものからそう感じているのに違いない。
チーズケーキを、コーヒーで無理やり胃袋に流し込んだ俺は、純がこの前会った時より、なんとなくしっかりしてきたような気がしていた。話し方もはっきりしてきたし、表情もこの店にいる女の子達と同じように、若い子の力強さが感じられた。なにか変わったことがあったのかどうか、聞こうとした時、純が言った。
「今日は、お城に行きましょう」
「お城か、散歩するのにはいい季節だ」
「散歩もいいんですけど、お城から見たこの町の写真を撮りたくて」
「写真?純は写真も趣味なの」
「いえ、写真を撮って、それを元に絵を描きたいんです。今まで、花とか静物画は描いていたんですけど、最近、なんとなく、風景を描いてみたくなったんです」
「そうか、絵を描くのか。芸術はいいよ、心が癒されるし」実は俺も絵は好きだ。と言っても描くのはあまり得意ではない。
会社の事務所の近くに、小さなギャラリーがあって、よく個展が開かれているが、俺はフラっといっては絵を見ている。なんとなく、心が癒される気がするからだ。
「じゃ、そろそろ出ましょう」俺たちは店を出た。
店から城までは少し登り坂になっていて、歩いて二十分程の距離だった。大きなお堀があって、そこを渡ると芝生が敷き詰められており、中に入ると、城と言うより公園といった感じだ。城に天守閣はないが、石垣はそのまま残されていた。今はこの町の住民の憩いの場になっているようだ。
一番高い、昔、天守閣があったところに行ってみると、その城の大きさに驚かされた。
「へえー、こんな大きな城があったんだ。今まで全然気付かなかったよ」
「天守閣がないので、近くにこないと分からないですよね。ほら、見てください、あそこに川が流れてるでしょう。そして、その向こうに山が見えて。私、この景色を描いてみたいんです」そういうと、純はデジカメでパチパチ写真を撮り始めた。
「あれ、純、デジカメがあるってことは、パソコンも使えるの」
「私は、ちょっと苦手ですけど、おばあちゃんは、デジカメくらいなら大丈夫です」純は、カメラを覗き込みながら言った。俺は、黙って純が撮っている景色を見ていた。
この城を造った武将は、ここで天下を取るための策略を練っていたはずだ。そして、今、俺たちが見ている風景と、同じ風景を見ていた。その武将がタイムスリップして現在に現れても、この風景は昔と同じだと言うだろう。
ただ、ここが今はこの町の住民の憩いの場だと言ったら、驚くに違いない。人間社会の構造は変化しても、自然は、時には地震のように、急に怒ったように変わる場合もあるけれど、全くマイペースだ。
しかし、人間にも変わっていないものがある。それは物質的なものでなく、心の中にあるものだ。親子、恋人同士、その思いは今も昔も変わってはいない。それがなければ人間は子孫を残せない。ただ、子孫を残すということ自体が、人間も自然の流れの中で生きていることの証でもある。
しかし、純はその自然の流れに逆らうかのように生まれてきた。まるで、大きな時計からはじき出された小さなネジのように。しかも、その時計は、そのネジがなくてもなんら変わらず時を刻んでいる。
しかし、今の俺にとっては、そのネジは大事なものだ。俺の時計も、そのネジがなくても時を刻むことはできる。だが、そのネジが収まっていた部分は、ポッカリ空いたままになってしまうだろう。それ程、純は俺にとって大切な人になっていた。
ただ、それは俺が加奈に対して持っている感情とは、ちょっと違うものだとその時は思っていた。
「こんなもんでいいかな」純は写真を撮り終わったらしい。
「ちょっと見せて」俺はデジカメを覗き込んだ。
「だいぶ良く撮れてるじゃないか」と言ったところで、老夫婦が脇を通りすぎた。
「この景色をバックに一緒に写真を撮ってもらおうか」純を見た。
「それがいいですね」純も頷いた。
「すみません。写真を撮ってもらえませんか」老夫婦に頼んだ。
「ああ、いいですよ」おじいさんが快く引き受けてくれた。
おじいさんにデジカメを渡すと、俺と純は風景をバックに二人並んで立った。純を見るとちょっと固い表情をしている。
「純、笑顔、笑顔。そんな顔じゃ、俺が悪いことをしているように思われるだろう」
「ごめんなさい。私、いつも写真撮る時、緊張するんです」
「じゃ、もっと俺に近づいて。恋人同士のように。そう、もっと。もっと近づいて。そう、そのくらい。そして、頭を俺の肩に乗せて」
「こうですか」純は言われるままに肩に頭を乗せた。
「じゃ、撮りますよ・・・ハイ」チーズとおじいさんが言うのと同時に俺は言った。
「あっ、おなら出ちゃった」
純が吹き出すとカシャっと音がした。純は笑いながら俺の肩を叩いた。それを見ていた老夫婦も笑っていた。
「ありがとうございました」純が言った。
デジカメを覗き込むと、二人笑顔で写っていた。純はいつものように写っていたが、俺の顔はちょっとむくんでいた。
老夫婦の後ろ姿を見ながら
「仲よさそうですね」と純が言った。
「そうだね。たぶん、あの夫婦も、俺たちのところを、仲よさそうですねって言ってると思うよ」
「そうですね」純は笑っていた。
それから、俺たちは城を一回りして、また町まで戻ってきた。久しぶりに歩いたので、足に疲労感を覚えたが。心地よい疲れだった。そして二人で映画を観た。
映画は、純が観たいといった青春物の映画だった。俺は、二日酔いの疲れと、歩いた疲労感からちょっと眠かったが、純は楽しそうに映画を観ていた。どちらかと言うと、映画より純の喜ぶ顔を見ていた方が嬉しかった。
そして前のように食事をして、駅まで二人で歩いていた時、昼に聞きそびれたことを純に聞いてみた。
「今日は、なんとなく前と違う感じがするんだけど、なにかあったの」
「実は、また、学校に行き始めたんです。学校って、いやで、いやでしょうがなかったんですけど、今は、勇気を出して行くようにしています」純は、はっきりとした口調で答えた。
「そうか、それはいいことだ。つらいかもしれないけど、負けないでね。一歩一歩、夢に向かって前進していくんだ」
「ユウさんと出会ってなければ、たぶん学校には行っていなかったと思います」純はそう言って俺の顔を見た。
「そうそう、そういえば、学校にイギリスから英語の先生が来ていて、いつも先生のところに行って、英語を教えてもらってるんですけど、こないだは、発音が綺麗だって、ほめてもらいました」明るい声だった。俺は心の中で「良かった」と呟いた。
学校のことは極力聞かないようにしていたが、おそらく、純は学校に行っていないだろうと思っていた。そして、純が携帯を持っていないのは、掛ける友達もいないので、それを使う必要がないからだと思っていた。それは当たっていたようだ。しかし、今は勇気を出して学校に行っている。まだまだつらい時期だろうが、なんとか、それを乗り越えて欲しい。そのためなら、俺もできるだけのことはするつもりだ。
「ありがとうございます」純はもう一度俺の顔を見て言った。
俺は、笑顔で頷いた。
「今度、写真持ってきますね」
「えっ?」
「お城で、撮ってもらった写真です」
「ああ、そうだ、待ってるよ。絵も完成したら、見せてくれよ」
「絵はちょっと時間かかるかな。それに、人に見せられるものでもないし」
「じゃ、そっちは気長に待つよ」
「それじゃ」と言って、純は帰りの電車に乗り込んだ。俺は、今日も電車が見えなくなるまで見送った。純も、ずっと手を振っていた。
五
今日は、会社の取引先のプラスホテルに来ていた。プラスホテルは、俺の会社のいい取引先だ。全国に十五店舗程のホテルがあり、大手ではないが、質の良いサービスと、良心的な値段、そしてその土地土地に合わせた営業戦略で客の評判は良い。
俺が会社を立ち上げたときから、プラスホテルには経理システムと顧客管理システムを入れて貰って、その保守とメンテナンスを行っている。会社の経営者もしっかりした人物で、俺も一目置く存在だ。俺とは気が合うらしく、会うとついつい長話になってしまう。
今日は、久しぶりに社長がいて話ができた。最初はなんのことはない雑談だったが、やがて仕事の話になった。
「やっぱり、ホテルもリピーターが大事でね。これだけ、競争が激しくなると、値段では大手にかなわないし、なんとかリピーターを増やしていきたいと思ってるんだ。そうすれば、そうそう急激な落ち込みもないはずだしね」
「そうですね。なにかお考えがおありですか」
「うん、いろいろとね。リピーターには割引をするのは当たり前だが、ポイント制にして、そのお客の家族が旅行した場合でも、そのポイントを使えるようにするとか、初めてご利用頂いた方には、DMを送って、それに割引券を同封するとか、まあ、考えたらきりがないね」
「それじゃ、新しい顧客管理システムを導入されてはいかがですか。いままでの管理システムですと、どちらかというと、宿泊予約のためのものですが、アフターの方にも力を入れて、リピーターを取り込むようにされてはいかがでしょう」
「例えば、どういう風にするんだい」
「そうですね、顧客一人一人に番号をつけて管理するんです。この人は、札幌と大阪に良く泊まっているとか、この人は毎年八月には福岡に泊まっているとか、そういった顧客一人一人の行動パターンがつかめれば、同じDMを送るにしても、タイムリーで効率的なものになると思います。それに、いつも札幌を利用している顧客が、初めて大阪を利用したときに(いつも、当ホテルをご利用頂きまして、ありがとうございます)とフロントに言われれば、決して悪い気はしないないでしょう」
「確かに言うとおりだ。しかし、今、銀行もなかなか渋ちんでね、新しいシステムを導入するにしても、融資してくれるかどうか」
「いえ、今あるシステムをちょっと改良すれば、費用はそんなにかからずに出きると思います」
「そうかい、じゃ、ちょっと見積もりをして貰おうかな」
「分かりました。来週にはお持ちできると思います」
俺と社長はしばらく、システムの打ち合わせをした。
「しかし、今の君は、会社を立ち上げた頃のような目をしているな。ちょっと前までは、妙に悟りきった目をしていたのにな」
「そうですか。いや、前と全然変わっていませんよ。たぶん」
と言ったが、純と出会って、間違いなく俺は変わった。いや、前の自分を取り戻したのだ。ちょっと前までは、まあいいさ、なんとかなるだろう、俺のせいじゃない、しょうがないと、現実から逃げていた。しかし、純を守ってやるんだという熱い気持ちを持ったことが、眠っていた俺のハートを揺り起こし、物事の本質を見失うなとばかりに、俺の正義感を目覚めさしてくれたのだ。
その日、会社に戻って、久しぶりに遅くまで仕事をした。スタッフは、そんな俺を見て不思議そうな顔をしていた。
「どうですか、今日、ちょっと一杯行きませんか」一人のスタッフがそんな俺を見て声を掛けた。
「いや、急いで片付けたい仕事があるんでな。せっかく誘ってくれたのに悪いな」俺は誘いを断り、プラスホテルのシステムとにらめっこをしていた。しばらくすると、ふつふつと頭の中に柱のようなものが出現し、それが、徐々に繋がり始めた。
「よし、できた。あとは、これをシステムに落とし込めば終わりだ」
フウーっとため息をついた。疲れたときに出るため息ではない。満足した時に出るため息だ。そういえば、しばらくこんな気持ちになったことがなかった。
コーヒーを飲みながら外を見た。いつもと変わらない景色だ。ビルが立ち並び、人が行きかい、車が通りすぎる。しかし、今日の俺には、なんとなく懐かしい景色に見えた。
そうだ、会社を立ち上げたときは、まだ二十代だった。周りから、どうせ長続きしないよ、とか、仕事なんかできる訳ないじゃないかと言われていた。今に見ていろと思って、一生懸命働いた。そして、仕事に疲れると、いつもこうして、コーヒーを飲みながら、この景色を見ていた。その時と、この景色は変わっていない。向かいの自動販売機が「お帰りなさい」と言っているようだった。
「どれ、今日はもう帰るか」会社の明かりを消して、自宅に帰った。
次の日、俺は誰よりも早く出社した。朝起きたとき、すでにプラスホテルのシステムが頭の中で完成し、いても立ってもいられなかったからだ。
「おはよう」
「おはようございます」みな一様に不思議そうな顔をしていた。
「社長、昨日は自宅に帰られたんですか」
「ああ、帰ったよ。さすがに俺でも、徹夜はできないさ」
そして、そんな毎日が続いた一週間後
「よし、もうすぐだ、これでどうだ、よし、できた」俺は声を出して言った。システムが完成したのだ。
みんなは、俺をジーっと見ていた。
「よし、昼メシに行くぞ、今日は俺のおごりだ」
スタッフを連れて食事に出かけた。食事といっても、いつも食べてる近くのカレー屋だ。
席に着いて、水を飲んでいるとスタッフの一人が聞いてきた。
「社長、最近、人が変わったようです」
「ん?良い方にか、悪い方にか」
「良い方にです。前より、厳しくなったような気がするんですけど、なんというか、怒っていても思いやりがあるというか。それに、僕がこの会社に入った頃のように、社長が生き生きと仕事をしていて、やっぱり、社長についてきて良かったと思います」
「そうか、お前たちにも心配をかけてしまったな。おれのふんどしも、ちょっと緩んでいたのは間違いない。もう少しで恥ずかしい思いをするところだった。しかし、これからは、びしっと締めていくからな、覚悟しとけよ」
そして、カレーを食べる時俺は言った。
「いただきます!」
スタッフの一人が、なにも言わずに食べるのを見て
「こら!食べる時はいただきますって言うんだ。食べ終わったらごちそうさまでしたって言うんだ。昔、教わっただろう」
周りの客は、面白そうに俺たちの様子を見ていた。だが、今の俺には周りの目はどうでも良かった。自分に自信を取り戻したことと、スタッフの気持ちが分かって、嬉しかったからだ。
その夜は、久しぶりにスタッフと酒を飲んだ。誰から声を掛けたわけではなかったが、気がつくと、全員グデングデンに酔っ払っていた。
次の日、俺はまた朝一番に出社する予定だったが
「おはようございます」
「おはよう」みんな、俺より早く出社していた。
社内がびしっと引き締まったというか、お互いの信頼感が深まったというか、とにかく、スタッフの言う通り、良い方向に向いてきているのは間違いなかった。
プラスホテルの社長に電話を入れた。アポをとるためだ。社長は、今日の午前中なら空いているということで、早速、プラスホテル本社に向かった。
「例のシステムの件なんですが、どうでしょう、この金額でできると思いますが」
「えっ、本当にこんなもんでいいの」社長は身を乗り出してテーブルの上の見積書を見た。
「この金額でいいんです。社長にはいろいろお世話になっていますし」
「いや、これならOKだよ。ところで、どう、いつごろシステムができるかな」
「もう、できてます。今日入れろと言われれば、今日、入ります」
「恐れ入ったね。君は、本当に最初に会った頃に戻ったようだ。その件は、後で部長と打ち合わせしてくれ・・・ああ、分かった。このシステム昨日完成しただろう」
「その通りです、よく分かりましたね」
「実は、昨日の夜、君が社員と酒を飲んでるのを見かけたんだ。システム完成の打ち上げだったんだな」
「まあ、そんなところです」
「君はいいな、社長、社長って随分、社員に慕われているようだな」
「いえ、まあ、実はいろいろとありまして、みんなに苦労を掛けっぱなしだったんで」
「会社も、いつも順調とはかぎらないさ。雨が降るときもある。しかし、それで地固まることもあるんだ。俺も、自分は社員を食べさしてやってるんだ。なんて、思っている時もあった。だが、困難にぶち当たったとき、本当に頼りになったのは社員だったんだ。その時気付いたよ、俺も、実は社員に食べさしてもらってたんだってね。それから、俺は本当の意味で社長になったと思うよ」
俺も同感だった。俺と純の関係に置き換えてもそれは当たっていた。最初、俺は、純を守っているつもりだった。しかし、それが、純と会っているうちに、あの純粋さに触れていると、知らず知らずのうちに、俺の心に変化をもたらした。純がいなければ、あのまま、ダメになってしまったかも知れなかった。
「ところで、君に紹介したい人間がいるんだ」
「ありがとうございます。どういった方ですか」
「探偵事務所をしている人間だ。お父さんが元警察官でね。商売柄、うちもいろいろお世話になった人なんだ。その息子さんだよ。なんでも、パソコンのセキュリティーの方でトラブルがあって、誰か詳しい人を紹介してくれって言われてね、それで、君の話をしたんだ。どうだい、話だけでも聞いてくれないかな」
「社長のご紹介とあれば、喜んで伺わせていただきます」
「おお、それは良かった。じゃ、また後で電話するよ」
探偵と言われる人間と会うのは初めてだ。事務所は、通りから一本入ったビルの二階にあった。もっと、ごちゃごちゃしたイメージがあったが、書類はきちんと片付けられ、ガラスでできたキャビネットの中も、キレイにファイルが並べられていて、それを見ただけで、きっちりとした仕事振りがうかがえた。
俺は、事務員に名刺を渡し、所長に取次ぎをお願いした。奥から出てきた男は俺を見るなり言った。
「やっぱり、君だったのか」
「あれ、どこかでお会いしましたでしょうか?」名刺を受け取っても、ピンとこなかった。平均的な日本人の身長をした、ちょっと太った中年男性で、顔もどこにでもいるタイプ、取り立てて目立ったところもなく、さっぱり思い出せなかった。
「そうだな、もう、二年振りになるな。忘れられてもしょうがないか。それに結婚してちょっと太ったしな。ほら、例のパーティーで一緒だったじゃないか」
「あれ、もしかして、吉田さんですか。でもあの時は、たしか、経営コンサルタントだって言っていたような気がしましたけど」
「ああ、職業柄あまり本当のことは言ってなかったんだよ。そうだ、たしかに君は、コンピューター会社を経営してるって言ってたな」
例のパーティーとは、いわゆる男女の出会いをプロデュースするとかいう名目で、毎月開催されていたパーティーのことだ。真面目に結婚相手を探している人、そして、俺みたいに、遊び相手を探している人、いろいろな人が集まってきていた。
この吉田という人物は、俺より五才程年上だったが、みんなに兄貴、兄貴と慕われている人物で、俺も好感を持っていた。確か、そのパーティーで良い女性と巡りあって結婚したはすだ。しかし、ちょっと太った程度でなく、かなり太ったような気がする。
「最近はパーティーには行ってるの?」
「いえ、最近は全然行ってません」
「じゃ、君もいい人が見つかったんだな」
「いえ、そうじゃないんですけど、仕事も忙しくなってきましたし、他にいろいろありまして」
「そうか。君は、どちらかと言うと、遊び相手を見つけるために行ってたような気がするから、まだ、行ってるのかと思ってたよ」
まあ、確かに、それは当たっていた。
それから、しばらくは応接室であれこれ話をした。しかし、探偵というのは、テレビや小説のように、事件に絡むなんてことはあまりないらしい。浮気調査や、人物調査が主な仕事だそうだ。そういえば、ここで働いている人間も、ハタから見れば全く普通の人間のようだ。まあ、浮気調査で尾行しても、普通の人間ぽい方が、ばれにくいとは思う。
それから、俺はパソコンのトラブルの内容を聞いて、全部パソコンを見た。そして言った。
「すぐ直りますよ」
「えっ、やっぱり。僕もそう思ったんだ。いやね、いつもお願いしている会社に言ったら、新しいシステムを入れないとだめだって言われたんだ。どうも、そこは商売上手だなと思っていたから、一応他にも聞いてみようと思ったら、案の定だな」
「じゃ、明日また伺います。それまで、パソコンと外部との接続は切っておいて下さい。もし、どうしても接続したいときは、最低限の台数にして、そのパソコンには、情報を保存しないようにしておいて下さい」
「しかし、今日、君が来たときは大丈夫かなと思ったけど、パーティーで会った時と、仕事をしている時は、まったく別人のようだな。さすがに、プラスホテルの社長が紹介してくれただけのことはある。どうだろう、これからうちの事務所のコンピューター関係は、君に任せたいと思うんだけど、引き受けてくれるかな」
「ありがとうございます。じゃ、今回の補修費用はサービスしときますよ」
「え、いいの」
「ええ、どうせ、ただみたいな仕事ですから」
「そうか悪いな。まったく、いままでの会社は人の足元ばかり見やがって」
俺は探偵事務所を後にして、会社に電話を入れた。
「今、終わったよ。うん、簡単に直せそうだ。それから、これからはうちを使ってくれるそうだ。今日は真っ直ぐ帰るから、たまに、みんな早く帰ったらどうだ。いままで遅かったし。それじゃ」
そして、俺は加奈との待ち合わせ場所に急いだ。仕事が忙しくなってきたこともあって、なかなか加奈に会う時間がなかったので、今日は罪滅ぼしに、ちょっと高いレストランを予約していたのだ。
俺と加奈は、時間通りにレストランに入った。
「いい雰囲気ね、ここ」加奈は辺りを見回して嬉しそうにしていた。
「ああ、しばらく忙しくてね、なかなか会えなかったから、今日はフンパツしたよ」
「最近、忙しそうだね。私と出会った頃は、そんなことはなかったのに。だれか会社辞めたとか、なにかあったの」
「いや、そうじゃない。このままじゃダメだって思うようになってね。今、頑張っているところさ」
「そう。やっぱり二十代で独立した人は違うんだね。最初は、この人、こんなんで会社経営できるのかなって思ってたけど」
「君の目に、間違いはなかったってことさ」残念ながら、それはいい意味でも、悪い意味でも当たっている。
料理が運ばれてきた。俺は「いただきます」と言った。
加奈もそれを聞いて「いただきます」と言って食べ始めた。しばらくは、雑談をしていたが、急に加奈が言った。
「そうか、だから最近雰囲気が違うんだ」
「えっ、俺がかい」
「そうよ。なんか、前までは、私がしっかりしないとって思っていたのに、最近は、本当はちゃんとした人なんだって、思えるようになったの」
「俺は、そんなに変わっていないけどな」
「やっぱり、男の人は仕事に打ち込むって大事なことだよね」
仕事に打ち込んいるのは結果論で、俺が変わった原因は、純との出会いだ。俺は加奈に純のことを話そうか迷った。だが、それは言えなかった。別に浮気をしてる訳でもないし、悪いことをしているつもりもなかったが、ただ、純のことを聞いた加奈が、純のことをどう思うか。それが怖かったからだ。
「ねえ、今度家にこない。親が夕御飯でも一緒に食べないかって言ってるの」
やれやれ、またこの話か。でも、俺ももう三十三だしな、どうする、ここは良く考えろよと思ったが
「来週の土曜日なんだけど、どうかな?」と加奈は言った。
なんだ、もう日程も決まっているのか。確かに年頃の娘を持つ親とすれば、どんな男と付き合っているか心配だろう。それに、結婚するなら加奈だと思うし
「土曜日なら空いているよ」
「そう、良かった。じゃ、うんとおいしいの作っとくからね」
それ以降の会話は加奈の独壇場だった。俺は「ああ、うん、そう」しか言わなかった。というか、言わせてもらえなかった。加奈はよっぽど嬉しかったのだろう。
次の週の土曜日、今日は加奈の両親と初めて会う日だ。なんとなく朝から気が重かった。父親は結構厳しい人だと、加奈から聞かされていたからだ。
ぼんやりしていると加奈から電話があった。
「今日は六時に来てね。おいしいもの、たくさん作って待ってるからね」
「分かった。娘のいい恋人を演じられるように頑張るよ」
「そんなに気を使わなくて大丈夫」
「ああ、でもね、やっぱり緊張するんだよ。こんなのが娘と付き合っているのかって思われたら、加奈も困るだろう」
「私、いつもあなたのこと自慢してるんだ。やさしくて、しっかりした人だって。だから、普通にしてくれればそれでいいの」
「そうか、分かった。いつも通りにしているよ」
「じゃ、六時ね」加奈は電話を切った。
俺は時間よりちょっと早く加奈の自宅に着いた。しかし、なんとなく落ち着かなくて、その辺をうろうろしていた。そのうち、自宅から外を見ていた加奈が、俺を見つけて手招きした。それを見て覚悟を決めて、家のチャイムを押した。
「ピンポーン」すぐに加奈が出てきた。
加奈に案内されるままに家の中に入って行った。加奈の自宅は、ごくごく普通の家だったが、玄関、応接室とも、ゴミ一つなくピカピカしていた。
最初、加奈の母親と挨拶した。まあ、普通の母親に見えたが、きれいに掃除してある庭や、家の中を見れば、きっとマメな人物なのだろう。
母親は、あれこれ気を遣ってくれて、コーヒーだの、親戚が送ってくれた果物だのを出してくれた。俺は、美味しいですねなどとおべんちゃらを言って、それをご馳走になった。
しばらくして、食堂に案内された時、そこには加奈の父親がデンと座っていた。加奈の父親は、大手企業の役員をしているとは聞いていたが、まるで、テレビに出てくる、取調べ室の刑事のような顔で俺を見た。ちょっと緊張感を感じながら自己紹介をした。
「ああ、そう」父親は顔色一つ変えずに言った。
やばいな、加奈から聞いていたとはいえ、俺の一番苦手なタイプだ。そう思った。
「ほら、お父さんも、そんなしかめっ面しないで、ビールの栓を開けて下さいな」
加奈の母親がフォローしてくれた。「ああ」といいながら、父親がビールの栓を空けて、俺にお酌をしてくれた。俺も、父親にお酌を返した。
「お父さんは、お酒はお強いんですか?」気を使って聞いた。父親は、俺を値踏みするようにジロリとこっちを見て言った。
「私は、君らみたいな人種と違って、酒に溺れる様なことはしないよ」
それを聞いて、加奈は「ちょっと、お父さん、そんな言い方しないでよ」と言った。
俺もその通りだと思った。確かに父親からすれば、娘にちょっかいを出している、どこの馬の骨か分からない男かも知れないが、初対面の人間にそれは言い過ぎだ。
けれど、まあ、父親の気持ちからすれば、分からない訳ではない。
「いや、なかなか手厳しいですね。でも、酒に溺れたことはないです。自分の分はわきまえているつもりです」と言ったが、父親はなにも言わずに、また、俺を値踏みするような目でジロリと見た。
そんな、気まずい雰囲気を察してか、母親はいろいろと料理のことを話し始めた。これは、あなたが好きだと加奈が言っていたので作ったんですけどお口に合うかしらとか、うちの娘は、料理が子供の頃から好きでこれは娘が作ったんです、でも、私にはちょっと味が濃い感じがするだとか。俺は、それに適当に相づちを打っていたが、父親が話しに割って入った。
「君は、会社を経営しているそうだが、経営はうまく行っているのかね」
「ええ、今のところは、なんとか食べて行っています」
「じゃ、君の経営哲学は何かね」
「経営哲学ですか。あまり、そういうことは考えたことはないですね」
「そんな信念のないことで、これから、この荒波を乗り越えられると思っているのか」
カチンときた。そして、一言いおうとしたところで、加奈が言った。
「お父さん。二十代で会社を立ち上げて頑張っている人に、そんなこと言う必要はないでしょう。そんなこと考える暇もなく、一生懸命働いてきたんだから。ねえ。そうでしょう」加奈はこっちを見た。俺は肩をすくめてビールを飲んだ。
しばらく重い雰囲気が辺りを包んだ。さすがにやばいと思って加奈の父親に話しかけた。
「しかし、お父さんは、あれだけの一流企業で幹部になっておられますから、いろいろと、ご苦労もおありでしょう」
父親は、またジロリとこっちを見ると話し始めた。
「まず、君のような人間はこう思うだろうな。あんたは、会社の看板と名刺だけで仕事をしているだけだ。俺は、自分の力だけで、会社を守っているんだと。だから、私が、これこれが大変だと言っても、君は、なんだそんなことかと思うだろう。だが、君が大変だと思っていることは、私にすれば、たいしたことはない。人間にはそれぞれ、住む世界がある。それを、お互い分かり合えることは、まずない。つまり、私の苦労を、君に話してもしょうがないということだ。だが、せっかくだから、これだけは言っておく。君の経営しているような小さな会社は、周りにいくらでもあるってことだ。でも、私はあの会社で重職を任されている。私が命令すれば、何万の社員がそれに従う。それが君にできるか?できないだろう。それが、その人間の実力と言うものだ」
開いた口が塞がらないというのは、こういうことかと思った。同時に、この人の部下にならずに良かったとも思った。だが、加奈と結婚したら、この人が義理の父親になるのは気が重い。
それ以降は、母親が気を使って、いろいろ話しかけてくれた。「ええ、はい、まあ」としか言わなかったが、それなりに、娘の恋人としての役割は果たせたかなと、自分では思った。しかし、ずっと作り笑顔をしていたので、頬の筋肉がプルプルしていた。
食事が終わって、しばらくお茶を飲んでいたが、気まずい時間に耐え切れなくなって、
「今日は、ご馳走様でした。美味しかったです」と言って加奈の家を出た。加奈は、俺を送っていくと言って外に出てきた。そして二人で一緒に駅まで歩いた。
「ごめんなさい。お父さんのこと。今日はちょっと機嫌が悪いみたいで・・・」加奈は申し訳なさそうに言った。
「いや、いいんだよ。お父さんは、お父さんで、娘が心配なんだろう。別に気にしなくていいよ。でも、加奈が、あんなに料理が上手だとは思わなかった」
「子供の頃から、ずっと、お母さんの手伝いをしていたの。お母さんって、そういうところは、上手に育ててくれたと思うな。だから、料理は自信があるんだ」
「そうか。じゃあ今度は加奈の手作り料理だけ食べさせてくれよ」
「ごめんね。今日は、せっかく来てくれたのに」加奈は本当に俺に悪いと思っているようだ。
「そうだ。今度さ、一緒に旅行に行こうか。温泉がいいな」
「温泉いいね。じゃ、私いい旅館調べておくね」加奈は無理に明るく振舞って見せた。そんな加奈を見て、俺は心にある決心をした。
「いいところ探してくれよ」そう言って、改札口で加奈と別れた。
六
今週は三連休だ。土曜日に純に会って。日曜日、月曜日と加奈と温泉に行くことになっていた。仕事は忙しかったが、なんとか区切りをつけて、三連休に間に合わせた。
土曜日、純との、いつもの待ち合わせ場所に向かった。春の暖かい日差しで温められた空気が、やさしく体を包み、冬に純と会っていた時には、生き物の気配さえしなかった街路樹の木々が、力強さを取り戻し、うれしそうに葉っぱを広げていた。
今日は、純のおばあちゃんの誕生日プレゼントを買うことになっていた。
「なにを買うか、決めてきたの」
「うん。おばあちゃんに帽子を買おうと思って来たんですけど。他になにかいいのがあればと思って、ちょっと迷ってるんです」
「そうだな、おばあちゃんだったら、案外スカーフとかもいいかも知れないよ」
「そうですね。じゃあデパートに行きましょう。いろいろ売ってるし」そう言うと歩き始めた。
二人、デパートで純のおばあちゃんのプレゼントを物色していた。帽子やらスカーフやら、なかなか決められなかった。俺も純のおばあちゃんを見たことがなかったので、イメージが湧かなかった。
「どれにしようかな。やっぱり帽子がいいかな」純は迷っていた。
「おばあちゃんの趣味はなんなの」
「国語を教えていたせいか、趣味は俳句です」
「俳句!それは渋いな。じゃ俳句に使うようなものがいいんだろうけど、俳句ってなにが必要なんだろう」
「たぶん、紙とペンがあれば、他には特になにもいらないと思います。そういえばよく、季節を探して来るって、散歩に出かけます」
「季節を探す。いい言葉だ。散歩するなら、やっぱり帽子がいいと思うよ」
「やっぱりそうですよね」
純は帽子をいろいろ見始めた。そして、薄水色の帽子を手に取った。どうやら決まったらしい。
「これにします。でも、おばあちゃん喜ぶかな」
「大丈夫、プレゼントは気持ちだ。その気持ちを伝えることの方が大事だよ」
純は包装してもらった帽子を大事そうに持って歩いていた。二人でとりとめのない話をしながら歩いていると「ちょっと喉が渇いたんで、ジュース買ってきます」純は、フルーツ100%と書いてある店を指差した。「なにがいいですか?」
「そうだな。グレープフルーツジュースがいいな」
「じゃ、私買ってきます。ここで待っていてください」純は、おばあちゃんのプレゼントの帽子を、大事そうに小脇に抱えながら店に並んだ。持ってやろうかと思ったが、そう言う前に純は行ってしまった。
その店は結構はやっているらしく、年配の人から、子供まで並んで順番を待っている。若いアルバイト店員が次から次へと注文を聞いてはジュースを作っていた。次は純の順番のようだ。
ふと空を見上げた。今日の空も青々としていた。どちらかと言うと自分は雨男だと思っていたが、純と会うときは不思議なくらい天気が良かった。遠足のときも雨が降っていたような思い出が多いし、修学旅行のときも、傘をさしながら、薬師寺の面白いお坊さんの話を聞いていたような記憶もある。
それに、周りも「マラソン大会走りたくないから、お前絶対休むなよ」と言っていたような気もする。残念だが、楽しみな時は雨が降って、そうでない時は晴れ男だったようだ。マラソン大会は必ず走っていたから、多分そうだろう。
でも、純と会うのは楽しいことだ。なんで、楽しい時に晴れるんだろうか。「もしかして、実はこれは台風の目の中で、この後にまた土砂降りになったりして」一瞬そんな風に思った時、突然「邪魔なんだよ、どけ、変態!」とどなり声が聞こえた。
その声の主を目で追った。それは、若い男三人組だった。純と同じ位の年齢だろう。道の真ん中を三人並んで歩いているところだった。
純を見ると、両手にジュースの入ったカップを持って、下を向いて唇をかみ締めて立っていた。カップは小刻みに震えていた。おばあちゃんのプレゼントは道に落ちてしまって、汚れが付いていた。ようやくその事態が飲み込めた。純の側に行ってプレゼントとカップを取ると
「さあ、行こう」そう言ってその場を立ち去った。
純は手で顔を覆い、下を向いて俺に寄りかかりながら、ようやく歩いていた。純を支えながら歩いていると、近くに小さな公園があったので、二人でベンチに座った。純は下を向き、手で顔を覆って泣いていた。
公園では、子供たちが、滑り台やブランコで遊んでいた。最初、純が泣いているのを見て不思議そうにこちらを見ていたが、そのうち、また遊び始めた。
しばらく、純を見ていた。初めて純の日常に触れたような気がしていた。純も俺にそれは見せたくなかっただろう。そのつらい気持ちは痛いほど分かった。しかも、大事なおばあちゃんのプレゼントが汚されてしまっていた。純はとても悔しかったに違いない。
「今の連中は知り合いかい」
純は小さく頷いた。
「あんな連中のことは気にしなくていいよ。人の痛みが分からない奴らはたいした人間じゃない」
純は何も言わなかった。
「あんな連中だけじゃなくて、純のことも分かってくれる人も学校にはいるだろう」
純はまた小さく頷いた。しばらく純はそのまま泣いていたが、やがて口を開いた。
「・・・いい人もいます。でも、ああいう人がいると・・・本当につらい・・・」絞り出すような声だった。
「いいかい、純、あんな連中に自分の将来をダメにされたら悔しいと思うだろう。負けちゃダメだ。それに、純には味方もいるじゃないか」純はちょっと頷いたが、また、手で顔を覆って泣いていた。俺はその間ずっと純を見ていた。
スタッフの一人が「子供が風邪をひいて元気がないときは、自分が代わってやりたいと思いますよ」と言っていたのを思い出した。まさしくその通りだ。今は純の悲しみ、つらさを自分が代わってやりたいくらいだ。
たいぶ時間が立って純は顔を上げた。
「ごめんなさい」そう言うとハンカチで涙を拭いた。
「大丈夫かい」純の顔を覗き込むと、目は赤く腫れていた。
すっかり温かくなったジュースを二人ベンチで飲んだ。純はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「純、この世の中、悪い人間ばかりじゃない。本当は、いい人間の方がずっと多いはずだ。ただ、悪い人間は人の心を土足で踏みにじっても、気にしないような連中が多い。だから、みんな、その人間を強い人間だと勘違いしてしまうんだ。本当の強さは、ポリシーを持ってそれを実行することで身に付くものさ。人の気持ちが分からない人間は、ただ自分が上になって見たような気になっているだけで、それは本当の強さじゃない。負けちゃだめだ」
「そうですよね、あんな連中に負けてられないですよね」純は力強く言った。
「でも、プレゼント汚れちゃったな」
「大丈夫、中身はなんともないよ。それに、さっきも言っただろう、気持ちだって」
「うん」純は頷いた。
食事をして駅に向かった。今日は俺が先に帰らなければならなかった。明日、加奈と温泉に出発する予定だったからだ。
「明日もお仕事なんですか」純は聞いた。
「いや、ちょっと人と約束があってね」
「そうなんですか」
無関心を装っていたが、純は頭のいい子だ。人との約束がなんなのかおそらく分かっただろう。
改札口まで来たとき、純は言った。
「なんか、見送るのって、見送られるより寂しいですね」
確かにそれは当たっている。子供の頃、親戚の家に遊びに行って、帰ってくる時は平気だったのに、親戚が家に遊びに来て、帰っていくのは寂しかった。
「ちなみに俺も純を見送るとき、いつもそういう気持ちになっていたんだよ」純はふっと笑顔を見せた。
改札を通って、振り返った。
「それじゃ、またね」
「気をつけて」純は手を振っていた。俺も手を振った。
新幹線の中で、今日の出来事を振り返っていた。純の同級生かなにか知らないが、とんでもない連中がいたもんだ。しかし、純はいい人もいると言っていた。純を理解してくれている人がいることも分かった。
ただ、あんな連中がいたら、純も学校にいるのが苦しい時もあるだろう。でも、あんな連中に、純の将来が壊されるのは許せなかった。だから、純にはなんとかこの苦しみを乗り越えて欲しかった。決して、負けて欲しくなかった。そのために、自分が純の側にいるんだ。そう思った。
今日もいい天気だ。車窓から見える空は雲ひとつなかった。もしかして、自分は晴れ男に変身したのかも知れない。隣で加奈は、温泉のパンフレットや、今日宿泊する宿のパンフレットを見てはしゃいでいた。
「ネットで調べたら、この宿すごく評判がいいみたい」
「しかし、お父さんよく旅行許してくれたね」
「最近無視してるの。しばらく口も聞いていない。だから勝手に来ちゃった。お母さんには友達と旅行に行くって言ったけどね」
「そう言えば、加奈はお母さんそっくりだよ。仕草も話し方も」
「結婚したお姉ちゃんは、お父さんそっくりなの。なんとなく性格も似てる。あの二人といると、私、疲れちゃって。そうそう、お母さん、あなたのこと誉めてたよ。やっぱり、頑張ってる人の顔は違うって」
「さすが加奈の母親だ、見てるところは見てるな」そういえば加奈は、俺が出張なんかで出かけたときは、帰ってきてからの顔で、悪さをしたかどうか判断している。どうやらこれも母親似らしい。
電車を乗り継いで、途中、観光もしながら、五時には宿の近くの駅に着いた。駅の前には、古びた旅館が何軒かあり、お土産屋もあった。昔ながらの温泉街といった感じだ。
「泊まる宿はどこなんだろう」
あたりを見回すと旅館の案内図があった。どれどれと言いながら、駅前に掲げてあった案内図を二人で見た。歩いて十分程で宿に着くようだったので、せっかくだから温泉街を歩くことにした。
二人で、宿に向かって歩いていると、新しい大型旅館や、こじんまりとしながらも、風情のある旅館が立ち並んいる場所に出た。宿泊客と思われる女性は、旅館から借りたのか、色とりどりの浴衣に身を包んで、カランコロンと心地よい音を残しながら、楽しそうに外を歩いていた。
そうした旅行気分に浸っていると、「ねえ、ちょっと聞いてもいい」加奈が切り出した。「近頃、なにか変わったことなかった」
「また、浮気をしていると思っているのか」
「いや、そうじゃないけど、なんとなくあなたが変わった気がするの。仕事だけじゃなくて、なんか変わった気がする。悪い意味じゃないんだけど」
加奈は、俺の心にある純を感じ取っている。いつか言わなくてはいけないと思っていたが、純のことを、言うのは気が引けていた。
それは、加奈が純を理解できるか不安だったし、純の秘密を自分が話すことは、純に対する裏切りだと思っていたからだ。しかし、加奈が、純の存在を感じ取った以上、加奈には純の話をしておいた方がいいようだ。
どう言おうか考えているうち、しばらく立ち止まったままだったようだ。加奈は、俺の顔を覗き込んでいた。
静かに息を吸い込むと、加奈に話した。
「実は、病気の男の子を助けているんだ。病名は言えないけどね」
「そんなことしていたの!」
「ああ、今まで黙っていたけど。ほら、よく俺が出張に行く町があるだろう。その近くに住んでいるんだ。ひょんなことから知り合ってね」
「そうなんだ。で、その子、直る病気なの」
「たぶん、一生直らない・・・」そう言うと、純の顔が頭に浮かんで、つらくなって、唇をかみ締めた。涙も出てきた。
「・・・でも、とっても素直な子だよ。純粋な子さ。健気に生きてる。本当に一生懸命生きてる。そんな姿を見てたぶん俺も変わったんだよ」
「どうして今まで黙ってたの」
「その子は体の病気じゃない。心の病気なんだ・・・いや、本人からすれば逆かも知れない・・・普通の人には理解できない病気だ。だから、例え加奈でも、その子の話をすることはできなかった。その子に悪い気がしてね」
「そうなの。そんなことがあったの」
加奈は、それ以上この話をしようとはしなかった。いつもふざけている俺が、真面目な顔で、しかも、涙を浮かべて話しているのを見て、それ以上聞けなかったのだろう。
もっとも、今、俺が言えるのもそこまでだった。純に会っている時は、そう感じることはないが、他の人間に会って純の話をすると、やっぱり純は病気なんだと思ってしまう。そんな風に純を見ている自分は嫌だったし、その話をされている純があまりにも可哀相だった。
また、色とりどりに浴衣を着た女性の集団が、カランコロンと音を立てながら脇を通り過ぎた。その音を聞いて、ようやく落ち着きをとり戻すと、また、二人歩き始めた。何も話さず歩いていたが、少し歩くと足湯があった。
「ちょっと入っていかないか」せっかくの旅行気分に水を差して悪いと思って、努めて明るく言った。
「いいね、入って行きましょう」加奈も気を遣ったのか、普段温泉に行って足湯を見ても「足だけ入ってもしょうがないでしょ」と言っているのに、今日はすんなり付き合ってくれた。
足湯に浸かっていると、足だけ温かいと思っていたら、体までポカポカしてきた。
「初めて足湯に入ったけど、体まで温かくなるよ」加奈は驚いていた。
「いつも言ってる通りだろう。たまには俺の言うことも信用しないとな」
「今回は信用してあげる」加奈は笑いながら、両足を前後に動かしていた。
足湯で体までポカポカになって宿に着いた。宿はこじんまりとしていたが、成る程、評判のいい宿というのは間違いないらしい。玄関は小さかったが花や植栽が綺麗に手入れしてあり、玄関の中に入っても、畳敷きの廊下や、囲炉裏がなんとも言えない雰囲気を出していた。
この店の女将さんと思われる女性は、忙しそうにあれこれ指示をしていたが、俺たちを見ると、人の良さそうな笑顔を見せてフロントに案内してくれた。フロントの男性も手際がよく、本当に働いているのが楽しそうに応対してくれた。
「ここは、いまのところ一〇〇点満点だ。これは、風呂も料理も楽しみだよ」
「本当ね。でもここは料理がいいらしいの」加奈も期待しているらしい。
俺たちは、畳敷きの廊下を案内されて、部屋に向かった。途中、廊下から足湯が見えた。夜はライトアップされて、とてもいい雰囲気なので、是非どうぞと仲居さんが言っていた。
風呂は小さかったが、掃除が行き届いており、露天風呂も綺麗に配置された木々がなんとも言えず、静かな中にも雅な雰囲気を演出していた。
料理は、地元の食材をふんだんに使い「どうだ」というような、押しつげがましいものでなく「どうぞ、お召し上がり下さい」といった、さりげなさを感じさせながらも、これが本当の贅沢かと思わせるものだった。
当然、従業員の応対も素晴らしく、食事を終えて、すっかり満足した二人は、仲居さんに勧められた足湯に向かった。
ヒノキで囲まれた足湯は、誰もいなかったせいもあってか、ライトアップされて確かにいい雰囲気だった。二人で今日二回目の足湯に浸かった。
足湯に浸かって星空を見上げていると、加奈が俺の肩に頭を預けた。
「私も応援してるよ」
「何を」突然言われて、なんのことか分からなかった。
「病気の男の子のこと。ちゃんと見守って上げてね。でも、あなたが、あんなにまでその子のことを思ってるなんて、その子羨ましいな」
「その子だけじゃないよ、俺にとって、加奈は大事な人だよ・・・」続きを言おうとしたところで、アベックが足湯に入ってきた。俺
たちを見ると、反対側の一番離れたところで足湯に浸かった。加奈
は相変わらず俺の肩に頭を預けていた。加奈に続きを言いたかった
が、それはあきらめて、ずっと星空を見ていた。
次の日の朝、女将さんと従業員の笑顔に見送られながら宿を後にした。空は昨日より雲が多いようだ。風もちょっと湿り気を帯びている。
今日は、この温泉街の近くにある、森の散策路を通って、町を一望できる丘に登る予定だった。それまで、天気が持ってくれればと思っていた。
駅に戻り、コインロッカーに荷物を預けて、二人は森の散策路を目指した。いつも、油臭いゴミゴミした空気を吸っていることもあり、森の中の空気はとても新鮮に感じられた。
二十分も歩くと、温泉街と近くの町が一望できる丘に出た。雲は多かったが、遠くの山まではっきり見えた。
「すごいキレイ」加奈は驚きの声を上げた。
同感だ。昨日の宿といい、この景色といい、今回の温泉旅行はとても満足のいくものだった。二人はベンチに座って黙って景色を見ていた。
「心が洗われるな」そんな気分に浸っていたら、加奈が突然この前の自宅での話しをした。
「ごめんね、この前は。せっかく来てくれたのに、嫌な気分にさせちゃって」
「もういいよ。気にしてないから。それに、加奈が悪いわけじゃないし」
「でも・・・なんか、あなたに悪くて」加奈は急に暗い表情になった。加奈の気持ちは分かった。加奈は俺との結婚も考えている。しかし、このままでは、二人に明るい未来はこないんじゃないか、そう思っているのだろう。だが、俺の気持ちは決まっていた。そして、昨日の足湯の続きを言った。
「加奈。結婚しよう」
加奈は驚いた顔で俺を見た。突然だったので驚いたのだろう。しかしすぐ、笑顔を見せて、一呼吸置いて頷いた。
二人は、しばらく黙って、この景色を見ていた。すると、隣の山にちょっと厚い雲が見え隠れしてきた。しばらくすると、その雲は厚みを増し、どんどんこちらに向かってくるようだった。
「ひと雨くるかも知れないぞ、戻ろうか」
幸せの余韻に浸っていたい気持ちだったが、二人して駅に向かった。駅に着くと同時に空からポツポツと雨が降ってきた。
「この空も、もうちょっと気を使ってくれればいいのに」空を見上げて言った。
「そう言えば、雨男って言ってたよね」
「そうなんだよ。雨男なんだよ。いつもいい時に雨が降るんだ」
「じゃあ、今、雨が降るのは、いいことなんじゃないの」加奈は笑顔だった。
「そういう、見方もできるな」
帰りの電車に乗り込む頃には、雨はシトシトと降り始めた。電車の中からは、もう遠くの山並みは見えなくなっていた。代わりに、車が水しぶきを上げながら走っているのがよく見えた。
そんな味気ない車窓からの眺めもあってか、加奈は、二人で住むところはどうのとか、カーテンの色は何がいいとか、ひっきりなしに話していた。
加奈は嬉しかったようだ。俺も加奈がプロポーズを受け入れてくれて嬉しかった。後は加奈の父親をねじ伏せるだけだ。これはちょっと骨が折れそうだが、加奈のお姉さんも結婚しているんだし、時間をかければ認めてくれるだろう。
加奈を自宅に送っていった頃には雨も止んでいた。手帳を出して、来月のスケジュールを見た。手帳は来月の分までびっしりと埋まっていた。俺は、昨日加奈に純のことを話したせいか、なんとなく純に対して罪悪感を感じていた。そして、早く純に会いたかった。純の笑顔を見て、この気持ちを払拭させたかった。
それには、目の前の仕事を一つ一つ片付けて、時間を作るしかない。手帳を閉じると「よし、やるぞ」と言った。やる気が湧いてきた。そして、手帳を上着のポケットにしまうと駅に向かった.