CHAPTER 1.聖女と神の邂逅 (9)
「ちょっと! アレイズも何とか言ってよ!」
ティファがそう声を上げたのは、双子を説得しようとして小一時間が経過した頃だった。
するとその声を聞き、未だに納得行かないという顔をしている双子は眉根を顰めてアレイズへと視線を向ける。大きく明るい亜麻色の瞳が微かな敵意を含んで神であるアレイズを一瞥すると、彼は面倒くさそうに目を細めてから首を振った。神さえ恐れない態度は主譲りか。
「結婚とまではいかないが近いものはあるんだ。大して変わらないだろう」
「は?」
説得は諦めろと言わんばかりの声に呆けた声が返される。
(っていうか、そこは否定しなさいよ)
色めき立ち、再び高い声を上げようとする双子の姿を無視して胸中で呟くとアレイズがどこかはっきりしない口調で続ける。
「契約をするということは、俺の場合契りを結ぶということになるからな。間違いではないんだろう……多分」
多分って何だ多分って。
「すると何? 私は貴方と結婚したことになると?」
「そこまでは言っていいのか分からないが、まぁ限りなく近いのは確かだ」
「……」
ぽかんと口を開けると、ひんやりとした風が口腔内に入り込む。若干の埃っぽさを含んだそれが舌に触れると苦味に近いものを感じたが、それどころではない。ティファはふるふると頭を振り状況を整理しようと試みて、これ以上整理できる情報はないと即座に諦めた。がつんと頭を殴られたような衝撃の後で、ぐわんぐわんと脳裏に契りという言葉が反響する。
彼女が驚くのは無理もなかった。通常神との契約行為は聖人聖女が神に従属するための儀式であり、対等な関係になるためのものではない。だから力を借りることはあっても神がそれを拒むことはできたし、従属する聖人聖女との相性が悪ければ契約を切られ、下手をしたら祟られることもあるほどの危険なものでもあった。無論契約が双方の合意を得て初めて得られる行為ということに変わりはないが――まさかこんな。
(結婚もどきだなんて聞いてないわよ……)
鮮やかなスカイブルーの髪を掻きむしりたくなる衝動を必死に押さえ込んでがくりと肩を落とす。衝撃が強すぎて声を発することすらできないティファは唇を噛みしめ、このどこまでも説明の足りない神に対しどうやって文句を言おうか思案した。だがその前に追い打ちを掛けられる、双子の声によって。
「じゃ、じゃあ」
「結局ティファ様は……」
小さく、震える声双子の声にアレイズはにべもなく頷いた。
「神の花嫁になった、とでも言えば響きがいいんだろうな。まぁこれも運命だと思って諦めろ、ティファ」
「無茶言わないでよ!」
何が神の花嫁だ。従属する決心は何年も前からあったが、花嫁になる覚悟なんてした覚えがないというのに。ティファは苛立ちをそのまま口にし、しかしすぐに押し黙る。相手を恐れず対等な口を利いていることに気付いたからだ。それは契りを交わし対等な関係に限りなく近づいたことを受け入れていることにもなる。彼女とて、自分が事態をいつの間にかあっさり受け入れていることに気付けないほど馬鹿ではなかった。
夜目に慣れ、周囲がくっきりと見渡せるようになった視界が微かににじむ。何だかもう泣きたい気分だと考えていると、その視界の中心で双子がみるみるうちに顔を青くしたのが見えた。主が泣きそうだからだろうか。
片や泣きそうな契約相手、片や顔の青い双子ととんでもない三人に囲まれたアレイズはぎょっとしながらとりあえずティファに視線を向ける。気遣うような諦めを含んだような黒瞳が何の慰めにもならない声を発そうとする。しかしそれは悲鳴に近い声にかき消された。
「どうしましょう!」
「やばいよ姉さん!」
腕の中の兎がびくりと跳ね、慌ててマイの腕の中から飛び出していく。あまりの騒がしさに耐えきれなくなったのか、紅の目を丸く見開いた兎は誰の傍に寄ったらいいものか思案するようにきょろきょろと四人を見つめる。どうやら彼――彼女?――の中にここから離れるという選択肢はないらしい。もしかしたらアレイズにでも用事があるのだろうかとすっかり涙の引っ込んだ目を拭って首を傾げると、両手を取り合って顔を突き合わせた双子がお互いの世界に没入したように代わる代わる言葉を紡いだ。
「ティファ様は料理もろくに出来ない御方よ!? 神様が食べられるようなものを作れるはずないわ!」
「そうよ! 昔っからティファ様に料理作らせるのはかなり危険なんだから! ノルマン様が聖女に料理なんてさせるな、なんて言うから! 甘やかしすぎなのよあの方達は!」
自分の料理下手を教皇のせいにされたら敵わないのだが。
訳が分からずきょとんとした顔を浮かべるアレイズに首を振ってみせ、ティファは二人に突っ込みを入れることもせず長く深く溜息を漏らす。こうなってしまったら彼女達が止まらないのは、長年の経験で嫌というほど理解していた。ダークブルーと真紅、ロングスカートにミニスカート、色も長さも対照的な二人はしかしまったく同じ横顔で同じような声を上げる。それはティファにとっては見慣れた光景だったが、双子というものをあまり目にすることがなかったアレイズにはとても新鮮で、彼は物珍しそうに彼女達を注視しながら成り行きを見守った。どの道自分に被害が及ぶことだけはなさそうだと理解していたからだ。
「急がないといけないわ。――アレイズ様!」
「あ、あぁ? 何だ?」
だから彼に向けてマイが声を上げた時、アレイズは思わずびくりと身を震わせて答える。まさか自分に話が振られるとは。必死の形相でアレイズを見るマイはどこか使命感に燃えた亜麻色の瞳に強い光を灯して彼の手をぎゅっと握りこみ、それに合わせてもう片方の手をメイが握りこむ。二人とも勢いに任せてのものだったのだろう、その手はすぐに離されてしまったが。
「私達が急いでティファ様を家事の出来る女にしてみせますから!」
「だから、もう少しだけ待っててね、アレイズさん!」
「は? いや別にそんな焦ることでもないし、第一家事が出来る必要もないんだが――」
生真面目なマイと違い、すっかり気を許した様子のメイが砕けた様子でアレイズの名を呼ぶ。その態度にマイが少し眉を顰めたが、それはアレイズの返答のせいで霧散したようだ。
「「駄目です!」」
重なり合う声が反響する。全力で叫んでいるのではないかと思うほどの声量に思わず耳を塞ぎかけると、その間に二人はティファの腕を取った。うわ、と声を上げてティファが前に倒れこむように歩を進める。
「急ぎますよ!」
「そうよ! ティファ様にお料理教えなくちゃ! というわけでアレイズさーん、帰るから早く付いてきてくださーい」
空いた手をぶんと横に大きく振りながら道を示す真紅のメイドは一番肝心の神を放置したままティファを連れて地上への階段を目指して行く。アレイズはそれを見て苦笑を漏らしながら進んで行く。すると階段付近に石碑を見つけて、ぴたりと立ち止まった。
◇ ◇ ◇
――世界よ。
ずるずると地上へと引きずられて行く自分の契約者の背中を見ながら苦笑を漏らしたアレイズは、いつかの自分が残した言葉を指でなぞり、冷たい感触を堪能する。石碑から苔が払われたように見えるのは、ティファ達が先んじてこれを見たからか。
「……ん?」
つい先程書いたような気さえする文字を感慨深げに眺め、ふと眉を顰める――全文書いたはずの神聖文字が途中で途切れているのだ。
「一体誰が」
小さな音がしてぴょこんと白い体躯が傍に寄る。無垢な瞳でアレイズを見つめるそれは石碑に視線を移すと、すぐにまた彼へと視線を向ける。何かを訴えかけるような仕草に、思わず問い掛けが漏れる。
「お前がやったのか」
返事はない。だがそれでもよかった。
どうせ考えても詮無いことだ。自分の考えが他の神々に伝わっていることは恐らくないのだろうから。それに今はもう強烈な眠気も襲ってこない、眠り続けることもなければ魔力の供給のため休む必要もないのだ。伝えたいことがあれば自分が伝えに行けばいい。世界は広いが、果てがないわけではないのだから。
「青い髪の瞳のティファニエンド。……ようやく現れたか」
ふぅ、と吐息したアレイズは物言わぬ兎を抱きかかえ石碑に背を向ける。あまり長い間この場所にいたら三人が戻って来かねない。そう考えアレイズは階段を一段上がり、最後に一度だけ背後を振り返った。物言わぬ石碑は大部分を苔に覆われ、流れた月日の長さを彼に感じさせた。
「機は熟した。レイナ――約束は果たすからな」
この場にいない意志に向けて、そっと呟く。兎の耳が小さく動いた。しかしこの言葉だけなら聞かれても別に問題はなかった。
(例え誰を犠牲にしても。神さえ敵に回しても、必ず)
そう、たとえたった今契約を交わしたばかりの少女を謀ることになったとしても、腕の中の兎を殺しても。
囁くような声と聞かれたくない胸中の声をしっかりと抱きしめ、今度こそ階段を上がっていく。踏みしめた大地は昔と変わらず硬質で冷たい。そうして階段を上り終えようやく陽の光の下に出てくると、彼を待っていたのか三人が大声で騒ぎながら――聖女としてどうかと思ったが――背中を向けているのが見えた。無防備な姿に苦笑を漏らしながら彼女達に近付きつつ、ふと脳裏に扉を開けろと命じた時のティファの姿を思い描く。
人を扱うことに慣れた姿、堂々たる態度。本来の聖女には相応しくないあの姿は、たとえ自分達が本来の神と聖女の在り方で契約を結んだとしても力を貸さざるを得ない力を秘めていた。それは神に従属する聖女として在るまじき姿だが、アレイズにとっては何の障害にもならない。むしろ都合がいいとも言えた。彼が知る“ティファニエンド”は、そういう人物なのだから。それに、彼が願いを叶えるために必要な人間は聖人君子のように優しく大人しい人間などでは決してない。
(そう、従順なだけの女などいらない)
強い意志を持った魂。必要なのはそれだけだ。
罪悪感なのか緊張感なのか、どちらにせよあまり良い感情とは言えないもののせいで乾いた唇に舌を走らせ、どこまでも小さな笑みを浮かべる。それが苦い感情から来るものなのかそれとも歓喜から来るものなのか、見ている者が一人でもいたら判別できたかもしれないが結局は誰にも判別することはできなかった。
数瞬後には消えた笑みを見ることなくティファが振り返る、ダークブルーの瞳が困ったように向けられたのを見てアレイズは慌てて本物の苦笑を浮かべた。
◇ ◇ ◇
それから五時間ほどの時間が経った頃だろうか。メイとマイから“花嫁の心得”をとくとくと話され身も心も疲弊していたティファの元に教皇ノルマンから使者が遣わされた。
「至急契約神とお越しくださいとのことです」
端的にそう告げた使者にティファはすぐに頷いてみせる。
「分かりました」
扉が閉じられ、再び四人と一匹のみが部屋に残される。その場所で小さく吐息したティファはレースのカーテン越しに見える夕日に目を細めた。神と契約をしたのだからすぐにでも教皇の所に報告に行くのが聖女としての務めでもある。だが教皇も聖母も多忙であり、時間が取れなかったせいでここまで時間が伸びてしまった。双子にとってはそちらの方がよかったのだろうが。
(一度座ってしまったせいか、ノルマン様からの御命令だっていうのに面倒になってきたわ)
今日一日で大して歩いたわけでもなく、体力を使ったわけでもないのに自室の椅子に座った途端どっと疲労が押し寄せ、立ち上がれるようになるまでに相当な時間を要したのだ。教皇達の前に出るのはそれなりの緊張を伴う。それを考えるとティファはそう思わずにはいられなかったのだが、召喚命令が出た以上無視するわけにはいかない。
「行くのか?」
「えぇ」
覚悟を決めたように息を吸い込むと背中にそう声を掛けられる。アレイズだ。ふわりとコーヒーの匂いを漂わせてカップを持つ彼は自分も行くべきかと視線で問いかける。それに対しティファは小さく頷いてみせた。出会ったばかりだというのに目で会話ができることへの疑問は、ゴミ箱に捨てることにする。
「ノルマン様は私に貴方との契約を命じた御方よ。大聖堂は元々貴方の守護のために建てられたみたいだし、挨拶しておいてもいいと思うけど?」
恩着せがましい言い方になったかと一瞬案じたが、アレイズはふむと言いながらコーヒーに口を付けるのみで特に怒った様子は見せない。もしかしたら意外と寛容な性格なのかもしれないと感じていると彼はすぐに立ち上がり、ささやかな音を立てながらカップをテーブルへと置いた。夕日に翡翠のローブが照らされる。まったく色合いの違うそれらはお互いの妥協点を探すように溶け合い、翡翠とも赤とも言えない色に染まる。
それを眺めながらこちらは完璧に赤色と言える色に染まったローブを軽く整え、ふと薬指に視線を落とす。
――この指輪は付けていくべきだろうか。
ちらりとアレイズを見やると、彼はティファが指輪と自分を交互に見ていることに気付き同じように左手薬指に視線を落とした。そこにはティファが嵌めているものよりかは大きめの、同じ細工の指輪が嵌っている。ティファはその視線を追い、彼もまた同じ指輪をしていることに気が付いて目を見開いた。これではますます結婚しているみたいじゃないかと。ダークブルーの双眸が見開かれ、日に焼けていない白い肌が紅潮する。そうしてみるみるうちに色を変えるティファの姿にアレイズは失笑した。
「契約によって縛られるのは神も同じだ」
扉が開かれ、アレイズが外へと出て行く。長い髪が軽く揺れ夕日ではなく照明の光に照らされるのが見えた。
「そんなことが言いたいんじゃないわよ……はぁ」
ティファはその背に向けてがっくりと肩を落としながら、笑いを堪えるメイとマイにひらりと手を振る。
「ティファ様、私達も――」
「駄目よ。使者には言われてないけど多分二人で来いってことだもの」
セミロングの髪が視界の端に移り、心配げなマイの声が耳朶を打つ。続いてひょこっと現れたツインテールが視界の逆端で不満そうに揺れていた。
しかしこればっかりは連れて行くことはできなかった。指定はされていないまでも、教皇や聖母に会うためにメイドを連れて行く事は元々ありえないことなのだから。首を振り認めないという姿勢を取ると、二人は通路で待機しているアレイズを一瞥した後で眉を顰める。数秒の沈黙は、契約神がどれだけ主に安全性をもたらすか思案するために使われたようだ。
「……分かりました。私達はここでティファ様が戻られるのをお待ちします。ですが、どうかこれだけはお持ちください」
「これ、ナイフ? でもマイ、私は」
「大聖堂内なら危険はないかもしれないけど、持ってても悪くはないでしょ? ノルマン様に貰った物だから返しに来たってことにすればいいんじゃない」
少しでも刃を肌に触れさせたらぱっくりと肉が切れてしまいそうなほどの鋭い刃。鈍色の光るその鋭利な刃をまじまじと眺めているとメイが努めて明るい声でそう提案した。どうやら、これだけは譲れないらしい。
「分かったわ。どの道お借りした物なら返さなくてはね」
「はい。二人分ありますので、片方はアレイズ様がお持ちください」
「俺が?」
「世界よりも神よりも、怖いのは人間ですから」
す、とアレイズに近付きマイが恭しくナイフを手渡す。神相手に渡すような物ではないと誰もが自覚してはいたが、ないよりはましだった。それだけの危険な目に遭う可能性が皆無と言ってもいいほどだとはいえ、幼い頃からティファを守ると決めていた双子には待つだけの身は辛すぎたのだ。
ナイフの柄を握り締め、アレイズがぽんと軽くそれを浮かせる。一秒と満たない間に手の中に返ってきた鈍色の刃はずっしりと重かったが、彼は少し眉を顰めただけですぐに懐にそれをしまい、歩いていく。
「あ、待って」
それに付いて歩きながらティファも懐にナイフをしまう。重さを感じると憂鬱な気分になったが、嫌な予感は無視することにした。小走りにアレイズの前に出たティファは先導するように一歩前を歩きながら教皇の自室へと向かう。すると宵闇に侵食されて鮮やかさを失う純白のローブの背に呆れを含んだ声が掛けられた。
「あの二人は随分と心配性なんだな」
「そうなのよ。ノルマン様の部屋に行くのだって、一人で行こうとすると使者を脅してまで一緒に来ようとするんだから」
ぽうと照明の明かりに照らされる通路はそこを歩く者に硬質な印象と圧迫感を与えながら代わり映えのしない光景を届ける。聖人聖女の居住区からは密やかな声が漏れるのみで、昼間のような喧騒はなかった。恐らくこれから食前の祈りを捧げる所なんだろう。
それにしても、と胸中で一人ごちる。今回は使者を脅されなくてよかった。毎回毎回使者をあの手この手で脅そうとする双子の気概には拍手を送りたいが、教皇直属の使者に対してやるべきことではない。はっきり言って度が過ぎたら追い出されてもおかしくはないほどなのだ。聖女のティファはともかくとして、彼女達は一介のメイドなのだから。脅される度に報告は受けているだろうに、にこやかに笑って済ませてくれる教皇の温情に感謝しなければならない。
(その教皇の所に行くのにナイフを仕込んでるのが悲しいところだけど)
表向きは教皇に預かった武器を返すために持ち歩いているが、実際の所は護身用だ。マイとてそのために持たせたのだろう。教皇は一度渡した物を返せと言うような人間ではない。武器を持つことは聖人聖女として問題のあることかもしれないが、要は自ら血を求めなければいいだけの話なのだからと刃物を持つことに関して戒律があるわけでもなかった。
懐に指を這わせ、そこに触れたことのある形を感じた。魔力の制御以外にも護身用に武器の扱いも教わっているティファは、無論ナイフの扱いも心得ている。拳で殴るよりはナイフで切りつける方が彼女は得意なぐらいだ。しかしそれでも彼女は武器を持つことに抵抗を感じていた。いざとなれば相手を傷つけてでも生き延びる気ではいるが、そんな状況に陥らないようにすることが先決だ。
「……着いたみたいだぞ?」
思考に耽っている間に前に出たのだろうか。隣からアレイズの声が聞こえ、結界のある位置に辿り着いたことに気付いたティファはいつも通り声を発しその奥へと進んで行く。思考を中断して昼間に来たばかりの扉の前に立つと、暗いせいか重厚さが増して見えた。ノックをしようと拳を軽く握る。本当はそんなことをしなくても向こうが気付くと知っていたのだが、それでも癖となってしまったその動作の最中に予想通りの声が響いた。
「お入りなさい」
もし月が見えていたなら、その光に溶け込んだであろう静謐な女の声。その声にアレイズが首を傾げたのを見て、小さく彼女は聖母アリアだと告げると彼は納得したように頷き、扉を開けた。その様子を見て慌てたティファは彼の手の上に自分のそれを重ねて一緒になって扉を開けた。神に扉を開けさせたなどと死られたら後が怖かったせいだ。
室内が見えると同時に、ぱちんと火の爆ぜる音が耳朶を打つ。ティファは暖かなその音を聞きながらアレイズと並んで部屋に入り、ローブの裾をちょこんとつまんで一礼する。
「ティファニエンド・レイニウム。只今参りました」
優雅な動作をするには気が急いており簡易な礼しか取れなかったティファはちらりと相手の出方を窺うようにソファに腰掛けた教皇と聖母を見つめる。若々しくも老成した雰囲気を纏った二人は月の銀光と炎の紅に身を浸しながら彼女達を見、小さく笑んだ。その視線は自分達と同じ翡翠色のローブを着込んだアレイズに注がれている。
「どうやら契約に成功したみたいですね」
座りなさいと招かれるままにソファに腰掛け、柔らかすぎるその場所で同じように居心地の悪さを感じていると香気が鼻腔をつく。どうやら二人のために紅茶を容易していたらしく、まだ熱いそれがカップに注がれると指先にじわりと血が通うのが感じられた。
「……契約に成功したことまで分かるものなのですか?」
「えぇ。貴女があの場所にあった指輪を嵌めていますし、何より先程よりも貴女の纏う気……というか魔力が違います」
「そう、ですか?」
カップに指先を触れさせ冷えた肌が温まっていく時特有の痛痒い感覚を味わっていると、教皇が小さく頷いた。髪も瞳も昼の方が似合いそうな色なのに、声と雰囲気だけは夜が似合う。そんな印象を持つようなどっしりとした声が部屋を満たした。褒めるような感嘆するような言葉にティファは小さく息を吐く。魔力が強くなったなどということは、全くの無自覚だったのだ。
「大役を見事果たしましたね、ティファニエンド。私達は鼻が高いですよ」
「そんな……もったいないお言葉です」
黙ったまま隣に座るアレイズを見上げるが、彼は何を考えているのか分からない顔をしたまま教皇と聖母を見つめているのみだった。そういえば不思議だ、とティファは胸中で呟く。どうして神がこの場にいるのに二人は彼に何も言わないのだろうか。今まで彼が対等に接してくれていたから気付くのに遅れたが、本来なら同じ目線で会話をすることなど言語道断なのだ。神の前で跪き、崇め奉ることが大聖堂に生きる者の姿であるはずなのに――不可解すぎる。
ティファは眼前で湯気を漂わせる紅茶に視線を落とす。指先を温めるそれが次第に熱を失っていく中、彼女はしばし逡巡してから中身に口をつけるのはやめた。不可解な出来事に脳が危険信号を発するまま、安全な道を選ぶことにする。位の高い人間が出した飲み物に口を付けないのはマナー違反だとマイなら怒る所だろうが、今ならきっと許されるはずだと結論付ける。それほどに異常だった。それにもう一つ気になることがあった。
(神との契約を果たした聖女って、その後どうしてたんだろう?)
文献でも神に従属したという話以外聞いたことがないのだ。大聖堂でどのような立ち位置に属していたかなどティファには知る由もなかった。
神と契約する聖女として知識を得るために大聖堂に引き取られ、契約に関する教育を受けながら魔力を制御する術を身につける代わりに生活の保障を得る聖人聖女。その中で力のない者は左遷などをされていると噂では聞いたことがあったが、神と契約した者はどうなるのだろうか。
「ティファニエンド」
「えっ? は、はい! 何でしょうか、ノルマン様?」
じわりと恐怖感が心を支配する。知らず知らずのうちに指輪に触れていたティファはその硬質な契約の証を見つめたまま眉を顰め、自分の今後について思案する。そのせいで初め、掛けられた声に咄嗟に反応することができなかった。
裏返りそうになる声を必死に押さえ込みながら返事をすると、微笑を浮かべた教皇や聖母、呆れた様子のアレイズがじっとこちらを注視する。その視線に居心地の悪いものを感じていると、教皇はカップを持ち一口紅茶を飲んでから静かに言い放った。ぱち、と火が爆ぜる。その照り返しを受け聖母が柔和な笑みを浮かべた。
「これより、貴女は聖女ではなくなります」
「へ?」
今、何て。呆けた声を上げるティファが疑問を続ける前に、今度は聖母が続けた。
「アレイズ様」
「……何だ?」
まさか声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。
アレイズが片眉を上げて応じると、聖母は月光のせいか怪しく光る紫紺の瞳に光を湛え紅の引かれた唇を開いた。
「貴方には行くべき場所があると伝え聞いております。どうかその旅路に、契約者であるこの者をお連れください」
聖母と言うには艶やかすぎる笑みを浮かべるアリアの言葉にアレイズが眉間に深く皺を刻み、ティファは小首を傾げる。永きに渡り目を覚まさなかった神の話を、一体誰に伝え聞いたというのだろうか。疑問は膨らむばかりだったが、周囲は神と自分より上位の人間ばかりだったので口を挟むこともできない。従ってティファは悶々とした気持ちを抱えたままアレイズの答えを待つことしかできなかった。
ソファに深く座り込み足を組んだアレイズは考えこむように宵闇よりも濃い漆黒の睫毛を伏せる。逆光でシルエットしか見えないその横顔は髪が長いこともあってかまるで女性のようでティファは瞠目しながらその瞳が開かれるのを待った。
沈黙を彩る暖炉の炎が何度爆ぜた頃だっただろうか。
「では、遠慮なく。聖女は貰い受けることにしよう」
「はい」
「お、お待ちください!」
一瞬睫毛が震え、瞳が開けられると同時に発せられた声に教皇が深々と頷く。そうして床に膝をつけて礼を述べようとする教皇を制するような形でティファが口を挟んだ。
「アレイズ神に行くべき場所があることは理解できました。ですが何故私なのですか!?」
契約をした先のことなど、まともに考えたことがなかった。緊張し居心地の悪さを感じるソファ、重厚な扉、爆ぜる暖炉の炎、そうしたものは何だかんだと言いながらも心地良いものだったのだ。それを失うなど考えもしなかったティファは掠れた声で反論する。
しかしそれに対し教皇は申し訳なさそうな顔をしながら首を振るのみだった。
「元々、神との契約を果たした者には旅路に同行してもらおうと決めていました。話していなかったのは申し訳ありませんが、どうか聞き分けてください」
「そんな――」
脱力し、立ち上がりかけた体がすとんとソファに戻される。大聖堂の外に出ることに不満があるわけではなく、ある程度のことは自分でできるティファには障害らしい障害はない。しかしティファは聖女であると同時にメイやマイの主なのだ。自分が大聖堂から去らなければならないのなら、彼女達が居場所を失ってしまう。もう何年も暮らしてきた場所から自分のせいで引き剥がされてしまうのだ。
ひやりとした気持ちが心を侵食していく。目元が熱を持ち、若干痛くなった。そんなティファに対しアレイズは気まずそうに目を逸らしながらぎゅっと彼女の手を握る。大きな手が包むようにしてティファの手を掴むと、顔を伏せていたティファがゆっくりとアレイズに視線を向けた。ダークブルーの瞳に映されるのは、本当ならばこの場にいる誰よりも偉くて自分に命令することもできる神の沈痛な顔だった。細長い一重の双眸は更に細められ視線が絡み合うことこそないものの、真一文字に引き結ばれた唇も眉間の皺も決してティファが落ち込んでいることに対し何も感じていない様子には見えない。
ただ、それでも契約者であるティファを離すことができないのか視線は逸らされ強く手が握られているのだが。
(神様でも、こんな顔をするのね)
世界を守護するため常に盾となり人々の上に君臨していると言われている神々。人間のほとんどが崇め、敬愛する存在。そんな存在がたかが一人の聖女のために心を痛めている。その事実がティファの心を強く揺さぶった。
(呪いで神になったんなら仕方ないかもしれないけど、でもだからこそこの人が神様で良かったのかもしれない)
神であるなら、たとえ元が何であっても心身共に屈強な存在ばかりだと思っていたのに、予想外だった。ティファは口元に弧を描き、熱を持った目元を指先で冷やしてからアレイズの手に自分のそれを重ねる。人と同じ体温をそっと撫ぜると、心が軽くなった。
「――承知いたしました」
「ティファ?」
「聖女ティファニエンド・レイニウムはこれよりその肩書を捨て、アレイズ神と行動を共に致します」
人心に聡く、自ら胸を痛めることのできる神。この神ならば大聖堂が守護する価値は十分にあると感じ、指輪に向けて笑みを零す。それはティファがようやく契約行為を心から認めた瞬間であり、指輪の感覚を受け入れた瞬間でもあった。
月光には程遠い高らかな声を凛と響かせるとアレイズがようやく視線を合わせる。黒瞳にあるのはたっぷりの驚愕だ。
彼としてはティファがこうも清々しい声で承諾するとは思っていなかったのだろう。その視線と顔が語っているのがティファには手に取るように理解できた。くすりと笑いかけ名残惜しい気持ちを抱えながらアレイズの手をやんわりと引き剥がす。そうして立ち上がったティファは今度こそゆったりとした仕草で一礼した。儚い光に純白のローブが際立つ。
「大聖堂に引き取られてから今日までの長い間、ノルマン様とアリア様には本当にお世話になりました。育てて頂いた御恩は、決して忘れません」
「……恩義など感じる必要はありませんよ。貴女に大役の重圧を押し付けたのは私達なのですから――いつ出るのですか?」
「アレイズ神もお急ぎでしょうし、明朝には発ちたく」
「分かりました。それでは出来得る限りの手配をしましょう。必要な物があれば使者に伝えなさい」
悲しみも怒りもない、さっぱりとした表情は聖母のように艶のある笑みではないものの鮮やかな彩りを顔に載せて笑顔を形作る。するとアレイズが立ち上がり視界の端に黒く艶やかな髪が見えた。髪を束ねるものが必要かもしれない、と感じていると感慨深げに深く息をつく教皇がそう提案してくれたのでティファは一礼して答え、踵を返す。この場に一秒たりともいたくないというわけではなかったが、去るのならその時は早い方がいいと思ったからだ。後ろ髪を引かれるような想いは後々辛くなる。
「お気遣いありがとうございます。――それでは、失礼致します」
扉を開け、最後に振り返って一礼する。もうこの場所に来ることはないのだと感じると胸が痛くなったが、ティファは自身の出した決断を後悔しないように痛みを振り払った。その時ふと首元と懐に重さを感じ、慌てて手を伸ばす。首飾りと鈍色の刃をそっと扉付近の棚に置き、恭しく頭を下げた。
「お返し致します」
「持っていってもいいですよ」
「いえ。私には過ぎたものですから」
鋭すぎる刃は毒だ。そう思いティファがナイフを置いたその隣に、アレイズも同じように刃を置く。彼もすっかりナイフのことを失念していたようだったが、ティファの行動に合わせるというスタンスを取ることで忘れていたということは悟られずに済ませるらしい。小さな自尊心ぐらいはあるのだと感じながらティファは失笑し、扉を閉じた。
もうやり残したことなどなかった。ただ――。
(メイとマイに、どう説明しようかしら)
それだけが問題だ。ティファは烈火の如く怒り出すであろう双子の姉妹の姿を脳裏に描き、大きな溜息をついてから元来た道を戻った。
◇ ◇ ◇
すたすたと少し早足で歩くティファの姿を横目に見ながらアレイズは先程の彼女の姿を反芻する。深い色の調度品や炎の色がひどく不似合いに感じられるほど、眩しい純白と蒼。宵闇で漆黒にも見えた双眸には涙一つ湛えず発せられた言葉は清々しく、夢を見ているような気持ちにさせられるほど幻想的な光景だった。出会ったばかりの神のために聖女が共に行くと宣言する。物語にすれば売れそうな内容だが、これは紛れもない現実であり人間一人分の人生の転機でもあった。
「いいのか?」
問いかけると、ぴたりとティファの足が止まる。長いローブが急な静止に付いていけずふわりと揺れた。
「いいのよ」
返ってきたのは短い問いだった。さっぱりとした声が発せられると同時に、彼女がくすりと笑い声を漏らす。
「大体、そんな風に訊いて来るんならあんな辛そうな顔してまで連れて行こうとしなければいいのよ」
息を呑むとティファは口の端を吊り上げてにやりと笑う。少女が浮かべるには些か子供っぽいそれは、アレイズに対してしてやったりとでも言いたかったのだろうか。
「それに、どの道私を連れて行くつもりで言ったんでしょう? ならもっと喜んだらいいじゃない」
――確かに、連れて行く気ではあったとアレイズは内心で呟く。契約を行っただけでも動けるようになるのだし、聖女と離れていたからどうということはないが制約が掛かることに変わりはないし呪いを解くには契約者と共にいる必要があった。世界の意志たるレイナがアレイズに教えた呪いを解く方法は、契約者と共に“あの場所”を訪ねろというものだったのだから。
それに、と続ける。
(あいつらは俺がここに留まらないことを知っていた)
それはすなわち、アレイズが目指す場所も知っているということではないのか。
(何者かは知らんが、あんな奴らの近くにティファニエンドを置いておくわけにはいかない)
誰から話を伝え聞いていたとしても、自分の情報を入手している地点で危険人物だと判断する方が正しい。第一教皇達は神であるアレイズを見てもそのままの体勢で座っていたままなのだ、いくら契約者とはいえ聖女の前であのような不遜な態度を取る理由が分からなかった。アレイズが呪いによって神になったことは、世界を除けば呪いを掛けた神ぐらいしか知らないことなのだから。
「ありがとう」
「?」
思案しているとふいに声が掛けられる。視線を落とせば頭一つ分ほど低い場所でティファがはにかむように笑っていた。
視線で問いかけると彼女は前を向いたまま続ける。鈴が鳴るような軽やかな声は聖母の物に若干似通っていた。
「私を気遣ってくれたんでしょ? でも大丈夫よ、貴方が行きたい所なら私も行ってみたいもの――そういえば、アレイズはどこに行きたいの?」
さりげない言葉にアレイズが答えに詰まる。頬が熱くなるのは隠した方が不自然だからと手を添えることはしない。
(貴方の行きたい所ならって、随分あっさりと恥ずかしいことを)
アレイズの内心の声に気付いているのかいないのか、ティファはふと通路の真ん中で足を止めた。窓枠の形に影が差し、彼女の頬を黒く染める。空色の髪は影で海に近い色に変わっていた。夜も更けたせいで照明も半分以上が落とされたせいだろう。
アレイズを信用していると分かりやすく伝えるような素直な笑みと問いに、彼は逡巡するように視線をさ迷わせる。行きたい場所はあったが、それを安易に口にすることはできなかったし、名前は知っていてもどこにあるのかまでは彼にも分からなかったせいだ。
「世界に、会いに」
「世界――レイナに? 随分と探すのが難しそうね」
特に何の疑念も抱かず答えるティファを真正面に見て、アレイズは良心が痛むのを感じる。ティファとしては自分の為に心を痛めてくれた神に対して心を開いただけに過ぎないのだが、それを知らないアレイズは強引に近い流れで契約をして指輪という枷を嵌めて、それでも数刻前より強い信頼を向けてくれる少女の心が理解できなかった。何より、そんな少女に対して小さな嘘をついてしまっていることが良心の呵責に繋がる。
聖人君子のような優しさと大人しさを持つ従順な女などいりはしない。だから意志が強く威勢のいい人間ならばいいと思っていたのだが、誤算だった。こんなにあっさり心を開かれるとは。
それもこれもすべてアレイズの言動によるものだったが、やはりそれを知る由もない彼は良心の呵責を誤魔化すためにティファへのせめてもの報いとして何かできることはないかと探す。その考えこそが矛盾と葛藤を生み出すのだとは知らずに。
「ねぇ、ジュード」
自分に出来ることを頭の中で数えて行くと、小さい声が耳朶を打つ。
いつの間にか歩き出していたティファがくるりと振り向き、どこか勇気を振り絞るような声で告げた。
「私にも、真名があるの。姓が違うだけだし、聖女じゃなくなったから明日にでもその名前に戻るんだけど、先に教えておくわ」
それは大聖堂に来る前の彼女を知る者を除いた誰よりも先に自分に教えてくれるということだろうか。
「私の名前はね――」
アレイズは久しぶりに口にするのかどこか緊張した様子彼女の唇から名前が紡がれるのを聞いて静かに笑んだ。
「いい名だ」
世界の名よりずっと、そう付け加えるとティファは呆気に取られたような顔をしてすぐに頬を赤くする。名を教えることがないから、褒められたこともなかったのだろう。アレイズはこのどこまでも聖女らしからぬ気の強さを持った、そのくせ誰よりも聖女らしい素直さと優しさを備えた少女の手を握りこむ。“ティファニエンド”の名を持つ者の役割を大まかにだが聞かされ予言もされていたアレイズは、この契約は予め仕組まれていたことなのではないかと勘ぐったが、どの道動き出した事態は誰にも止められないと知っていたから胸中で呟くに留めた。
――神としての力が弱い自分に出来ることは数少ない、だが。
(せめてこの手ぐらいは離さないように)
彼女の行く道に先にあるものをアレイズは知っている。彼の願いを叶えるために何をすべきなのかも。それ故に彼には彼女に起きる出来事に対して救いの手を差し伸べることはできなかったし、願いを捨てることもできない。だからこそ彼は誓うことができた。少しずつ心を開き信頼してくれている契約者の手をどうか最期まで離さぬようにと。
そうして一神と一人の人間は手を繋いだまま、同じ場所へと戻るため一つの道を歩く。
お互いの指に嵌る指輪の翡翠が、月光を受けて煌いた。