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CHAPTER 1.聖女と神の邂逅 (8)

 どれだけ拳をぶつけてもびくともしなかった扉が、半円状に切り取られたように消滅している。それこそ初めから存在していなかったのではないかと思えるほどに切り口は滑らかで、ティファは消えた扉の断面を指先でつ、となぞりながら感嘆の息を漏らした。魔力の奔流を感じはしたが、まさかここまで綺麗に存在を消滅させることができるとは。

 彼女はアレイズに対し礼を言おうとし、ぴくりと視線をある場所に固定する。

 そこに、本来ならばいるはずのないものを見つけたせいだ。

「あれは、何?」

「兎だな」

 消滅した扉の向こう側。その先に見えるのは、真っ白な体毛に身を包んだ兎だった。血をぽたりと落としたような鮮やかな赤の瞳に、小さな体躯。そしてぴんと立った長い耳。どこをどう見ても兎以外の何者でもないそれを抱きかかえ愛おしそうに撫でているのは、ティファが身を案じてやまなかった双子だ。怪我をしているわけでもない姿を両目に収め、ほっと息をつく。しかしやはり解せぬのは、兎の存在だ。

「もしかしてさっきの金切り音って……」

「分からん。だが無関係とは言い難いな」

 いかにも人畜無害そうな顔をしているが、レイニウム大聖堂の地下に兎がいるはずなどないのだ。それにティファ達が扉の前に立った時にもそれまでにも兎の姿などどこにもなかった。ティファはメイの腕の中でくつろいだ様子を見せる兎を注視しアレイズに問いかける。しかしそれに対し返ってきたのは困惑したような声のみだ。

 恐らく彼にも分からないのだろう。長い間眠っている間に世界に何が起きているのか、彼には知る由もないのだから。

 問うべきことは他にも山のようにある。石碑に書かれた言葉の続きに今の魔力の奔流の正体、しかしそのどれをも押しのけて気になるのはあの兎の存在だった。

(でも、兎一匹出てきたぐらいであんな音がするっていうのかしら……)

 胸中で一人ごちる中、アレイズも怪訝そうに眉根を寄せる。見知らぬ双子の少女の腕でくつろぐ兎の姿に何かを追い求めるような真っ直ぐな瞳はしかしすぐに逸らされた。双子が兎から視線を離し、慌ててこちらを向いたからだ。

 扉が一つ消滅しておいてそれでもこちらに真っ先に視線を向けなかったことからして、やはり兎が関係しているのだろうか。主の存在を忘れてしまっていたことを恥じるようにはっと息を飲んだ彼女達は、二つの人影に向けて声を上げた。

「ティファ様!」

「ご無事だったんですね!?」

 アーモンド型の亜麻色の瞳が見開かれ、喜色に溢れた二人分の声がティファ達の耳朶を打つ。彼女達は腕の中の兎を大事に抱き抱えたままこちらに駆け寄ってくるが、ティファが遠目に見た時と変わらずメイド服に汚れが目立ようなことはなかった。どうやら本当に何事もなかったようだ。

 よかった、と力なく呟いたティファの肩にぽんと大きな手が置かれる。視線を正面からずらしてみれば、そこではアレイズが小さく笑んでいるのが見えた。

「ありがとう」

 霧散した焦燥感と苛立ちを笑顔に変えて口にすると、彼は眉をぴくりと上げて若干驚いた顔を見せたもののすぐに頷いた。常ならば神である彼に助けてもらったのだから、膝でもついて長い口上を聞かせなければならないはずなのに、不思議とそうすることを望まれていない気がしてティファはそのままくすりと笑う。理由など分からないが、こうして笑いあうだけでいいのなら気が楽だった。

 かつん、と音を立てて近付いた双子はやがて眼前に現れるときょろきょろと忙しなく主とその隣に立つ男を見比べる。興味津々、というよりも多分の警戒心を滲ませた瞳には敵意すら宿っている。

「ティファ様、この方は」

 アレイズほどではないにせよ、それでも十分に低い声がマイの口から発せられる。兎を腕に抱いているわけではない彼女は、返答次第ではすぐにでも攻撃を仕掛けるというような剣呑な光をぎらりと瞳に宿した。ダークブルーのロングメイド服に滑らかな動作で指を滑らせる。そこに武器があるのだと言うかのような牽制に近い動きを見て、ティファは慌てて口を挟んだ。マイの口元が吊り上がるのを見て、本能的にそうせざるを得なかったのだ。

「待って! この人は神様よ!?」

 薄く紅を引かれた唇が弧を描きかけ、ぴたりと止まる。指先が力を失い、ぽかんと瞳が見開かれる。地下という暗闇の中でもはっきりと分かるその表情の変化をアレイズは一瞥し楽しげに笑ってみせた。余裕を感じさせるその表情にティファは何か文句を言いたい気持ちに駆られるが、未だに神と聖女という立場から抜け出せない彼女にそれはできない。

「「……はい?」」

 小さく開かれたそこから発された声が双子の妹のものと被る。怪訝そうなものは姉の、素っ頓狂なものは妹のものと若干響きは違っていたが。

 真紅のメイド服が揺れ、一歩大きく踏み出されたメイの足が勢いよく床を踏みしめる。かつん、と音を立てて軽やかに着地した彼女は片腕に兎を抱いたままアレイズの顔をまじまじと覗き込んだ。彼の真意を探るわけではなく、そこに神らしい威厳を求めて。

「神様?」

「そうだが?」

「「……」」

 そうは見えない、と言うような胡乱気な瞳がティファへ注がれる。しかし彼女は一部始終を知っているだけに、たとえ隣に立つ男がどれだけ人間らしくて神様らしくなくとも二人の視線に首を振るしかなかった。アレイズの威信のためではなく、ただ嘘をつくのが嫌いな性分なだけなのだがそんな彼女の心情などお構いなしにアレイズは首を傾げる。

「アレイズだ。つい先程お前達の主と契約を交わした」

 翡翠を織り込んだローブがまるで自ら発光するように柔らかな色を放つ。

 それを値踏みするように見つめる二人に対して本当よ、とティファが呟いた。

(信じられないのは、無理ないけど)

 だが今この場にいるのが神でないなら一体何だというのだろうか。

 指輪から現れ翼を持ち、それで人間以外の存在なのだと言われてもティファはそちらの方こそ信用することができない。第一、もう自分はこの神と契約を交わしたのだ。従属を願われている様子はないとはいえ、ある程度従ってみせるのが道理と言えよう。メイやマイに対し胸中で呟きながら、値踏みするような視線な長時間続くことにさすがに気まずさを感じるのか、アレイズが身動ぎをするのが見えもう一度首を振る。今度ははっきりとした動きで。

「聖女としての役目は果たしたわ。二人とも、くれぐれもアレイズ神に失礼のないようにして頂戴」

 隣に感じる熱は人間のそれに限りなく近い。それを実感しながらも珍しく主らしい口調で話すティファに、メイとマイはようやく視線を和らげた。

 若干の驚愕を含ませた瞳が一瞬揺れ、すぐに真っ直ぐな光を灯す。彼女達はそれぞれ空いた手でメイド服の裾をちょこんとつまんでから軽く膝を折り曲げ一礼した。主への恭順を示す態度にティファがそっと吐息する。

「「承知致しました」」

 きんと耳鳴りがするほどの静寂に響く、二人の声。普段は無邪気なメイの声も真剣な色を帯び、マイと遜色のない音として発せられた。

 ほお、とアレイズが囁くような声を漏らす。彼としては自分に攻撃を仕掛けようとしていた女や値踏みするような視線を向けた女が、たった一人の少女の言葉に従順に従うとはとても思えなかったのだ。たとえ少女が二人の主なのだと知っていても。

 流れるような動作で一礼した二人は警戒心をひとまずは遠くに追いやった笑みを象った唇で言葉を紡ぐ。

「初めまして、ティファ様のメイドのマイティーナです。先程は無礼な振る舞い、大変失礼致しました」

「同じくメイティーナです。今後は私達のことをメイやマイとお呼びくださいませ、アレイズ様」

「あ、あぁ。……よろしく頼む」

 丁寧な口調に思わず後ろに足を引きそうになりながら思わず人間だった頃と同じように答えると、神らしくないその態度にメイが小さく首を傾げた。彼女達とて神を目の当たりにした経験などないのだが神とは崇高な存在であり、不遜な態度を取られてもおかしくはない存在だ。それが人間の、それもメイドに対してよろしく頼むというのだからおかしく思わないわけがない。

 そんなメイの態度を窘めるようにマイが鋭い視線を走らせる。そこでようやく彼女達の思惑に気付いたアレイズは一体これからどういう態度で人間と接すればいいのかと思案した。元々が人間であり、神となってからは眠ってばかりだったのだ。神がどういう振る舞いで人間に接するかなど、彼は知らない。

 ティファは比較的問題なくアレイズを受け入れたようだったが、そんな彼女でも時折ぎこちない態度を取ることがある。どれだけアレイズが気さくに接しても、やはり立場のずれがそうさせてしまうのだ。それを難儀だと思うのは容易いがしかし解決策がない。ふぅ、と息をつきどうしたものかと考えるアレイズの隣でティファもまた思案顔を浮かべていた。

 ただし彼女の場合は立場の問題ではなく、メイの腕の中にいるふわふわとした白い体躯に関することだったのだが。

「ところで二人とも、その兎どうしたの?」

 剣呑な空気が霧散し、幾分か柔らかな空気が流れる中でティファがそっとメイの腕の中を指差す。

 いきなり話を振られた兎はしかし己のことだとは気付かない様子で鮮血の色をした瞳を細め、耳をぴくりと動かした。陽の光が当たらぬ地下でも特に不満はないようで、ストレスを感じている様子はない。兎は元々地面に穴を掘って生活をしていたというから、その名残だろうか。

「それが私達にも分からないんです」

「?」

 ティファに話を振られたメイはうーん、と唸ってからすぐに首を振る。

 状況を上手く説明しようとしても浮かばなかったのだろう。お手上げだと言いたげに顰められた眉は、マイの顔にも浮かんでいる。答えられなかった妹の代わりにマイが答えると、それを補足するようにメイが自分達に起きた現象のありのままを伝える。

「いきなり辺りがぴかって光って、気付いた時には目の前にこの兎がいたんだよね。敵襲かと思って構えはしたんだけど、まさか兎が出てくるなんて予想外だったから姉さんと二人で首を傾げてた所」

 ほっそりとした指先に眉間を撫でられる兎は心地良さそうに耳のみを動かしてティファをじっと見つめていた。無垢な瞳に見つめられ愛玩したくなる衝動に駆られるものの、やはり先程の音の発生源に兎が存在していたという確信がそれを許してはくれない。ティファは多少目つきが悪くなっても構わないというように目を細め兎を凝視する。

「ん?」

 すると豊かな体毛の中に、何か筋のようなものが見え彼女が小さく声を上げる。

「何だ?」

「これ、首輪じゃないかしら」

 体毛に埋もれすぎていて分かりづらいが、確かに兎には首輪が付けられていた。飼い主でもいるのだろうか、と考え馬鹿馬鹿しいと首を振る。聖人聖女が兎など飼うはずがないし、第一ただの愛玩動物が大聖堂の地下に入り込むはずがない。

 首輪を覗き込むティファの傍に近づいたアレイズが同じように上体を軽く折り曲げる。

 スカイブルーと漆黒の髪が摺り合わされるように触れる。急に近づいたアレイズの横顔にティファがぎょっとしていると、メイが声を上げた。

「? どうしたの?」

「な、何でもないわ。それよりこの首輪、何か紋章が書いてあるみたいだけど」

 兎の首元を指でなぞり、はっきりと首輪が見えるようにする。するとそこに小さな紋章が描かれているのが見えた。金細工のそれは誰が見ても高級なものだと分かる。しかし金持ちの道楽にしてはいささか細工が凝りすぎていると感じていると、アレイズがティファの声に導かれるように紋章を目にしてはっと息を呑んだ。それは間近にいたティファにしか聞こえないほどの小さなものだったが、ばっと兎から体を離したアレイズが放った声が震えていたことは気付くことができなかった。

「これは神々を表す紋章だ――しかも、かなり高位の神の」

 神を現す紋章があるという話なら教皇達から教わったことは確かにある。しかし神に位があること、位ごとに紋章が違うという話までは把握していなかった。

(神々については、やっぱり私達では分からないことが多すぎるのね)

 胸中で呟きながらアレイズを見上げると、そこに翡翠色が織り込まれたローブが見える。一般の聖人聖女が纏う純白のものではない、教皇や聖母の纏う翡翠色。それを目にした瞬間、ティファはすとんと胸に何かが落ちるのを感じた。

 ローブの色一つでも位があるのだ。神々の紋章に位があったとて可笑しな話ではない。

「じゃあ、この兎が?」

 だからティファはアレイズの講釈に疑問をぶつけることなく受け入れる。代わりに兎へと胡乱気な視線を落とした。世界を護り貢献したものが神となることは知っている。例えばそれが草でも花でも、動物でも。しかしいくら何でも兎の神様というものはそうそういないのではないだろうか。大体どうやって世界を護ったんだ。

 アレイズの話を疑うわけではないが、その場にいた三人の少女達はそれぞれが首を傾げアレイズの返答を待つ。すると彼は肩を竦めながら首を振った。柔らかな色を放つローブがふわりと揺れる。

「分からん。しかし、放って置くこともできまい」

「神様に呪いを掛けられたのに?」

「これ以上祟られるのは御免だ――だが、その前に」

「アレイズ様、どちらへ?」

 なるほど、とティファは胸中で呟きながら腕を伸ばし兎を受け取る。高い体温は小さな鼓動を響かせ、愛くるしいつぶらな瞳はどこまでも無垢だった。本当にこの兎が神なのか、分からなくなる。

 困惑するティファに視線を向けたアレイズは、ふと何かに気付いたように背を向ける。台座のある部屋に向かおうとするその背にマイが声を掛けると、彼は首のみで振り返ってから室内を指差した。

「指輪を取りに行く。台座に置きっ放しなのを忘れていた」

 先程まで彼の手の中にあったはずの指輪は目を凝らして台座を覗き込むと確かにその上にあるのが見える。

 一体いつ置いたのだろうかとぼんやり考えていると、アレイズはそれを指先でそっとつまんでこちらへと戻ってくる。そのままティファの眼前に立ち、ふと何か考え込むように顎に手を当ててから腕を伸ばした。ティファの腕の中から熱が消え、マイへと手渡される。順繰りに手渡されて行く兎はしかし特に不満を見せる様子はなく、今度はマイの腕の中で心地良さそうに目を閉じた。呑気なものである。

「な、何?」

 急に消え去った体温を惜しむように一度ぎゅっと体を抱きしめたティファは上目遣いにアレイズを見上げる。普段勝気な彼女が文句を口にせずに問いだけを発したのは、彼がどこか不機嫌そうだったせいだ。

「別に。あいつがいたら邪魔だからどけただけだ」

(あいつって仮にも神様に対して……まぁアレイズも神様なんだけど)

 やはり神に対して色々と思う所があるのだろうか、と思案しているとふと気になることがあり首を傾げる。

 腕の中に兎がいたら邪魔だという理由は一体何だ。

「邪魔?」

「あぁ」

「それってどういう――!? あ、アレイズっ?」

 契約はもう終えているし、後は兎とアレイズを連れて教皇達の前に出れば万事問題ないはずなのだが、他に一体何かあっただろうか。

 眉間に皺を寄せまだ何かあるのかと問いかけようとティファが口を開くと、それを制するようにアレイズが動いた。途中で切られた言葉は、素っ頓狂な声に変わる。それもそのはず、アレイズが何てことはないという様子でティファの前で片膝を付いたからだ。漆黒の瞳が楽しげに細められ、ゆったりとした動作でティファの左手を取る。笑んだ口元は、まるでこれから先の行動でティファがどれだけ驚くかを想像して楽しんでいる風ですらあった。何、と口を開こうとしてまた閉じられる。指先に感じる体温と、硬質な冷たさがそうさせたせいで。

 人肌とは逆の冷たさは薬指をじわじわと侵食し、最後には指の付け根に到達する。そこを定位置と定めた指輪は翡翠色の光を一瞬放った後でふわりと輝きを霧散させた。それを見計らったようにアレイズの顔が近づけられ、指輪にそっと口付ける。恭しいその動作はどこかぎこちなく、彼がそのようなことをしたことがないとすぐに見抜くことができた。

 指輪に口付けたばかりの唇が開かれ、メイやマイには聞こえないほどの囁き声がティファの耳朶を打つ。

「先程言いそびれたが、これが俺たちの契約の証だ。この指輪があれば、お前も人並み以上の魔力を使うことができるようになる。指輪を媒介として、俺の力を引き出せるからな」

「そ、そうなの?」

 あぁ、と続ける声が響く。

「それと、俺の真名はお前しか使うことができない。だから他の者には、アレイズと言う名しか伝えないでくれ。もっとも、お前が普段呼ぶのに真名を使うのは構わないが」

 真名を与えることはすなわち己を捧げること。そう言いたいのだろう。だが彼は神だ、その彼が一体どうして聖女に真名などを――。

「どうして、そんな風に接してくれるの?」

 ふとそんな問い掛けが口を突いて出た。それは何年もかけて頭に叩き込んできた知識が崩れていることへの困惑を含んだものであり、ティファにしてみればもっともな問いだった。どこか弱々しくアレイズの反応を窺うような声に、彼は片眉を上げて何てことはないという風に答えた。

「神である前に、人間だからだ」

 何を当たり前のことを、と付け加えられてもおかしくはなさそうな態度にティファははっと息を呑む。そうだった、彼は世界に人間であることを願われているのだったと。神など願われてはいないのだと。

 左手の薬指に指を走らせる。光のない場所でも自分が翡翠で在るのだと誇示するような色を撫ぜると、これだけの器の中にどうやって入り込んでいるのかと思うほどの魔力が感じられた。暖かく、柔らかな光。それは持ち主であるアレイズの人格をも現しているようだった。

「……そう」

 分かったわ、と告げると彼は膝を付いたままにやりと笑う。契約行為の終了を告げたのだろう。長い間誰も訪れることのなかった地下の地面に触れさせたローブはしかし一切の汚れをつけることなく神々しくはためく。自分よりも低いはずの視点で笑んだアレイズが再び高い場所からこちらを見下ろす姿を黙って見つめながら、ティファはこの不本意ながらに神になってしまった男に対し今後はあまり遠慮をしないようにしようと決めたのだった。いつか彼の願いが変わってしまう日が来るまでは、という期限付きではあるのだが。それが契約をした聖女としてティファができる唯一のことだと思えたから。

 口元を緩め弧を描くそれに向けて、ティファもどこか勝気な笑みを見せる。そうしてお互いの契約行為を終えた時、ぽんと両肩に背後から細い指先が触れた。似て非なる感触は二人分のそれ。

「メイ? マイ?」

 振り向いて答えると、兎を抱いたままのマイとメイがにっこりと周囲が見たら卒倒しそうなほどの極上の笑みを浮かべているのが見える。背中に冷水を浴びせられたような感覚になりティファは前方に逃げそうになりながら引きつるような笑みを返した。

「ど、どうしたの?」

 アレイズも気付いたのだろう。彼は黒瞳をさりげなく逸らし三人のやり取りから離れて行く。

(に、逃げたわね!?)

 薄情な態度に胸中で毒づき、それを口にしようとすると制するように二人分の声が降る。

 しんと静まり返った場所に響き渡るその声は高らかで、それでいて楽しげだった。

「「ねぇ、ティファ様?」」

「……何かしら?」

 怖い、怖すぎる。

 一体なぜそのような声を上げられないといけないのかが分からないが、恐怖感を覚えることに変わりなどない。それゆえに問う声が小さくやけに明るいものになっていることを自覚していると、メイがぎゅっとティファの手を掴み高々と顔の高さまで上げた。きらりと翡翠が光る。

「「これは一体どういうことですか?」」

「え? どういうことって……」

 契約をしただけなんだけど、と答えようとすると鼓膜をつんざくような怒声が響き渡る。アレイズがその声に両耳を塞いだのは見なかったことにした。

「ど、う、し、て!! アレイズ様がティファ様の左手薬指に指輪を嵌めてるんですか!」

「ティファ様! もしかして結婚しちゃうの!?」

 脳天をがつんと揺さぶる声に目を見開く、そこではやはり煌々と翡翠が光っているのみであり、硬質な光を放つそれは結婚という言葉には程遠い神聖なものだった。しかし言われてみればそうだ、とティファはふと気付く。どうして左薬指なのだろう。

 アレイズが知っているかは定かではないが、レイニウム大聖堂のある都市――ろくに法治も機能していないので都市と呼ぶのはおこがましい気がするが――ヒンメルでは婚儀の際左薬指に指輪を嵌めることが習慣化している。それはヒンメルのみならず周辺都市、大陸のほとんどに浸透しているいわば常識に近いものだった。

 かっと顔が熱くなる。それを誤魔化すようにわざとらしく軽口を叩いた。

「ちょっと待って、ね? これは契約の証だってアレイズが今言ったばかり――」

「「誰が結婚の契約してこいって言ったんですかー!」」

 頬が熱くなるのを自覚しつつも、ティファはこれは契約のためだと無理矢理言い聞かせる。しかしそれを双子が許すはずもなく、再び怒声が響き渡る中アレイズを見れば彼は我関せずという顔をしたままそっぽを向いた。……やっぱり逃げたわね、とその姿を見てティファが毒づいたのは言うまでもない。

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