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CHAPTER 1.聖女と神の邂逅 (3)

 慌てて洗面と着替えを済ませ、とりあえずは身なりの整った姿で部屋へ踊り出たティファの目に映ったものは、真っ白なテーブルクロスの上に並べられた食事だった。食事といっても簡素な物で、野菜や果物を絞って作られたジュースに甘い湯気を漂わせるフレンチトーストだ。聖職者として食事の戒律がないレイニウム大聖堂では何を食べるのも自由であり、それゆえに彼女は肉も食べれば野菜も食べる。ただ今日は急ぎということもあり、簡素ながら糖分の取れる物を用意されたのだが。

 ことんと皿を置くマイの姿にはそつがなく、彼女が毎日同じ動作を繰り返していることを示していた。メイにしても同じようで、てきぱきと部屋を片付ける姿には迷いや手際の悪さは見えなかった。長年ティファに仕えてきただけあり、すっかりメイドとしての振る舞いが板についた二人の料理は大聖堂に勤める料理人をも唸らせるほどで、ティファはそんな二人を独占できることへの優越感を感じながら両手を合わせ、温かなフレンチトーストを頬張った。甘やかな匂いと味が口に広がり、体に染み込むその味をしっかりと噛み締める。

 今日はこれから稽古をしてすぐに教皇に会うのだ。よもや夕食の時間が遅くなるということはないだろうが、万が一ということもあるので今のうちにしっかりと腹ごしらえをしておかねば。

「ティファ様」

「どうしたの?」

 黙々と手早く食べるティファの傍に、静かな声が落ちる。

 見上げればそこには生真面目な顔をしたマイが立っていた。食事中に彼女が声を掛けてくるなんて珍しいとティファが感じ、もしかしたらまたお小言でも言われるのかもしれないと身構えると、予想通りの静謐な声が放たれる。マイはいつもそうだ、お小言の前に必ずこんな声を出す。

「ティファ様も、今日で十七歳のお誕生日を迎えられます。しかも今回のノルマン様からの召喚には、神との契約に関する大任を命じられる可能性があることも、ご存知ですよね?」

 誕生日? 慌てて今日の日付を思い出す。教皇に召喚されることは決して忘れていなかったというのに、今日が何の日であるのか、ティファはすっかり忘れてしまっていた。

「当たり前でしょ? ……今日が誕生日なのは忘れてたけど」

「おめでとー!」

 素直に口にすると、抱きつかんばかりの笑顔でメイが声を上げ、ティファの顔が綻ぶ。しかしそれはマイの咳払いによって封じられ、彼女は真剣な顔を無理矢理にでも作らなくてはいけなくなってしまった。まだフレンチトーストが口の中に残っているというのに。

 メイも姉の空気に気付いたのか、大きく揺れるツインテールを押さえつけ黙り込む。こういう時は黙っていた方がいいと、長い経験から理解しているのだろう。

 こほん、と再度咳払いがされる。

「とにかく、もうティファ様は成人されるわけです。ですからもう少しお行儀良くなさいますよう心がけて頂きたいのです」

「……」

(お行儀よく、ね)

 凛とした声が部屋を満たし、ティファの脳に言葉が染み渡る。しかしティファにはそう言われる心当たりなどなく、一体どうしたらマイの言うお行儀の良い人間になれるのだろうかと首を捻るが、答えなんて出るわけがないと諦める。自分がよほど悪いことをしでかしたというわけでもない限り、マイのお小言に心当たりが浮かばないのはいつものことなのだから。

(おかしいわね、ドレスの着方だって覚えたしダンスだって踊れるようになったし、言葉遣いだってそれなりに出来るようになったつもりなのに、どこがおかしいのかしら?)

「マイ」

 声を掛け、首を傾げてみせる。するとメイが「ん?」と眉根を寄せたがマイは気に留めなかったようだ。

「何でしょう?」

 ようやくやる気を出してくれたんだろうか、という心の声が聞こえてきそうなほどの喜色が含まれた声に、若干の罪悪感を感じながらティファが更に首を傾げる。恐らくそれはマイを怒らせるか呆れさせるかするような言葉なのだろうが、ティファにはそれ以外言うことが見当たらなかった。

 フレンチトーストを一口頬張り、嚥下する。そうして午後の風がふわりとレースのカーテンを揺らすのを眺めて、ぽつりと零す。出来得る限り、明るい声で。

「私もそこそこ努力してるつもりだけど、どこか悪い所でもあるの?」

「……? お気付きになってらっしゃらないのですか?」

 笑顔で尋ねると、亜麻色の瞳が目一杯に開かれる。それは喜色でも怒りでもなく、ただただ驚愕を湛えたそれ。常に冷静で少々の事では動じないマイが心底驚いている様子に思わず口元が引きつりそうになるが、ティファはそれを我慢しながら更に深く首を傾げる。だって分からないんだもの、と胸中で呟いて。

「あはは……」

 助けを請うようにメイへと視線を向ける。すると彼女はティファのような引きつった笑顔ではなく、堂々と苦笑を漏らしていた。真紅のメイド服と白のエプロンが揺れ、視線を逸らされる。

 逃げたか。胸中で舌打ちしながら半眼でメイを睨みつける。しかしそれぐらいでマイの妹である彼女が動じるわけもなく、メイはあっさりと戦線離脱して食器を洗いに出て行こうとしていた。マイも自分の妹がどうして動き出したのかを察したのだろう。はぁ、と大仰に溜息をつきながらそれを見送り、ティファを見下ろした。

「ティファ様、今の御自分の姿をよーく見てくださいな」

「今の姿? 何それ」

 指摘され、ティファは始めて自分の体を見下ろした。

 衣服には何の問題もない。いつも通りのローブに、いつも通りの体だ。ただ、今は昼食を摂っているからフレンチトーストが手の中に――手の中?

「あ」

 そういえば急いでいたから手で掴んで食べていたのだ。心中で呟いたが、時既に遅し。マイはにっこりと実に爽やかな笑みを浮かべる。それはメイドという身分でありながら大抵の貴族ですら振り向かせることができそうなほどの極上の笑みだったが、彼女を知る者が見ればそれはただ恐怖の代名詞でしかない。マイの笑顔は怒りを背負っていると彼女を知る者は誰もが知っていたから。

「お分かり頂けました?」

 こくりと頷き、どうにかして怒りを緩和させることができないかと思案するも慌てているティファにそのような策などあるわけがない。大体マイの言うことはもっともなのだから。どこの世界の聖女がフレンチトーストを素手で掴み、大口を開けて食べるというのだろう。これで行儀が悪くないなどと言ったらそれこそ大嘘つきのレッテルを貼られてしまう。

 マイもティファが答えられないことを承知しているのか、彼女に言葉を発させることなく続けた。

「どこのお嬢様がフレンチトーストを素手で掴んで食べるんです?」

「だ、だって急いでたんだもん」

「だってじゃありません」

 やんわりとフレンチトーストを奪い、皿へと戻しながらぴしゃりと言い放つマイにティファの体が硬くなる。

 自分よりも二つ年上のマイはティファにとってメイドであり友人であり目の上のたんこぶであり、誰よりも怖いお姉さんなのだ。これから教皇の所に行くまでずっと説教をされなくちゃいけないのかしら、と半ば覚悟を決めて背筋を正す。しかし、降ると考えていた説教は溜息へと変化してティファの耳朶を打った。

「まぁ、それは今日じゃなくてもいいんです。これから私がみっちり教えて差し上げますから」

 それはティファにとっては救いの言葉だったが、メイにとってはそうではなかったらしい。ひょっこりと台所から顔を覗かせたメイが訝しむような声を上げた。

「姉さん。もしかして本気でティファ様に行儀作法を教えるつもりなの?」

「当たり前よ。そうでなければ宣言する意味がないわ」

「そ、そうだけど……」

 どうしてそんなに意気込んでいるのかという突っ込みをすることはメイにはできなかった。ただ身を引きながら頷くことが、彼女にできる精一杯。そしてこの場の空気を変えるべく、目一杯の明るい声を出すことで彼女は自分の限界を超えてみせた。

「そうだ! それよりティファ様! 早く食べないと冷めちゃうよ! 稽古だって今日はパスしなきゃ間に合わないし」

 聖女の居室に備え付けられた簡易の台所から身を乗り出しメイが声を上げると、ティファは慌てたように時計に視線を走らせて立ち上がる。流れるスカイブルーの髪が陽の光を浴び、窓の外に広がる空と同じ色を発した。

「そうだったわ! 急がないと――それじゃご馳走様! メイ、マイ。後片付けよろしくね!」

「はい」

「行ってらっしゃーい」

 ばたばたと駆け出す音を発しながらドアへと進むティファの前に、控えめなノックの音がする。彼女はそれが誰であるのかを察し、すぐに髪を手で梳かしてからすぅっと息を吸い込んだ。

「どなたですか?」

 他所行きの声が出る。高らかなその声に満足したようにマイが頷いたが、そのことにティファは気付いていない。

 頑丈な木で作られた扉を数度叩いた音が止み、教皇からの遣いであることを告げる。ティファはそれを聞くなり双子に目配せし、二人にドアを開けさせた。たとえ三人でいる時に同等の立場でいるとはいえ、他人が見ている前だと話は別だ。ティファは自分が主なのだからと、極々自然な動作でメイドを使う。生来そのように人を使うことは苦手だったが、そうしなくてはならない局面があることを彼女は良く知っていた。

 きぃ、とささやかな音がする。その先に見える使者の影に向けて、ティファは口の端を緩やかに吊り上げて笑んでみせた。


◇ ◇ ◇


 教皇の部屋へと通じる道を歩きながら、ティファは使者の背中を見つめ胸中で一人ごちる。

(神との契約、か)

「教皇様は神様と契約をして、一体何がなさりたいのかしら」

「さぁ。それは私達では推し量ることはできませんよ」

「……そうですね」

 質素とも豪奢とも言えない、緋色の絨毯の上を歩いていく。長く続くその道の先は陽の光で淡く照らされ、暗さなど微塵も感じられない。大聖堂が建てられた時代が遥かな昔であったこともあり、石造りのそれはひんやりと冷たい印象を見る者に与えたが、昼間はこうして陽の光が当たることによって暖かさを演出することができた。

 いくつもの石が積み上げられたような、巨大な大聖堂。神を祀るために、讃えるために、人々へ慈悲を与えるために作られた大聖堂。だけど、と胸中で呟くティファの頭にかつて教皇に言われた言葉が過ぎる。それは聖母に言われた言葉と大差ない言葉だった。

『貴女は、世界の礎となるために存在しているのです』

(世界の礎って何だろう? 一体どういう意味なんだろう?)

 教皇と聖母が考えていることなのだから自分が考える必要などないと思っていたが、いざ大任を命じられる時が近づいていると感じると何かを考えていないとこの緊張感から逃げ出してしまいそうになる。だからティファは今歩く場所から逃げ出したりせぬよう、神との契約について自分が学んだことを復習することにした。

 神との契約。それはすなわち神に従属し同時に使役することに繋がる。従属と使役。矛盾しているようだが、力を使わせてもらうという点ではそう間違いではないのだろう。幼い頃、聖女としての心得を学ぶ上で真っ先に教えられた、神と契約をするということの意味をティファはそう捉えていた。

 契約とは、世界と神がお互いの連絡手段に使ったとされる神聖文字を用い、お互いの合意の上に行うものだ。しかしそれは決して簡単なことではない。神の合意を得ることも難しければ、契約の際に必要となる魔力も膨大なものが必要となるからだ。魔力を使い果たして死んだ聖人聖女の話などティファは聞いたことがなかったが、それでも魔力をほとんど持たぬ者がおいそれとできる行為ではないことを彼女は何度も教え込まれてきた。だが、その術を何度教えられてもティファには理解できないことがあった。

「神様は、世界を護れるほどに強く強大なんですよね?」

「えぇ、もちろん」

 そもそもどうしてこの世界は、レイニウムは自分を守護する存在と契約する術を人々に与えたのか。神が使役されるということは、己の守護を失うことを意味するというのに。そしてもしも自分が神との契約に成功したら教皇と聖母は神をどうするつもりなのか。世界を守護するほどの強大な存在を、どう扱うつもりなのか。考えれば考えるほど思考が交錯し、ティファは頭を抱えたい衝動に駆られながらも必死で聖女らしく静々と歩く。本当ならば駆け出してすぐにでも教皇の部屋のドアを叩きたい所だったのだが、それが許されないことぐらいはさすがの彼女も理解していた。

 粛々と歩く細い道の左手には幾つもの扉が見え、幼子の声から成人した大人の声まで実に様々な声が響いてきた。そこには聖人聖女やその候補となる子どもが今頃勉学に励んでいるのだろうと、少し前までの自分を思い出しながらティファは同じ形の扉を一つ一つ凝視していく。

 ティファと同じレイニウムの名を戴く家族達の居住区を超えれば、次は礼拝堂や懺悔室がある一般市民にとって最も近しい区域へと入る。その更に奥に、教皇や聖母といったレイニウム大聖堂を取り仕切る幹部達の居住区があった。聖人聖女と同じ居住区でないことはティファの昔からの疑問だったが、もし背信者に大聖堂が襲われるなどという事態に陥った時に全滅することがないようにとの配慮なのではないかと最近では考えるようになっていた。

 聖人聖女はもとより教皇や聖母に至るまで皆強い魔力を持ちそれを制御できるのだから、襲われても全滅することはない。それを知っていてもやはり念には念を入れているのだろうと。

 居住区を超え、司祭の説教の声がする。日常的に触れることが多いその声を脳の片隅に置きながら無言のまま進むと、礼拝客がにこやかに頭を下げていく。ティファの纏う純白のローブが聖女の証であることを礼拝客は知っていたのだろう。彼女もまたにこやかに頭を下げると、少ししてから陽の光の当たらない暗い道へと身を踊らせた。

「ここから先は」

「はい」

 ここから先の区域を歩くことを許されるのは、召喚された聖人聖女のみ。それ以外は遣わされた者であろうと進むことが叶わない。淡々とした声に頷くと、使者が来た道を戻っていく。ティファはそれをしばらく見送ってから、やはり静かな動きで通路に一歩足を踏み入れた。きぃん、と金属同士が打ち合されたような高音が細い通路に満ちる。

「解けなさい」

 しかしティファがそう口にすると、一瞬のうちに音がかき消える。彼女には未だに原理が分からなかったのだが、今の音は一種の結界なのだと聖母から聞かされたことを思い出す。言葉ではなく声を受け入れ結界を解く仕組みのそれは、予め聖母や教皇が認めた声の持ち主以外先に進ませることはない。結界を破れないからといって、進めないという事実以外に弊害はなく特に人体に影響がないことが礼拝客が多く訪れる区域にも結界を張れる所以なのだろう。それ以前に礼拝客にはこの道を見つけることすら叶わぬのだが。

 結界を解き、一人きりの道を歩いていく。しかしそれは決して長い道程ではなく、教皇や聖母の私室を兼ねた区域にティファはすんなりと辿り着くことができた。緋色の絨毯は今や紫紺のそれに変わっており、この区域がいかに他の区域と違うものであるのかをまざまざと見せつけられる。

 幼い頃から何度も来たことのあるティファもやはりこの区域に来ると落ち着かないようで、何度か深呼吸をした後に足を踏み出した。

 視界の先には一際大きな扉が鎮座しており、重厚な存在感を見る者に与える。それこそがティファの目指す場所であり、教皇ノルマンの私室だった。目の前に立ち、躊躇うように視線を彷徨わせながら腕を上げ、ノックをしようと軽く手首を動かす。しかしそれはドアにぶつけられる前にぴたりと止まった。

「――誰です?」

 月光のような静謐さを思わせる声が女の声が響く。まだノックもしていないというのに一体どうしてばれてしまったのだろうかとティファは一瞬考えるも、結界が告げたのかもしれないと結論付けて口を開く。この部屋に来る時はいつもノックをしたことがなかったことを思い出しながら。

「ティファニエンドです。教皇ノルマン様の命により、参りました」

「貴女でしたか。入りなさい」

「はい」

 今度は大樹のようにどっしりとした男の声。ティファはその声の持ち主を知っていたので、ダークブルーの瞳で扉の奥を射抜くように真っ直ぐな目を向け、言葉少なに頷きドアノブに手を掛けた。緊張感を解くような二人の男女の声は暖かく、自分よりも遥かに永い時を生きてきた人達なのだと改めて実感させられる。気を遣っているのか、大聖堂に引き取られた時からそれほど老いたようには見えなかったが彼らの声と言葉は老成しており深い力を感じさせられた。

 安堵の息をつきながら扉を開けると、ぱちんと暖炉の火が爆ぜる音がした。彼女はその音にどこか懐かしさを感じながら後ろ手に扉を閉め、ゆったりとした動きで一礼した。ふわりと舞ったローブがドレスのように広がる。

「ティファニエンド・レイニウム。只今参りました」

 一礼し、頭を上げた彼女は金で地位を買い、必死に礼儀作法を叩きこんだ貴族達の子女もかくやというほどの上品な笑みを浮かべる。

 そう、彼女はこの時まだ優雅に笑っていることができたのだ。

 これがすべての始まりであり、終わりであることを知らなかったが故に。


◇ ◇ ◇


 ――その頃、ティファの自室では彼女のメイド達がうろうろと部屋を歩き回っていた。

「ねぇメイ」

「なぁに、姉さん」

「どうして今回は私達がお供できなかったのかしら?」

「さぁ。やっぱり重要なお話だからじゃないの?」

「もちろん神との契約に関する話なんだから私達に聞かせられないこともあるんだろうけど……でも心配だわ」

「大丈夫だって。あそこには結界だってあるんだし」

「メイは私が本気でそんな心配をしてると思ってるのかしら」

「……だ、大丈夫だよ。ティファ様だってノルマン様とアリア様の前ならお行儀よくしてるはず、だし」

 交わされるのは不安げな声とわざとらしい明るい声、そして溜息だった。

 真紅とダークブルーのメイド服を着込んだ少女達が部屋の中心点で交差し、再び別れていく。不安を全身で表現する彼女達には自分達の行動に自覚などなく、止めるべき主も今この場にはいなかった。この場に主がいないことこそが、彼女達の不安の表れなのだから仕方がないのだが。

 日差しを目一杯取りこもうと開け放されたカーテンが小さく風に揺れていく。穏やかな昼下がり。しかし彼女達にとってはそんなことはどうでもよかった。彼女達にとって重要なのは、自分達の主が教皇や聖母相手に何かとんでもない粗相をしてしまわないかという一点に尽きるのだから。メイドの失態は主の失態であり、その逆の事態で責められるなど二人は聞いたことがなかったが彼女達は主と主従関係を結ぶ前に友人関係を結んでいるのだ。心配でないわけがない。だがそれをいつまでも続けているわけにはいかないと思ったのだろう。

 先に足を止めたのはメイだった。亜麻色のツインテールがそれに合わせて動きを止める。

「姉さん。……もう一回訊くけど、本気でティファ様に礼儀作法を教え込むつもり?」

「しつこいわよ、メイ」

「だってあれはもう直らないと思うんだよねー」

「いいえ」

 そうして今度は別の心配事を口にした。明るいように見せて実は多くの心配事を抱え込んでいるメイにとって、主であるティファに礼儀作法を教え込もうとしている姉の姿は心配の種の一つだったのだ。何せ、無自覚とはいえ触ったらべたべたになると容易に想像がつくようなフレンチトーストを素手で掴んでみせるような主だ。あれであっさりと礼儀作法が直ろうものなら、彼女の姉は今頃こんな風に苦労していない。

 そう考え溜息混じりに否定的な言葉を発したメイだったが、彼女の姉であるマイは違ったようだ。きっぱりとした声で否定的な言葉を更に否定する。ほとんど肌を露出することのないロングメイド服の中で、数少ない露出部分である手の平をぐっと握り締めたマイはまるでこの場にはいない誰かに聞かせるかの如く高らかな声を上げた。それは普段冷静な彼女からは想像が付かないほど、熱の籠もったものだった。

「必ず直してみせるわ。そう、私のメイド人生を懸けてでも!」

「懸けなくていいよ。そんなもの……」

 その熱とは対照的に、メイはがくりと肩を落とす。

(どうして諦めないかなぁ、姉さんは。私なんてさっさと諦めちゃったのに)

 胸中で呟くと、それが伝わったのかマイがふぅと溜息を漏らした。困ったような悲しそうな複雑な横顔が自分と同じ造りの顔に浮かぶのを、メイは凝視する。

「メイ……私はね、不安なのよ」

「不安?」

 ぽつりと呟かれる言葉は弱々しく、普段決して聞くことのない弱音に聞こえてメイは思わず声を上擦らせる。

 双子とはいえ、考え方や嗜好はまるで違う。だからこそメイは姉が考えていることが分からなかったし、こんな風に弱音を吐かれるなどとは想像もしていなかった。

「ティファ様はもう成人になられたというのに、殿方と接する機会がほとんどなかったわ。いたとしてもノルマン様や他の司祭達ぐらいで、皆年上だったし。何より、あの行儀の悪さと世間知らずでしょう?」

「まぁ、ね」

「でもあの方はこれから多くの人に出会うわ、望む望まぬに関わらずね。その中でさすがにあれではまずいと思うのよ。そのために急いで特訓をして、あの方を聖女らしく仕上げなくてはならないの」

 かつん、とブーツと床が触れ合う音がする。

「いつかティファ様もご結婚なさる日が来るわ。そうしたら今度は旦那様がティファ様を支える」

 更にブーツの音がする。そうすると容易に間合いが詰められた。伸ばされたマイの両手の平がそっとメイの頬を包み込む。

「だけど下手をしたらその日が遠のいてしまうから、だから私はあの方にしっかりとした御相手が現れるまで頑張るって決めたの」

「姉さん……」

(ティファ様のこと、こんなに考えてたんだ)

 姉の言葉に感動に近い想いを抱きながら、伏せられたマイの瞼を見つめる。

 主のことを思い、だからこそ主が奪われる日が訪れるのを待つ。それはメイドとしても友人としても勇気のいることであり、隠し通しておいた方の良い大それたことだった。ティファは恐らく笑って礼でも言うのだろうが、世の中の主従関係はそんなに甘くないとメイもマイも知っていたのだから。それこそ、ティファと共にこの大聖堂に身を置くことが決まった時、聖人聖女の好奇の視線に晒された時からずっと。他の聖人聖女にメイドなど付いてはおらず、それゆえに物珍しく見られた二人は多くの誹謗や言いがかりにも耐えてきたのだ。ティファがいない場所で発される、メイド風情が、という言葉に。

(そう。だから私と姉さんはティファ様を慕うし、ティファ様を護るために武器だって手に取ることにしたんだから)

 主従など関係なく、自分達と友人として生きてくれた主のために。

 手を握り締める。するとそこに持ち慣れた武器が現れた気がした。

 人を傷つけたことない武器。護るためにすら未だに振るわれたことのない、人を傷つける道具。ティファは二人が武器を持つ所を見ると複雑そうな顔をするが、この件に関しては譲ることなどできなかった。そう、メイですらティファのためなら意思を固くできるのだ。ましてやこの姉なら――どうなることやら。

「でも、このままだとティファ様の身が持たないわよね」

「何か言った?」

「ううん、何もー?」

 鋭い声に慌てて乾いた笑いを漏らす。そうして今は遠い区域にいるティファに頑張ってとエールを送り、メイは眼前の双子の姉と同じように瞳を閉じて主が帰るのをどうやって待とうかと思案した。

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