CHAPTER 2.星夜祭に願いを (8)
どちらからともなく笑うのを止めた後で、マイが口を開いた。
「ところで、その兎の名前は決めてあるんですか?」
へ? とティファがその言葉に目を丸くすると、マイが小首を傾げて更に問う。それはまるでティファが絶対に兎の名前を考えていると信じて疑っていないようだった。だが、まさか名前を尋ねられるとは。
ティファはアーモンド型の瞳をじっと見据え、ぽかんとしたままマイの問いに答えることができない。――だってこれではまるで、この兎を。
「何を驚いているんですか? その兎ですよ。……放って置くつもりはないのでしょう?」
まじまじと己を見るティファの姿に、マイが微苦笑を浮かべて兎を指差した。ぴくりと動いた耳が揺れ、ついでティファヘと向けられる。答えを待つような態度に重ねてマイの言葉が続いた。
「例えその兎がどれだけ危険でも、アレイズ様がいれば大丈夫でしょう。そうですよね、アレイズ様?」
「当たり前だ、契約者であるティファに危害を加えることを俺が許すわけがないだろう?」
唐突な問いにしかしアレイズは驚いた様子を見せず、堂々と言い放つ。だが片眉を上げている所からして、ティファ同様意外だと感じていることは確かなようだ。ティファはマイとアレイズの言葉に胸中で小さく安堵の息を漏らす。無意識で吐いたその息にようやくティファの理性が追いつく。
「連れて行っていいの?」
「いいのも何も、選択なさるのは私ではなくティファ様です」
メイもマイも、元々兎を連れて行くことに反対していたはずだ。だからこそティファは彼女達から離れたのだし、こうして眼前に立つ彼女達が意志を曲げなかったら同じく意志を曲げない自信があった。しかし、正反対の意見を持っていたはずのマイが今こうしてあっさりと兎の同行を許している。それがティファには意外すぎたのだ。お互い、意志の硬さは折り紙付きなのだから。
胸を張って答えたマイは兎をそっと腕に抱きかかえ、その体躯を撫でていく。白い毛並みがつやつやと輝き抱きかかえる際に幾らか暴れていた肢体がぴたりと動きを止めた。
「可愛い」
紅の瞳がくるくると目まぐるしく周囲に向けられるのを見下ろし、マイが呟きながら口元を緩める。そういえばマイも可愛いものが大好きだったはずだとティファが考えていると、すぐにいつもの理知的な表情を取り戻したマイが自分も自分もと手を伸ばすメイに兎を手渡した。
「そういうわけです。それで? この兎の名前は決めてあるんですか?」
そこにはやはり絶対決めていないわけがないという気持ちが見え隠れしていたのだが、あえて問う形を取ったのは断言してみせることが失礼だと考えたからか。今更そんな気を遣う必要など全くないのだが、ある程度上下関係に厳しいマイにそのようなことは話しても無駄だと考え、ティファはこくりと頷いてみせる。マイが見え隠れさせる感情は確かに間違いなどではないのだから。
スカイブルーの髪が幾重にも折り重なった糸のように流れ、純白のブラウスの上を滑っていく。
「えぇ。ピコって名前にしたいなって考えてたんだけど」
「ピコ?」
「昔大聖堂で読んだ絵本に書いてあったでしょ? 兎が旅する絵本なんだけど。あれの主人公の名前を取ったの。兎だし、丁度良いかなって」
首を傾げるメイに補足として理由を説明すると、そういえばあったねと脳天気な答えが返ってくる。しかしマイはどこか微妙そうな顔を浮かべていた。恐らくティファの口にした話が物語の本筋ではないと知っているからだろう。ティファとてつい先日知ったばかりなので、メイが知らなくとも無理はないが。
ティファが口にした物語に出てくるピコは確かに兎だ。だが、ピコはただ旅をするだけの兎ではなく神であり、兎が罪に溺れた人間達を裁くか否かを決める“最後の審判”を下す裁判官だったというのが本来の物語だった。恐らく幼い子供が読んでも受け入れられるようにと話を変えられていたのだろうとは思うが、成長してから本を探してみて驚かされたことを覚えている。兎の神。物語に出てくるその神の名を与えられた兎にマイが視線を落とす。
少し暗い影の差し込む亜麻色にティファが黙ったまま反応を待つ。
「そうですか……」
小さな呟きが漏れる。それを固唾を飲んで見守っていると、ふぅと溜息をついたマイが苦笑交じりの笑みを浮かべた。
「良い名前ですね」
否定的な答えが返ってこなかったことに、ほっと安堵の息を漏らす。
「……安直な名前かとも思ったんだけど」
「そんなことないですよ? とても可愛い名前です」
「そうだよティファ様! 冒険兎なんて、この子にぴったりじゃない」
笑みを浮かべるべきか否か悩み、苦味と喜色を半々に詰め込んだ微妙な笑みを浮かべるとピコの耳に似たツインテールがぴょこんと揺れる。しかしその言葉に、だから微妙なんだけどとは言えなかった。気付いていないのなら、そのままの方がいい。
「うん」
だからティファは頷いて指先で兎の眉間を撫でた。小さなそこはふわふわとした柔らかな感触で、何故だか胸が暖かくなるのを感じながら空を見上げる。
日がゆっくりと傾いていく。それを見て、少しだけ辟易とした顔を浮かべることを忘れずに。
◇ ◇ ◇
「結局、今日もこの森に野宿ってわけね」
辟易としたティファの予想は大当たりし、その日もやはり森の中での野宿になった。恐らくあと二時間も歩けば森を抜けるのだろうが、その先の街道で野宿をするつもりにもなれず、結局彼女達は昨日同様開けた場所で暖を取っていた。
火の粉がささやかに吹き上げる。それをじっとりと睨んでいるとアレイズが渋い声を上げた。
「まぁ、一日遅れるぐらいなら問題ないだろう。今更だ」
「それでもう何日も遅れてるんだけどね」
遅れた理由は兎とティファにあることは否めないが、それでもグラドを急ぐ彼等には一日という時間ですら惜しいことは確かだ。だが、そのおかげで得られたこともある。
「一時はどうなることかと思ったけど、ピコがここにいることが出来て良かったわ」
そう、あの場をティファが去らなければ今頃この兎は森のどこかに置いて行かれる所だったのだ。危険とはいえ、やはり見た目は愛らしい兎にそんな無体な仕打ちはできない。……野生の兎ならば人間といる方が苦痛になるのかもしれないが、目の前の白兎が野生なのかどうなのかはティファ達には分からなかった。
寝袋の準備をしながら言い放ったティファにアレイズがにやりと口の端を吊り上げる。何かからかいの言葉でも口にする気だと直感的に察すると、予想通り楽しげな声が降ってきた。
「お前もここに戻ってくることが出来たしな」
「むー……」
確かにそれはそうだろう。不満の声を漏らしながらちらりとメイド二人を見やり、一人ではないという実感が胸に込み上げる。だからティファはそれ以上頬を膨らませるのを止めて肩の力を抜いた。
「アレイズのおかげよ。アレイズが追いかけて来なかったら、きっとそのまま森を出ようとしてただろうし」
「それはないな。どうせお前は俺が見つけなかったら道に迷ってそのままあの世に逝ってたさ」
だがそこでぴくりと眉が動く。道に迷ってあの世に? 幾ら何でもそれは失礼だ。
「何よそれ! 私はそこまで方向音痴なわけじゃないわよ!」
「はいはい、そういうことにしておいてやるから。でも森の中で獣道を歩いて迷ったのは事実だよな?」
「もー! だからあれは不可抗力!」
「はいはい」
あまりといえばあまりの言葉にティファが激するが、アレイズは視線を遠くへとずらして適当に流すだけだ。それが更にティファの怒りに火を注ぐのだが、森から出られないかもしれないという自覚はあっただけに強く言い返すこともできない。強がってみせても嘘はつけない、それが行き場のない怒りを更に増長させ、ティファは頬を膨らませてアレイズとは逆の方向に顔を向けた。すると隣からくつくつと低い笑い声が放たれるのが聞こえたが、ティファは何とか無視してやり過ごした。
「珈琲はいかがですか?」
一方的な苛立ちが混ざる空気に耐えられなかったのか、それとも何も考えていなかったのか、マイがのんびりとした声でティファにカップを差し出す。珈琲の匂いが漂うそれは淡い白で、アレイズに渡されたカップに入っている黒とは随分な色の違いだった。砂糖とミルクがたっぷり入ったカップを手に取るとふわりと湯気が頬にかかり、苛立ちがゆるゆると消え去っていく。
心の落ち着きに合わせてほっと息を漏らす。そうするとカップと自分の体感温度に大きな差があることに気付き、ティファはぶるりと身震いした。心なしか鳥肌も立っている気がする。両腕で体を抱きしめ、こんなに寒かっただろうかと思案していると肩に柔らかな感触が触れた。ティファの肩や背中を覆うそれは漆黒で、人肌と同じだけの温度が感じられる。
「アレイズ?」
背後から差し込む影をそのまま見上げると、ティファの目にアレイズの微笑が映った。
「寒くなったからこれでも着ておけ」
「う、うん」
炎の照り返しに赤く染まったアレイズの頬に、何故だか落ち着かない気持ちになったティファは小さく頷いてからすぐに視線を元に戻す。
(――ジュードの頬が赤いのは、ただ焚き火がそう見せてるだけなのに)
胸中で呟き自分を落ち着かせようとしてもどうにも気持ちが落ち着かず、ティファは先程より幾らか騒がしくなった心臓の音を押さえるようにアレイズが掛けた外套の裾をぎゅっと胸元まで引き寄せた。かといって何も言わずにいることもできず、ティファは逡巡した後で蚊の鳴くような声で呟いた。
「……ありがとう」
「あぁ」
それに答えるアレイズの声はあくまで平坦で、いつもと何ら変わりなどない。当たり前と言えば当たり前のことなのだが、ティファにはそれがどうにも解せなかった。先程アレイズが追いかけて来てから、どうにも調子が狂うと考えたからかもしれない。
自分ばかりが挙動不審になるなど可笑しな話だというのに、それでも自分を追いかけて手を伸ばしてくれたアレイズの真っ直ぐな目が頭から離れなかった。
『自惚れるな』
きっぱりとそう言い、ティファを諭したアレイズの姿は彼女にとって鮮烈だったのだ。そして自分が護り仕えるべき存在が自分を護ると言ってくれたこともその一因だった。それは時間が経てば経つほど鮮烈さを増していき、実際にアレイズを前にしていた時よりも更に心に突き刺さって抜けなくなる。
見た目だけじゃなくて、心根が真っ直ぐで格好良い神。その神と契約している自分をティファは誇ると同時に、どうして自分だったのかと考えてしまう。他にも聖女はあの場所を訪れたはずなのに。
「ティファ様、いつものカードゲームしませんか?」
ぐるぐると思考の渦にはまっていたティファを掬い上げたのはマイの言葉だった。はっと息を呑みそうになり、慌てて平静を装って顔を上げるとメイが鞄からカードを取り出してくすりと笑う。娯楽らしい娯楽のない旅に何か一つでも楽しみをと双子によって提案されたカードゲームは、野宿にはなくてはならないものだった。今日もそれをやろうと言っているのだろうが、マイから誘ってくるとは珍しいとティファは軽く小首を傾げた。いつもマイはカードゲームには不参加だというのに。
「アレイズさんも一緒にやりましょうよ! あ、でもアレイズさん強いから手加減してくださいね?」
「まぁ、気が向いたら手加減するさ」
ツインテールを解いたメイが長い亜麻色の髪を大きく揺らしアレイズを誘う。幼さを残す髪型から一片して大人の雰囲気を纏わせるメイの言葉に彼は不敵に笑って立ち上がり、ふと何かに気付いたようにティファヘと手を伸ばした。
「ほら」
一緒に来いということだろう。だが、伸ばされた手が昼間のそれに重なって見えたティファは更に鼓動を早くさせながら顔を伏せてその手を取った。大きな手が包むように優しくティファの手を掴む。左手薬指にはまるお互いの翡翠がその力と同じだけの優しさでもって光を放った。
「今日はどのゲームにするんだ?」
「んー、今日は姉さんが勝てるように七並べでもしますか?」
「いいわね。じゃあ早速やりましょうか」
手を引かれるまま焚き火を囲むように座ると、わいわいと三人の声が聞こえてくる。その輪に加わろうとピコがとことことティファヘと近付き、膝の上へと陣取る。ティファはその温もりを感じながら、くすりと笑みを零した。落ち着かない気持ちは平静へと変わり、じわりと心を浸す温もりが鼓動を落ち着かせる。
(いつもと同じことをして、いつもと同じ夜を過ごす。ただそれだけのことがこんなに暖かいなんて)
どこまでも変わらない日常。少しだけ違うのは、マイが傍にいることだろうか。
常ならばカードゲームに参加しないマイが輪に入って談笑する姿はそうそう見られるものではない。
ティファはそんなマイの姿に密やかに笑みを浮かべて空を仰いだ。月明かりの隠れた夜はどこまでも暗く、そのくせどこか暖かい。だがそれもいつものことだ。暗がりはいつか朝日に照らされ、闇の色を薄めてしまう。変わりなどない夜と朝が繰り返されるだけ。
(でも、それだけで十分だわ)
呟きにさえならない声でティファが唇を動かすと、メイが早くカードを出せと催促する声が耳朶を打つ。それに笑って答えながら彼女は心の中でそっと抱きしめるように言葉を紡いだ。
変化はいつだって新鮮で驚きに満ちている。だけどそれで日常が変わってしまうようでは困るのだと。
明日を作るのは日常であって、非日常ではないのだから。
「姉さん弱すぎ!」
「く……もう一戦よ」
「ハンデ付けた方がいいんじゃないかしら」
記憶が脳を侵食し、心にじわりと影を落とす。それは染みのように静かに広がりティファの心を侵していく中で、今はまだ日常を噛みしめていたいと願い、笑う。
聖都市グラドに着けば嫌でも非日常がやって来る。ならばせめてそれまではこうして笑っていられるようにと。
◇ ◇ ◇
明朝、カードゲームで遊びすぎた面々は若干眠たげな目を擦りながら朝食の準備をしていた。干し肉を湯に入れ、簡単に味付けしただけの簡素なものだがそれでも旅の最中では十分すぎる食事だと、ティファやメイは喜びながら鼻歌交じりに準備に勤しむ。
「もうここに結構留まってるわよね。朝食を摂ったらすぐにここを出るんでしょう?」
「あぁ、聖夜祭や兎のことで足止めを食らったが、そろそろグラドに行かないとな」
楽しげな様子に苦笑を漏らしながら水を鍋へと入れているとそんな問いが耳朶を打ち、アレイズは溜息混じりに答えた。確かに世界に会うのは今すぐである必要はないし、ある程度自由な旅ではある。だがあまりにアレイズ達は長く森に留まりすぎた。いい加減グラドへ着かねば、この先が心配だ。グラドへ行けば必ず世界に会えるなどという楽観的な思考は持ち合わせていないのだから。
「そうよね。あ、そういえばこの前行った村があるじゃない? あそこの神器、もう狙われないのかしら」
そう考えて答えたアレイズを見てティファがふと首を傾げる。恐らく聖夜祭から神器の話に繋がったのだろうと予想はできたが、今それを訊かれても上手い言い訳ができなかった。
「……大丈夫だろう」
少しの逡巡の後でアレイズは小さくそう答えた。だが、その理由を答えることはできない。賊はグラドからの依頼を受けたと話していた。それならば二度も同じ手を使うような馬鹿な真似はしないだろうというのがアレイズの見解なのだが、それをティファに正直に離すことはできない。もしそれを話してしまえば、これから行く聖都市が一部分だけでも廃墟と化してしまう可能性が出てくるからだ。グラドに対しあまり思い入れのないアレイズだったが、さすがにそれは容認できない。ティファが破壊活動を行うその魔力の供給源はアレイズにあるのだから。
「? まぁ、そうよね。あれだけ脅したんだもの、皆怖がって近づかないわよね」
だが突っ込まれてもおかしくはない言葉に、ティファはさして文句も言わずに頷く。一応自分がやりすぎたという自覚はあるらしくその声には若干罰の悪そうな響きが含まれていたが、この程度で誤魔化せるのなら賊の一人や二人犠牲になっても構わないと決めつけてアレイズはうんうんと大袈裟に頷いてみせた。
「あぁ、お前とマイが派手に動いた甲斐があったな」
「私は派手に動いてなどいません」
「どうせモーニングスター振り回してたんでしょ……姉さん自体が派手じゃなくても武器の動きが派手なんだよね」
干し肉を小さく千切りながら溜息をつくメイの声にマイがきっと目尻を吊り上げる。そのせいで十分程度説教を食らう羽目になるメイを尻目に、アレイズは胸中でそっと溜息をついた。
それにしても、一体いつこの二人に賊の話をすればいいのか。
どれだけ機会を伺ってもティファから双子が離れることがなければ、その逆もない。こんなことなら兎を連れて消えた時にでも話しておけばよかったと後悔するも時既に遅し。そうこうしているうちにスープが出来上がり、朝食を摂り終えてしまったせいでアレイズは更に機会を失ってしまった。
「やっとこの森を出られるんだねー」
「別に悪い所ではなかったじゃない」
うんっと伸びを一つしてメイが清々しいまでの笑顔を浮かべて前へと進んで行く。それに対し小さく笑いながら答えるティファはメイにもマイにもつかず離れずの距離を保っていた。恐らくティファではなく、双子が気を遣っているせいだろう。
大きめの鞄をゆさゆさと左右に揺らす細身の体を背後から眺め、アレイズは胸中でもう一度溜息をついた。一体いつになったらティファと双子が離れるんだと。
「アレイズ様?」
「? 何だ」
しかしそれが功を奏したのか、深青のメイドがちらりとアレイズの表情を窺うように下から顔を覗き込ませた。思い悩んでいたのが伝わったのだろう。その声は誰かに聞かれないよう密やかな大きさに配慮されていた。
「いえ、もしかしてティファ様に何か御用でしょうか?」
ただ、彼女が心配する内容はアレイズの悩みとは随分とかけ離れたものだったが。
顎に手を当て、しばし考え込んだアレイズはこそこそと真紅の背中を指差す。
「メイとマイ、二人に少し話がある」
「御話、でしょうか」
「あぁ。話というよりは、相談に近いんだが」
マイ一人に話しても問題などないし、話しておいてくれと頼めば彼女はすぐにでも妹に伝えるだろう。だが昨日の一件で、どちらか片方だけに話すと意見が偏る可能性が出てくると判断したアレイズは自分の口から賊の話をしておきたかった。
木漏れ日が薄くなり、光が差し込む範囲が広くなる。
森の終わりを告げるように薄くなる葉に目を細めると、マイがそんなことは御安い御用だと小さく笑った。
「承知致しました。ではメイを呼んで参ります」
「すまないな」
「アレイズ様から相談だなんてそうあることではありませんもの」
小さな謝罪を笑って受け止めたマイはそのまま早足にメイへと近付き、そっと彼女の肩を叩く。その感触にメイが姉へと視線を向けて顔を引きつらせるが、それは見ない振りをする。マイがどんな笑顔を浮かべているかは知らないが、このまま知らずにいた方が幸せだとさすがのアレイズも理解していたからだ。
視線を逸らすと、見ない振りをされたことに気付いたのかメイが頬を膨らませながら近づいてくる。さり気なく後退しティファの後ろを歩く形になる三人はぴったりと並列に並んで密やかな声を上げた。
「相談って、どうしたんですか?」
だが両手に花という状態でも、何故だかこの双子相手だと恐怖にしかならないから不思議だ。そんなことを考えていたアレイズはメイの声に無理矢理顔を引き締めて鼻歌交じりに進む青い髪の少女に視線を向け、そのままの体勢で言い放つ。
「この前、星夜祭の村で神器が盗まれただろう?」
「えぇ、私達が取り返した物ですね」
貴女はいなかったけれど、とメイにちらりと視線を向けるマイの声を聞いてアレイズが静かに頷く。静謐な空気に口論を起こしそうになった双子が揃って口を噤んだ。
「そうだ。あれを奪った盗賊の中にグラドの人間がいた。……この意味が分かるか?」
「グラドの? それはまさか」
「神器を奪おうとしたのは、ただの賊じゃなくてグラド?」
頭の回転が速い双子だ。
アレイズは胸中で舌を巻きながらそれでも表面上では平然と頷いてみせる。
「正確にはグラドという都市そのものが命じていた可能性が高い」
都市そのものなのか、他の誰かなのか。実際その辺りは確かめてみない限りは分からないだろう。だがアレイズは昔の経験で大まかにグラドという都市の実態は掴んでいたせいか、どうにも都市全体が黒に見えて仕方がない。あっさりと言い放ったアレイズにマイがそれで、と呟く。
「ティファ様にはこの事をお話に?」
「それを相談したかったんだ」
一番の問題に渋く答えを返すと、メイがぷっと吹き出した。
続いてマイがくすくすと肩を震わせて笑う。
「何故笑う」
一体何がそんなに可笑しいのか。不満を顔に載せて抗議すると、マイは余程面白かったらしく目尻に涙を浮かべさせて首を振った。慈しむような視線をティファヘと向ける。
「よほどティファ様を怖がっているんですね?」
何も言わなくとも行動が似かよるのが双子の特徴なのか、すぐにメイもティファを見据える。楽しげに揺れる亜麻色は同調するように頷いた。
「確かに困りますよね」
「えぇ、そんなことを話したらきっと唯一統治権が機能している都市が一夜にして全てを失ってしまうわ」
(やはり、俺と同じ考えか)
頷く双子にアレイズはふぅと息をついてから眉根を寄せる。
「だが、いつまでも黙っているわけにはいかないしな」
兎に話しかけているのか、一人で歩いているにも関わらずティファの声が聞こえてくる。穏やかなその口調にアレイズは呆れを通り越して笑みを浮かべ、日差しが増す道を歩いていく。このままだと一刻もしないうちに森を抜けるだろう。
「これはあくまで私個人の意見ですが」
万緑が薄くなる中でぼんやり考えるアレイズの耳朶をマイの声が打つ。「ん?」とメイが姉に首を傾げると、マイは思い悩むようにこめかみに指を当ててから息を吐き出すように続けた。
「この話はグラドに着いて少し時間を置いてから話した方がいいのではないかと」
「少し時間を空ける意味があるのか?」
「えぇ」
グラドに着いてからというのならまだ分かるが、時間を空ける意味がアレイズには分からない。意味ありげなマイの言葉に問うような視線を向けると、メイが何やら思い出したようにぽんと手を打ち鳴らした。
「あ、そっか。グラドには神様の話が一杯ありそうだもんね」
「行ったことはないけど、多分そうでしょうね――ティファ様がもう少し聖女らしかったらすぐに御話しても差し支えないのですが」
「何か問題があるのか?」
グラドは世界の中でも古い部類に入る都市だ。そして世界との繋がりも大きいと言われている。それゆえに神の伝承が色濃く残る地でもあるのだが、それが一体どうしたというのだろうか。
(ティファが聖女らしくないのは今に始まったことじゃないだろう)
アレイズは本人に聞かれたら魔法を放たれそうな暴言を胸中で呟きマイの返答を待つ。すると彼女はしばし黙考してからメイの服の裾を引っ張る。
「メイ、貴女は少しティファ様の御相手をして差し上げて」
「え、何で今なのよ」
まったく関係のない話にメイが顔を顰めると、マイはくいと顎をしゃくってティファに目を向けるよう指示する。釣られてアレイズがスカイブルーの髪を見つめると、未だに話し声が聞こえてきた。
「見なさい。ティファ様ったらピコに話しかけて……このまま独り言が多い人間になったらどうするの」
見れば見るほど怪しい光景だとマイも感じたのだろう。兎に話しかけているのであって独り言ではないとティファなら言い張りそうだが、背を向けていたら兎は見えないし答えがない以上一人で話しているようにしか見えない。これではマイが心配するのも頷ける。眼光を鋭くする姉にメイがたじろぐ。
「う、分かったよ。行けばいいんでしょ行けば」
「そう、分かればいいのよ」
にっこりと穏やかに笑んだマイに唇を尖らせたメイが駆けて行くのを見送ってから、ぽつりとマイが言葉を零す。
「申し訳ありません。メイにはあまり聞かせたくない話でしたので」
「構わないが、何の話だ?」
唐突に遠ざけたということは恐らくそういう理由なのだろうとアレイズも察していたし、当のメイも気付いているのだろうがマイはその全てに何の突っ込みもさせずに分かりやすく遠ざけた上でようやく重い口を開く。
真紅を覆う純白のエプロンが揺れ、ティファヘと近づいていく。そうしてその背をどんと押して悲鳴を上げさせるのを見ながら、耳朶を打つ高い声を受け止めた。
「ティファ様はアレイズ様と契約をなさったり、大聖堂の聖女に任じられておりました。ですが、元々神自体は御好きではないのです」
勿論、アレイズ様は別でしょうけれど。
「は?」
そう続いたマイの言葉に、一瞬何を言われたのか分からないとアレイズが目を丸くする。墨で塗りつぶしたような漆黒の瞳孔がきゅうっと開いた。
(神が好きじゃない? だったら何故ティファは俺と契約など)
「ティファ様は七年前にご両親を亡くされています。私も部屋から出てきたティファ様を見て慌てて声を掛けましたが、ティファ様は私の声なんて聞いてはいませんでした。――ずっと神に救いを求めていたのです。助けてほしい、と。……ですが」
「神は来なかった、か」
だというのに、契約どころか一緒に旅までしているのか、ティファは。
「ですが御安心ください。ティファ様はアレイズ様のことを御嫌いではありませんから」
「……そうか」
自分がしようとしていることが何であるのかを理解しているアレイズにとって、それは手痛い真実だった。瞼を伏せる。それが落ち込んでいることへのサインだと即座に見抜いたマイは、胸を張ってそう答えた。
「えぇ、それだけはこのマイティーナが保証致します」
とんと胸を叩く仕草は普段の彼女からは想像もできないほど自信に満ちていて、それならば本当なのかもしれないとアレイズは微かな安堵が胸に宿るのを感じた。
だが、と胸中で呟く。神を嫌いな元聖女が元人間の神と共に行動している。そしてメイドが言うには自分は嫌われていないはずであり、自分も彼女を嫌ってなどいない。むしろどちらかといえば好意を持っているほどだ。少々やりすぎ感が否めないが、彼女の真っ直ぐな意志は見ていて眩しいほどなのだから。何より、自分が考え込んでいる時に隣に居てくれることがどれだけ救いになったかしれない。しかしアレイズは胸中での考えに首を振り、甘さと穏やかさの宿る熱を振り払った。
(俺はレイナに会うために旅をしているんだ)
それは決して忘れてはならないこの旅の前提条件であり、ティファニエンドを利用する大義名分でもある。そう、だから人間に――特にティファニエンドに肩入れすべきではない。いつか傷つける存在に肩入れしてしまえば、どちらも手痛い思いをする。
手放した熱と良心の呵責が残滓のようにアレイズの心に纏わり付く。だがマイの手前悩んでいることもできず、無理矢理気持ちを遠ざけたアレイズはきっと前方を見据えた。
「とにかく、全てはグラドについてからだ」
「はい」
声を放つと、マイの従順な言葉が返ってくる。すると話が終わったことを見て取ったのか、メイがぶんと手を振った。
「姉さーん、近くに川があるから水だけ調達したいんだけどー」
「そうね、街道に出たら川もないし今のうちに済ませておきましょうか。アレイズ様とティファ様は休憩していてください」
「あぁ、すまない」
ぱたぱたと深青の影が流れて行く。そうして同じ顔立ちの少女が揃って川へと向かうのを見て、大きな木の幹に体を預けて目を閉じた。暗闇が視界を覆う。だが安寧をもたらすはずのその闇は彼に混乱のみをもたらした。
(本当にこのままでいいのか? ティファを利用し、殺すことになってもいいのか?)
心に鋭い棘が突き刺さっていく。それは心の中心を通り、抜けないように深く深くへと潜り込んで行く。
『ティファ様はアレイズ様のことを御嫌いではありませんから』
(いっそ、嫌ってくれれば)
アレイズは心の痛みに眉を顰め、八つ当たりだとは知りつつも胸中でティファを責めながら長く感じられる時を思考に費やした。
◇ ◇ ◇
悩むアレイズの姿に、メイが小さく声を上げる。
「ねぇ、ティファ様?」
「どうしたの?」
川に行くと言っておいてマイだけ先に行かせるのはどうかと思うと、声を掛けられたティファが怪訝に思い振り返る。だがメイはそれには動じることなく小さくティファの服の裾を引っ張った。くいくいと引っ張り身を寄せ、秘め事を告げるように囁く。
「今日のアレイズさん、様子が変じゃない?」
「そう? いつもあんな感じだと思うけど」
「違うよ」
こそこそ言われるままにティファはアレイズを見るが、説教以外だと寡黙な彼はやはり静かな空気を纏って何やら思案している様子で、別段普段と変わりなどない。なのに一体何が変だと言うのか。彼が考え事をしているのはいつものことだというのに。呆れながらティファが答えるも、返ってきたのはきっぱりとした断定形の答えだった。
「どう見てもおかしいよ! ティファ様、何か言ってきてあげてよ!」
「わ、私が!?」
「そうだよ。だってティファ様の契約神でしょ?」
それはそうかもしれないが。
白いエプロンがふわりと揺れる。後ろに回り込まれると同時にメイの手がティファの背中をとんと押した。柔らかな指先がそのくせしっかりと力を込めたせいで、ティファは数歩足を踏み出してから首だけでメイを睨みつける。
「ほら、早く早く」
しかしそれすらどこ吹く風と、メイはひらひら手を振って無邪気に笑った。楽しげに吊り上げられた唇を見て、心配してるのかただ近づけたいだけなのかよく分からなくなったティファは溜息を一つ漏らしアレイズへと視線を向ける。
彼はメイやティファのやり取りが聞こえていないのか、気にする余裕がないのかこちらを向く気配はない。普段なら騒がしいと小言の一言ぐらい言いそうなものだが、とティファは首を傾げアレイズを注視する。ダークブルーの双眸を細めると、多くの光を押し出して黒い塊のみが見えてきた。黒尽くめの風貌から漂うのは、いつもと変わらぬ寡黙な空気だ。しかしメイが言う様に、悩んでいる空気に見えないこともない気がする。彼が何に悩み何を熟考しているのかは分からないが……。
「分かったわよ」
何かしら思う所があるのだろうということだけはティファにも理解できたので、彼女は腹をくくったように一声上げてアレイズへと足を踏み出す。
「じゃ、行ってらっしゃーい」
その背にメイの気楽な声が掛かるが、メイより奥にいるマイが口元を手で押さえてくすりと笑ったのが見えた所からしてこれから先のやり取りが傍観されることは目に見えている。どういう思惑かは知らないが、あの双子はティファとアレイズがくっつくことを何よりも楽しみにしているのだから。
「まったく……」
主としてこのままでいいのかなどと考えつつ歩を進めると、すぐにアレイズの横に並ぶことができた。しかしそのまま座り込んで何があったのよ、と声を掛けるには躊躇われる空気にティファは軽く目を見開く。そうして一度瞬きした後でじっくりとアレイズの横顔を見下ろした。精悍な横顔はティファが隣に並んでもその双眸を怪訝な色に染めることはない。しかし本格的に熟考しているのだと笑う気にはなれなかった。
「……」
黙り込んだままティファは呆然とアレイズの横顔を凝視する。
どうして、と胸中で呟く。
(どうしてそんなに思い詰めた顔をしてるのよ)
座り込もうにもそれすら叶わない状態でティファは吊り上がった目を見開いたままアレイズの横顔を見ることしかできない。酷く思い詰めた、焦燥感が張り付いた横顔を眺めつつ声を掛けることができなかった。一体何を考えているのだろうか、という疑問を持つものの、答えなど出る由もない。
「ア――」
だからティファは意を決して声を掛けようとして、またすぐに唇を閉じる。
見間違いだと思っていた動きが本物だと知ってしまったからだ。
(震えてる?)
脳裏に浮かんだ鋭い声に、かたかたと黒い塊が小刻みに震えているのを知ったティファはその肩に手を置くべきか逡巡する。悪寒に耐えるように、熱を生み出そうとするように震えるアレイズはしかしその寒さに気付かぬ様子でひたと前方を見据えていた。何もないその場所に虚ろな視線をさ迷わせるその横顔に無意識に恐怖を感じてしまい、手を置くことを躊躇ってしまう。しかしこのまま何も見て見ぬ振りをすることだけは耐えられなくて、ティファはついと視線をずらして背後を見やる。するとメイとマイが不思議そうに首を傾げ、さっさと声を掛けろとジェスチャーするのが見えた。
どうやら、弱々しく到底神には見えぬ姿はメイやマイにも見えていないらしい。それが彼にとって救いになるはずだ。だが、このままだと訝しんだ二人が傍に寄って来てしまう。それまでに何とかしなくては。そう考えたティファは自分の存在に未だ気付かぬ神の震えをどうやって取り除くべきか考え、そして。
「……ふぅ」
緊張したように溜息を漏らしてから、そっと腕を伸ばした。




