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CHAPTER 2.星夜祭に願いを (6)

 突如として現れた真っ白い物体は相変わらず場の空気を読んでいないらしく、つぶらな瞳をティファ達に向けながら愛らしい動作で近づいてくる。体躯が伸び、跳ねながら近付くそれはやがてティファの足元で止まり身をすり寄せる。ふかふかとした体毛がブーツを撫でるのを見て、思わずティファは口元を手で押さえながら呟いた。

 世界の大半の女は可愛いものに目がない。ティファとて例外ではなかった。

「か、可愛い……」

 ダークブルーの双眸がうっとりと細められ、ティファが手を伸ばす。白の体毛に覆われた小動物――兎を抱きかかえてその背を撫でた。心地良さそうに頬ずりする兎の首元できらりと首輪が光る。

 慎重に指先で体毛をかき分けて首輪を凝視する。するとそこに神を示す紋章が現れた。メイが言う通り、寸分の狂いもなくこの兎は大聖堂に現れた兎と見て間違いはない。あの時は暗くてあまり細かく見ることができなかったが、こんな紋章が描かれていたとは。ティファはつぶらな瞳で自分を凝視する兎に笑いかけながら首輪を撫でる。そうして紋章をじっくり見ていると、何かが心に引っかかった。何か大切な事を忘れているような――自分もこの紋章をどこかで見たことがあるような。でも、何かが違う。

 思考に体温を奪われたのか、さあっと体が冷えたような錯覚に陥りながら記憶を手繰り寄せる。そんなティファの顔を覗き込むように兎が赤い瞳を寄せた。綺麗な目ね、とティファが呟いてその瞳を見返す。ティファの感じた通り、兎の目は確かに綺麗な色をしていた。そう、その赤は炎や夕暮れというよりはまるで血を一滴垂らしたような赤で。

「っ!?」

 どくんと鼓動が跳ねるのに合わせてティファの肩が跳ねる。

 喉元をひゅうっと細い息が通り過ぎ、肺へと潜りこんで行った。浅すぎる呼吸に咳き込みそうになる。下がったように感じられた体温が更に下がる。そっと氷を体内に入れられたような、そんな冷たさに思わず腕の中の兎を落としそうになったティファは慌てて兎をぎゅっと抱きしめる。唐突に込められた力に兎の耳がぴんと立つ。前肢が藻掻くようにティファの胸元をかきむしった。刹那、ティファの指輪と兎の首輪が発光した。

「「ティファ様!」」

 切羽詰まったメイとマイの声が木々を揺らしかねないほどの音量で放たれる。しかしティファはそれに応えることもできずがつんと頭を殴られたような衝撃に目尻に涙を浮かべていた。脳に記憶が雪崩込んでくる。不可思議な状態に首を振ろうとするも、それも敵わない。そうしている間にもティファの記憶は逆行し、光に包まれながらも緩やかに夢で見た記憶に近づいていった。

 鮮血で染め上げられた室内。金髪碧眼の男女。瀕死の彼等に取りすがる蒼い髪の少女。

 それはもう知っている。しかしそれだけではないはずだ。

 夢同様、まるでその場にいるかのような視点でぐるりと辺りを見渡す。絶望に縁取られたダークブルーの双眸がその色に酷く不似合いな鮮血を瞳に収めていた。もう見たくない。心が悲鳴を上げながらティファの動きを止めようとする。しかしここで止まることはできないと、何かがティファを急かしていた。もしかしたら先程の光に何か関係があるのかもしれないと考えるも、答えが出る由もない。

 粉々という言葉が最も相応しいと思われる砕け散った陶器の花瓶、その傍でくったりと倒れているアリシアの花。母と同じ名のそれはからからに干からびており、むせ返るような血臭の中で更なる死をティファに見せつけていた。その背後に窓はやはり粉々に砕け散っており、嵐を伝える曇天を視界一杯に広げている。このままだと二人が濡れてしまう、そう考えたティファは慌てて室内から父母を運びだそうとして、そこでようやく気がついた。窓から視線を少しずらした壁面。そこに、二人の物と思われる血で描かれた紋章があることを。首輪に描かれていた金細工ではない。しかし全く同じ形の紋章がそこにはあった。

「ティファ、おいティファ!」

「……っ!」

 がくがくと肩を揺さぶられる衝動にティファがはっと目を見開く。すると眼前には黒髪黒瞳の精悍な顔をしてた男が立っており、そこでようやくアレイズがずっと声を掛けていたことに気付く。

 呆けた顔で腕の中を見ると、既に兎はメイとマイに引き剥がされたらしくその中にはいない。どうやら光も消え去っていたようだ。そんな中、ティファは一人意識を遠くに飛ばしていたというわけだ。

「気が付いたか」

「うん、ごめん」

「気にするな。それより、やはりあれは神の証なんだろうな」

 安堵を含んだ柔らかな声にティファが次第に冷静さを取り戻して行く。今にも身震いしそうなほどの恐怖心をかなぐり捨て、ティファは無理矢理気味に笑みを浮かべた。そうしなければ正気など保てない。

 口の端を緩めて笑うとアレイズが怪訝そうな顔をするが、彼はティファが無理をしていることを悟ると溜息を一つついて頷く。この件に関して問い詰めることを諦めたのだろう、少なくともメイとマイがいる前では。

「原理は知らないが、契約の証である指輪に反応することからしてまず間違いはないだろう」

「じゃあ、やっぱりその兎も神様なのかしら」

「確かに魔力は感じるが、どうだろうな。首輪が契約の証という可能性も否定できない。その場合、この兎がゼクスということになるが……」

 アレイズがちらりと背後を見て腕を伸ばす。するとマイがティファから引き剥がした兎を睨みつけながら、それでもそっとアレイズの手の上に載せる。手から少し体躯がはみ出しているが、上手くバランスを取っている兎はそのままアレイズの腕の中へと場所を移動した。

「ゼクス?」

 メイが兎の耳が垂れているようなツインテールをぴょこんと揺らして尋ねる。……前にも思ったことだが、メイは一体自分達が勉強している間に何をしていたんだろうか。主が勉学に勤しんでいる間に羨ましいことだ。もっとも、ゼクスや神聖文字の知識などなくとも何の問題もないのだが。ティファはそう考え、少し呆れながらも文句を言わずに答えを返すことにした。

「ゼクスっていうのは、人間以上に高い知能を持った動物のことよ。アレイズの言う通り、もしこの兎がゼクスだったら神との契約も――出来ないことはないんでしょうけど、そうだとしたら神様は何で兎と契約したのかしら」

 ちらりとアレイズを見て問いかけると、彼はひょいと肩を竦めた。

「知らん」

 何て適当な。

「じゃあアレイズはこの兎がゼクスだと思う?」

「……今までの動きを見ている限りは違うだろうな。となると他に、神の紋章自体に神が宿っているという可能性も考えられるか」

「アレイズが指輪に宿って眠っていたように?」

「あぁ。どちらにせよ、この兎が神に関係があることは確かだろう」

 ひげがぴくぴくと動き、忙しなくティファとアレイズを見る瞳は変わらず赤色で、ティファは思わず目を背けたくなる衝動に駆られながらぎゅっと手の平を握り締める。もしこの兎が神だったにせよ首輪に神が宿っているにせよ、もしかしたら今目の前に父母を殺した犯人がいるかもしれないということだ。

 硬い表情のティファに何を思ったのか、マイがそっと声を掛ける。気遣わしげなその声は、どこか憂いを帯びていた。彼女が何を憂いているのかはティファには分からなかったが。

「ティファ様、やはり体調が」

「ううん、大丈夫よ。……アレイズ、一つ訊いてもいいかしら」

「何だ?」

 そういえばマイは夢の中に存在していた。ならば、あの時の母の言葉について何か答えてくれるかもしれない。ティファはそう考えつつもまずは目の前の疑問を解決しようと口を開いた。微かに湿った唇を舌で湿らせる。

「大聖堂で、その子の紋章はアレイズより高位の神を表すって言ってたでしょ? もしかして同じ位の神様だったら皆紋章が同じなの?」

 問うと、兎の首輪に描かれた紋章をしげしげと観察する黒い瞳がひたとこちらに向けられた。

「一般的にはそう言われているな。俺もレイナから聞いた程度だからあまり詳しくはないが、世界が特別に紋章でも授けない限りは基本的に同列の神の紋章は同じ物だ」

「……そう」

 だとすれば、アレイズの腕の中にいる兎や首輪に宿る神が犯人ではないという可能性の方が大きくなる。

 神にどれほどの力があるか推し量ることなどティファには出来ぬし、神であるアレイズにも不可能だろうが少なくとも兎に害があるとは思えなかった。首輪に至っては本体が出ていないから分からないが、自分達を見ても出てこないということは違うのかもしれない。殺し損ねた存在を前にして、機会を伺わなければならないほど非力な神ではないだろう。第一、こうして大人しくしていると人畜無害にしか見えない。元々神は世界を守護する存在であって、決して人間を殺す存在ではないのだから人畜無害に見えないとおかしいとも言えるが。

 とはいえ、犯人を見つけるには至らなかったものの、先程の光の影響で手がかりを得ることはできた。同時にこの兎の存在が貴重だと理解することも。

「ティファ様、本当に大丈夫?」

 マイの亜麻色の瞳が兎へと一身に注がれる。暗い色を帯びたそれにティファが声を掛けようとすると、能天気とも無邪気とも取れる高い声が耳朶を打ち彼女はすぐにマイから視線を逸らした。ずらした視界の先に立つのは、マイと同じ顔立ちのメイ。

 彼女に向けて頷いていると日が南天に近付くのが見え、アレイズがふぅと溜息を漏らした。

「とりあえず歩くか。兎については歩きながらでもいいだろう」

「えぇ、そうしましょう」

 スカイブルーの髪が揺れ、森を抜ける道を再び歩く。するとすぐにマイが腕を上げてアレイズに声を掛けた。

「アレイズ様、その兎は私が」

「? あぁ、済まない」

 ぴくりと兎の耳が動き、一瞬じっとマイの亜麻色の瞳を見つめる。しかしマイはただ無感情にそれを見つめ返すのみだった。可愛いものに目がないのはマイとて同じはずなのに、何故この兎に厳しいのだろうかとティファは思案しやはり浮かび上がった一つの可能性へと至る。先程光を放ったことで警戒しているのかもしれないが、彼女の瞳はそれだけではない何かを秘めている。そしてそれこそがティファが今一番思い悩んでいることへの答えなのではないかと考えた。首輪に施された、神の紋章。マイはそれに何か思うところがあるのかもしれない。

 さく、と次第に柔らかさを持ち始めた土を踏みしめて深青の背を見つめる。しかし振り返らないその背はティファに一片の思考をも覗かせてはくれなかった。幼馴染であり親友だというのに、あまりに距離が遠く感じられる。ティファが思わずそう感じてしまうほどに。

 隣にいるメイを盗み見る。そこには兎を持つ姉を羨ましそうに見る楽天的な横顔が見えるだけで、マイのような深刻さは見えない。恐らく彼女は何も知らないのだろう。そうでなければ隠し事が苦手なメイが笑っていられるはずがない。

 葉の間から零れ落ちる日差しが増す。そうして柔らかな土に優しく降り注ぐ光に視線を落としていると低い声が耳朶を打った。

「それで、この兎だが」

「置いて行くべきです」

 マイの腕の中にいる兎に話を持っていったアレイズの声に即答したのは無論ティファではない。斬りつけるような鋭い高らかな声。凛とした瑞々しい響きを持ったその声を発したのはマイだった。きっぱりとしたマイの声に、妹であるメイがきょとんと目を丸くする。

「どうしたの? 姉さん」

「どうしたもこうしたもないわ。大聖堂の地下から現れた兎が危険でないなどと、誰に言えるのです」

 ぎゅっとマイの腕に力が籠められ、兎が藻掻く。それを見て慌ててメイが兎を取り上げるが、マイに悪びれた様子はない。どうやら余程ご立腹のようらしく、アレイズなんかは頬を引き攣らせていた。この場で一番偉いはずの神はあてにできそうにない。ティファはそう考え内心で溜息を漏らしながら首を振った。

 この森に兎を置いていく? とんでもない。

「こんな所に置いて行くなんて、幾ら何でもひどいわ」

「元々兎は森でも生きていける種族です。ティファ様が気に病む必要などないでしょう」

「……やけに頑固ね」

「ティファ様の身を案じてこそです。どうか御理解くださいませ」

(――だったら、どうしてそんなに泣きそうな顔をするの)

 そんな言葉が喉から飛び出てしまいそうになり、ティファは慌てて指先で唇を押さえて留める。何故だかそれは決して口にしてはいけないような気がしたからだ。……これしきのことも訊けないで、過去の話などできるわけがないというのに本当に馬鹿みたいだ。

 胸元を覆う白いエプロンに体躯を同化させながら兎がぱっちりと赤い瞳をティファヘと向ける。何を考えているか分からないその瞳はまるで助けを希うように見えるが、同時にぞくりと背筋が強く震えるほどの強い力が籠められていた。

(何なの? この魔力)

 肌を愛撫するように撫でていく魔力の奔流がまとわりつくようにティファの肌に絡む。それは決して心地良いものではなく、悪意と嫌悪の混ざり合ったそれで。ティファは腕を何度もさすってその感触をやり過ごしながら兎を凝視した。見開かれた瞳の先にある赤は先程から変化のない色でティファを見返す。どうやら、マイがティファの身を案じていたのは取り越し苦労でも何でもないらしい。そう実感しているとマイが更に言葉を募らせる。

「ティファ様は、先程の光が唯の光だったと御思いですか?」

「別に何てことない光だったじゃない」

「いや」

 何かに急かされているようなマイの声に、頭ではいけないと理解しつつもつい反論してしまう。しかし続くはずの口論はアレイズの言葉によって遮られた。黒い睫毛が震えるように伏せられる。もしかしたら先程の光を思い出しているのかもしれないと考えていると、メイまでもが唇を尖らせてティファを見ていた。しかしティファには先程の共鳴反応に近い現象で生じた光に何かしらの害があったとは考えにくい。ないことはないが、少なくともマイはティファの懸念については知らないはずだから。

「お前は気付かなかったのか? あれは熱を孕んだかまいたちだった」

「え? で、でも私熱いなんて全然思わなかったわよ」

 案じるような声に首を振るが、三人が三人とも同意見のようでティファの勝気そうな瞳をじっと見つめる。

 確かに神が言うのなら間違いはないんだろう。ただ、ティファは記憶を手繰り寄せただけで熱など感じはしなかった。無論ティファの肌が焼けぬようにメイとマイが動いたからだという可能性もないわけではないが……。

 それよりも今しがた兎の目を見て感じた魔力の方が余程悪質だったというのに、誰も気付かなかったのだろうか。だとしたら、確かに危険だ。誰にも気付かれずに魔力を放てるのなら、それは気付かれずに相手を打ち倒す力となるのだから。しかし、果たして置いていくことが得策なのかどうかも分からない。どちらかと言えばこのまま連れて行って監視している方がいいのではないか。そうすれば相手の出方を探ることができるのだし、そう考えつつ無言の圧力に耐えきれないティファが眉尻を下げると、マイがふぅと息をつく。苛立ちに近い何かを吐き出したその溜息を補うように、軽く息を吸い込んだマイはメイの腕の中にいる兎を中止しながら呟いた。

 もしかしたら、そう呟く声が耳朶を打つ。

「もしかしたらその兎自身には非がないのかもしれません。反応したのは首輪であって、兎が反応したわけではありません。ですが、悪い予感がしてならないのです」

 そういえばアレイズも悪い予感がすると言っていた気がする。もしかしてあれは今この事態についての予感だったのだろうか。

 アレイズを見上げると、彼はマイの言葉に何やら考え込んでいるようだった。恐らく兎の危険性について思案していたのだろう。彼は元々呪いによって神にされた人間だ。どちらかといえば神を憎んでいる立場の彼が神たる紋章を見つけて何も思わないはずがなかった。それにそもそもこの兎が危険であることに間違いなどない。

「アレイズ……」

 囁きのような声で呟く。するとアレイズがぱっと顔を上げて微苦笑を浮かべた。

「俺もマイに賛成だ」

 ティファの身を案じているのだろう。それが視覚からも聴覚からも痛いほどによく伝わる。アレイズだけではない。メイもマイも、それぞれがティファと兎を傍に置きたくないと考えている。しかしティファは――。

「……駄目よ」

「ティファ様」

「駄目、置いていけないわ」

 今ここで兎を手放したら手がかりが途絶えてしまう。だからティファは何があっても兎を手放すことなどできなかったのだ。それにやはり、このまま置いていって兎に別行動をさせることの方が危険であると本能が告げていた。

 さくりと数歩土を踏みしめた先にいるメイの腕から兎を抱き上げる。ふかふかの体毛をブラウスにくっつけてティファは力なく笑った。危険性について説いた所で、置いていけと言われるのが関の山だ。だったらとティファは考え浅く息を吸い込んだ。清涼な空気を肺に取り入れて、澄んだ心で言葉を紡ぐ。

「もしこの兎が神様だったら、私達神様を森に放置したことになるのよ? レイニウム大聖堂の元聖女として、それはできない」

「でもティファ様、ティファ様の契約神はアレイズさんなんだよ? そのアレイズさんが言うんだから」

「そうです、もう一度御考え直しください」

 静謐なティファの声にメイとマイが顔を青くする。しかしティファの決意は変わらない。もう一度首を振ったティファの心にちくりと痛みが走るが、彼女はそれを気にせず目を閉じた。

 契約神、という言葉が脳内で反響する。そうだ、自分は今アレイズと契約をしていて彼が世界にもう一度会いたいと願ったからここまで付いてきたのだ。教皇にも聖母にもそう願われたからこそ、自分は聖女ではなく人間になったのだから。しかし、今まで思い出すことのなかった記憶が頭にしっかりと焼き付けられるせいでそちらにばかり気を取られることができなくなってしまった。

 聖都市グラド。たまたまアレイズと目的地が同じだったからよかったものの、恐らく目的地が違っていたらティファはどんな手を使ってでもその場所に行こうとしただろう。それとは逆に、聖女だった頃の自分は何があっても契約神の身を護ろうとしただろう。それも、どんな手を使ってでもやるべきことの一つだ。そして幸いなことに、今回は常ならば葛藤しそうな二つの願いを両方共叶えることができた。ならば迷っている時間などない。どんな手を使ってでも自分の願いを叶え、かつ契約神やメイド達を守る。それが叶うのなら――。

 左手薬指の指輪に目を留める。

 日差しを反射する翡翠は大樹が身に纏う万緑よりも深い色で持ってティファのダークブルーの双眸に映り込んだ。

「アレイズ神」

 芯の通った声がその場中に響き渡る。

 魔法を使う時よりも、怒声を放つ時よりもそれは広く広く、浸透するように空気に波を与えた。

「ティファ……?」

「この指輪を外した後、すぐに行動できなくなるほど呪いは酷いのですか?」

「いや、さすがにそれはないが。おい、ちょっとま――」

 マイを模写したような丁寧な口調にアレイズがはっと息を呑む。そうして黒い外套から伸びた腕がティファの手を掴む前に、彼女は契約の証である指輪を外した。ごめんなさい、そう心で呟きながら。

 驚愕に見開かれた黒瞳を静かに見返す。そうして両膝をついたティファはあっさりと取れた指輪をそっと差し出した。

「グラドに着くまでの間、しばしのお別れです」

 そうして従順な姿勢でありながらも神を冒涜するような行為に及んだティファはそのまま踵を返して脇道へと入っていく。

「申し訳ありません」

 湿度を持っているわけでもないだろうに、兎から流れ出る魔力がじっとりとティファを包み込む。明るさなど皆無の昏い魔力にティファは吐き気を催しながらも前に進むことを止めなかった。そこがどこへ繋がっているにせよ、この兎を少しでも遠ざけることができるのなら問題などなかったのだから。


◇ ◇ ◇


「……姉さん」

「直に御戻りになるでしょう。あの御方も子供ではないのだし」

 背を向けて去っていくティファのブラウスに腕を伸ばそうとするメイの手を、マイが止める。その動作にメイがひやりと怒りを含めた声を上げるとマイが同じだけの冷たさで返した。居心地の悪い、いたたまれない空気だ。アレイズはそう感じて辟易としながら手の中に収まっている指輪に目を落とした。

 自分がしているものよりも小さな翡翠の指輪は本来の目的を果たせないせいか鈍い輝きを放っている。ティファが身につけていた時はあんなに煌めきを増していたというのに、ただ外されたということだけで指輪が拗ねているようにも見えた。それより、という声が耳朶を打つ。気付いた時にはマイが深々と頭を下げていた。さらさらとした亜麻色のセミロングが揺れる。

「申し訳ありません。我が主の行為は、私が償います」

「いや……その必要はない」

 恐らくマイはティファに天誅が下るとでも考えたのだろう。だからこそ代わりにそれを受けようとしている。しかしアレイズにはティファを罰する気などなかったし、ましてや無関係のマイを巻き込むつもりもなかった。大体神を冒涜したからと言って罰が下るとすれば、それは世界でも天でもなく神自身の狭量さ故に起こされることだ。呆れ混じりの溜息で返すとマイがゆっくりと顔を上げる。そうしてティファが消えた先を鋭く睨んで、正規の道を歩き出した。

「グラドへ参りましょう。そのうちあの御方とも合流出来るはずです」

 果たしてそれが叶うのか。

 マイの言葉にアレイズが頭に疑問符を浮かべていると、メイが早足で進む姉を追いかけようと一歩踏み出し振り返る。

「アレイズさん、御免なさい。きっとティファ様にも何か考えがあったんだと思うんです」

「だろうな」

 その考えとやらが気になるわけだが、少なくとも一つ予想出来ることはあった。その予想が正しいということを指輪が教えてくれている。

「あのお節介」

 渋い声が放たれ、メイがきょとんと目を丸くする。

 亜麻色の、どちらかと言えば色素の薄い瞳に疑問符が浮かんだ。

「何でもない。それよりお前はマイと一緒に先に森を抜けていろ。俺はティファに話がある」

「……ティファ様を追いかけるんですか?」

「あいつは極度の方向音痴なんだろう? それに、契約者をおいそれと変える趣味は俺にはない」

 アーモンド型の大きな瞳がますます見開かれ、若干潤む。

 ぎゅっと両手を合わせたメイは真紅のメイド服をふわりと左右に揺らし身を捩るように震えた声を上げた。

「忘れてた! ティファ様下手したらグラド行けないどころか森から出られないじゃん!」

「主のことだろう。そこは忘れてやるな」

 もしかしたらマイも忘れている可能性が高いなこれは。

 ある意味命がかかっている事態だというのにどこまでもマイペースな双子だ。

「あぁ、どうしようどうしよう。ティファ様食料ほとんど持ってないのに」

「……安心しろ。そう遠くへは行ってないだろうから、すぐ見つかる」

 泣きそうな声でアレイズに訴えかけるメイの肩を宥めるようにぽんぽんと叩く。

 するとメイはうっすらと涙を浮かべて姉が進んだ方向を見据えた。

「じゃあ私も姉さんを説得して、なるべく二人に合流出来るようにします」

 あぁ、と頷くとメイが不安げながらも何とか笑みを浮かべてアレイズの傍を離れる。そうしてブーツの紐を結び直して全速力で走る準備に入った。早々と姉を捕まえようという魂胆か。しかしティファが方向音痴であったことを忘れていたこと以外は別段動じた様子のないメイは、どことなく慣れているように見える。もしやこんなことが日常茶飯事なのか。

「意外と苦労性なんだな。マイの方が苦労しているとばかり思ってたんだが」

「姉さんが頭が固いから。ティファ様には内緒ですけどね」

 それじゃあ、とメイが手をぶんと一度大きく振って駆けていく。それはメイドとは思えぬ早さでアレイズは思わず鼻白んだのだが、いつまでもその背を追っているわけにもいかないと真紅の背中から視線を外しティファの進んだ先をじっと見つめた。

 糸のような光がつうっと森の奥へと伸びているのが見える。ティファ自身の魔力の残滓だ。

「やはりそんなに遠くもないな」

 一人ごち、もう一度指輪に視線を落とす。剣を握るよりも楽器を持っていた方が似合うような繊細さを湛える手がぎゅっと翡翠の部分を握り締める。するとそこからゆっくりとティファの声が流れ込んできた。この魔力は危険すぎる。かといって野放しになんてできない。

「何を考えているんだ、あいつは」

 指輪をしていた時のティファの思考を断片的に手繰り寄せる。そうしてティファの意図を遅ればせながら理解したアレイズは吐き捨てるような声で言いながら深々と溜息をついた。契約神を守るなど、そんなことを考えてどうする。自分よりもティファの身の方がよほど危険に晒されやすいというのに。しかし、ティファの思考には二つの意図があることもアレイズは読み取っていた。

 一つは兎から感じた魔力の危険性故に、アレイズ達から兎を遠ざけること。そしてもう一つはアレイズにも与り知れぬ所で兎を必要としていることだ。だがその理由が理解できない。大体、常ならばマイが強く出ればティファも反論することなどなかったというのに、このような事態に発展するまで意地を通したのはなぜか。契約の証たる指輪を外し、契約神を捨ててまで兎を取らなければならなかった理由は。片方は理解出来る。しかしどちらかと言えば、それはもう一つの理由のために後付けされたもののように思えた。護りたいだけならばメイやマイが理解してくれずとも自分に話してもらえれば、まだ事態を良い方向へと導くことができたかもしれない。しかしその可能性をも捨て去ったのだ、ティファは。……これだけ冒涜したのだ、相手が自分でなかったらとうに罰が下っているのではないだろうか。そう考えてしまうほどの事を彼女はあっさりとやってのけたのだ。しかし、その理由が分からない。

 残された指輪をじっと見つめる。陽の光に照らされてきらきらと光る翡翠に映るのは空色の髪の少女ではなく、アレイズの考え込むような渋い顔のみだ。

 自分はまだ、ティファニエンドを手放すことはできない。

 ならば何としてでも連れ戻さなければならないのだが――。

「まぁ、どの道確かめるしかないか」

 正義漢が強く優しくもあり、そして何より情に厚い性格のティファが追い求めるものが何であるのか。何故自分を置いてまで兎と行くことを選んだのか。アレイズはそれを確かめるべく目を閉じ、先程まで契約者であったティファの魔力を探ることにした。とりあえず見つけたら説教から始めよう、そう考えながら。


◇ ◇ ◇


「はぁ……」

 何度溜息をついただろう。

 我ながらつくづく嫌になるが、かといって溜息は決して回数が増えるのを止めてはくれない。

「いつもはメイやマイがいるから迷うことなんてなかったのに」

 溜息をつく理由の全ては腕の中の兎にあったのだが、自分一人でグラドに辿りつけるのかという不安もこのとめどない吐息の一因になっていた。大体自分は方向音痴なのだ。この森から出られるかということさえ自信が持てない。

 はぁ、と再度息を漏らす。こんなことじゃいけない、もっとしっかりしなくてはと考えるほど思考は上手く回らなくなる。仕方なく立ち止まったティファは木の幹に体を預けて膝の上に兎を置いた。ただ何も考えずに歩いていたら酷い目に遭う事をティファは今までの人生で散々理解していたからだ。こういう時は慌てず騒がず、とりあえず周囲を観察することから始めなければ。差し当たって以前見た地図を頭に思い描いて、それから太陽の方角と照らし合わせて――。そう考え眉間に皺を寄せたティファの耳朶を、吐き出すような低い息が打つ。ぱちりと目を開けるとそこには兎しかいない。もしかして鳴いたのだろうか。

「兎って鳴くんだ」

 ぶっという鳴き声なのか息なのか分からない音を発する兎は体躯を長く伸ばして腹をティファの体へとくっつける。後肢だけを膝につけ、あとはティファの腹や胸に身を預けた兎は甘えるようにティファを見上げた。まるで二人きりになれたことを喜ぶように。

 刹那、絡みつくような魔力が霧散する。

「?」

 吐き気がするような憎悪が消え去り、森の清涼な空気が流れ込む。一体何が起こったの? と周囲を見渡そうとも、魔力が消え去った理由が見つかるとは思えなかった。あるのはただ長生きをしている木々や草のみなのだから。だとすると、霧散させたのは兎自身の意志?

「ちょっとごめんね」

 指先を兎の首へと潜り込ませ首輪をなぞる。金細工に触れると微かに耳鳴りがしたものの、我慢できないほどではなかった。

「やっぱり、あの部屋にあったものと同じ……」

 絶望と暴力衝動が込み上げてくる紋章にぽつりと声を落とすと、血色の部屋が見えた気がして慌てて首を振る。そういえばあの光景をメイやマイも見たのだろうか。首を振ったついでかは知らないが、ふとそんな疑問が湧いてくる。

 少なくともマイの様子を見る限り、彼女は見ている可能性が高い。そしてそれは別におかしな話ではなかった。彼女はグランハート家の執事やメイドの娘であり、両親の死後七年間ずっとティファと行動を共にしてきたのだから。ただ、それならばメイが何の危機感も持っていないことが不可解だった。あの双子はほとんどの場合において常にお互いを隣に置いているというのに。……この認識が正しいのかさえ、もう分からないが。ティファは脳裏に父母の姿を思い浮かべ、そこにいる執事家族の中にメイの姿が見えないことに思い至る。そうだった、彼等がいる時にメイがいることなどほとんどなかったのだ。でも一体どうして。

 ぐるぐると頭を巡る問いへの答えをティファが出すことはできない。そう思いティファは葉に隠れた空を仰いで深々と息を吐いた。南天より傾いた日に腹がきゅる、と音を立てる……お腹空いた。

「選択したのは私なんだから」

 軽くなった左手薬指を眼前まで持っていく。そこにはまっていた翡翠の指輪は今はなく、恐らく元契約神の手にあるのだろうと考えたティファは目を閉じる。伏せられた睫毛が微かに揺れた。ごめんね、と胸中で呟く。涙混じりのその声はしかしすぐに毅然としたものへと変化した。

 泣いている暇などない。今は一刻も早くグラドへ行かなくては。恐らく人が多くいる場所ならば兎が不穏な事をしでかすことはないだろう。人を傷つけた神など、ティファは一神しか知らない。そしてその一神ですら曖昧なのだから。

「あなたがいれば」

 この兎がいれば、グラドに行った時に手がかりになるかもしれない。一人ぼっちは少し寂しいが、自分の我侭やこの兎の魔力に誰かを巻き込まなくて済むのならその方がずっと気が楽だった。空元気を本物にするべく、明るい調子で兎に話しかける。すると鳴き続けていた兎がぴたりと音を立てるのを止め小首を傾げた。魔力とは正反対の可愛らしさに思わず口元が綻ぶ。そこではたとティファは自分が兎の名前を知らないことに気が付いた。もう一度体毛をかき分けて首輪を見てみるがそこにも名は刻まれていない。

「かといっていつまでも兎って呼ぶのも何だか変だし」

 兎は兎なのだから別段困ることなどないのだが、せっかく行動を共にするのなら名前があった方がいい。それは人間のエゴだとティファは自覚していたが、兎が嬉しそうに息を吐き出したので名前を考えることに専念することにした。さわさわと葉が揺れる音が耳に心地良く響く中、思わず眠りそうになりながらも幾らかの時をかけてようやくティファが答えを導き出す。

「そうだわ」

 せっかくだからうんと可愛い名前にしよう。

 そう思って考えた名前を兎が気に入ってくれればいいのだがと考えながらティファが続ける。

「あなたの名前は――」

「そこにいるのか、ティファ」

 低く、確認するような声にティファがびくりと肩を震わせる。スカイブルーの髪が過剰なまでに揺れ、かちこちと固まった体で声がした方向へ首を向けるとおよそ人間らしくない音がした。

「……ジュード?」

 同じく確認するような声を発する。すると少し安堵したような息が漏れた後で、草をかき分ける細い指が見えた。

 背の高い草をかき分けて現れたのは、すらりと長い黒の体躯。外套の所々に葉を付けた彼は、黒い双眸をすっと細めて眉間に皺を寄せながらティファを見た。……明らかに怒っている。しかも小言を言われるぐらいでは済みそうにない雰囲気にティファが立ち上がり、じりと後退しようとすると壁に阻まれるようにとんと背中に結界が触れた。

「これ以上逃がすとでも?」

「い、いや逃げる気なんて――」

「契約の証である指輪を外して脇道に逸れて、これで逃げていないって言うんなら逃走の定義は何になる。まったく、いい度胸をしている」

 当たり前の話だが、笑って誤魔化そうにも無理がある。ティファは逃げ場がないことに観念したように立ち止まった。

 兎を抱きしめ、これから何を言われるのかを覚悟しつつアレイズの視線を受け止めた。……どうか、天罰だけは下りませんように。見返すアレイズの彼の手には未だ翡翠の指輪がはまっており、その手の中にも同じものが包まれているのが見えた。しかしそれはすぐにアレイズの手を離れ、緩やかな軌跡を描いて宙を舞う。

 ――こっちに来る?

「へ? うわっ」

 ティファヘと投げつけられたそれを慌てて片手で受け止めると今度は兎の紋章に反応せずティファの手の中に指輪が収まる。鈍い光を放っていた翡翠がみるみる光を増し、持ち主の元へと返ってきたことを喜ぶように煌めいた。そんな指輪の反応を遠目に見ながらアレイズが息をつく。

「俺が指輪を外されたぐらいで契約を破棄するような神だと思ったのか」

 呆れ混じりの声と共に腕が伸ばされる。繊細そうな手とは違い、鍛えているのだろうと服の上からも分かる腕がティファに向けられると彼女はぽかんと口を開いてアレイズを凝視した。

「迎えに来たの?」

「当たり前だろう。他に何の用がある」

 契約を一時的にとはいえ勝手に破棄した形になるというのに、あまつさえ進むべき道だって変えたというのに。誰かが迎えにくるかもしれないという考えが胸の中に全くなかったと言ったら嘘になる。しかしそれはメイかマイ、もしくは両方が来るものだと思っていたのであって決してアレイズが来るとは考えていなかった。

 だというのにこの状況は一体何事だ。天罰が下るわけでも契約を破棄する言葉をきっぱりと言われるわけでも、冷たい言葉を浴びせられるわけでもない。ただ文句を言われ呆れられ、手を伸ばされているだけだ。こんな馬鹿げた話、大聖堂中の本を探してもきっと見つからないだろう。しかしアレイズはそんなティファの心情には気付いていないのか、腕を伸ばしたままにやりと笑う。それもマイが笑った時のように恐怖心を感じるものではなく、ただ悪戯っぽいだけの笑みだった。もしかしたらこちらが怖がらないように、意地を張らないようにわざとそうしているんじゃないかと思ってしまうぐらいに。

「その代わり多少の説教には付き合ってもらうがな。――帰るぞ」

 離れていた時間はほんの一刻にも満たない。それなのにどうしてこんなに離れていたことが苦しいんだろうか。指輪がないからじゃない、それはきっとアレイズがいなかったからなのだとティファは感じながらも伸ばされた手をじっと見つめる。

 魅力的な提案に、寛大な対応。それは全て有難くて嬉しいことだったが……。

「ティファ?」

「ごめんね」

 ティファはゆっくりと首を振ってその手を取ることを拒絶した。脳裏に浮かぶのは血溜まりに沈む父母の死体。壁面に大きく描かれた神の紋章。あぁそうか、とティファはどこか納得したように胸中で呟く。森の清涼な空気と同じだけ頭がすっきりと冴え渡るのを感じながら、朧気ながらに理解する。自分は皆を兎の魔力から守りたかったわけではない。ただ、あの光景の再来を見たくないが故にこんなに意固地になっているのだと。

「ごめんなさい」

 もう一度首を振り、芯の通った声で言い放つ。

(――もう二度と、誰かをあんな目に遭わせることはできない)

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