CHAPTER 2.星夜祭に願いを (1)
――星降る空に掛けた願いが、どうかどうか叶いますように。
◇ ◇ ◇
ここはレイニウムの中心近くに存在する、とある森の中。その片隅で一つの焚き火を囲んだ四人の男女が、座り込んで何やら深刻な様子で話していた。時刻はとうに夜になっており、本来ならば月明かりを頼りに先に進むこともできるのだが、長く生きる木々は伸びに伸びて豊かな葉を持ち、彼女達から光を奪う。そのせいで先に進むことが危険だと判断した彼女達は、そこで夜を明かそうと輪となっていたのだった。
「旅立ったまでは良かったわよね」
「えぇ。姉さん」
四人の男女のうち、二人の少女達は同じ顔立ちを持っていた。無表情に塗り固めたそれを崩すことなくひそひそと話す彼女達は亜麻色の双眸を細め、お互いが持つ深青と真紅のメイド服にはぁ、と溜息を落とす。
「問題はそこから先よ」
「そうね、姉さん」
呆れと諦めが五分五分に混ざり合った言葉は傍にいる二人の男女に聞かせるためのものらしく、ささやかながらもどこか芯のある声が森に響いた。ぱちぱちと爆ぜる木の音にかき消されない程度の声を聞き、傍にいた黒髪の男が視線をどこか遠くへと追いやる。それも仕方がないことなのかもしれない。何せこの会話はもう何度も繰り返されてきたのだから。
(そして私も)
少女が心の中で呟く。しかしそれを無視して亜麻色のセミロングを持つ深青のメイドが呟く。
「色々あったわね」
「えぇ、姉さん」
続く姉の言葉に対して同じ答えを返すのは、姉と同じ亜麻色を持つツインテール姿の真紅のメイド。彼女はちらりと黒髪の男を見て、それから自分に視線を向ける。
色素の薄い彼女の瞳に映るのは、真っ青な長い髪と同じく蒼の瞳を持つ、二人よりも少し幼い少女の姿。双子の少女の主である彼女を見る目には色々と言いたいことが詰まっていることが理解できて、彼女は視線を受けながら頭の中でふつりと何かが切れる音を感じて声を上げた。
「あぁ、もう! どうせ私が悪かったわよ! 行く先々で問題起こすのがいけないって言うんでしょ!?」
勢いよく立ち上がりそう言った彼女は怒鳴ると同時に隣に座る黒髪黒瞳の男を見やり、八つ当たりをするように声を荒げた。彼女とて本当ならば男に八つ当たりなどしたくはなかったが、こうも何度も責めの言葉を聞かされたら八つ当たりでもしなければ気が済まなかったのだ。
「ちょっと、アレイズも何とか言いなさいよ!」
「俺に振るな……」
高らかな怒声に呼応するように木々がざわりと音を立てる。僅かな風でも葉を揺らす木々は宵闇を照らす月と星の光さえも遮り、今や四人を照らすのは焚き火の炎のみ。陽の光ばかりを見て育ってきた少女達にはその暗さが不安を駆り立て、このようなやりとりになったのだ。
ゆらりと揺れる紅に頬を照らす男は少女の言葉に心底面倒くさそうな声を上げつつ、どことなく弱々しい苦笑を浮かべて彼女と目を合わせないように努めているようだった。そうやって目を逸らすから余計に腹が立つんでしょうが、と彼女は内心で呟くものの相手は自分とは違って特別な存在なのだ、安易に喧嘩を売るなんてことはしたくなくて彼女はぐっと唇を噛みしめて耐えた。代わりに言い訳じみた言葉を放つ。実際それは言い訳でも何でもなく、彼女とにとっての真実だったのだが。
「大体ね、困っている人がいたんだから仕方ないじゃない。そりゃあ、昨日も酒場を一軒壊しちゃったけど、でも! 酒場のウエイトレスさんも助かったし!」
そう、困っている人が目の前にいるのに見て見ぬ振りをして進むなんて自分には無理だったのだ。ウエイトレスからもお礼を言われたし、悪いことをしたとは思わない。
(やりすぎたとは思うけど)
腰に手を当てて彼女がそう言うと、亜麻色のセミロングを揺らして溜息を漏らした深青のメイドが窘めるように囁く。
「だからと言って、お店を一軒壊していいという理由にはなりませんわ」
「そうだよ。第一、ティファ様は力の加減が出来てないんだから。この前だって危うく宿屋を潰しかけたじゃない!」
「う……っ」
双子の姉妹の言葉に、ティファと呼ばれた少女が言葉を失う。本来ならば主であるティファに口答えするなどメイドとしてあるまじきことなのだが、当の本人がそういった礼儀をあまり気にしない性質だからか双子もまったく気後れした様子を見せずはっきりとした物言いで返答する。それはもう、主にも分かりやすい責めの言葉を。
群青と葉が作り出す暗闇の中で立ち尽くすティファはそんな二人の言葉に良心の呵責を感じたようで、白く柔らかそうな頬を軽く膨らませた。
「いい加減諦めろ、ティファ」
そんな彼女の様子を横目に見ながら、アレイズが呟く。こうした光景には既に慣れてしまった彼は毎度同じような言葉を使って彼女を諌めているのだった。もちろん、返り討ちに遭うこともしばしばだが。
「うー……」
喉の奥から絞り出されるような唸り声が三人の耳朶を打つ。しかし彼らは何も言わないまま、銀色のカップに入った白湯にほうと息を掛けてちびちびと飲むだけだった。ほわりと漂う湯気は疲れきった体に一時の癒しを与えてくれる。薄い敷物の上に座る彼らはその姿勢だけでも体を痛めるとよく理解していたので、どこかに癒しを求めないとすぐにばててしまうのだった。それは人間でも神でも変わらない。
散々水仕事をしてきたはずの双子はしかし痛みなど感じさせない滑らかな指先をカップに滑らせ、ゆったりとした動作で白湯を飲み干していく。じわりと落ちていく熱に二人が目を閉じるところでティファは唸り声を止めた。彼女達がぱちりと目を開くのを見計らって肩を竦める。
「……ごめんなさい」
彼女にはそれしか言うことができなかった。どう前向きに考えても建物を倒壊させたのは自分なのだから、駄々っ子のように唸ってみせた所で事態は変わらない。
「「分かっていただけて何よりですわ」」
ティファの謝罪に双子が声を揃えて言う。それを聞いて更に萎縮したティファは、双子の妹に声を掛けた。
「マイはともかく、メイまで」
「あれだけやれば当然だよ」
半眼でじっとりと睨みつけられたメイはしかしそんな視線など痛くないという風にさらりと返した。鈴が鳴るような軽やかな声が響くと、更に心を抉られる。ただでさえ良心の呵責を感じてるのに、ここまで責めるのか。胸元を抑えてうぅ、と唸ると双子の姉が妹に同調するように頷いた。
「この数日間で、一体どれだけの被害が出ていると思ってるんですか? いくらアレイズ様がお止めにならないからといって……」
ぴしゃりと鋭いマイの声に、止めるのが怖いとは言えないだろう、と蚊の鳴くような低い声が聞こえたがティファはそれを無視した。今口を開いたら口論になりかねない。それにしても、怖くて止められないって神様としてどうなのだろうか。ティファは胸中でそう呟いたが、マイにはアレイズの声が聞こえなかったようでもう一度うんうんと頷いた。
揺れる亜麻色が炎の照り返しを受けて煌めく。旅に出てからはあまり宿を取ることもできず、水浴び程度の手入れしかできなかったはずだがそれでもマイの髪は艶やかだった。
「いくらなんでも、酷すぎです」
カップから指先を離し、小さくなるティファを無視してマイは夕飯の魚の丸焼きに手をつけた。メイも同じく魚に手を伸ばしそれを頬張る。
「ほら」
「……ありがと」
話が終わったと思ったのだろう。アレイズは魚が刺さった串を一本取り、それをティファへと差し出す。
カップよりも更に高い熱を現すようなぱりぱりと言う音が食欲を駆り立て、ティファは短く礼を述べてから小さくそれに頬張った。塩味が効いたそれを口に含み歯を立てると、即座に白くほくほくとした身が現れる。舌が火傷しそうなほどの熱にティファがはぁ、と息を吐き出すと真っ白な息が空へと舞った。特別寒いというわけでもないのに、全身を覆う氷が溶けていくような気がした。
「美味しい」
呟くと、今まで荒んできた気持ちが嘘のように頬が綻ぶ。自覚が出来るほど幸せそうな顔を浮かべてもう一口頬張ると、アレイズがふっと微笑した。そのまま彼も魚を口に含む。同じように吐き出した息が舞った。その様子を見ていると、とても神には見えない。
「ところで、アレイズ様」
吐き出した息が空に溶けていった頃、マイがアレイズに問いかける。彼女は魚を半分近く食べ終えてしまったらしく、空腹が満たされつつある満足感に幾分か普段通りの穏やかな表情を浮かべていた。理知的な瞳に光が宿る。
「何だ?」
それに答えるアレイズは自分の魚が冷めてしまわぬうちに話を終わらせてしまいたいのか、どこか早口に問う。焦っているというのは語弊があるが、そう言っても一割程度は当たっているであろう急かすような顔に向けてマイが小首を傾げた。
にこりと唇が吊り上げられる。彼女にしては珍しい明るい笑みに、ティファは背筋が凍りつくのを止められなかった。
「私達、どこに向かっているんでしょうか」
「……」
今度はティファのみならず、その場にいた全員が凍りついた。
メイが魚にぱくつくのをぴたりと止め、おずおずとアレイズを見つめる。
「そういえば、世界を探すといっても何も考えずに歩いてたよね」
「えぇ。アレイズ様が何かご存知だとは思っていたんですけど」
小声で囁くような会話を交わすと、アレイズが凍りついた笑みを浮かべる。
その表情を見て、ティファは直感的に理解してしまった。
(もしかして、何も考えてなかったんじゃ)
そもそもアレイズは呪いによって神にされてから永い間、ずっと眠り続けてきた元人間なのだ。かつては人だったのだからある程度世界について理解があるだろうが、年月は地理の常識を変えてしまう。だからティファは自分の予想が恐らく間違ってはいないのだろうと結論づけて、今度はどうこの契約神を助けようかと思案した。下手な言葉ではマイに返り討ちにされかねない。
「アレイズ様?」
「ま、マイ? その話はちょっと――」
続けざまに問いかけるマイに対し、取りなすように手をひらひらと振るがその程度のことが効果を発揮するわけもない。
ティファは内心で舌打ちしながら続く言葉を考え、恐らく何も考えていないであろうアレイズを横目にし、凍りついた笑みのまま唇を開く彼の姿を見た。その額にじわりと汗が浮かんでいるのはティファの気のせいではないだろう。
「聖都市、グラドへ」
硬質な低音がティファの耳朶を打つ。瞬間、彼女はダークブルーの双眸を丸く見開いていた。
聖都市グラド。それはこのレイニウムで唯一と言ってもいい国の首都だった。
否、国という名を関する場所ならレイニウムに多数存在する。しかし、国としての機能を保っている国はグラドのある聖王国のみだ。レイニウム大聖堂の力をほとんど受けていない稀有な国。それは単に国が統治されているからに他ならない。ティファ自身は行ったことがない場所だったが、珍しい物品が多く存在し交易で栄えているという大都市。だがまさかアレイズがその都市の名を知っているとは思わなかった。
「グラドに行く予定だったの?」
呟くと、やや硬い表情をそのままに頷かれる。
「ちゃんと考えてたのね」
どうやら心配損だったみたいだ。
「ティファ様、それは幾ら何でもアレイズさんに失礼だよ」
安堵と共に吐き出した言葉をメイが窘める。
ティファは彼女の言葉を聞きながらマイへと視線を向ける。
マイは炎の傍で葉の形と己の形をした影を従えて唇に指先を軽く当てて、何やら考え込んでいるようだった。じっと亜麻色の瞳がアレイズを見つめ、数瞬のうちに和らげられる。綺麗過ぎる笑みは消えていた。
「グラドに行きたかったのですね。不躾な質問をして申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げたマイは、それでもどこか油断ならない視線のままゆったりとした動作で魚に口を付けた。するとアレイズも同じように魚を食べながら、硬かった表情を崩して問いかける。
「あぁ、だが方向が分からなくてな」
目的地は分かってるのに方向が分からない、とはどういうことだ。もしかしてアレイズも方向音痴なのだろうかとティファは笑いそうになる気持ちを押さえながら魚を食べる。幾らか冷えた魚は食べやすく、しかし味は落ちていなかった。ぱち、と火花が舞う。その鮮やかな小さな光から少し遠ざかり、マイが鞄から地図を取り出した。離れたのは地図を燃やさないようにするためか。
「えーっと、ここからは大分南の方角にあるようです。距離もありますし、それにグラドまでは村が一つ在るのみです」
つ、とマイの指先が今ティファ達がいる場所とグラドを繋いでいく。それを遠目に見ているティファは道を繋ぐためにマイが動かす指先が存外長い距離を繋いでいることを理解した。どれだけの縮図なのかは分からないが、その間に村が一つしかないというのは不可思議だ。
方向音痴のティファにはよく分からない話だったが、聖王国は都市が多いと聞いているのに。無論偶然という可能性も否定できないが、それにしては迷惑な偶然だ。
「よし、ではとりあえずその村を目指すか」
最後の一口を食べ終えると、アレイズが開かれた地図に視線を落とす。黒い双眸はティファの予想に反してしっかりと道を理解しているようだった。衣擦れの音がして漆黒の外套が揺れると、地図を取ったアレイズが仰向いてそれを見上げる。村までの距離を計算しているのだろうとティファは考えた。しかしティファは計算はできても道を覚えることは到底できなかったので、自らも仰向いて満腹が引き連れてきた睡魔と戦っていた。
「これで目的地がはっきりしたわね」
広大な世界、レイニウム。
その世界の意志を探すための道がようやく見えたのだと胸中で呟き、ティファは手近な鞄から寝袋を取り出した。この森には人を襲う獣はいないという話だから、全員が眠っても問題はないだろう。
火の番は必要だったが、それは三人のうちの誰かに任せることにする。眠気にもう勝てそうになかったのだ。
「そういうことで、おやすみー」
寝袋に入り目を閉じると、がつんと襲い来る眠気がすぐにティファを眠りの世界へと誘った。とろりと液体を頭から掛けられるような緩慢さで全身を眠りに縛られていく。すぅ、と息を吐き出したティファの姿を見てメイとマイが呆れたように息をつく。しかし彼女達は苦笑を浮かべながらもすぐに後片付けに取り掛かり、交代で火の番をしながら眠りに就いた。
◇ ◇ ◇
双子が寝静まった頃、焚き火を消したアレイズは寝袋の中から空を見上げていた。無論、空は見えない。豊かな葉に邪魔されて、月明かりさえも奪ってしまうほどのものが群青の夜空を見せてくれるなどとは期待していなかった。
うとうとと、睡魔が襲い来る中ですでに眠りに就いている三人の少女達を一瞥する。
「……上手く誤魔化せたな」
誰にも聞こえない囁きは、燃え尽きた焚き火の残滓が生み出す煙にかき消える。
これから行くべき道など、知っているわけがない。アレイズは胸中で呟きながら、ふぅと溜息を漏らす。脱ぎ捨てた外套の下に着ているこれもまた漆黒のローブが寝袋に擦れて微かな音を立てる。そう、彼はただ当てずっぽうで都市の名を挙げただけだったのだ。ティファならいざ知れず、彼女のメイドであるマイには下手な誤魔化しなど効きはしないし、彼女の主を謀っていたなどとばれたらそれこそ強引にでも契約を切られてしまう可能性が高い。そう考えたアレイズが取った苦肉の策は何とか成功したらしく、それだけがアレイズの救いとなっていた。永い時を眠り続けてきた彼には都市の名前など分かるはずもなく、当時一番大きかった都市の名を挙げたに過ぎない。
「まだ存在していて助かった……」
心底安堵したような声を放ち、どっと襲ってきた疲れを溜息に載せて放つ。そうして闇に溶けてしまいそうな見目を持つアレイズはしかしその闇に溶けきることもせずに、ざわりと揺れる葉を見据えて呟いた。
低く、小さく放たれたそれが紡ぐのはこの世界の名前。
「レイナ、どこにいるんだ?」
アレイズの囁きに答える声はない。今寝そべっている大地も豊かな葉も空も、すべてが世界――レイニウムの物だというのに、その中で呟く声に答えないのはなぜだろうか。アレイズは切なさのような苛立ちのような、そんな感情を持て余しながら空から視線を逸らした。体を横向きにし、傍に眠る元聖女に目を止める。暗闇の中でも映えるスカイブルーの髪が一房外に出ているのが見えた。
契約してからまだ数日だというのに、神であることを忘れさせてくれる存在。
どこまでも騒がしくて真っ直ぐで明るくて、そのくせどこか繊細な稀有な色を持つ、ただそれだけの人間の少女。そしてそう遠くない時の先で、自分のために魂を失う少女。
左手薬指に嵌る指輪をじっと見つめる。闇のせいでそれは翡翠色ではなく、深緑に見えた。罪悪感と良心の呵責にこめかみが痛んだ。
「おやすみ」
どうか良い夢を。
己が縛り付けてしまった少女に向けて、アレイズがそっと呟く。無論、夢の世界にいるティファに届くわけもなく答えは返ってこない。だがそれに対して苛立ちや切なさを感じることなく、アレイズは軽く目を閉じて長い夜を眠りで埋めるために意識を手放した。
◇ ◇ ◇
一週間が経った頃、ティファ達はようやく森とグラドの間にある村を発見した。
遠目に見える村に歓喜の声を上げた四人は、若干軽やかな足取りで荒い土を踏みしめる。
「あそこを抜けたら、グラドまでは何もないのよね?」
「えぇ。ですから、この村でできるだけ多くの食料や薬草を調達しておく必要があります」
ティファの問いにマイが答える。メイはというと、ようやく見る村に感動し一目散に駆けてしまった。真紅のミニメイド服がひらりと揺れ、白い太ももが顕になる。それに対してマイが声を荒らげて文句を言おうとしたが、ティファがそれを取りなすように首を振った。嬉しいのはティファとて同じなのだ。しかしそれに対し、苦味を含んだ声が水を差すように割り込んだ。
「頼むからこの村では揉め事を起こしてくれるなよ」
「す、するわけないでしょ」
「どうだか。神に祈れるものなら祈ってでも何とかしたいぐらいなんだがな、俺は」
「……貴方もう神様じゃない」
「だから祈れないんだ。残念なことにな」
「でしたら、アレイズ様が私の願いを叶えてくださればいいのではありませんか? 私もティファ様が面倒事に首を突っ込むのは本意ではありませんし」
「生憎俺にそんな力はない」
「あらあら、残念ですわ」
しれっとしたアレイズの声に、ちっとも残念そうじゃないマイの声が続く。それにしても、どうしてこの軽いやり取りの中でちくちくと棘を刺されているような気がするのだろうかとティファは眉間に皺を刻ながらがくりと肩を落とす。同時に視線を落とすと、大聖堂を出る時には純白だったブラウスとスカートに所々汚れが見える。村に入ったらまず丁寧に洗濯をしようと心に決め、ティファはそれきり二人の会話を無視して足早に村へと向かった。
村に入ったティファ達は、メイが焦った様子で走ってくるのを見て立ち止まった。かなり慌てている様子のメイは、村が持つ地味な土色や木の色とは違う鮮やかな真紅と白を揺らし全速力で駆けると、そのまま他の誰を見ることもなくとにかくティファだけを見るや否やその腕をぐっと掴んで前方に引きずる。ブーツの爪先部分がじゃりっと音を立て、つんのめるように上体が傾いた。いつこけてもおかしくない状態にティファが切羽詰った声を上げる。それでなくともメイの様子は尋常じゃない。慌てるなというのが無理な話だった。
「ちょ、ちょっとどうしたの!?」
入り口部分だからか、人気のないその場所で甲高い声を上げるとメイがそれに負けじと大声を出した。きんと空気を震わせた声にアレイズとマイが耳を塞ごうと腕を上げる。
「何もない所でした! だからさっさと宿屋に行ってシャワー浴びて寝ましょう! 食料調達とか私と姉さんがするから!」
「え? でも量があるなら私も――」
「それも大丈夫! いざとなったらアレイズさんに頼むから!」
……神様に荷物持ちをさせようと考えるのは、一体誰に似てしまったんだろうか。
ティファは額に手の平を当ててはぁ、と息を吐き出しながら腕を引っ張りどこかへと――恐らく宿屋だろう――連れて行こうとするメイの背中を見て、次にアレイズを一瞥した。
◇ ◇ ◇
ティファのダークブルーの瞳が細められる。そんな契約者に諦めを促すように首を振りながら、アレイズはマイから掛けられた声にほとんど唇を動かさずに答えた。
「アレイズ様」
「分かっている」
何を話しているか知られるわけにはいかなかったのだ。少なくともティファには。
肩を竦め、外套を羽織り直す。陽の光にそぐわぬ漆黒をきっちりと纏いながら呟くと、アレイズ同様メイとティファの姿を見送っていたマイが亜麻色の髪を縦に揺らした。肯定だ。
「どうせ、揉め事でも起きていたのだろう?」
「メイの様子を見る限り、恐らくは」
ずるずると引きずられていく空色の髪が遠ざかる。それを見やりながら溜息を漏らすと、彼女達の進む方向とは逆方向が騒然とする。喧騒に耳を澄ませると、どうやら口喧嘩をしていたらしい男達が実力行使に出たことが分かった。
喧嘩、それはアレイズの契約者でありマイの主であるティファが嫌うものの一つだ。知られたら恐らく――いや確実に村の建物の一部が壊される。
「仕方がない」
自分が出した声が存外しっかりとしたものであることに驚きながら、アレイズはマイを一瞥して喧騒に足を向ける。
「あいつはメイに任せて、俺達はあれを何とかするぞ。ティファに勘付かれる前にな」
「承知致しました」
深青のロングメイド服をぱんと叩き、砂埃を落とすような仕草を見せたマイは思わずアレイズが動きを止めてしまいそうなほどににこやかな顔をしていた。しかしそれがただ純粋な喜びから来るものでないことをアレイズはこの数日間で嫌というほど理解していたので、あえて見なかったことにして足早に喧騒の中心へと向かった。
村はあまり広くはないらしく、すぐにその場所に辿り着くことができた。恐らくは村の最奥なのであろう一際大きな家の前でその喧騒の元凶が見えると、マイが片眉を上げる。
元凶は、大の大人が二人口論と共に殴り合いを繰り広げていた。その周りを村人が取り囲んでいたが、喧嘩は止められることなくむしろ応援する者あり野次を飛ば者ありと場の混乱に拍車をかけることしかしていない始末だ。喧嘩などそうそう起きることではないから興奮しているのだろう。娯楽に餓えた僻地ではよくあることだとアレイズが考えていると、マイが溜息混じりに冷えた声で呟いた。
「これだから、男の人は」
懐から取り出したのは、マイの手の平ほどの大きさの黒々とした玉だった。彼女はアレイズがそれが何であるのかを問う前に、さっさと玉を男達の前に投げつけた。
「はい、どうぞ」
男達にぶつけるわけではない。その眼前の地面を狙ったのだ。おっとりとした声でぽいと投げられたそれは観衆の間をするりとすり抜けて見事に狙った場所へと落ちる。誰もが頭に疑問符を浮かべる中、黒々とした玉は地面に触れるや否や破裂し、大量の煙を吐き出した。
「うわぁ!」
「何だ! 何だあ!?」
喧嘩の時など比べ物にならないほどに場が騒然とする。その隙を突いて、アレイズが喧嘩をしていた男達に肉迫する。そうして髪を掴む勢いで男達の頭を掴んだアレイズは煙の中だということを感じさせない動作で輪の中から抜け出した。アーモンド型の亜麻色の瞳がそれを見届け、マイもアレイズに付いて行く。その頃になってようやく煙が消え去った。
「……ごほっ! くそっ! まだ前が見えねぇ!」
「おい! あいつらはどこ行っちまったんだ!?」
辺りは煙に咳き込む村人達が残されるのみだが、喧嘩の中心にいた男達がいない。それを知った村人達が慌てて辺りを見渡したが、薄く靄がかかったような視界の中に彼らの姿を見つけることはできなかった。そして、騒動の原因を作ったアレイズとマイの姿も。




