馬鹿話
エッセイを書こうと思います。しかしねえ、もう書く事もないんですよ、奥さん。
…埴谷雄高はアンドロメダ星人に向かって書いていたという話を聞いた事があります。ネットで見た文章なので間違っているかもしれないが、まあ、間違っていてもいいです。いずれにしろ、今を生きている、今、この時代に溶けている人に書いても話しても、仕方ないという感覚が重要です。作家は神に向かって書くべきだと思っています。人間なんてどうって事ない。
エミリー・ブロンテも紫式部も、極めて抑圧された空間にいたが為に、フィクションの内に広大な世界を築いた。彼女達が、男尊女卑の社会のあおりを食らったのは確かでしょうが、その事が、彼女らの内部空間の拡大を招いた、という事はいかなる政治倫理に回収されるのでしょうか。私は、どのような政治倫理にも回収され得ないし、そこに文学というものの本体があると思います。ユートピア小説とディストピア小説は裏表で実は同じな理由がそこにあります。政治的な正しさが偉大な文学を生むとは言えない。抑圧や欠乏が文学を生むのかもしれませんが、だからといって抑圧や欠乏が「必要」だと言うとそれはあらゆる政治的専制の温床となる。この微妙な距離に文学というものはあります。
だから、私は坂口安吾の論に賛成です。文学は政治に抵抗する事によって、政治の為になる。文学は世界に反抗する事によって、世界を新たなものにする。更新する。しかしこのような抵抗が、世界の構造に組み込まれているものなのか、本物の反抗(文学)なのか、見極めるのは難しい。私は革命を標榜する保守主義者、新しさを掲げて世界の制度にがっちりとはまって、表面だけを塗り替えようとする人を見飽きました。うんざりしました。ニーチェがいかに商業主義に弄ばれたか。ニーチェのような徹底的な反発者がいかに通俗的に利用されたか。ニーチェが地獄から見ていたらブチ切れたでしょうが、ニーチェは死んでいるわけです。どうにもならない。
では、どうしたらいいのか。どうすればいいのか。知らん、という事です。自殺するのもいいかもしれない。他殺は? …法律に反するから良くない、と。しかし、自殺も何か根底的な倫理に反するのかもしれない。しかし、根底的な倫理なんてものが存在しない時代にそれについて考えたり語ったりする事は、一体、何に属するのか。未来の人間、過去の人間が今この時代に生きる辛さを認識するのは難しい。しかし、過去や未来の人もまた同様の厳しさに浮かんでいるはずだ。世界を抵抗となみす態度に普遍性がある。そこに私は所属している、と言いたい。
しかし、ヤマダヒフミよ…ホラを吹いたな、自分は何か大きな物に所属していると、何故そう言いたいのだ? お前もそうやって、自分はより優位なものに所属していると言いたいだけじゃないのか?
だーから、言ってるじゃん。俺はそう言いたいだけの通俗人だと。その事を隠しもしなければ、酒好き、女好き、怠惰、無為、なんでも告白しようぞ。何も高潔を気取っているわけじゃない。ただ、やむにやまれずここに押し流されただけだ……と。
……自分自身と話していても埒が明かないので先に話を進めましょう。例えば、村上春樹という作家がいますね。ええ、あの村上です。「今」は忘れられているようですが、21世紀の前半には消費社会の広がりと共に随分流行ったのです。過去の「データ」を漁れば見つかるはずです。今は忘れられてしまっているようですが。
で、ですね。村上さんなんかは、世界的に受けて、本人も文豪だともはや思っているかもしれませんが、あたしの感覚では、時代の風を受けていない。つまり、時代は逆風なんですね。悪い時代に作家になった。しかし、村上さんがその事を意識していない事が、村上さんの文学をより軽いものにしてしまっていると思います。彼が、世界と融和するポイントは、彼が世の中に受け入れられるポイントと一致するのですが、そこに陥穽がある。そこで妥協してはいけない、とこちらが思う所で妥協する。何故、あたしはそう思うのか。
それは、文学というものが、同時代性を越えた所にポイントがあると感じているからです。そうです、村上春樹さんが優れた手腕で世界的に受けたという事と、それが彼の「文豪性」を保証するというのは話は別だと思うのです。
でも、ここまで来たらもっと気宇壮大な事を、馬鹿話(いずれにせよ馬鹿話ですし)を語った方がいいかもしれません。このような、同時代性の倫理や価値観の中に全く没した、汚い夏祭りのようなおおはしゃぎの世紀、時代は、歴史的に見れば暗黒の時期であると。我々は中世を暗黒だと言ってみるが、自分達の暗黒性には気付く事はできない。
我々は「今」を称揚します。(「新しさ」は更新される「今」にほかならない) しかし、そんな「今」に没した時代は暗黒なのではないかという気がします。過去と未来を疎外して「今」に閉じこもる。村上春樹作品は並列的に広がっていく。愚にも付かぬもの、子供にもわかりそうな馬鹿げたものが、多数者の賛同を得て広がり、力を持ち、拡散していく。そういう時代。大人は利口なので、現実を何よりも力と認識し、その為に愚かなものにも屈しますが、案外馬鹿な子供の方が見抜くかもしれない。「王様は裸だ」 みんなが王様になってしまえば、誰がその裸を暴くのでしょうか。別の時代しかないでしょう。アンドロメダ星人を呼び寄せる必要がある。
色々言いましたが、一種の落語…ふざけた話として聴いてもらえればよいかと思います。最近、ミヒャエル・ハネケという人を知って、現代の優れた芸術家はどうしてもニヒリズムに陥る傾向にあるのではないかと改めて思いました。小林秀雄も、バルザックとプルーストを比べて、バルザックは理想家だがプルーストはペシミストだというような事を言っていました。とはいえ、現在から見ればプルーストもまた理想を保有しているように見えます。
つまりは、我々は近代以降、ニヒリズムやペシミズムの方にまっすぐ向かっているのであって、村上春樹「多崎つくる」のラストを見て心底がっかりしましたが、希望を持とうとすればあのように迎合的になる。ニヒリズムが「芸術家の誠実」として現れる時代ではないかという気がします。
いかに才能のある芸術家も、時代や共同体を作り出すのは不可能です。我々は他者に囲まれて生きております。そこでいかなる理想家も夢想家も、現実と連携して自分の夢を叶える他ない。我々は……夢を未来に持とうではないか、決して訪れぬ未来、そう、宗教的彼岸において夢は実現すると考えようではないか……こうやって、私達は宗教性に到達するわけですね……などという事を最近は考えております。
我々、と今呼んでいる実体は、果たして存在するのかしないのか、それは今これを呼んでいる読者が実際に考えていただければ良いと思います。そうして、あなたがそれがあると思えば、あなたが「我々」の一人であるというのは間違いのない論理でしょう。そうです、我々のーー私の希望は過たず、「あなた」の手にかかっておるわけです。という、こんな落ちでどうでしょうか、今回は。