「ギニョール」
これまでの約三十年間の人生の中で、一度も恋らしい恋をして来なかった祇野にとって、「恋人同士の愛情」と言う物は、ほとんど空想上の概念と変わらなかった。魔法やお呪いなどと言ったファンタジーと、大差ないのだ。
だからこそ、自分とは無縁のことだと割りきっていたのだが、三十路と言う大きな節目を眼前に控え、さすがに不安にかられるようになって来た。
──果たして、僕はこのままでいいのだろうか? こんな風に人間らしい感情を理解できないままでは、いつしかただの機械と変わらなくなってしまうのでは?
彼は無機的な能面ヅラにはおくびにも出さずに、人知れず思い悩んでいた。
しかし、そんなある日、「恋」とはどう言った物なのかを知ることができる──かも知れ──ない機会が、彼に訪れる。
そのキッカケとなったのは、ある思いも寄らぬ出逢いだった。そして、その出逢いこそが、一人の青年に重大な変化をもたらすこととなったのだ。
研究所での勤めを終え帰宅した彼は、狭い玄関で靴を脱いだ。一人暮らし用のアパートの自室に、出迎えてくれる者ないない。
──はずだった。
あの日、彼女と出逢うまでは。
彼が室内に上がると、ペタペタと控えめな足音が聞こえて来る。
「──おかえりなさい」
リビングから現れたのは、一人の少女だった。きめ細やかな肌も、見に纏ったワンピースも、柔らかそうな髪も──何もかも白一色の美しい少女が、控えめながらも可愛らしい微笑で、彼を出迎える。白桃のようにほんのりと色づいた頬や吸い込まれそうほど澄んだ瞳は、まるで等身大のビスクドールだ。
「ただいま」
これまでの彼には必要なかった言葉を返す。彼女のチャーミングな笑顔につられ、自然と総合を崩していた。
──こんな日常の挨拶ほど無意味な物はないと、以前の祇野は考えていた。しかしながら、どうやら本当に愛する者同士にとっては、たったこれだけのやり取りも、かけがえのない交信となり得るらしい。これは、祇野が彼女を通して知ったことの、一つだった。
彼の元に現れた少女は、白不二真昼と名乗った。あくまでも自称である為本名かどうかはわからない──それどころか、ある白薔薇の和名と白昼夢を組み合わせたようなそれは、偽名と考えるのが自然だ──が、彼女の持つ雰囲気を的確に表しているように思われた。
祇野が真昼と出逢ったのは、ある雨の晩のことで、彼のアパートのゴミ捨て場に傘もささずに蹲っていたのを、見兼ねて声をかけたのが、全ての始まりだった。
その後、事情は不明だが行くところがないと言うので、仕方なく一晩泊めやることに。もちろん、初めは祇野も、この得体の知れない珍客をそれなりに警戒していた。そもそも、明らかに未成年の少女にしか見えない彼女を拾い、一つ屋根の下で過ごすと言うのは、社会人としていかがなモノなのかと、戸惑う気持ちは当然あった。しかしながら、彼女と接するうちに、次第に警戒や不安は解け、翌朝にはまだまだ家に置いておきたい──真昼のことをもって見ていたいと、願うようになっていた。
この白い少女は一瞬にして、祇野の「心」を──単なる電気信号の集積にすぎなかったはずのそれを──、いとも容易く開いてしまったのだ。
そして、少女と青年が互いに恋人と認め合うようになるのに、たいして時間はかからなかった。何より、それは「自然な成り行き」だったのである。
彼は彼女の持つ無垢な仕草や幻のような雰囲気に惹かれ、彼女は彼と共にいることを必要としていた。
それは、彼が初めて理解した感情であり、きっと、ずっと以前──この世界に産まれた時から、探し求めていたある種の「答え」に違いなかった。
「遅くなってごめん。一人でいてもつまらなかっただろ?」
上着をハンガーにかけ、ネクタイを緩めながら、彼は尋ねる。
「ううん、平気。私、テレビ観てたから」
「へえ、何の番組?」
「人形劇。ギニョールって言うフランスの指人形が主役なの」
「面白かった?」
「うん。私、面白いと思った」
「そっか、ならよかった。──ところで、それは?」
彼が目を向けた先──小さなテーブルの上には、夕飯らしき物が並んでいた。しかし、ベチャベチャの白米と焦げた肉のカタマリと言うメニューは、お世辞にも美味しそうとは思えない。
「お夕飯、私、作ったの」真昼はどこか誇らしげに答える。「少しだけ、私、焦がしちゃったけど」
「大丈夫だよ、これくらいなら。美味しそうだね。──ありがとう。一緒に食べよう」
「うん。──私、テレビ観てたから」
微笑み合いながら、アパートの部屋の中の恋人たちは、遅い食卓に着いた。
──真昼が壊れていると言うことは、祇野にもすぐにわかった。しかし、同時にその壊れ方が、彼女を真に無垢な存在足らしめているのだ。だからこそ、祇野は敢えて真昼を医師の元には連れて行かなかったのである。
そして実際、彼らは予想以上にうまく噛み合った。
壊れかけている少女と、人間らしい感情を学びたい青年とは、ある意味理想的な恋人同士だった。たとえ他人から見れば単なる「ママゴト」だとしても──焦げたハンバーグや炊き損ねた米は食べられた物ではなくとも──、互いに確かな愛情を感じあっていたことは明らかだ。
──が、しかし。
幸福な時間は、そう長くは続かない。
二人の生活は、何の前触れもなく終わりを告げる。
その日も、彼はいつもの時間に帰宅し、いつものように靴を脱いで、いつものように真昼が出迎える──のを待っていた。
しかし、少女が現れる気配は一向になく、それどころか、リビングには灯りすら点いていない。
ただ、幽かにテレビの音──人形劇の一幕らしき内容が、ボソボソと呟くように聞こえて来ているだけだ。
彼女は普段から勝手に出かけることはなかったから、外出しているとは思えないが。──まさか、真昼の身に何かあったのだろうか?
彼はにわかに不安に駆られ、短い廊下を大股で歩き、リビングの戸を開けた。
──そして、カーペットの上に横たわる少女の姿を、発見する。
眠っているのとは明らかに違う。それだけは、瞬時に理解できた。
「真昼!」
弾き出された彼は、慌てて少女に駆け寄ると、ワンピースを着た華奢な体を抱き起こした。
「真昼! どうしたんだ! 真昼!」と、必死に声をかけると、ピクリと彼女の瞼が震え、食虫植物のように、微かに目を開ける。
「……ごめん、なさい……私、もう、停止まってしまうみたい……」
「そんな! どうして──どうしてこんなに早く⁉︎ 君は、僕よりもずっと若いのに」
「……仕方ないの……本当は、私、もうとっくに終わってるはずの命、だから……。もともと、私は──廃棄されることが決まっていた、欠陥品ただったの」
そう言って、「白不二真昼」と名乗った自動人形は、自嘲するように笑った。
可愛らしくえくぼを作るその表情は、完全に人間の少女にしか見えない。しかし、彼女の正体が人を模倣て作られた機械であることは、祇野も初めからわかっていた。
それでもなお、彼にとって彼女は重要な存在だったのだ。
「ま、待ってくれ……一人にしないでくれ! 君がいなくなったら、僕は、僕は……」
「……だい、じょうぶ……今のあな、たは……誰より、も……にん、げ、ん……ら、しい……私、の……ぎ、ニョー……ル……」
人形は、最後にそんな言葉を残し、瞼を閉じた。ちょうど時同じくして、テレビの中の人形劇が幕を下ろす。
瞬間、薄暗い部屋の中、彼女の白い肌から輝きが失われ、ただの無機物へと還る──その瞬間を、祇野は目の当たりにしたような気がした。青年の腕の中で、少女の胸の錆びたゼンマイが、完全に機能を停止したのだ。
「……真昼……」
掠れた声で、彼は呟いた。
テーブルの上には、この日も焦げたハンバーグが用意されていたが、青年がそれに箸を付けることはなかった。
ギニョールは、冷たい鉄塊となった恋人を抱き締め続けた。白い光を失った部屋の中で、相変わらずテレビだけが稼働し続けてる。
──やがて、夜明けが近付き、カーテンの向こう側がウッスラと青褪め始めた頃。
青年は、ようやくそれを消した。
そして、彼は最初で最後の恋人の後を追い──
自らの命を絶った。
※
「これはまた……何とも珍しいケースだ」
部屋の中に横たわる二人の亡骸を見下ろし、医師は興奮気味に感想を述べた。医師と言っても彼の専門は人間や動物ではなく、自動人形だ。
彼は無精髭の生えた顎をさすりながら、改めて若い恋人たちの姿を眺めた。
仰向けに倒れた彼らは、仲良く寄り添い手を繋いでいる。また、天国へと旅立った恋人たちの傍らには、花径が十センチほどもある純白の薔薇──フラウ・カール・ドルシュキーが一輪。もう一つの白不二が、手向けられていた。
「いやはや、私もこんなことは初めてだよ。まさか、自動人形同士が恋をするだなんて。──無論、死んだ恋人の後を追って自殺すると言うのも前代未聞だが」
彼の言葉を、自動人形開発研究所の職員は、黙って聞いていた。
「それに、こっちの女性型の方は、近々廃棄処分が決まっていたところを自力で脱出したそうじゃないか。しかも、製造元のF社は、彼を造った君らの会社とライバル関係にある。──まるで、自動人形版の『ロミオとジュリエット』だな」
感慨深げに一人で頷いていた医師だったが、そこでふと思い出したように振り返り、
「ところで、どうだったかな? 例の実験は。『恋人同士の愛情』とやらは、理解できそうかい?」
その問いに、テーブルの上の物を眺めていた職員──祇野は、肩を竦めてみせる。
「それが、お恥ずかしながらサッパリでして。真昼を拾い、この実験を思い付いた時は名案だと思ったんですがね。やはり、他人の恋愛の様子を観察するのではなく、実際に体験してみるべきか……」
そう呟き、無機的な能面ヅラで考え込む彼に、医師は苦笑するしかないようだった。