その③ふとっちょゆうれい 新たな出発へ
ゆうれいになってもなお食欲旺盛、人をこわがらせることのできないふとっちょゆうれいシズカ。ゆうれいになった理由を思い出せないシズカは屋台のオヤジと出会い、ようやく記憶の扉が開き始めた。
「おじさん、やっと思い出したわ。あの日なのよ。わたしが初めて深く人をうらんだのは……」
やがて落ち着きをとりもどしたシズカが、ぽつりぽつりと話し始めた。
「高校生のころ、あたしは今よりもっとおデブだったの。まわりはみんな、細い子ばっかりだったんだけどね。クラスにね、小沢くんって成績優秀、スポーツマンで顔立ちもハンサムな子がいたの。みんな、その子にあこがれてて、あたしもそのひとりだった」
そして迎えた高校二年生のバレンタインデー。勇気をふりしぼって、シズカは小沢くんに手紙とチョコレートをわたした。シズカにとっては清水の舞台から飛び降りるくらい、覚悟のいることだったのだ。そのためにどれくらいの期間、ダイエットを続けたことだろう。
そして、努力の甲斐あって、その願いは叶った。
シズカとつきあうことを小沢くんは承諾してくれたのだ。
舞い上がったシズカは、ますますダイエットに励んだ。いつか小沢くんとデートする日には、もっともっときれいになっていたい、女ごごろの一心で……。
けれども、小沢くんからは何の連絡もないまま一ヶ月が過ぎた。
不安と期待の入り混じった気持ちで迎えたホワイトデーの日。
「放課後残っててくれる?」
小沢くんに声をかけられ、シズカの胸は喜びにふるえた。けれども、教室に居残ったのはシズカ以外にも十数人の女子。小沢君は悪びれた様子もなく、その子たちにクッキーやキャンディーを配りだしたのだ。
最後にシズカの番になったとき。小沢くんは保冷バックを持ってくると、なにやら取り出し、満面の笑顔でシズカに差し出した。
「きみには、はい、これ」
手わたされたひんやりとつめたいもの。
それは、お菓子ではなく、パック入りの絹ごし豆腐だった。
まわりにいた女子がプッと吹き出し、それは大きな笑いの渦になって、シズカをとりかこんだ。
「きみだけはお菓子にしないほうがいいかなと思ってね」
そのとき、ありがとうと言えたのかどうかもシズカは覚えていない。
思わず耳をふさぎたくなるほどの笑い声に、シズカはうつむき、ぐっと唇をかみしめた。
どんどん冷えきってくる心。しかしそれでもなお、シズカは小沢くんを信じていた。これはきっと、ダイエット中のシズカを思いやってのことなのだ。彼のトンチンカンな、でも優しい配慮なのだと。
けれども、小沢くんと、隣のクラスの女子との小声で交わす会話が耳に入ったとたん、シズカの心はちりぢりに砕け散ったのだった。
「ねえ、小沢くん、本気でシズカとつきあおうなんて思ってるの?」
「なわけないだろ。デブはシュミじゃねえよ。ただ卒業まであと一年じゃん。とりあえず、告白が成功したように見せかけとけば、彼女も泣かずに済むかなって思ってさ」
「うわあ、やさしいんだ。小沢くんって」
ひどい……。ひどい……。
それなら、堂々と振ってくれた方がずっとましだった。なまじっか、希望を持たせられるよりもずっとよかった。
打ちひしがれた気持ちが、やがて恨みへと変わる。
生まれて以来、初めて味わった憎悪の気持ちだ。
許さない。ずっと憎んでやる。憎み続けてやる。
心の奥底からふつふつとたぎってくる気持ちを、シズカは思いきり自転車のペダルにぶつけた。
どんどんあふれ出てくる涙。それをぬぐおうともせず、シズカはただ、ただペダルを踏み続けた。
とつぜん、目の前に大型トラックが現れる。横断歩道の先には、信号が赤く光っている。
はっと気づいたときにはおそかった。
それは、シズカがこの世で見た最後の光景となってしまった。
「それで、うらみは果たせたの?」
オヤジはシズカにたずねた。
大きくかぶりを振るシズカ。
「こっちに来てしばらくたったら、だんだんとモチベーションが下がってきたの。恨んだところで、あたしは、もう生き返ることはできない。それに恨み続けるのって案外きついのよね。同じエネルギーを使うにしても、好きな人を思い続ける方がずっと気持ちがいいことよ。恨むことをぱったりやめたら、すごく楽になったんだけど、どうしてゆうれいになったかをきれいさっぱり忘れてしまったの」
「なるほどねえ」
オヤジはうなずくと、公園のベンチに腰かけているカップルを指さして言った。
「あのさ、お嬢さん、ちょっとあいつらをびっくりさせて来てごらん」
そうだ。時間はどんどん過ぎていく。少しでも人をこわがらせなくてはいけないのだ。
シズカは、二人の前にふわりと飛び出すと、両手を垂らして、うらめしいとつぶやいた。
プッと女性が吹き出し、男性がたずねた。
「なに? ここ、今、何かイベントしてんの?」
「ちがいますったら!」
シズカは口をとがらせる。
「あたしはこれでも正真正銘のゆうれいなんです。こわいでしょ!」
「いやあ、癒されるゆうれいだねえ」
カップルは笑いながら、どこかへ行ってしまった。
それから数時間、シズカは公園を通りかかる人すべてを驚かそうと試みたけれど、結局だれひとりとしてこわがってはくれなかった。
「いやいや、こんなゆうれいは初めてだ。おもしろいねえ」
手を打って笑う者さえいる始末……。
「てんでだめだわ。おじさん、どうしよう!」
シズカがふりかえったとき、確かに屋台のあった場所は、まるで、始めから何もなかったかのように、暗闇につつまれていた。
彼岸の夜。シズカは先生に呼び出された。先輩ゆうれいや同期のゆうれいたちもそろっている。
「シズカさん」
先生が重々しく自分の名を呼んだ。
「はい」
「あれから努力されましたか?」
「いちおうやってみました。でも、だれひとりこわがらせることはできませんでした」
正直に告白する。先生は、シズカを上から下までしげしげとながめ、ため息まじりに言った。
「見かけも、ぜんぜん変わってないですね」
「はい」
万事休すだ。これからいったいどうなるのだろう……。シズカが、大きく首をすくめた瞬間。
「あなたは、これより学長とともに、天使養成学校に入学の許可をもらいに行っていただきます」
先生の口から思いもよらない言葉が出た。
「はい? 天使養成……学校ですか?」
「人を憎めない、こわがらせることのできないゆうれいは、ここには必要ありません。どうやらあなたは、来るべきところを間違えたようですね」
「え? え?」
何が何だか理解できないシズカの前に、スーツをバリンと着こなした、ロマンスグレイの紳士が現れた。
「学長ですよ。シズカさん。あなたを天使養成学校に推薦して下さったのです」
「はあ……」
あいまいにうなずきながら、シズカは考えた。
学長はいつのまに自分のことを知ったのだろう。
学長と自分の接点など何にもないはずなのに。
けげんそうな目つきのシズカに向かって、学長が口を開いた。
「お嬢さん、これからは思いきり人を笑わせる天使にならなきゃね」
シズカの口がパカッと開いたきりになった。
「お、おじさん?」
そういえば、この生気のない顔。ふさふさとしたゴマシオの頭は、まさに、あの屋台のオヤジ!
「毎年必ず道をあやまる新米ゆうれいがいるんでね。そんな子たちを見つけるために、わしは屋台のオヤジになるんだよ」
学長いはく。毎年ひとりは必ず、天使養成学校へと連れていく生徒が出るのだそうだ。
「では、がんばって。ごきげんよう。シズカさん」
「ごきげんよう」
「シズカ、がんばってね」
チグサがなごりおしそうにシズカに手をふる。
先生や先輩ゆうれい、同期のゆうれいたちは、学長に向かって一礼すると、次々に消えていった。
「では、わしらも参るとするかな。シズカさん」
学長がシズカにウインクする。
こうして、新米ゆうれいシズカは、晴れて新米天使への階段をのぼることになったのだった。
学長扮した屋台のオヤジのおかげで、ようやく新たな出発をすることになったシズカ。
新米天使として、こんどはどんな騒動をひきおこすことやら……。