その②悩めるふとっちょゆうれいと屋台のオヤジ
「あたし、なんでゆうれいになったんだろうなあ」
同期のゆうれい、チグサに指摘されて以来、シズカはずっと悩み続けていた。
「あたし、いったい、だれをうらんでるんだっけ?」
思い出そうとすればするほど、頭の中が混乱してくる。
「ああ……もう……時間がなくなっちゃうわ」
彼岸までに、見た目を少しでもゆうれいらしくすることと、少しでもたくさんの人をこわがらせることが及第点の条件だから、ウジウジと悩んでいるヒマはないのだ。
きょうの夜も、シズカは公園の柳の木の下で、通りかかる人間をじっと待ちぶせている。
これまで先生や先輩たちから、ゆうれいの登場の仕方をずいぶんと練習させられた。
「両手をだらりと下げ、柳の木の下にふわりと現れる」
「目は相手をにらむように。決して視線をそらさない」
「ぞっとするような、冷たいほほえみを口もとにあらわす」
もちろん、シズカはそのとおりにやっているつもりなのだが……。
先生や先輩ゆうれいから返されるコメントは、ことごとくシズカを打ちのめすのだ。
「そんな丸太のような両手じゃ、ぜんぜんだらりになってないわ」
「あんた、下がり目だから、にらんだってぜんぜん迫力ないわねえ」
「それって冷たいほほえみ? 愛嬌たっぷりのゆうれいでどうするの?」
「ああ、やだやだ」
シズカは大きく首をよこにふった。
「きっと、あたしってゆうれいになる才能がひとっかけらもないんだわ」
思わず、弱音をはいてしまったそのとき。
すぐ近くから、なつかしい匂いがただよってきた。
「ああ、たまんない! おでんの匂いだわ!」
ふりかえると、いつのまにか、公園の入り口におでんやの屋台が出ている。
あたりがすっぽり暗闇に包まれた中で、おでんやの赤提灯のあかりが、ひときわ暖かく感じられる。
屋台の中では、ほかほかと湯気のたつ鍋にさまざまな具が煮込まれ、その奧で、六十代半ばと思われるオヤジがひとり、立ち働いていた。客は、まだだれひとり来ていない。
シズカは、まるで引き寄せられるかのように、ふらふらとその屋台に近づいていった。
「いらっしゃい」
愛想よく、オヤジが出迎えてくれた。
ゆうれいは、見える人間と見えない人間がいる。見えないはずの人間なのに見えてしまうときがある。これはその人間の心の状態にもよるらしいが、どうやらこのオヤジには、シズカが見えるようだった。
堂々とした体格のわりには、顔に生気が感じられないが、頭髪だけはふさふさとしたゴマシオである。
シズカは、鍋に顔を近づけると思いきり、湯気とともにただよう匂いを吸い込んだ。
「いい匂い! このおでん、すごくおいしそうね」
「そうだろう? ひとさら食べていくかい?」
シズカをゆうれいと思っているのかいないのか、オヤジは満面の笑顔を向けてくれる。思わず、こくんとうなずきかけて、シズカはあわててかぶりをふった。
「ううん。いらない。食べたいけど……」
「ほう? どうして? おなかがへってんだろう?」
「ええ……だけど、あたし、太るとだめなの」
すらっと口をついて出た言葉に、シズカはハッとした。
太るとだめ。 太るとだめ。 太るとだめ……。
頭の中がぐるぐるまわってくる。かつて、自分はこの言葉ばかりを使っていたような気がする。
「ほう? お嬢さん、ダイエット中かい?」
いたずらっぽいオヤジの言葉に、だんだん顔がこわばってきた。
ダイエット、ダイエット、ダイエット……。ああ、何か思い出しそうな……。
「好きな人がいるんだね。恋わずらいってやつかな?」
恋? 好きなひと……? とたん、シズカの胸の中が、ほろ苦いせつなさでいっぱいになる。
シズカは思わず頭をかかえて屋台のテーブルにうつ伏せると、こぶしでドンドンとテーブルを鳴らした。
「どうしてよ。どうして思い出さないのよっ!」
しばらくたって、ようやく顔をあげたシズカに向かって、オヤジがゆっくりと口を開いた。
「お嬢さん、楽しかった記憶ってのは、何十年たっても絶対忘れることはないんだよ。ひとりでに記憶の底からよみがえってくるもんだ。それに比べて、思い出せない記憶ってのは、よほどつらいことだったんだろうよ。無理に思い出す必要はないよ」
「だけど、だけど、あたし……」
シズカは声をふりしぼった。
「なんでゆうれいになったのか思い出さなきゃ、落第したままなの。先輩たちに追いつけないの」
「ほう……。お嬢さんは、このままベテランゆうれいになる気なんだね?」
シズカの正体がわかっても、オヤジはひるみもせずに問いかけてくる。
「別になりたくはないけど、このままじゃだめなの。まず、自分がなぜゆうれいになったかを思い出したいの」
「じゃあさ、わかってることを整理してみよう。お嬢さんは太っていることを気にしている。そのいちばんの理由は、だれかに恋をしていたからじゃないのかい?」
シズカはうつむく。きっとそうだったにちがいない。
「で、その恋はうまくいかなかった……そうだろ?」
シズカはうなずく。おそらく。うまくいってたら、こんなふうにはなってないだろう。
「お嬢さんは、相手に気に入られるために、かなりのダイエットをしていた。食べたくても太るから、太るからって、きっと自分にブレーキをかけていたんだ」
そうだ。きっと当たっている。
「そこから先は……自分で思い出すことだな。せっかくだからとうふでも食うかい? これなら太らないだろ」
オヤジがよそってくれた小皿の中のとうふを、シズカはじっと見つめた。
太らないはとうふ。
とうふは白い。
白いはホワイト、
ホワイトはホワイトデー。
ホワイトデーはバレンタイデーのお返しの日。
シズカの頭の中で続いていた歌がぱたりと止む。
次の瞬間。
「ああああああ」
屋台の中から、耳をつんざく悲鳴がわきおこった。
「そうよ。思い出したわ。とうふよ、とうふ!」
手のひらにのせられた、パック入りのとうふのひんやりとした感触。
わずか一丁の重みが、心の重みとかさなってずしりと感じられたこと。
シズカの中に、今、鮮やかによみがえってきたのだった。




