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人間バス

作者: 松井駒子

 耳に残るうるさいくらいの蝉の声。

 汗がにじんで背中に張り付く衣服。湿気で熱のこもった後ろ髪。額に滲んだ汗が、玉をつくって肌を伝う感触。その全てが不快で、忘れられない夜。あれはまだ、私が小学校二年生のころ。思い出すのは、母と兄、三人で暮らしたボロアパートと――長い黒髪が、揺れて零れる――最後に見た、貴女の微笑み。

 早苗ちゃん。私が引っ越したあと、貴女はどうしたのですか。早苗ちゃんのお父さんは帰ってきたのでしょうか。昨年、私たちと、早苗ちゃんたちが暮らしていたボロアパートが取り壊されたと聞きました。あの夏、私たちが訣別してから十二年が経ち――私はついに、あのときの貴女と同じ二十歳になりました。

 貴女は顔をしかめるかもしれません。けれど、早苗ちゃん。私はやはり貴女のことが大好きで、貴女のことを忘れることができずに、大人になってしまいました。この胸を穿つ杭を抜くことができないまま。中途半端な大人になってしまいました。

 今、私はT市に向かう電車に乗り込んでいます。たとえ拒絶されたとしても、私は貴女に会いたい。だから、どうか――貴女が『バス』に乗っていないことを、私は願いつづけています。

 A県T市は、人口四万人余りの小さな町でした。商店街の連なる古くからの街並みと、急激に発展した自動車産業の工場がせめぎ合う場所で、他所からやってきた若い世代と、自分の土地を守ろうとする中高世代の間に深い溝のある町でした。もっとも、小学生の私は当然そんな事情すべてを理解していなかったので、近所の老人たちが何故私たち母子に冷たいのか、その訳を知りませんでした。ただ工場で必死に働く母を見る目が冷たくて、幼い私は悲しい思いをしていた記憶があります。

 T市の自動車工場は、毎日多くの人を飲み込んで吐き出します。その手段として、朝夕には沢山のバスが町を走っていました。毎日何台ものバスが決められたルートを走って、工場に勤める人々をかき集めて飲み込んでいくのです。機械的で、受動的なその様子。朝夕にバスに吸い込まれるのは、疲れた顔をした覇気のない、機械の部品です。ラインの一部です。その奇妙な光景が繰り返されるうちにできたのが、『人間バス』という都市伝説だったのでしょう。後に私は都内に住むことになりましたが、そこで『バス』の話をすると周囲は不思議そうな顔をしていました。彼らにとって、街中を走るバスが悪意の対象であることは理解できなかったのかもしれません。


――悪いことをすると、『人間バス』に乗せてしまうよ。


 ですがそれは、T市に住む子どもたちにとって何よりも恐ろしい魔法の言葉でした。『人間バス』――誰が考えたのか、不気味なネーミングです。その正体は夜闇を走る、真っ黒なバスでした。通常の工場のバスは大抵が白い色で、側面に広告や会社のロゴの入ったデザインをしていましたが、人間バスは黒一色です。禍々しいほどの闇色のバスは、人々を吸い込むと、そのまま真夜中の道を進み、彼方へと消えるのです。それは、たとえばリストラにあった人。家族を亡くした人。病気で死にかけた人。そうして、どうしようもなくなってしまった人々が、疲れた顔で漆黒のバスに乗り込んで行きました。虚無を飲み込んだバスは、もう二度と戻ってきません。隣の地区の人が人間バスに乗った。そんな噂が飛び交って騒然とする。それがあの町の歪んだ日常だったのです。

 私たちはバスが恐ろしかった。T市に生まれ育った子どもは皆そうだったはずなのに。なのに、どうして――貴女はあの日、『バス』に乗ろうとしたのですか、早苗ちゃん。

 早苗ちゃんは、私の家二〇三号室の二つ隣。二〇一号室の住人でした。

 当時、四つ上の兄は同級生と遊ぶことに夢中で、付きまとう私を毛嫌いしていました。そのため、私の一番の遊び相手はこの近所のお姉さん。大学生の早苗ちゃんでした。彼女はよく笑う人で、嫌な顔一つせず私の遊びに付き合ってくれました。遊び場はいつも同じ、ボロアパートの錆びた階段。あの夏休み。二人にとっての最後の夏も、そうして私は彼女と一緒に遊んでいたのです。

「そのチョコレート、いつも食べてるね、こまちゃん。もらったの?」

「んーん。昨日『佐野や』で買ったの」

 『佐野や』というのは、老婆が営む近所の駄菓子屋です。私やクラスの子たちは、みんな『佐野や』でお菓子を買っていました。ただ大量に陳列された商品に目を光らせていないので、万引きが横行していたそうです。私はこの『佐野や』の常連で、二日と置かずに通い詰めていました。そして手に入れた駄菓子の数々は、いつも私のジャンパースカートのポケットに収まっていたのです。中でも、私は五円チョコというチョコレートが大好物で、そればかり食べていました。五円チョコというのは、その名の通り五円硬貨の形をお菓子で、正式名称は『ごえんがあるよ』。一九八四年、松尾製菓株式会社が販売開始したチョコレート菓子です。

「でもさ、それ。もし、日本国政府が五円玉を廃止しちゃったら、どうするんだろうね」

 早苗ちゃんがかるく首を傾けると、長い髪がさらりと揺れました。毛先まで美しい髪に一瞬見惚れたあと、私は彼女の言った言葉に目をぱちくりとさせました。彼女はお財布から五円玉を取り出します。真ん中に穴の開いた、金色のお金。それを、私の前にかかげて彼女は言いました。

「知っている? 今のデザインの五円硬貨になったのは、戦後のことなのよ。ほら見て、表面は、稲穂や水、歯車のモチーフで、農業、水産業、工業を表しているけれど」

 そこで言葉を止めると、彼女は硬貨をくるりと裏返しました。

「裏面の双葉は民主主義に向かって伸びる日本を表しているの。つまり、日本が民主主義国家じゃなくなれば……五円硬貨は変わるのよ」

「みんしゅ……しゅぎ……?」

「んふ……こまちゃんにはまだ難しかったかな」

 歯を見せないように、唇の両端を持ち上げるように笑うのが、彼女の笑い方です。上品に笑う彼女は、綺麗に悪態をつきました。おのれ日本国政府、と。

「つまりは、五円チョコの命運は、政府が握っているのよ」

 分かった? そう微笑む早苗ちゃんを眺めて、私は何て大それた変なことを言うのだろうと思いました。

しかし、一方で私は後々、気になって調べてみました。のち二〇〇四年松尾製菓株式会社は、販売企画部門を独立し、チロルチョコ株式会社を設立していますが、その認知度に対して、社員はおよそ五十名となっています。早苗ちゃんの言うとおり、もしも五円硬貨のデザインが変更になったならば、この社員五十名の会社に多大な影響を及ぼすことは確かにあるのかもしれないと思いました。しかし、当時の私には彼女の言葉すべてを理解するだけの頭がなく、私は単に早苗ちゃんは美人なのに変な人だなあと、思っていました。

「ところでこまちゃん、どうしたの? もうお昼だよ。おうち、入らないの?」

「……松井さん、来てるから」

 早苗ちゃんは、うちの前に停まっている黒塗りの車に気付いて、ああと言いました。

「お母さんの、彼氏だっけ」

「やめて」

 私は耳を覆ったあと、不満をかき寄せて上唇をあげました。

「……何でお兄ちゃんたちは、止めないのかな」

 私には、兄が二人いました。一人は年の離れた兄で、遠く離れた東京で下宿生活をしています。もう一人は、四つ離れた兄で、一緒に暮らしてはいましたが、彼は時間があれば同級生とグラウンドに出かけて家にはいません。二人の兄は母の再婚に対して、それぞれ賛成と無関心を貫いています。反対する私とは立場が全然違いました。

「私、絶対嫌だ。お母さん、おかしい」

「……そう。でも、もうお昼ごはんの時間よ。おなかすいちゃうよ……あ。そうだ。うち来る?」

「え……!」

 その言葉は大変魅力的でしたが、同時に私に恐怖をもたらすものでした。

 早苗ちゃんは、彼女の父親と二人暮らしです。そして、その父親というのが、私はとても苦手だったのです。彼はいつも酒に酔っていて、声が大きく、時々暴力をふるいます。それなのに酔いが醒めると、早苗ちゃんの足元に跪いて、さめざめと泣くのです。悪いなあ。早苗。ごめんなあ。早苗。そして次の日お酒を飲むと、けろりと忘れてしまうのです。早苗ちゃんはそんなお父さんと二人で暮らしていました。

「……ああ。大丈夫だよ。今日は、夜までお父さん帰ってこないから。お昼ごはん一緒にたべようか」

 迷っていた私に、彼女は微笑んで言いました。早苗ちゃんは、魔法使いです。いつも私の思いを、言葉にしなくてもわかってしまうのです。

「あ、でも。今日、アルバイトは?」

「こまちゃんは、特別だから」

 特別。私は嬉しくなって目を輝かし、差しのべられた温かい手のひらを勢いよく掴みました。

「すごく、綺麗だね」

 通されたのは、初めて入る早苗ちゃんの家。そこで私は、目を丸くする事になりました。早苗ちゃんの父親の様子から、雑多な部屋を想像していたのですが、部屋の中は綺麗に整頓されて、目につくところに物がありません。コードまで綺麗にまとめ上げられて、縛られていました。私はまとめられたコードをつついて、何これと問いかけました。

「え。知らない? 結束バンドっていうんだよ。ええー、知らないの、こまちゃん。こんな便利なものを」

 嬉しそうに、早苗ちゃんは押入れから紐のようなものを取り出しました。プラスチックでできたそれは、片方の穴に、もう片方をくぐらせ輪を作る様になっていました。

「先月買って、はまっちゃってさ。楽しくてたのしくて、何でも纏めちゃうの。あ、ねえ、よかったらさ、こまちゃん家のコード縛ってもいい?」

「だめ。お母さんが、怒るから」

 すると、早苗ちゃんは見るからにがっかりしました。あまりに残念そうな顔をするので、私は何故好きなのかと尋ねました。

「結束バンドのすごいところはね、はさみで切るまで絶対解けない。その絶望感が、好きなのよ」

 絶望感。私はぽかんと口を開けて、また早苗ちゃんは、変なこというなあと思いました。

 それからしばらくして早苗ちゃんが冷蔵庫の中を漁り始めました。白い冷蔵庫はツードアタイプ。少し小さめの上の扉が冷凍庫。下の扉が冷蔵庫になっていました。お父さんと二人暮らしの早苗ちゃんには、ちょうどいい大きさです。彼女は冷蔵庫の中身を眺めた後、私に言いました。

「うーん。そうねえ。こまちゃん。今日のメニューはカレーライスです」

「カレー大好き!」

 メニューが決まると、早苗ちゃんは、鼻歌を歌い始めました。三分で料理が作れる歌です。

「よしよし、じゃあ、こっち来てね。手を洗ってね。じゃあ、こまちゃん。じゃがいも剥いて」

 その言葉とともに手渡された包丁に、私はぎょっとしました。

「……え。でも。包丁は危ないから触っちゃだめだって。お母さんが」

「オー、リアリー? ユアマザーイズ、マッド。そうね、じゃあ、そんなこまちゃんに魔法の言葉を教えてあげましょう。リピートアフターミー、『料理は、愛情』」

「りぴーとあふたみ?」

「いいから、復唱して、復唱。料理は、愛情! 繰り返して、ほら」

「りょうりは、あいじょー」

「料理は愛情!」

 料理は愛情、愛情と何度も繰り返し言うように強制されました。洗脳です。

「そう! 偉い人が言っていたわ、料理の一番の調味料は愛情だって」

「偉い人ってだれ?」

「さあ。日本作った人じゃない? じゃあ、このじゃがいも宜しくね」

 早苗ちゃんは意外に容赦がないのです。私は諦めて、包丁を握りました。早苗ちゃんはそんな私を満足そうに眺めると、カレーのルーを求めてキッチンを捜索し始めました。私はそれを横目に見ながら、たどたどしくジャガイモの皮を剥きます。何度も指を切りそうになりながら、苦労して苦労して、私がようやく一つ、ジャガイモを剥き終えたそのとき。


 ヴヴヴヴヴ。


 その音は、虫の羽音のように耳障りに、耳をかすめました。

「?」

 音の正体を探して、よくよく見ると、キッチンの隅に粘土のような緑色の冷蔵庫がありました。これはワンドアタイプ。二人暮らしのはずの早苗ちゃんの家に、どうして冷蔵庫が二台もあるのでしょう。白い冷蔵庫とは異なり、ずいぶんと年代もののそれは、ヴヴヴ。ヴヴヴと、大きな起動音を立てていました。今まで気付かなかったのが嘘のように、私はそれが気になり始めました。なんだろう。好奇心に背中を押されて、私は包丁を置き、恐る恐る冷蔵庫に一歩踏み出しました。ヴヴヴ。ヴヴヴ。早苗ちゃんは、キッチンにいません。ヴヴヴ。ルーを探して、居間の方へ行ってしまいました。ヴ。虫の羽音が耳障りに頭に響きます。私は冷蔵庫の取手を握り。

「だめよ、こまちゃん」

 いつの間にか、早苗ちゃんが後ろに立っていました。彼女はにっこりと笑って、私の後ろから冷蔵庫のドアを押さえつけました。

「人の家の冷蔵庫は、勝手に開けたらだめなのよ。悪い子ねえ」

「早……苗ちゃん……ねえ。この、冷蔵庫って」

「あ。そういえばさ、こまちゃん。知ってる?」

 私の問いかけた言葉は、笑顔とともに切り捨てられました。そして彼女は私の言葉を遮るように、『魔法の言葉』を吐きました。

「人間バスが、出たんだって」

 私は固まり、早苗ちゃんの顔を凝視しました。

「ほら、二丁目のバス停あるでしょう。あそこにね、夜遅くに停まっているのを見た人がいるんだよ」

 二丁目のバス停は、ここから歩いて十分くらいの場所。目と鼻の先です。私は思わず、嘘だと呟きました。

「嘘じゃないよ。この前、『佐野や』の孫が乗ったんだって」

 私は目を見開きました。

「知ってる? こまちゃん。最近『佐野や』、万引きがはやっているんだって。本当の理由は分からないけど、それでノイローゼになったんじゃないかって話よ。かわいそうにね」

 愕然とする私の前で、彼女は私の剥いたジャガイモを手に取ると、しげしげと眺めたあとで口の端を持ち上げて言いました。

「愛情は、いびつなのね」

 そのあと食べたカレーの味を、私は覚えていません。ただ覚束ない足取りで家に帰ると、母は上機嫌でした。小躍りしそうな母を前に、昼食を早苗ちゃんと食べたことは秘密にしました。そして出された二度目の昼食は、胃が苦しくなりましたが、母の笑顔を見ていると、私はすべてを耐えることができました。

「駒子は私の天使だわ」

 彼女はそう言って、私の頭を撫でました。柔らかい手のひらが、頭に触れる、その感触。その瞬間が大好きで、今思えば、あの一瞬に私の幸せの全てが凝縮されていました。母に気付かれないように、私は少し泣きました。

 食事の後、私はポケットから、今日手に入れたお菓子を取り出しました。五円チョコに、ヨーグル。グミにフーセンガム。それらを、クッキーの空き箱に放り込みます。たまったお菓子を眺めていると、その背中を、兄が蹴りました。痛みで振り返ると、四つ年の離れた兄が、私を見下ろしていました。

「お前、またあの駄菓子屋行ったろ。いい加減にしろよ。今度やったら『バス』に乗せるからな」

 蹴られた背中が痛くて、私はまた少し泣きました。

その日の夜、夢に『佐野や』のお兄さんが出ました。彼が私を罵り、その周りをぐるりぐるりと踊りました。踊りながら、罵ることも忘れません。罵りながら、踊ることも忘れません。やがて満足した彼は、最後に粘土色の冷蔵庫に入りました。閉じた扉の中で、お兄さんが何か汚らしい言葉を叫んでいましたが、その声は冷蔵庫の中に一緒に閉じ込められました。

夜半、自分の悲鳴で目を覚ましました。あんな恐ろしい夢、後にも先にも見たことがありません。早苗ちゃん。あの冷蔵庫は、何だったのでしょう。私は今も時々思い出します。

 膝を抱えた大人一人が入れる大きさ。あの中には、一体何が入っていたのか。しかし、私がその中身を知ることは、最期までありませんでした。

 数日後、私は意を決して、『佐野や』に向かいました。しかしいざ店に入っても、臆病な私は聞くことも聞けません。そうして駄菓子を買った私に、何も知らぬ老婆は微笑んで言いました。

「こまちゃん、いつもありがとうね」

私は真実を尋ねることができませんでした。落ち込んだままアパートに帰ると、階段の所に早苗ちゃんが座っていました。

「おかえり。ねえ、今日のお祭りにいかない?」

 早苗ちゃんの右眼には、痛々しい青い痣がありました。昨夜聞こえた怒鳴り声は、やはり早苗ちゃんのお父さんのものだったようです。

「……いい。行かない」

「何、冷たいなあ。どうしたの。こまちゃん。落ち込んでいるの?」

「ねえ、『佐野や』のお兄さんって……」

「ああ、この前言ったこと? あれ、嘘だよ」

「は?」

「『佐野や』のお兄さんなら、結婚して引っ越しただけだから。バスには乗ってないよ。この前のは、こまちゃんが怯えるかなって思って言っただけの、冗談。あ。ねえ、怖かった?」

 早苗ちゃんはけろりと言って、微笑みました。あまりに悪びれもせず言うので、私は脱力してしまいました。この数日間、悩んだことはなんだったのか。しかし、彼女の微笑みを見ていると私は安堵して、目の端から涙がこぼれそうになりました。

「ねー。それより、夏祭りいこーよ。行きたい」

「……お祭り? でも、夜出かけるのは」

「お母さんが許さない? 大丈夫、私が言ってあげる」

 そう言うと、早苗ちゃんは階段を上り、私の家のチャイムを押しました。すごい行動力です。すると扉を開けて、私の母が出てきました。乱れた髪の毛、部屋着にカーディガンを羽織っただけの母は、はじめ不機嫌そうに早苗ちゃんに対応していましたが、二三言言葉を交わすと、急に機嫌がよくなって笑顔を作りました。私が奇妙に思っていると、やがて会話は終わり、早苗ちゃんが階段を下りて来ました。

「お祭り、行ってもいいって」

 私はぎょっと目を見開きました。

「本当にいいの?」

「うん。こまちゃんが遊ぶお金ももらった」

 そう言うと、早苗ちゃんは私に千円札を手渡しました。確かに、母はお祭りのとき、いつも千円札を私にくれたのです。ですが。気になるのは。

「……早苗ちゃん、さっきもらってたの、何?」

「あれ、こまちゃん。見えていたの」

 下で見上げていたとき、早苗ちゃんは私のお母さんから他にも何かを受け取っていました。私は疑問に思って問いかけました。

「早苗ちゃん、なあに。あれ」

すると彼女は懐から封筒を取り出して、にっこりと笑いました。

「これにはね、夢が詰まっているの」

 茶色の封筒には、少し厚みがありました。

 夜祭。暗闇に色を灯すのは、連なる朱色の提灯。砂利道に戸惑いながら、私は早苗ちゃんに着付けてもらった浴衣が嬉しくて、くるくる回りました。縁日は沢山のお店でにぎわっています。私は母から特別に渡された千円札を握りしめて、視線を彷徨わせました。

「何に食べる? 何を、する?」

 早苗ちゃんの促す声に、私はひどく悩みました。焼きそばに綿飴。輪投げに射的。誘惑は容赦なく私に襲い掛かります。その中で目があったのは、真っ赤な小さい金魚でした。その瞬間の衝撃を一目ぼれと言わずに何と言いましょう。気が付けば私は夢中になって、すくいを手にしていました。一回目。失敗。二回目。やっぱり失敗。だが惜しかった。三回目。残念。お小遣いはそこで尽き、私は肩を落としました。

「こまちゃん」

すると、その肩を早苗ちゃんが叩きました。

「ちょっと、お酒買ってくるから、ここにいてくれない?」

「……え。お酒、買うの?」

「うん。お父さんに。今日はお祭りだから、特別なの」

 そう言うと、早苗ちゃんは三千円をくれました。私は目を輝かせます。お母さんには内緒だよ。彼女は唇の前に人差し指を立てて、私の手にお札を握らせました。だから、ここで待っていてね。立ち去る彼女を見送ると、早速私は金魚に三千円を注ぎました。

集中と挑戦。何度繰り返したのか、時間は思っていたより過ぎて、やがて露店のおじさんも呆れるころ、私はようやく囚われの金魚を救いました。

「やった! やったよ、早苗ちゃん、ほら見て……!」

 恋が実った。私は歓喜して振り向きました。しかし振り返ったとき、彼女の姿はどこにもありませんでした。

「早苗ちゃん? あれ、え、まだ帰ってきてないの」

 時間は大分経っていたはずです。奇妙に思った私は縁日を探して回りました。

「早苗、ちゃん」

 すぐに見つかるだろうという私の浅はかな考えは暫くして、絶望で塗りつぶされました。どんなに捜し歩いても神社に彼女の姿はなく、やがて探すことも待つ事も飽きた私は、諦めて夜道を一人帰ることにしました。きっと、家に帰っている。そう信じて、夜闇を一人で戻りました。手の中の金魚などもはや関心も薄れて、私は心細さから目に涙を滲ませました。やがて辿り着いたボロアパート。錆びた階段を一個飛ばしに駆け上がると、果たして早苗ちゃんの家の扉が開いて、中の光が漏れていました。

「早苗ちゃん……!」

 私はすぐに駆け寄り、玄関の扉を開きました。すると開いた扉の向こうから、ぷんと、鼻につく匂いが漂ってきました。 あんなにきれいだった部屋が、今は割れた酒瓶が散乱し、こぼれた酒が畳にしみこんでいました。漂うのは、濃い酒の匂い。何かがあった。それは、明確でした。しかし、そこに早苗ちゃんの姿も、彼女の父親の姿もありません。机の上には、早苗ちゃんが持っていたカバンが置かれていました。

(一度帰ってきたの?)

 では、彼女はどこへ行ってしまったのでしょう。その場の荒れ果てた様子に、私の背筋に冷たいものが伝いました。頭によぎったのは、髪を掴まれ引きずられる早苗ちゃんの姿。私は踵を返して、夜の町へ向かいました。

 早苗ちゃんを、助けないと。その一心で走り回り、息が切れて、足がもつれたころ。私は夜闇にまぎれた、それを見つけてしまいました。奇しくも場所は、二丁目のバス停。頬を伝って、汗が流れます。走り回って熱を持ったはずの体から、冷や汗が流れ落ちます。バス停に、『バス』が、止まっていました。心臓が、ばくばくと音を立てます。時間は九時を回っており、通常ならば、そこにバスは止まりません。しかし、存在しないはずの『バス』がそこに在りました。真っ黒なバスが、夜に潜んでいたのです。

 人間バス。

 その存在を前にして、私の足は震え、歯はかちかちとなります。しかし、怯えすくむ私はそこに、長い黒髪の女性の姿を見つけてしまいました。見覚えのあるその姿。早苗ちゃんです。私は少しの躊躇のあと、彼女に向かって足を踏み出しました。

「早苗ちゃん!!」

 私は必死に駆けつけました。そうして恐れとともに見上げたバスの運転席には、車掌の帽子を目深にかぶった男が座っていました。

「……こまちゃん? だめじゃないの。こんな夜にひとりで出歩いて」

 バス停に立つのは、昼間見た痣以外無傷の早苗ちゃん。無事だった。ほっと安堵した私は息をつきました。しかし。そのとき。視界の端に映ったものを、私は見つけてしまいました。

「……う……ううう」

 うめき声の聞こえた元。辿り着いた視線の先。

 バスの床に、早苗ちゃんのお父さんが転がっていました。泥酔していたのか。彼は真っ赤な顔でうめき声を漏らしています。その両手は背中に回され――結束バンドで、くくられていました。

『絶望感が、好きなのよ』

 どこかで聞いた言葉を思い出し、ぞおと背筋に冷たいものが走りました。私は、恐る恐る『彼女』を見つめます。すると早苗ちゃんは、あの綺麗な微笑みを浮かべて言いました。

「……お父さん、どうしようもないから」

 私は訳が分からぬまま。彼女を見て凍り付くことしかできませんでした。すると、彼女は微笑んで膝を折り、私の肩にそっと手を乗せました。

「でもね。私、知っているのよ。こまちゃん」

「さ、なえ……ちゃん……」

「本当は、こまちゃんも、どうしようもない子。ねえ。貴女、万引きしてるよね」

 一瞬で、頭の中が真っ白になりました。止まった世界。その中で、彼女だけが、微笑んでいます。私はろくな反論の言葉も言えずに、口をパクパクと開けることしかできませんでした。

「何で、どうしてそんなことを言うんだろう。そんな顔してる。ねえ、こまちゃん。大好きなのに、知らないのね。五円チョコは、夏には売っていないのよ。溶けてしまうから、夏は『夏休み』になるの。なのに、こまちゃんは、五円チョコを『買った』って言った。『佐野や』の孫の話で鎌をかけたら、面白いくらい慌てふためいてみせた」

 クッキーの缶いっぱいに溜めた、駄菓子の山。本心から、欲しかったわけではありません。そんなもの、本当はどうでもよかった。食べたかったわけでもない。けど。それでも。あの空っぽの缶々を、満たさなければいけないと思っていたのです。兄は私の背中を蹴りつけて、言いました。

『お前、いい加減にしろよ』

 彼は知っていたのです。そして、目の前に立つ彼女も、また、私の罪を知りました。愚かな私を見下ろして、彼女はにいと笑いました。

「わるい子だね、わるい子。とってもわるい子。バスに乗らなきゃいけないねえ」

 肩を掴む手に力が増しました。

「ひっ……じょ、冗談だよね……早苗、ちゃん」

 青ざめた私は彼女に問いかけました。しかし、その力は弱まることなく、強く、私の肩を掴みました。

「こまちゃん」

 とても綺麗な微笑みが、私を見降ろして言いました。

「私がアルバイトしていたの、知ってるよね」

「……?」

「私のアルバイトはね、子守。彼氏と会うのに、『子ども』は邪魔でしょう? だから、『お母さん』から、子守の依頼をされたんだ。これがまた、時給がいいのよ」

 彼女は何を言っているのでしょう。しかし、頭の中で、フラッシュバックするのは、茶色い封筒を受け取る早苗ちゃん。封筒を、渡す母。

「……私、本当はね、こまちゃんとなんて、遊びたくなかった……こまちゃんが、嫌いだったの」

 彼女の右手が、私の頬に優しく触れました。

「いい子の振りして、当然のように愛情を受ける。母親が別のものに夢中になれば、それは母親が悪いと言う。自分は何も、悪くないって顔をして、こおんな、悪いことしてる」

 そして彼女は私の頬を掴んでひねりました。ぎりぎりと捻られる頬の肉は、ちぎれそうなほどに強い力が込められていました。

「いた! いたい! 早苗ちゃん。ひっ。やめて、ごめんなさい、謝るから、謝るからっ」

 たまらず、あがった悲鳴。こぼれた涙。私の膝は、笑いつづけ、同時に彼女の哄笑が響き渡ります。

「ごめんなさいっ、だから! それだけは……!!」

 しかし、嘆願もむなしく、彼女は抵抗する私の体を抱き上げます。クラスでも小柄な体は、簡単に持ち上がりました。足をばたつかせても何の意味もなく、彼女は軽々と。私を、バスに。たすけて。たすけて、たすけてたすけて。金切り声は、鋭さを増して――その頬を早苗ちゃんが手のひらで打ちました。突然に感じた、頬の熱。やがて広がる、じんじんとした痛み。ただ私は、痛みよりもショックで頭が真っ白になりました。早苗ちゃんが、私を叩いた。頭の中がゆれて、私は打ちひしがれていました。早苗ちゃんが、私を。抵抗のなくなった体を、彼女はかるく抱き上げます。もうどうしようもない。絶望のままに涙を流し、全てをあきらめた私は、ただ最後に祈るようにささやきました。

「……おかあさん」

 その声に、私を抱えた腕が、ぴたりと止まりました。

「……?」

 呆然とする私の体を、早苗ちゃんが解放します。バスから降ろされる私。戸惑いのまま見上げると、早苗ちゃんの顔から表情が抜け落ちました。彼女の黒い目は、濁ったまま。つまらないと、その唇が吐き捨てました。

「……こまちゃん。許すのは、今回だけ。今度悪いことしたら。分かってるわね。次は――許さない」

 彼女は怯える私に何度も念押しすると、じゃあねと背を向け、バスの踏み台に足をかけました。恐怖と驚愕が入り混じり、身動きのできない私の前で――彼女はバスに乗ろうとしたのです。信じられませんでした。目を見開く私にむかって、彼女は振り向き――微笑みました。それは、悲しげな笑みでした。

「……だって一人じゃあ……お父さん、寂しがるから」

 背を向けバスに乗ろうとする彼女。私は、衝動のまま、早苗ちゃんの服を掴みました。

「早苗ちゃん! 早苗ちゃん!!」

 彼女のことが、怖かった。恐ろしかった。それでも私は、彼女にバスに乗ってほしくはなかったのです。しがみつくというより、体全体でのしかかるように、私は彼女の足を止めました。早苗ちゃんは私の体を突き放そうとしましたが、私は渾身の力で彼女に掴まりました。子どもの私の何処に、それほどの力があったのか。けれど、あのときの私はとにかく必死だったのです。やがて揉み合いの果てに、何とか私が早苗ちゃんの足をバスから引きずり下ろすことに成功したとき、平坦な声がその場に響きました。

「発車します」

 はっと顔をあげると、バスの運転手が帽子のつばを握って小さく会釈していました。帽子の影になった顔は、闇の中。絡み合う私たちの前で、扉は容赦なく閉じ――早苗ちゃんのお父さんを乗せたまま――バスは発進しました。荒々しいエンジン音はやがて遠ざかり。夜の闇に、すこしずつ溶けて消えていきました。

 しばくして。バスの姿が完全に見えなくなったとき。早苗ちゃんの体は、私の腕の中で力なく崩れ落ちました。う。と、小さなうめき声が聞こえて、早苗ちゃんは私の背中に顔を押し付けてきました。私の体にしがみつく、彼女の腕が震えていました。耐えるように隠すように、彼女は嗚咽を噛みしめたまま静かに泣きました。そしてかすれた声が、小さく。本当に小さく、引きつりながら吐息を漏らしたのです。

 おとうさん――と。

 次の日。私の家のポストに茶封筒が押し込まれていました。切手も宛名も何も書かれていない封筒の中には、まとまった札束が入っていました。誰がそれを入れたのか、すぐにわかりました。しかし何度扉をたたいても、何度名前を呼んでも、貴女は家から出てこなかった。貴女は、私を拒絶した。

――それから一週間も経たないうちに、母と松井さんの再婚が本決まりしました。私は東京へと引っ越すこととなり、ろくな別れの言葉もないまま、私たちは訣別しました。

 早苗ちゃん。私はずっと、貴女に会いたかった。あの夜のこと。ポストに押し込められた札束。その本当の意味を、知りたかった。それでも臆病な私は、再び貴女への一歩を踏み出すことができなかった。少女の私が、あの日叩かれた頬に手を当て泣くのです。怖いと、心の中で叫ぶのです。

 ではどうして、十二年経って今更会う気になったのか、貴女は不思議に思うでしょうか。

ねえ。早苗ちゃん。松井さんを覚えていますか。浅黒い肌の小柄な男。私の新しい父親となった男です。

 昨日。私は彼を殺してしまいました。些細で、そして折り重なった悲しい殺人でした。追い込まれた私は恐怖のまま、手元にあったガラスの灰皿で彼の頭を殴りました。あふれた血。口から零れる泡。手に残った恐ろしい感触。私は目の前で起こった事態に恐慌状態に陥りました。手足に力が入らず、震え、喉の奥に悲鳴が張り付きました。

 怖かった。恐ろしかった。しかし、正当防衛が証明されれば、私はその罪を逃れることもできたでしょう。

 ですが、事件の一部始終を見ていた母は悲鳴をあげ、恐ろしいものでも見るように、助けを求める私を拒絶しました。母のため。大好きな母のために。そうして耐え続けた十二年の歳月ごと、彼女は拒絶し、私を悪魔の子だと罵りました。瞬間。目の前が真っ暗になり、私は血の付いた灰皿を掴み、それを愛したはずの母目がけて――

 ねえ。早苗ちゃん。

 この絶望を抱えて、どうして今までと変わらぬまま生き続けることができるでしょうか。私はバスに乗ります。この胸の虚無をかかえたまま、『人間バス』に乗らなければなりません。しかし。悲嘆の海に溺れながら、それでも必死に決心した私の前に。貴女は。貴女は――


 本当に――早苗ちゃんは、容赦がないなあ。


 がこん。

 母の死体に縋り付いていたとき。その音は、私の世界を揺らしました。伝わった衝撃は、ドアポストに郵便物が落ちたことが原因でした。遠ざかる足音は郵便局員のものだったのでしょう。それを聞いて、私は伏せていた顔を上げました。目の下は腫れて、瞼が重く、頭は霞がかったままでした。これ以上の悲しみも絶望もない。そう、思っていました――目の前に、降ってわいた手紙を読むまでは。投函された、一枚の手紙。 それが何か、当然、差出人の貴女は知っていますよね。そう、貴女からの、結婚式の招待状です。招待状には、今の貴女の写真が同封されていました。愛する人と並んで映る、綺麗な貴女。いつかの笑顔とは異なり、歯を見せて心の底から笑う早苗ちゃん。

 ひどいなあ。

 ひどいなあ。ひどいなあ。ひどいなあ。ひどいなあ、早苗ちゃんは。一人だけで、幸せになるなんて。私はこんなになってしまったのに、私をこんなにしたのは貴女なのに――私を置いて、貴女だけ幸せになるなんて、なんて人なの。こんなのひどい。

 ああ。電車が到着しました。手紙に書かれた住所――早苗ちゃんの新しいおうちは、確か駅から歩いて十五分でしたね。

 早苗ちゃん。大好きです。たとえ拒絶されたとしても、私は貴女に会いたい。だから、どうか――貴女が『バス』に乗っていないことを、私は願いつづけています。

 だって、貴女が先に一人で乗ってしまっていたら、折角作ったお弁当が無駄になってしまうでしょう。今日のために早起きして、お弁当を用意しました。たこさんウインナーに、たっぷり甘い卵焼き。おにぎりは、おかかと梅にしました。お菓子も、ほら。懐かしい、五円チョコ。詰めたいお菓子は沢山で、とても悩んだけれど、きちんと三百円までに抑えたんです。褒めてくださいね。うふふ。たのしみだなあ。

 ねえ。早苗ちゃん。だから。今度こそ一緒に――『人間バス』に、のりましょうね。


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