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「助けにきたよ、紗乱」
と、チョコレートケーキみたいな声で黒髪の少女は言った。
夜空に浮かぶ満月を味方につけたように、不敵に嗤って、紗乱を見やる。
懐かしげに。
狂おしげに。
悩ましげに。
愛おしげに。
「紗奏……」
紗乱は信じられないといった顔で、短く少女の名を呼んだ。
この少女が紗奏……。紗乱の妹……。
先日の戦艦誤爆事件で、妹の紗奏は死んだのではなかったか。なのに今こうして、『施設』を襲った張本人として私たちの前に――正確には紗乱の前になのだろう――現れたのは、いったいどういうことなのだろうか。
そもそも死んでいなかったのか。
「なん、で……紗奏……」
事態が飲み込めない紗乱は、まだ口をぱくぱくさせている。白波の隣にいた冥奈先輩が、動揺しつつ口火を切る。
「どうして生きているの、紗奏。あなたはこないだの事故で死んだはずじゃ……」
それを聞いた紗奏は、不敵に、素敵に嗤う。三日月みたいに唇をひん曲げて。
「私は『死』んだわ。けれど、それは『戦線』における『死』なのよ」
一歩、紗奏は踏み出す。紗乱はぽかんと彼女の動作を眺めている。
「私が『死』んだのは、病気が治ったからなの」
病気。
治ったのなら、死ぬはずがないのではないか。むしろ、紗奏は今こうして私たちの目の前にいるのだから、きちんと生きている。死んでなどいないのだ。
「病気って、なによ、紗奏」
不安げに、紗乱がようやく口を開いた。紗奏と紗乱は見れば見るほど似ている。一瞬でも目をそらせば、区別などできないみたいに。
「私たちは病気だったのよ。ウォーパラノイア……戦争偏執病とも呼ばれているらしいわ」
淀みなく、けれど淡泊に紗奏は説明を始める。夕食のレシピを暗唱するように、淡々と。
「ウォーパラノイアに罹った人たちは、自分が戦争に巻き込まれたという妄想に取りつかれてしまうの。そして、ありもしない事件や事故をでっち上げて、周りの人に危害を加える恐れがある……。だから、私たちは『施設』に隔離されていたわけ」
ひとつ、息を吸って、
「『戦線』と呼ばれる疑似的な戦争体験をさせる場所を設けて、私たちに本当に戦争しているように思わせたのよ……そうすれば心は平穏を保てるの。戦争なのにね、おかしいよね」
紗乱も、私も、冥奈先輩も、白波も、誰もかれも紗奏の話を聴くだけだ。
これは本当のことなのだろうか。
分からない。
確かめるすべなどないようにも思う。
「思い出して、紗乱。あなたは『施設』に来る前に何をしていたの」
ふと私も過去を思い浮かべる。
『施設』に来る前、私は何をしていたのだろうか。そもそもいつからここにいるのだ。戦争はいつから始まったのか。どうして私たちが『戦線』になど出ているのか。見えない敵とは、いったいどこの国なのだ。
分からない。
判らない。
解らない。
「うそ……」
思わず、声が漏れた。
しかしそれは紗奏の言葉を認めた意味の声だった。
「そこの誰かさんも、紗乱と同じようにウォーパラノイアに取りつかれているだけなの。だからね」
雲が風に流されてきて、満月を隠そうとする。うすら明かりの中で、紗奏はもう一度、嗤ってこう言った。
「だから、助けに来たんだよ……紗乱」
「紗奏……」
ぐったりとうなだれる紗乱。
その様子は少し可哀相な気もしたけれど、無様だなと心の中で揶揄する自分もいた。
「紗乱。帰ろう。一緒にいようよ。ずっと、ずっと。病気だって、私みたいに突然治っちゃうかも知れないんだから……」
音もなく紗奏は私と紗乱のそばに歩み寄る。すっと紗乱の顎に細い指を這わせた。
薄い雲がなくなり、月の光が私たち五人を照らし出した。
帰ろう、紗乱、と短く言って、紗奏は紗乱に接吻をした――。
――かのように見えた。
「嘘よ!」
刹那、小気味良い音と共に、紗奏の身体がよろめいた。紗乱が頬をぶったのだ。
「嘘よ、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘――!」
紗乱が叫ぶ。
「あなたは偽物よ。紗奏じゃない……嘘、嘘なんだ……」
うわごとのように繰り返し、紗乱は黒い一丁の銃を抜いた。
夜の寒さに似た銃は、ぴたりと紗奏の額に向く。
チャンスだと、無意識に思った。いや、本当は意識していたのだとも思う。
この角度なら二人に気がつかれることはない。
腰から銃を抜いた。
なるべく身体を動かさないように、狙いを紗乱に向ける。後頭部。この距離で撃てば即死だ。冥奈先輩の友達。でも、私にとっては、憎い存在。
心の中で短く祈りをささげて、引き金に指を――。
「だめよ、水菊」
冥奈先輩の声に振り返ると、先輩の銃が私に向いている。
「紗乱は殺させないわ」
ああ。きっと、私は先輩に嫌われてしまったのだ。
でも、だったらせめて……。
せめて、この紗奏だけは。
先輩から大切なものを奪った人間として、彼女の記憶にとどまれるなら……。
そう思った時、冥奈先輩の後ろで銃を構える人影が見えた。
「白波……」
がたがた震えながら、先輩に銃を向ける白波の姿がそこにはあった。
その時、初めて彼女の想いが伝わってきたように思えた。
『水菊は、私が守る』
言葉にならない言葉で、私に伝えているみたいだった。
私たち五人は、互いに銃を向け合っていた。
満月がそれを、美しく、そして残酷なまでに確かに照らし出す。
誰も動かない。
誰も動けない。
月だけが、光を発していた。




