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自転車と言う人類の文化(番外編)

作者: kam2style
掲載日:2014/01/06

 「銀輪の巨人ジャイアント」と言う本を読んだ、内容はジャイアントと言う自転車メーカーが如何にして現代の成功を手にしたのかを検証している。筆者は新聞記者だそうで様々な取材を経て事細かに書いているが内容はそれほど興味深くはなかった。なぜかと言うと本来分析すべき自転車と言う乗り物の文化的存在の評価が希薄であるからだ。ジャイアントは自転車文化の上で商業的に成功を収めたのであって、ジャイアントが自転車文化自体を作り上げたのでは無い筈である。中国ではジャイアントの自転車は最も盗まれる自転車だそうだが他のメーカーを知らないからに過ぎない。自転車の文化自体を作り上げたのは西洋の諸国であって東洋では人力車や牛車である事は間違いない。シマノが自転車文化をけん引している様な記述が見受けられるがそれも違っているのでは無いかと思う。確かにデュアルコントロールレバーと言う先見性もあるが本来のスポーツとして自転車が存在しなければ競技用に使用されるような高級なコンポーネントも必要なかった筈なのである。 文化として自転車をどう捉えるかが重要であり、今後の日本での自転車文化の在り方と企業の在り方が問われているのだと私は思っている。


 日本の自転車文化とは・・

 競輪は日本が始めたスポーツである・・が・・現代では人気が無く競馬の衰退より競輪の衰退の方が早く進んでいるらしいのである。ギャンブルのスポーツは何にしても変わらないし賭ける方は勝敗を巡って熱くなるであろう事は想像がつく。しかし、それと普段に私たちが使っている自転車とは根本的に違っているし競輪の自転車は公道を走る事は出来ないのである。そこでロードバイクになるのだけれど、この自転車は競技用に作られる為に非常に高価な乗り物になるのである。その代り、普通の自転車では味わう事が出来ない感覚を味わう事が可能で人馬一体と同じく人車一体感を体感できるのである。そして、これが自転車の醍醐味であって他の乗り物では味わえない物なのである。

 競技用の自転車はミリ単位でその人の体格や筋力に応じた調整が可能になっていて、それが体の一部のように働く為に心地よさが生まれるのである。ママチャリでもある程度はその人の体に合わせる事が可能だが一体感が生まれるぐらいには調整できない。そして、この感覚こそが自転車文化の発端と言って間違いではないのである。つまり、ママチャリには自転車文化を担うだけの性能は出せないのであって、ママチャリだけが走る日本の自転車文化は本来の自転車文化では無いのである。


 自転車の能力は?

 ママチャリの能力もたいした物であるが、自転車は1キロ位の移動距離を主に考える位の乗り物では無いのである。ママチャリと言う日本の文化では普段の1キロ圏内の買い物や通勤を意味しているが、10キロ圏内を自転車の移動距離と考えても十分に自転車の能力に見合った使い方ができるのである。自転車をきちっと整備して自分の体にフィットさせれば5キロ先の店に買い物に行ってもほとんど疲れる事は無い筈である。つまり、整備不良の自転車に乗っているから1キロ先のスーパーで買い物するぐらいにしか使えないと言っても良いであろうと思われる。自転車は常に整備が必要な乗り物でありタイヤの空気圧なんかは常時点検する事が必要でもある。だから面倒で使えないのだよと言われる人もいるだろうが、だから日本では自転車の文化が根づかなかったと言う事もあるのである。機械音痴は自転車には不向きで何時でも点検してくれる人が必要なのである。ブレーキの遊びとか、タイヤの空気圧、亀裂、チェーンのはりとかであって、自転車店でそれを行えば結構な技術料が請求されるからなおさらである。つまり、少々の整備不良があっても使える範囲が1キロ圏内であって1キロ圏内であれば押して歩いてもそれほど疲れないで歩けるのである。つまり、安い自転車が次々に入荷してきてそれを使う事で生まれたのが日本の自転車文化なのである。ある程度、高価な自転車を使っていれば自ずと修理をするだろうし大事に扱うであろうはずが、修理するより安い自転車が次々に入ってこられては文化が芽吹く筈もないのである。

 ヨーロッパの自転車の主流はスポーツ車とママチャリの中間的な自転車だそうです。つまり、もっと長い距離を移動する事を想定して使われていると言う事なんですね。それは自転車の信頼性も必要ですし壊れた時に修理してくれる人が居てくれる安心感も必要でしょう。となると自ずと自転車は信頼性のあるメーカーの物を選ぶようになりタイヤやチューブも良い物を使う様になるのです。すると、自転車屋の仕事が出来たり信頼の置ける自転車メーカーが必要になったりして、その国に労働の場が生まれるのであります。

 日本は中国から大量の自転車を輸入しています、それは何故か?それは中国に多量に輸出しているからでもあるのです。自転車の輸送には10ftのコンテナが使われますが、このコンテナの値段が保険込みで17万円位だそうです。そのコンテナには170台の組み立て済みの自転車が載ります、つまり1台の輸送費が1000円位と言う事になるのです。海運業の人たちは中国にも荷物を運んでいるので

輸送費はこれぐらいですが、逆に一方通行であればコストが貸さんでコンテナの料金を上げる必要が生じますから輸出業者からしても困った事に成る訳です。しかし、日本の自動車産業も中国市場には苦戦をしているようで日本のメーカーを全て合わせてもホルクスワーゲンのシェアしかないらしい話を聞いた事が有るのですが?ちなみに日本のメーカーが中国で生産して輸入しているのでもないらしいので実質的に主導権は無いようなものであります。中国で生産される自転車は何処かのOEMだったかメーカーの代理生産をしている工場らしいですが日本のメーカーが主導した工場は無いらしいのです。そして、中国の自転車工場は独自のブランドとなって輸出を始めたのが日本に輸入されている訳で製造物責任法だったか法律が在りますが殆どが輸入している側に責任があるのだと思います。つまり、自転車はその機構が単純な為に安全基準が曖昧でスピードを追求しない自転車では殆ど無いと言って間違いないのです。逆にスポーツ自転車では最高速度が車並になるので一際丈夫に作られていて安くても10万ぐらいの値段はするのです。スピードを追求しないママチャリでもその半額の5万円ぐらいは安全基準に必要な気がするのですが?5万円の自転車なら5キロ~10キロと移動しても安全性に問題は無い筈ですから。


 どう変われば自転車文化が生まれるのか?

 それは自転車が軽車両であって自動車の仲間である事を確実に認識する事に始まるのだと思うのである。未だに、自転車が車道を走っていると車にクラクションを鳴らされたり、危険な人は幅寄せする人まで居る、車の往来が多くて進行の邪魔をしているのなら話は解るが、殆ど車が通らない道を選んで走っていてもそうなのだから如何に車が社会で有利に保たれているかが伺えるのである。交通量の無い道なら例えリヤカーであったとしても車両であり尊重すべき道具である筈なのに・・日本の国では認められないのです。分別も取り柄も無い芸能人の言葉が社会通念になり、分別をわきまえた大人が片隅に追いやられて日本の国は何処へ向っているのか?・・・全てを否定するのではないが最近ではテレビを見ていると妙にイライラするのである〔だから見ないのだけれど〕。日本の国は仏教の国ですよね・・御釈迦様が言われた天上天下唯我独尊って何なんでしょうか・・大前提が崩れていては仏教も何も無いんじゃないですか?何が自転車に関係があるのか・・・って言われるでしょうが、それが大有りなんです。

 自転車を選択するって反社会的な行動にも繋がるからなのです。自転車の種類はすごく沢山あります。BMX,マウンテンバイク、ピスト、ロードバイク、ママチャリ、電動アシスト、ファットタイヤ、などなど実にバラエティーに富んでいて嗜好性が高い乗り物なのです。つまり、自由を象徴している様な乗り物であって免許も必要なく誰でもが乗れて人力なので燃料も消費せず、一度買ってしまえば一生涯使えてしまう道具だからです。社会と言うのは法律が在って成り立っていますから、法律の規制を殆ど受けない乗り物が蔓延ると国家的にもまずい訳ですね・・それを市民レベルで成し遂げているのが自転車の普及が進んでいる国と言うわけなんです。つまり、逆もまた真であり秩序をもって自転車が大きく利用促進されている所は市民の意識レベルも高いと言う事になるわけですね。これが、日本で起これば殆どルネッサンスでしょう・・・でも日本では在り得ない事なんです。日本の国家システムでは市民が法律を変えようとしても変えられない仕組みが大昔から作られていて一度もそれを壊した人が居ないからです。ひと時でもそれを壊した人物が豊臣秀吉でしたが徳川の時代には修復されて元通りに成ったのです。そして、平安な時代が200年続いたと言うのですが果たしてそうでしょうか?話を元に戻さねば・・・・で日本で自転車に市民権を認めて合理的な運用が出来る様にするには其処に住む人々の合意が必要なんです。道路脇に自転車の通行帯を作っても駐車車両で埋め尽くされたり走行妨害する車がいては自転車は市民権を得られないからです。また、駐輪場以外に放置される様な自転車が氾濫すればこれも市民権が得られない状況の一つとなります。つまり、法律で規制が難しい乗り物に市民権を与える為には市民一人一人の意識レベルが大切であると言うことです。

 

 時代の変化・・

 色々・・ネガティブな話を書いてきましたが、今は昔のような国家権力の時代では無くなって来ている事は間違いないでしょう。インターネットと言う世界が別次元の社会を作り上げようとしているのですから、インターネットの様に小さなコミュニティーを作り上げて大きく育てて行く理想の社会がこれから目指す社会であって大きな国家権力が市民に強要する時代では無くなったと言える訳です。小さなコミュニティーには大きな産業が必要な車、先進医学、大きな電力などが必要でなくなり、逆に小さな産業で成り立つ自転車、商店、通常の医学、などが大きな部分を占める様になるでしょう。これは私たち現代人が滅ぼしてしまったアイヌ民族の社会形態と順ずる所であります。理想的には国家の中にコミュニティーが生まれて国家と共に認め合いながら進んで行くシステムが未来社会のシステムと言う事に成るでしょう。事実、老人介護などの社会福祉分野などでは小さなコミュニティーによる最適化が求められ、国家が作り上げるシステムでは理念の整合性が図れないと言う矛盾を抱えている事が指摘されているのです。戦争のリスクが激減した現代では力の終結より富の分配のほうが優先される時代となったのです。元々、農耕社会の原点は富を戦争に費やす事でした、狩猟採集と言う社会では如何に上手に富を分配するかが社会の関心事項です。アイヌは中央集権国家とも戦いながら自分たちの文化も大切にしてきた人々であり、我々日本人の様に意味も判らず戦争に参加させられて褒美を貰った馬鹿者とは違うのです。殆どの場合、戦士達は君主の思惑など知らされる事も無く戦地に赴いて君主の為に戦うと言う傭兵的な命のあり方を信じているのです。現代社会を生きる私たちもまた企業戦士として君主が何を目指しているかも知らぬままに生きている。正に矛盾だらけの社会に何の疑問も持たずにシステムの一員である事に誇りを持っているのである。この矛盾を正す為にはコミュニティーを小さくして、そこで閉じた社会を形成する以外に方法は無いのである。

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