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第四章 錯綜する想い



ロゼリア、一体何処にいるんだ。

私は……何かお前に嫌な思いをさせてしまったのか?


もう一度、もう一度会いたい。

そして謝ろう……何度でも。

だから頼む、私の隣で笑ってくれ――――ロゼリア




月明かりの射す部屋のベッドに身を沈めたリゼは、そのまま静かに瞼を伏せた。

侯爵家から屋敷に戻ってくるまで、リゼはずっと沈黙を貫いていた。それはリゼが話したくなかったというのは勿論、クライドが何の詮索もしてこなかったからだ。

リゼからすれば有難いが、しかし反面気味が悪くもあった。


(……情報屋なのに、突っ込んでこなかった)


プライバシーだとかそんなもの一切関係なく、情報屋と言うのは他人の情報を隅から隅まで知り尽くし掌握しているものだ。加えてクライドは、『英知の探求こそ情報屋の理念だ』と断言したくらいだ、確実に英知オタクなのだろう。それなのに、彼は得意の話術を巧みに使い聞き出すことをしなかった。それがリゼには不可解で、不気味だった。

単に興味がなかったのか、気を遣われたのか……。

どうでもいいと言えば、どうでもいいのだが。


(ただ、後者だったらって、考えると……)


もし気を遣われたなら、リゼはとても反応に困る。経験がないのだ。優しくされても彼女は何のリアクションも返せない。何をすればいいのか、わからない。とは言え、


(まあ、きっと思い違いだろうけど)


あくまで仮定の話だ。クライドが気を遣っているとは限らないし、もしかしたら探るタイミングを計っているだけかも知れない。結局、リゼには真相はわからなかった。

ごろりと寝返りを打ち、リゼは窓の外に視線を向ける。相変わらず、憎らしいくらい綺麗な夜空には太めの三日月がぽつりと浮かんでいた。リゼはこんなにも調子を乱されているのに、飄々とそこにある。昨日より一層強くなった月光が、こんなに憎らしいと思ったのは初めてだった。ただの八つ当たり、とも言うのだが。


(……眠れない)


今まで昼夜逆転の生活をしていたせいか、昨日ほど疲れていないからか、リゼは眠れずベッドの上で何度も寝返りを打っていた。孤児院にいた頃は本を読んでいたのだが、生憎今のリゼには本の持ち合わせはない。本を読める夜は好きだが、こんなに暇な夜は過ごしたことがなかった。

ため息を吐き、リゼはふかふかのベッドから起き上がる。特に目的もないのだが、部屋に居ても暇だからとリゼは屋敷の探索をするべく部屋を抜け出した。


屋敷の廊下は深々と冷え込み、それなりに肌寒かった。薄い寝間着(ネグリジェ)の足元から夜特有の刺すような冷気が入り込む。手近な羽織でも肩に掛ければよかったと少しだけ後悔しながら、リゼは肩をさすりつつ足を進めた。

灯りを持っていないリゼは壁を伝いながら屋敷の廊下を進んでいた。窓から差し込む月明かりも手伝って、視界は何とか確保されている。さっきまでは憎らしくもあった月光も今は役に立っているのだから、これを皮肉と言わずしてなんと言うのだろう。

そんなことを考えながら、リゼはふと窓の外に突起した場所を見つけた。バルコニーだ。部屋と繋がっているのではなく、廊下から直接繋がっている広いバルコニー。そこに、金髪の青年の姿があった。


(……クライド?)


バルコニーの手摺りに寄りかかり頬杖をついているクライドは、一人でじっと海を見下ろしていた。それはリゼも数回見た、何か抱えていそうな、物憂げな雰囲気のクライドだ。

そして、


(瞳が……蒼い)


夜目が効くことも手伝い、リゼは確実に認識してしまった。

クライドの瞳の、その変化を。


(なんで……瞳の色が変わるの? あれじゃまるで……)


そう思い、けれどリゼは一度言いよどむ。

確かに、あの瞳には惹きつけられる何かを感じる。きっとリゼだけではない、誰もが酔いしれるような、それでいて鋭いなにか。まるで吸い込まれるような、深海のような〝蒼〟。そう、まるで、


(――――人魚、みたい)


おとぎ話の人魚の涙。人を魅了したそれは、きっと人魚が実在するならあんな感じなんだろう。そんなことを思いながら、しかしリゼはゆっくりと踵を返した。無意識の内にクライドの元に来た自分に彼女は自嘲していた。

何もできないくせに、ばかばかしかった。



翌日も、結局リゼは何の収穫も得ることが出来なかった。怪しい部屋も、《人魚の涙》の姿形すらもさっぱりわからずじまいだ。こんな調子で本当に見つかるのか、という懸念すら膨らむ。悶々とそんなことを考えて、そしてふと疑問を抱いた。


(見つかんなかったら、使えなかったらどうなるの?)


自分は所詮都合のいい捨て駒。容姿や生い立ちの点から見ても、クライドに扱いやすいと思われただけの存在だ。そんな存在がいつまで経っても何の情報も得られない使えない存在だったら、どうなる? クライドは……どうする?

見限る、だろうか。

そうなれば、自分はまた一人に逆戻りだ。いや、それ以上にもっとまずい状況になるかもしれない。罪人の汚名を着せられ牢獄の中という可能性もある。だとすれば、リゼは何としても《人魚の涙》を見つける必要があった。


(でも、どうやって……?)


このまま闇雲に捜索しても成果を得る可能性はゼロに近い。現にリゼは二日間屋敷中を探し回って何の収穫も得られなかったのだ。既に自分一人の力ではどうにもならない段階まで来ているのかもしれない。もしくは、初めから一人では無理なのか……。

そもそも、情報屋ですら把握しきれていない代物を素人が見つけ出すのは至難の業だった。始めから無理難題、不可能に近い事を可能にしろと言われている様なものなのだ。


「…………《人魚の涙》なんて、本当にあるの……?」


自分はありもしない物を探しているのではないだろうか? リゼがそんな事を思って呟きを漏らした時、不意に予期せぬ返事が返ってきた。


「あるわよ。姿形は個々で異なるらしいけど、《人魚の涙》は確かに存在するわ」


前方から聞こえた声にリゼは俯いていた顔を上げる。予想通り、そこにはロアが立っておりリゼは驚きに目を見開いた。すると、ロアはみるみる嫌そうな顔をし、


「ちょっと、人を幽霊見るような目つきで見ないでよ。ていうか、《人魚の涙》が何なの? もしかしてアンタも一攫千金狙いとか?」

「え? あ、いえ、違いますけど……あの、《人魚の涙》をご存じなんですか?」


自分が口に出していたことに驚きつつも否定し、リゼは思わぬ情報収集のチャンスにそれとなく食いつく。対するロアは、当てが外れたような顔をしながらも肯定を示した。


「知ってるわよ。《人魚の涙》は、有名なおとぎ話を実話と仮定した上で作られた秘宝の事よ。で、呪いを受けた人魚が、ショックのあまり命の源である魔力を自ら涙にして捨てたってことの証。まあ、平たく言えば自殺ってことね」

「自、殺……」


あまりにも重たい響きにリゼは顔を強張らせる。対して、さらりと語ったロアは依然変わらぬ態度のまま淡々と続けた。


「と言っても、あくまで人間の考えた伝説みたいなもんよ。学者やら何やらが調査してるらしいけど、それが真実かどうかは定かじゃないわ」


……結局のところ、それは《人魚の涙》なんて存在しないって事では?

飄々と語ったロアの説明と最初の肯定に矛盾が生じ、リゼはどういう事だと首を傾げた。今の説明も最初の『ある』と言い切った肯定も、嘘を言っている様には見えなかった。何より、人の変化に敏感なリゼが嘘に気づかないはずがない。

それなのに、一体どういう事だろう?

考えても答えの出ない矛盾に、しかしロアはリゼを一瞥し答えるように呟いた。


「まあ、あくまで人間の解釈。わたし達の真実とは異なるわ」


不可思議な言葉を残すと、ロアは踵を返し歩き出す。これ以上慣れ合うつもりはない、暗にそう語っている背中は、しかし最後に一度だけ振り返り、


 ・・・・

「わたし達は嘘をつかない。……人間と違ってね」


それだけ言うと、ロアは今度こそ振り向かずに去って行った。

残されたリゼは理解できない言葉にわだかまりの様な妙なものを残したまま、それでも一つの答えに辿り着いていた。

――――《人魚の涙》は、存在すると。



ロアの言葉により《人魚の涙》は存在すると判明し、その日のうちにクライドに報告をしたリゼは、しかし彼の反応に言いようのない違和感を覚えていた。

いや、これはむしろ、不安なのかもしれない。


「ふぅん、《人魚の涙》は個々で異なる、か。その子面白い事を言うね」

「……一応、信憑性はあると思う」

「リゼが言うなら間違いないね。引き続き捜索を続けて」


頼んだよ。そう言って馬車の外を眺めるクライドにリゼはしばらく沈黙する。

こんなにスローペースで、しかも微量の情報しか得ていなのに何も咎めようとしない。それどころか罰もない。勿論されたい訳ではないが、しかし脅してまで利用しようとした割には扱い方が生ぬるかった。それが、リゼには不安だった。


(急を要するとか、そういう理由で脅されて利用されたんじゃないなら気まぐれなの? じゃあ、もし情報を手に入れても捨てられる?)


考えれば考えるほど疑心暗鬼に陥って、リゼはどす黒い液体で体を覆われているような錯覚に見舞われた。どうして、うまくいかないのだろう。


(誰かの役に、立てると思ったのに……)


勝手に期待して、勝手に落ち込んで。馬鹿みたいだと自分を蔑んだ。けれど、どんな状況でも彼女は立ち直る方法を知っている。

受け入れること。

何でも受け入れてしまえばいい。それが最大の逃げだとしても、それでも目を背けて必死に生きてきたのだ。

今まで、ずっと。だから、


「……わかった」


小さく、けれどしっかりした声音でリゼは沈黙を破る。俯いて手元に視線を落としていたが、それでもクライドの視線は感じていた。彼は何も言わない。それが何を意味するのかわからないまま、馬車の中は再び静寂に包まれた。



それからの数日、リゼは引き続き《人魚の涙》の捜査を進めていたが、しかし特に何の進展もなく、ただただ時間だけが過ぎていった。時間の経過に伴い、リゼの中の焦りも膨張していく。しかし打開策もないリゼには成す術もなく、ただ日々を過ごす事しかできなかった。それでも、《人魚の涙》以外の収穫は確かにあった。

ただ、それがリゼにとって必要な情報ではないだけで。


(また、だ……)


終業後、窓の外ももう闇に包まれた時間帯。いつもの様に煌びやかな廊下を歩いていたリゼは、これまたいつもの様に一人の男を発見していた。

ブラウンの髪を優雅に撫でつけ、仕立てのいい衣装に身を包んだこの屋敷の主、ランドール・シルフォードだ。彼は無表情ながらも何処か愁いを帯びた雰囲気を放ち、大きな窓からある一点をじっと見つめている。毎日毎日、飽きもせず決まってこの時間に彼はそこに居た。

完全仕事主義、とはよく言ったものだ。彼は月を見て物思いに耽っているのだから。


厳格、冷徹とも言われ無表情な彼は、しかし毎日〝月〟という幻想的な夜空の象徴を眺めている。それは彼が感性豊かであることを表す確かな証拠だった。そして同時に、他人を寄せ付けない孤高な人間が物思いに耽っている時、不用意に声をかけるべきではないとリゼは知っている。

それは単に自分も似たような境遇にいたから、という訳ではない。彼女、アイリーゼが人の感情に敏感で、ランドールの思考を少なからず読み取っているからだ。

言外に語る、焦りと悲しみの混沌を。

だからリゼは無言で通り過ぎる。本当は通らないのが一番だが、目的地の関係でそういう訳にもいかなかった。


「いつも素通りするのだな」


と、リゼがいつもの様に無言で通り過ぎようとすれば、日常に突然の変化が起こった。

足を止め、リゼは月から視線を外さない当主を見つめる。その様子は怒っているのではなく、素朴な疑問を抱いているようだった。


「……挨拶であろうとも、声をかけるべきではないと思いまして」


遜色など一切せず、リゼは素直に答えを述べた。一応使用人として最低限の敬語と姿勢を保ってはいるが、それもなんら意味がない事を彼女は知っている。

何故なら、数日見た限りでは、ランドール・シルフォードは噂通りの人物だったからだ。つまり、彼はこの程度で腹を立てるほど器の小さい人間ではない。だからこそ、リゼは無駄を一切省き簡潔な返答をしたのだ。むしろ、この方が彼の好みかも知れないと思って。


「そうか」


現に、彼の返事は無機質ながらも穏やかだった。

それが彼、ランドール・シルフォードと言う男だった。

遜色や装飾、着飾ることを彼は嫌うのだ。それは見てくれではない。人間の内面として、素が一番と彼は考えている。もちろんマナーなどもわきまえてはいるが、それでも周りの目がない時くらいは素でいいと思っていた。

だからなのか、使用人でありながら遜色しないリゼに、彼は口走っていた。


「……明日」

「?」

「明日、月が満ちる」


言葉にしているという自覚があるのか、ランドールはじっと月を見つめたまま淡々と言葉を紡ぐ。それは何処か儚い響きで、瞳には焦燥の色も窺えた。心が、動揺している。


(――早く。早く、手遅れになる前に見つけなければ。でなければ、ロゼリアは……っ)


瞳を伏せ、ランドールは月から視線を外す。その傍らで、立ち去るタイミングを計っていたリゼは首を傾げた。


(……初めて、視線を外した)


数日間、リゼが知る限り、ランドールはずっと縋るように月を見つめていた。それなのに、今はまるで見たくないとでも言う様に視線を外している。それは奇異な光景だった。


「引き止めてすまなかったな。早く愛する者の所に行くといい。……後悔したくなければ、今を大切にしろ」


身を翻しそれだけ言うと、ランドールは迷わず執務室へと戻って行った。

その背中が闇に消えるまでリゼはただ見送った。誤解を解くことも、意味深な言葉の意味も問い質さずに、ただ彼女は見つめていた。

誰よりも尊厳を誇る孤高の大人が、誰よりも弱い子供のように見えた。

そんな、気がした。

そしてまた、いつもなら別の場所で同じように月を眺めている少女も、廊下の角で壁から背を離し静かに立ち去った。誰にも気づかれないように、静寂を乱さずに。



その日の真夜中もクライドはバルコニーに居た。

じっと海を見下す瞳は今日も〝蒼い〟。深海のような蒼さを誇る瞳には、いつも泣き出しそうな感情の片鱗が混じっていた。彼自身気づいていないくらい、ほんの少しだけ。


(…………泣いてるの?)


そう思うくらいに、クライドは毎日バルコニーで海に思いを馳せていた。まるで恋い焦がれるような、そんな儚さすら纏ってクライドは海を見続ける。

リゼは屋敷に連れて来られて以来、毎日クライドの様子をこっそり窺っていた。今日も、いつも通りに廊下から観察している。無意識の内に足が進み、いつの間にか日課になっていたのだが、何故なのか理由はわからなかった。単に好奇心、なのだろうか。


(何にしても、あたしはクライドが気がかりみたい……)


自分の事なのにまた他人事のようにとらえ、リゼは踵を返す。いつも観察するのは数分だけ、それも見ているだけで行動を起こそうとは微塵も考えていない。なら、何故彼女は見に来るのだろうか? それがわかれば、苦労はしないのだが。


「……毎日精が出るね、ノア」

「……お前には言われたくない」


暗い廊下の先、リゼと対峙するように立ちすくんでいる黒髪に黒と暗緑のオッドアイの少年は、愛想の欠片もない返事をした。主に対する態度とは随分違いがある。それだけ、主以外には全く興味がないようだった。


「僕はあんたを信用していない。主に危害を加えるようなら、一息にその息の根を止める」

「……毎日言うことが物騒だね。けど、あたしはクライドに危害を加えるつもりも、裏切るつもりもないよ。だからそう敵視しないで。まあ、主人を心配してあたしを監視するのは仕方ないにしてもね」


淡々と語るリゼに気づかれていたことを自覚しつつ、ノアは顔をしかめる。


「……ずいぶん口数が多いな。何か裏があるのか?」

「ないよ。ただ、確かにタイプは全然違うけど、ノアは年下だし、孤児院の弟たちとそう変わらない。だから話しやすいだけ。……それだけだよ」


訝しげに眉を顰めるノアを一瞥し、リゼは窓の外に視線を移す。

そう遠くない過去、彼女は孤児院で過ごしていた。そこには当然多くの子供たちがいて、支え合い笑いあいながら生きていた。彼女は、悪魔堕ちのリゼは決してその輪には入れなかったけれど、それでも皆が好きだった。『孤児だから』と蔑む人々も世間には少なくなかったが、孤児たちの笑顔はいつもそんなものを凌駕していた。

自分があの輪に入ることも、あんな風に笑う事ももう叶わないけれど、それでも好きだったのだ。どうしようもなく、あの笑顔が……。


(……解せないな。弟たち? この女は孤立した災厄の存在だ。僕と同じで。ろくに話した事もない弟とそう変わらないから話しやすい? ……何を言っている)


話しやすいも何もないだろうに。吐き捨てるように胸の内で呟き、ノアはリゼに警戒と不審の眼差しを向ける。数時間前とは打って変わって、暗雲立ち込める夜空をリゼは追憶の背景として認識していた。


「明日は雨かな……ノア、どう思う?」

「のんきに世間話をするつもりはない」

「そう、残念」

 

たいして感情も込めずに相槌を打つと、リゼはノアの手元へと視線を向けた。


「そのバケツ、何に使うの?」


話を切り上げるのかと思いきや、さらに問いを投げかけてきたリゼにノアは不機嫌そうに眉を寄せた。諦めにも似たため息を吐く。


「主の部屋の入口、そこが十日前から雨漏りしている」

「ああ、だから明日に備えてってこと?」

「備えあれば憂いなし、だ」


簡潔に述べると、ノアはリゼの横をすり抜け――そして歩みを止めた。

唐突に問いかける。


「…………主を、どう思っている」

「え?」

「諸悪の根元か? 人畜非道か? 自分の容姿を盾に弱みを握り、良いように利用しようと画策している最低男か?」

「……ノア?」

「何であれ、主がお前にとって最低であることに変わりはない」

 

返答も聞かず、ノアは勝手にリゼの心情を決めつけると冷淡に、そしてどこか馬鹿にしたような笑みを浮かべた。暗緑の瞳の中で何かが蠢く。


「僕の調べでは、お前は一日中人間観察しているだけの抜け殻みたいな女だ。使える事と言ったらその観察力だけ。他は何の能力もないし、役にも立たない。それなのに主はお前を利用すると言った。何故だかわかるか?」

 

返事も待たず、ノアはバルコニーを見据えて言い放った。


「――それが主の同情だからだ」

 

一瞬、意味が解らなかった。同情? あたしに? ノアの言っていることは全く理解できない。それなのに、リゼは振り向いたノアの瞳に胸を貫かれた気分になった。


(――なんて、悲しい色を帯びた瞳だろう)

「考えてもみろ、お前をただ利用するだけなら屋敷に迎え入れる必要があるか? 送迎をする必要があるか? そもそも、お前は偶然主に助けられたと?」

 

何も、言えなかった。喉がからからに干あがって、リゼは言葉を発することが出来なかった。ただ、目の前の少年の言葉が頭の中で何度も反芻する。容量なんて無視して、少年は無情にも続けた。


「お前と主の出会いは偶然じゃない。あの事故も救済も、主によって仕組まれたものだ。それはあの日主も言っていただろう?」


ノアの言葉と重なるように、リゼは記憶の中のクライドの言葉を思い出す。彼は出会った日、数日前からリゼを利用しようと画策していたと言っていた。そして、『この世はほんの少しの偶然と必然で成り立っている』とも。


(…………じゃあ、なに)

 

あの事故は誘発されたもので、助けたのは自分のポイント稼ぎだとでも言うのだろうか? いい人だと、借りがあると思わせるためだったとでも言うのだろうか?


(そんなのって………………っ)

 

それ以上は内心ですら言葉にならなかった。けれど、誰もそれ以上の説明はくれない。ノアもそれ以上そのことには触れなかった。無視して、続ける。


「それに、あのままシルフォード侯爵家で住み込みの働きをしていれば、今頃お前の心は折れていた。あそこのメイド長はひどい。どんな嫌がらせがあったか知れない。だからこそ主はお前を屋敷に招き入れた。『可哀そうだから』とな」

 

何故と言う疑念はあった。けれど、色々と都合がいいからだろうと適当に理由をつけて自己解決をしていた。……いや、本当は気づいていたのかもしれない。それだけなの、と。気づいていたのに目を背けたかったのだ。

――――だって、その現実はあまりにも酷で、辻褄が合うから。


「……主は確かに情が移りやすい」


ぽつりと、先ほどより勢いをなくしたノアの声が空間に響く。


「だけど、主の行為は同情にしてはあまりにも…………」

(あたたかい、から)

「……優しい同情だってこの世にはある筈だ。許せとは言わない。享受しろとも言わない。ただ。ただ、主を……」


――……責めないで……っ。


俯き、嗚咽のように紡いだ少年の言葉は、しかしリゼに届くことはなかった。

何も。彼女の耳には何も入っていなかった。ただ現実が受け入れられない。

同情。その響きは何よりも彼女を傷つけ、心を閉鎖させた。気づいた時には、リゼは一目散に廊下を駆けだしていた。何かに追い立てられるように、彼女の足は止まらなかった。

受け入れることが得意なはずの彼女に、初めてほころびが生じていた。



残されたノアははっと我に返った。


(僕は……何を口走った?)


始めは純粋な疑問だった。毎日真意の読み取れない瞳で、主を見ているリゼがわからなかった。だから疑問を投げかけて……そこから、おかしくなった。堰を切ったように感情の波が押し寄せて、リゼに肩入れする主に子供じみた嫉妬をして。そしてあろうことか自分の主人に最低のレッテルを貼ろうとした。けれど、最後の最後に中途半端に道をそれ、結果……素を、出してしまった。

観察力があるくせに、リゼはクライドを理解していない。それがノアには苛立たしかった。それは事実だ。だから最後にあんなことを口走ってしまったのだ。


(あの女に、主が理解できるはずもないのに……っ)


そう思っているくせに、それでもリゼに嫉妬する自分がいる。

リゼを苦しめるために、自分の一番大事な人を汚そうとした自分がいる。

矮小で感情的で、ノアはそんな自分が一番愚かしかった。

そうして、俯くノアを見下ろす夜空は、彼の内情を表すような曇天だった。



翌日。侯爵家で働いてちょうど十日目の朝を迎えたリゼは、肌寒さに腕を擦った。気分が悪い。加えて、何だか今日は妙に寒かった。昨日眠れなかったからそのせいだろうかと、適当に見当をつけてベッドから起き上がる。

分不相応。

利用と同情をされ与えられた部屋は、リゼには不釣り合いすぎるほど綺麗で広かった。始めは少し落ち着かなくもあったが、しかし今とは意味が全く違う。

同情。それからくるこの広さは、リゼにはただ苦しいだけだった。


(……いつものように、受け入れればいいじゃない)


そう思うのに、リゼにはそれが出来なかった。理由はわからない。わからないのに、ただ胸がささくれているのだけは確かに感じていた。荒れ果てて、とても痛い。初めてされた同情が、こんなに痛いだなんて思わなかった。


(……嫌悪されるより痛い。あたしは、同情されたんだ……)


ゆるゆると、リゼは押さえつけるように胸に手をあてがう。今までされたことのない、受けたことのない扱い。それがひどく黒くて、荒れ狂う海に溺れたように感じた。

――可哀そうだなんて、勝手に言われる筋合いはないのに。

そう思うのに、リゼは悲しみを払拭する術を知らない。今まで受け入れてきたせいで、何をすればいいかわからないし、動けなかった。だから彼女は、その身に悲しみを背負って今日も出勤の準備を始める。気がまぎれる事を、密かに期待して。


早朝の馬車に揺られながら、クライドは内心訝しげに眉を顰めていた。

今日のリゼはおかしい。もともと感情の起伏が薄い少女ではあったが、さらに表情が虚ろだ。加えて、いつも完璧なはずの身だしなみも今は崩れている。


(……これはちょっと、重症かな)


昨日、ノアがリゼに何かを吹き込んでいたのをクライドは知っていた。もちろん、毎日リゼが様子を窺っているのにも彼は気づいている。けれど、あの時の彼は他人に構えるほどの余裕がない。だから割って入りもしなかったのだが。

(……今回ばかりは判断ミスだ)

 目の前のリゼの様子に、クライドは多少自責の念を感じる。ノアがリゼを敵視しているのは知っていたが、ここまでになる何かを吹き込むとは思っていなかった。ひとつ、ため息が零れる。


「リゼ」


優しく呼んで、クライドは走行中の馬車の中で立ち上がった。何かを言おうとしたリゼを遮り、覆い被さるように覗き込む。漆黒が見開かれ、すぐに視線を逸らされたがクライドは気に留めずリゼの耳元で囁いた。


「髪、乱れてるよ」


紺のリボンを解き、クライドは灰色――彼は銀灰色だと思っている――の髪に指をうずめる。重力に従って落ちた長い髪を優しくすくと、有無を言わさず纏め始めた。

リゼは無言で俯いている。恥ずかしいのかそれとももっと別の感情か、クライドには判別がつかなかったが、それでも少女の髪は柔らかく美しかった。悪魔堕ちなどと言われる所以がまるで理解できない。それぐらい、クライドはリゼの髪色も黒瞳も好きだった。

この少女のネガティブで真っ直ぐな矛盾が、好きだった。


「はい終了」


髪を纏め終わり、クライドはリゼに終了を告げる。少女は、しかし顔を上げることはなかった。俯いたまま小さく告げる。


「……………………ありがとう」

「どういたいまして」


柔和に微笑み、クライドは再び腰を落ちつけようとして──不意に馬車が止まった。慣性の法則により身体が傾き、クライドは必然的にリゼの両横に手をつける。びっくりして顔を上げたリゼと目があった。

一瞬、時が止まったかのような静寂が訪れる。

交わった瞳は互いにそらされることなく、やがてリゼの頬をなにかが撫でた。それは深海のように冷たく、けれど触り方は酷く優しい。

クライドのしなやかな手が、リゼの頬を慈しむように撫でていた。


「……っ」


声が、出ない。

何故いきなりこんなことをするのか、何故こんなに優しくしてくれるのかわからなかった。

何故、何故、何故。

疑問がリゼの頭を駆け巡り混乱させる。答えは何一つ出てこない。それでも、確かなことが一つだけあった。


(何でそんな…泣きそうなの?)


泣きそうな顔をしているクライド。

それは毎晩海を眺めている彼を彷彿とさせる哀愁を纏っていて、リゼは戸惑いながらも口を開いた。


「クラ──「着きましたよ」!?」


と、リゼの声は仏頂面でドアを開けたノアによって遮られた。もうとっくに目的地についていたのか、彼は半眼でこちらを見ている。そんなノアの視線にハッとしてリゼはクライドの腕から抜け出した。そして急いでリゼが出て行こうとした矢先、


「――アイリーゼ」


クライドは、その名を呼んだ。リゼの漆黒の瞳が僅かに見開かれる。


「今夜は迎えが遅くなる。ちょうど満月だ、月でも見て待っていてくれるかい?」


微笑み、クライドはリゼに問う。笑顔の真意を読み取れないまま、リゼはしばらく見つめ、やがてゆっくりと頷いた。


「……わかった」

「うん、じゃあまた」

 

返事を聞くと同時に、リゼは踵を返し走り出した。いつもはゆっくり小さくなる少女の背中がもうほとんど見えない。クライドは感慨深げに眺め、傍らに控えたノアに問うた。


「君の報告に間違いはないね、ノア」

「はい。以前侯爵と居られた女性はやはり女王陛下の睨んだ通りでした」

「……そう。で、ランドール卿の持っていた手紙。内容にも間違いはないね?」

「はい。覚え書きならここに」


ノアの差し出したメモを受け取り、クライドは静かに目を走らせる。

ここ数日、彼はノアに侯爵を徹底的にマークするよう告げていた。そしてその過程で得た一枚の手紙。侯爵が大事そうにしていたそれをノアが盗み見て暗記したのだ。その内容は――


「『次の満月の夜までに私を見つけてください。私は貴方のそばでお待ちしています。見つけられなければ……それまでです』……か。道理で外を探しても見つからないはずだ」


朗読し、クライドは無駄足だった自身の数日に苦笑を浮かべる。ノアを何とか丸め込んでまで別行動をとったのに、その説得すらも全くの無駄に終わってしまった。とは言え、


「じゃあ彼女は侯爵家の中か。しかも満月は今日……期日ってことだね」

 

ノアの記憶力は確かなもので、したがってこのメモにも間違いはない。だとすればノアとクライドがやるべきことは決まっていた。


「さて、じゃあそろそろリゼに加勢しようか。彼女の為にも《人魚の涙》は必要だからね」

 

不敵に笑い、クライドはエメラルドの瞳で侯爵家を見据える。心なしか、瞳は無邪気な子供のように爛々に輝いていた。


「《人魚の涙》を見つけ彼女を人間にする。そうすれば何の問題もないだろう?」

「……女王陛下の意には沿っていると思います」

「ついでに彼女も見つけよう、その方が効率もいい」

 

懐からノアが入手した『彼女である可能性の高いとある少女』の写真を取り出し、クライドは言い放った。


「青薔薇の妖精『ロゼリア』――庭師のロアをね」



雨雲の立ち込める空を見上げ、リゼは重いため息を吐いていた。

今日も今日とて同じ日々を過ごし、《人魚の涙》は一向に見つからない。変わったことと言ったら、メイド長に屋敷中の窓ふきを言い渡されたくらいだった。嫌がらせだ。

屋敷にいったい何枚の窓があるか知らないが、それにしたって数が多い。早朝から夕方までずっとやっているのに、未だに終わりが見えてこなかった。


「よっと」

 

掛け声とともに大きめのバケツを持ち上げ、リゼはよたよたと水道に向かう。どうも今日の体調は優れないが、それよりリゼは昨日の事がずっと気がかりだった。


(同情……)


ノアに言われたクライドの行動の真実。それはあまりにも酷で、リゼの心を大きく抉り取って行った。今までで一番大きな損傷。それは計り知れない悲しみだった。

窓を拭きながらリゼは考えていた。何故今回に限って受け入れられないのだろうか、と。答えは出てこなかった。けれど、容量を超えていたのは確かだ

った。


(もうあたしの中に受け入れることはできない。逃げられない。なのに……)


リゼは後頭部で綺麗に纏められた髪に触れる。今朝、馬車の中でクライドが纏めたものだ。その時の彼の手つきと、囁きを思い出す。そして


(どうして、あんな……)


頬を慈しむように撫でられたことと泣き出しそうな瞳を思いだし、リゼは胸を貫かれた気分になった。理由はわからない。

ただ、クライドにはあんな顔をしてほしくなかったのだ。偽りでも、リゼに初めて優しくしてくれた人だったから。だから、


(どうして…っ)


受け入れ難い現実に、リゼは固く瞳を閉ざした。


(…もう受け入れられないのに。どうして、どうして優しくするの。どうして慈しむように触れるの……っ)


クライドの同情は受け入れられない。なのに、優しくなんてされたら泣きたくなってしまう。だから今朝、逃げるように走ったのに。走っても走っても悲しみは消えなかった。消えてくれなかった。もどかしくて、どうすればいいのかわからなかった。

そのくせ、まだ律儀に《人魚の涙》を探す自分が、おかしかった。


(……なにをしてるんだろう。いい子ちゃんぶって、馬鹿みたい――)


とそこで、ふとリゼは誰かの声を聞いた。忍ぶようにひそひそと話しているそれは、曲がり角の先で誰かが会話をしているらしい。これでは盗み聞きになってしまう。

リゼは速やかに踵を返そうとして――不意に、聞いた。


「それにしても、クライド・ディオールがまさか貴女の息子とはねェ」

(――え?)


声に笑みを乗せているようなそれは、クライドの名を出して誰かと話をしていた。

盗み聞きなんて質が悪いのはわかっていても、どうしても気になってしまう。リゼはバケツを廊下の隅に置き、角に張り付くように様子を窺った。

気づいていない声の主はなおも続ける。


「正直驚きましたよ。よもやエトワール王国の女王陛下に息子がいたなんてねぇ」

『違うと言っている。アレは歴代女王から代々受け継ぐ厄災の証であり、存在そのものが罪。ただの犯罪者だ』

「ああ、そうでしたっけ? けど貴方も歴代の女王たちも殺さずに彼を城の地下で幽閉し続けた。随分と慈悲深い事ですねぇ?」

(――幽、閉?)

 

それは不穏な響きだった。

リアルを追求した童話や歴史書、大昔にしか行われていないような暗部の単語が、今目の前で、しかも怪しい人影と女王陛下――らしい人物――の間で自然に行われている。

それは恐ろしく、同時にリゼに多大な衝撃を与えた。

事態が呑み込めない頭はついていけず、視界が揺らぐ。それでもなんとか状況を確認しようと躍起になってとらえた視界には、薄暗い廊下に一人分の人影が映っていた。

声は確かに二人分聞こえたが、一人しかいないところを見るとどうやら電話でもしているらしい。が、それらしい機械は見当たらない。おまけに後ろ姿で誰だか判別できないため、リゼは慎重に、しかし少しだけ身を乗り出した。


(クライドが幽閉されてたってどういう事? あの人なに言ってるの? 一体何者……!)

 

その時、リゼを察知したのか廊下にいた人影が振り返った。幸いゆっくりだったのでリゼは完璧に引っ込み気づかれていない。現に振り返った人影、男は何の行動も起こさなかったのだ。使用人服に身を包み、奇抜な髪形をした男は。


(あの人、一週間前の――!)

『……どうした?』


急に静かになった男に女王陛下らしい人物は不審げに声をかけた。

すると男は角から視線を離し、リゼから横を向くような形で窓の外を見やると、


「いえ、別に。それより、あの男も随分と素直ですねぇ。数百年も城の地下に幽閉されておいて、解放された今も逃げずに女王陛下の命を聞いているなんて。一体どんな手を使って手なずけたんです?」

『誰が罪人など手なずけるか。アイツが勝手に人質になりえる存在を傍に置き、己が首を絞めただけだ。私は手を下していない』

「へぇ、なるほど。手じゃなく口で黙らせたと。恐ろしいですねぇ世の女性は」


小馬鹿にしたように笑い、男――一週間前リゼが恐怖を抱いた危険人物――は手の中の球体を軽く浮きあげる。真紅の瞳の前に、聖水を閉じ込めたような球体はふわふわと浮遊した。どうやらあれが電話の正体らしい。リゼは慎重に、けれどじっくりとそれを眺めた。


(本当に女王陛下と? それに人質になりえる存在って、まさかノア……?)


とそこまで考えた時、ふとリゼの頭に何かが干渉した。

記憶と知識。在りし日に読んだ本の一節が瞬時に蘇り、リゼは男の正体を知る。


(真紅の髪の人間は古来より魔力が高い。じゃあ、あの人……!)


魔導師。そう認識した瞬間、リゼは血の気が引くのを感じた。

《人魚の涙》には魔宝石の疑いがかかっている。正しくはわからないが、それでも膨大な魔力を内に秘めているのは確かだった。だとすれば、男の狙いは《人魚の涙》の可能性が高く、侯爵家が血に染まる、そんな最悪の図が出来上がる危険性も高かった。

――のだが、男の言葉はリゼの予想を遥かに超えるものだった。


「それにしても、本当に理解に苦しむなぁ、クライド・ディオールは。あんな厄災の餓鬼、いや、妖精に憑かれた餓鬼なんか傍に置いて。その上憎むべき相手に良いように利用されるリスクまで背負って。何がしたいんでしょうね、ホント」

『……知る必要もない。が、アイツは初代女王と妖精王の間に生まれた異端の子。後に二人は決別し初代国王は処刑。残されたその存在が大きな罪となるのは当然の道理だろう』

「何故なら妖精王は人魚であり、人間と人魚の間にはその昔大きな因縁があったから、でしょう? だからこそ彼は存在そのものが〝罪〟となった。まさに悲劇の王子様。考えることも理解しかねる」

 

男は愚かなものを嘲笑うかのように顔を歪めた。真紅の瞳が鋭く光り、他を威圧する恐怖と悪寒を与える。しかし、今のリゼの目にはそんなものは映らなかった。ただ淡々と語る二人の内容は、理解の範疇を易々と越えていた。

予想外の展開。

クライドとノアの過去が垣間見えて、それが真実かどうか保証もないのに頭が混乱した。


(妖精に憑かれた餓鬼? 初代女王? 妖精王?)


意味の分からない言葉は頭の中で何度も反芻し、さらにリゼを追い詰める。整理しようにも思考は使い物にならなかった。


「初代女王処刑の裏にこんな真実が隠されているなんて、一体誰が思うでしょうねぇ?」

『闇に葬られた歴史だ。探る者などお前のような無粋な輩くらいだろう』

「おや手厳しい。けどいいんですかぁ? 歴代から厄災の証として受け継いでいる罪人でしょう? 建前だとしても、妖精王が怒って戦争にならないとも限りませんよ?」

『構わん。歴代女王は妖精王を恐れたらしいが私は恐れん。使えん物は切り捨てるのみ』

 

そこで、女王陛下の雰囲気が変わった。威厳あふれるのはもちろんだが、それとは別に凍てつくほど冷酷な悪意を感じる。リゼが嫌な予感に身構えた時、それは冷淡に紡がれた。


『命令だ、マスター=ジョーカー』



『半人魚クライド・ディオールを





―――――――――――――――――――殺せ』





時間が止まった気がした。

鈍器で頭を殴られたみたいに視界は真っ白で、意識があるのかすらわからない。

ただ急すぎる展開は、リゼの体を動かなくするには十分だった。


( こ ろ せ ?)


(…………クライドを?)


理解できなかった。彼の過去も、彼の従者の過去も、急展開した現状も。

何も、理解できない。動く事すらできなくなって、リゼはその場に崩れそうになった。


――――その時


「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

 

突然、屋敷中に轟いた悲鳴。

空気を引き裂くような悲痛な叫びは、庭園から屋敷中の窓を震わせた。

恐ろしいほどの声量に威圧され、リゼは瞬時に体の力を取り戻す。


「――っ!」

 

数秒もしない内に、無意識に身体は動き出していた。逃げるきっかけをもらったように動きだした足は庭園に急ぐ。嫌な予感は体を駆け抜け、少女の焦燥を駆り立てた。


(庭園から悲鳴……まさか!)



「始まりますよ、女王陛下」

 

リゼが走り出す音を聞きながら、ジョーカーは聖水の球体に話しかけた。

自身の作り出した通信用の魔術からは何の反応も返ってこない。それでも彼は依然として楽しげな態度を崩さなかった。


「あちらもこちらも期日は今日。煽るにはいいタイミングでしょう?」

『……何をした』

「じれったかったんですよ。だから少しだけ小細工を、ね」

 

語尾を意味深に響かせ、ジョーカーは懐に手を入れる。そこから水の入ったボトルを取り出すとコルクを抜き、何事かを唱えた。


『……アイツの過去をわざとらしく語って聞かせるのも小細工か?』

「そんな最低な男みたいに言わないでくださいよ。女王陛下だってノったでしょう?」

 

せせら笑い、ジョーカーはボトルから出てきた水の球体に手を入れる。僅かな水音が響き、そこから一輪の薔薇が現れた。


「さて、女王陛下」

 

大地から切り離されてなおみずみずしく鮮緑を保つ茎。

命を確かめるかのように細かに伸びた葉脈が浮かぶ葉。

何者も寄せ付けず、孤高の象徴であるかのように鋭利に伸びた棘。

そして――


「悲劇か喜劇か。果たして奇跡は起こるのか。――その目でお確かめください」

 

色香を漂わせる、この世の物とは思えない〝青い〟花びらを、ジョーカーは眼前に晒す。

水から引上げまだ雫の滴るそれは、妖艶に彼の瞳に刻まれていた。

青薔薇。

未だかつて誰も見たことのないその薔薇の花言葉は、人間が夢見がちに付けたもの。


――――――『奇跡』に、他ならない。

 



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