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第三章 侯爵様の大切な人


わたしを見つけて。

私はあなたの近くにいるわ。

だから、お願い。

早く見つけて、ランドール――――……




空というキャンパスにまだ朝焼けが描かれている時間。

早朝の静けさに耳を傾けながら、リゼの足は出勤のために着々と進んでいた。鉄柵で囲われた屋敷の外周を歩き、裏門を目指す。歩き始めたのはほんの数分前。つまり、馬車から降りたのはほんの数分前だった。


「バレたら終わり、そこでゲームオーバーだよ」


早朝。いつもより少しだけ目覚めのいい朝を迎えたリゼは、しかしクライドの一言で現実に引き戻された。馬車に揺られ、出勤途中の時の事だった。


「だからバレない様にうまくやる事、いいね?」

口癖なのか、まるで子供をあやす様に言うとクライドはエメラルドを優美に細める。

柔和。そんな言葉がぴったりの仕草も、しかしこの状況では残酷でしかなかった。


(バレたら、情報屋の存在が明るみに出る)


クライドはそれを懸念し、ただリゼに釘を刺したにすぎなかった。恐らく、リゼ自身の心配はしていないのだろう……とリゼは考えている。クライドの真意を見抜くのは、人間観察が日課だったリゼにもよく分からなかった。謎だった。

けれど、たとえ脆い関係でもリゼには些細なことだ。リスクなんか関係ない。

ただ、ただ純粋に。彼女は利用されることを良しとしていた。初めて誰かの役に立てるのだ。だから、いくら利用されても構わない。自分が歪んでいるという自覚もある。それでも、


「大丈夫、うまくやる」


リゼは自分の意志を確かめるように、深く頷いて見せた。

クライドは一瞬困ったように笑い、けれど、リゼはそれに気づかぬまま。


「…………そう。じゃあ頼んだよ、リゼ」


馬車から降りたリゼは頭で何度も回想を繰り返し、やるべき事を整理していた。


(……情報収集)


自分に課せられた仕事は《人魚の涙》の捜索。しかし、情報がない以上は探しようがない。そのためリゼは、とりあえず一番にやるべき事は侯爵が所有している情報を集める事だと考えた。狙いはランドール侯爵の執務室。つまり――潜入だ。

そう決めたリゼは、裏門から敷地内へと力強く足を踏み入れた。


家政婦とメイドの仕事に大した違いはない。

ただ住み込みか通いかの違いがあるだけである。そのためリゼの仕事も、昨日同様あてつけの様に倉庫の掃除で何ら変わりはなかった。――そう、彼女がサボらない限りは。


(……開かない)


ランドール侯爵の執務室前にて、リゼは約三分間鍵穴と奮闘していた。

侯爵家に出勤後すぐ。倉庫を抜けだして屋敷をうろついていたリゼは、なんとか広い屋敷の中で執務室を発見した。屋敷の隅、倉庫とは正反対の位置にあるここは日当たりもよく、人通りもそれなりにある。そのため人目を盗んで鍵穴と闘う――つまりピッキングをしているリゼは、今の状況に焦りを感じていた。何しろ時間との勝負なのだ、手早く済ませたい。なのに、


(開かないっ)


どうやら本で読んだ通りにはいかないらしい。と言っても、針金を使って開けるという古典的、かつ高度な事を素人がやろうとしているのだから、当然と言えば当然である。しかも本と言うのは小説のワンシーンで、細かな技術が書かれている本ではない。開けられる方がおかしいのだ。そしてようやく諦めたリゼは、やっぱり現実は小説の様にはいかないと改めて実感していた。

肩を落とし、倉庫からくすねた針金を怪しまれない内にポケットにしまおうと突っ込み――そこで、何かにかつんとぶつかった。ん? と首を傾げ、ポケットを探る。すると、


「………………何者なの、ほんとに」


庶民のリゼが持つには、あまりに不釣り合いな鍵が姿を現した。

金で作られたその鍵は先端が細く、反対側の持つ部分には必要性のない宝石が惜しげもなく嵌め込まれている。貴族の価値観と言うものが全く理解できない、無駄な装飾だった。

しかし、それはさておき、何故リゼのポケットにこんな物があるのか。思い当たる節は一つしかなかった。


(……クライド・ディオール)


裏ギルドの一角、情報ギルド『人魚の涙ブルーティアーズ』のギルドマスター。それが彼、クライド・ディオールの正体であり、リゼの脅迫者の裏の顔だ。

彼は件の《人魚の涙》の情報を欲しており、その情報収集にリゼを使っている。普段はどのような経路で情報を集めているのか想像もできないが、今回のケースだけ見ても、ろくな集め方をしていないのだろうと彼女は考えていた。

そのためこの鍵も、いつ手に入れてリゼの服に仕込んだのかは知らないが、恐らく彼が用意した物だろう。ダイアといい鍵といい、貴重な物を簡単に手に入れてくれるものだ。

関心すら覚えながら、リゼはさっそくそれを鍵穴に挿し込んだ。右に半周、ゆっくりと回転させる。がちゃりという開錠の合図が響き、リゼは素早く室内に潜り込んだ。

執務室はリゼの想像より質素だった。

真紅の絨毯にカーテン。来客用か、対になったソファとその間に樫の机が一つ。他には本棚と執務机、その横に古い大きな時計が置かれていた。少なくともクライドの執務室よりは綺麗だが、それにしても屋敷内で一番質素な印象を受ける。自室はもっと質素なのだろうか? と要らぬことを考えながら、とりあえずリゼは執務机に近づいた。

装飾など一切ない引き出しを上から順に遠慮なく引き抜き、中を漁っていく。傍から見れば泥棒の様だが、しかしリゼにそんな気は一切ない。情報源があればくすねるかも知れないが、高価な万年筆には見向きもしなかった。異様、と言えば異様な侵入者だ。

と、粗方引き出しの中を調べ終えたリゼは、何の収穫もない事にがっかりしながら次へと移った。本棚だ。クライドの執務室ほどはないが、それでもリゼからすればなかなかの品揃えである。が、今回は悠長に読んでいる暇はない。なので、


(情報収集第一。読んじゃダメ読んじゃダメ読んじゃダメ……)


と内心で呪文のようい言い聞かせながら、リゼは手近な本を一冊引き抜いた。

指で軽快にページを滑らせ、間に何か挟まっていないかを確認する。一冊二冊と冊数を増やしていくが、しかしこちらにも何もなかった。


(何もなし、か………………ん?)


と、一番左の本まで見終わった時、何もない事に項垂れようとしたリゼは本を戻そうとしていた手を止めた。その視線の先に気になる物があったのだ。


(……写真?)


シンプルな、それでいて高価そうな写真立に収まっている一枚の写真。本たちの陰に隠れるようにして置かれたそれは、大事そうにしているにも拘らず、日の光のあたらない奥へと収納されていた。明らかに何かがおかしい。

好奇心と疑心のままに、リゼは手を伸ばし写真立を取った。

写真には二人の男女が写っていた。

男の方は三十代前半くらいで、ブラウンの髪を優雅に撫でつけ、仕立てのいい衣装に身を包んでいる。この屋敷の当主、ランドール・シルフォードだ。

一方、ランドールの傍らで椅子に腰かけているのは、美しい女性。歳は二十代前半くらいで、艶のある青の長い髪に、ガラス玉のように透明感のある青の瞳をしていた。儚く、しかしそれすらも美しいと感じさせる微笑みを浮かべている。

二人は互いに手を取り合い、何かを確かめ合うようにしっかりと、けれど優しく手を繋いでいる。寄り添った姿はお似合いだった。けれど、


(ランドール侯爵に、女性が……?)


浮いた話など一つも聞かない、完全仕事主義の侯爵だと名高い彼に女性関係があった。

その事実にリゼは驚き、けれどすぐにどうでもいいと思った。リゼが調べるべきは《人魚の涙》について。それ以外の、まして他人のプライベートなど、情報屋でもないリゼには全く関係がなかった。

結局リゼは興味が削がれ、写真立を元通りに戻した。怪しまれないように本も戻し、疲れをとる様に窓枠に寄りかかる。何とはなしに窓の外を眺め――そこで、リゼは瞬時に自身の危機に気が付いた。視界の隅を馬車がかすめたのだ。


(――まずいっ、帰ってきた!?)


ダイアモンドの紋章が描かれた侯爵家専用の馬車。それは数日間遠出していたランドールが帰ってきた証拠であり、もうすぐ彼がここを訪れる予兆でもあった。

一使用人、しかもまだ信用の足りない新人が執務室に侵入していたとバレたら一環の終わりだ。クビどころでは済まないかも知れない。

リゼは心臓が急に加速するのを感じながら、迅速かつ静かにドアに向かった。しかし、


「も、申し訳ありません旦那様。私の管理が甘かったために鍵が紛失するなどと……本来あってはなりませんのに」

「構わん。開けば合鍵だろうが何だろうが同じだ。だが次から気をつけろ」

「は、はい。申し訳ありません……っ」


ドアノブを握るリゼの耳に、恐縮したメイド長の声と低く通った男の声が聞こえてきた。だんだんと近づいてくる足音からも廊下を歩いていると推測できる。そしてその足音がカウントダウンにも聞こえて、リゼは声にならない悲鳴を口から吐き出した。

嫌な汗が頬を伝い、顎から床へと雫が滴る。震える指でドアノブを離し、しかし冷静な体がその指でゆっくりと鍵を閉めさせた。そのまま、また室内へと素早く舞い戻る。

頭はパニックで働かず、体だけが勝手に動き躍起になって隠れる場所を探す。しかし、先も言った通りこの部屋は質素だ。隠れる場所などない。残すは……


(……飛び、降りる……?)


隠れる場所はない。ならばここから消えるしかない。そう結論を出しかけ、しかしリゼは頭を振った。


(――ダメ、窓が開きっぱなしになる。足跡は残したくない……っ!)


飛び降りた後の自分の体は微塵も心配せず、リゼはクライドに降りかかるリスクを懸念した。たとえ直接的にはバレなくても、警戒されればやりにくくなる。

結局、飛び降りるのを諦め、リゼは窓枠に手をついたまま歯噛みした。


(どうするっ、どうするどうするどうするどうするどうするッ、どうする!!)


そうしている間にも足音は刻一刻と近づいてくる。かつかつと無機質なそれはまるで死刑宣告の様で……ついに、部屋の前で足音が止まった。

メイド長が何事かしゃべり、鍵穴に鍵が挿し込まれる音が響く。

完全に血の気が引いたリゼは全く動けず、心臓だけがどくどくと鼓動を刻んだ。

ゆっくりと、妙にスローモーションに鍵が開けられていく。

それをただ瞳に映していれば、不意に彼女の中で声が響いた。


『バレたら終わり、そこでゲームオーバーだよ』


「――ッ!?」


何も考えずリゼは窓枠に足をかけた。飛び降りる。なりふり構ってはいられない。

ほぼ無意識に判断し、リゼは窓を開けようと手を伸ばした――――――――――が、


『やめなさい!』

「ッ!?」


叱咤する小声と共にリゼの体は執務室に戻された。

そして、執務室のドアは開かれた。



ラスティーユ港、客船前にて。

船から降りてくる旅行客やギルドの人間を眺めながら、クライド・ディオールは街灯に寄りかかっていた。疲れているのか、ため息をひとつ吐きゆっくりと瞼を伏せる。長い睫毛に日光が降りそそぎ、白い肌に影が落ちた。

見目麗しい。そんな言葉がぴったりの彼は、否応なしに人の視線を惹きつけている。

と、そんな彼の前に、人目を遮る様に一人の少年が立った。彼の従者、ノアだ。


「……マスター」

「おかえりノア。どうだった?」


瞼を伏せたまま声を発する主に、ノアは船に侵入して得た情報を述べた。


「やはりランドール侯爵は視察と言う名目で各地に赴いていたようです。しかも、以前彼女と行ったところばかりだとか」

「だけど、今は彼女がいない。我々の存在を恐れて消えたのか、あるいは別か…………」


ゆっくりと瞼を開き、伏せがちなエメラルドが姿を現す。

そのまま、クライドは言葉を紡いだ。


「どちらにしろ、ランドール卿と彼女がそういう関係だったのはもう確定だ。なら、後は彼女の意思を訊くのみ。ランドール卿の意思は……」


ふっ、という小さな笑いを零し、クライドは言い放った。


「訊くまでもないね」


瞳を細め、柔和に微笑む。日光に照らされ輝く金髪が相まって、より一層美しいとノアは思った。――もちろん、それがクライドだからこそだ。


「さて、そうと決まれば彼女の捜索だ。行こう、ノア」

「御意」


クライドの言葉に短く返し、ノアはクライドの横を歩く。そして馬車の所まで無言で歩き、ドアを開けた時だった。クライドがぽつりと、独り言の様に呟いたのは。


「リゼは《人魚の涙》を見つけたかな」


無意識なのか、クライドは言いながらじっと海を見つめている。ノアはそんな主の顔を見ずに小さく、ただ小さく言葉を返した。


「…………………………どうでしょうか」


聞き取れないくらい小さな呟きは、けれどクライドに届いたのか、困ったような苦笑が返ってきた。そして、


「……そうだね」


まるで『ごめんね』とでも言う様に、クライドはノアの頭を撫でると馬車に乗り込んだ。

ノアは一瞬動きを止め、やがて熱くなった目頭を隠す様にドアを閉めた。一歩一歩耐えるように歩き、御者台に乗り込む。手綱を握る手は微かに震えていた。


「……貴方は、死なせない……っ」


半ば誓うような震えた呟きは、けれど今度はクライドに届かず消えていく。

ノアは手綱を強く握り直した。震えながらも、決して涙は流さなかった。

そうして、一度歯軋りしたノアは思考をもみ消す様に馬を走らせた。


「へぇ、なんか複雑な感じなんだ?」


走り去る馬車を見つめ、ジョーカーは至極楽しげに独り言を呟いた。

王都から丸一日の移動時間を有し、残り九日で任務を遂行しなければいけない彼は、けれど焦った様子もなく、何処か楽しむように状況を客観していた。

建物の間の路地でも、時間を気にせず馬車が小さくなるまで見つめている。やがて視界から馬車が消えると、彼は真紅のローブに手をかけた。フードを取り、日の下に素顔が晒される。

白い肌に真紅の髪と瞳。

前髪の左半分はピンでバツ印に留められ、左目の下には模様――歪な黒い刺青――が刻まれていた。服装は仕立てのいい貴族の服を着崩したような形で、その上から真紅のローブを羽織っている。それがまた彼の個性を表していた。


「さーてと、俺もそろそろ行こっかなぁ。ついでに、状況もしっかり把握しないとね」


いやらしく笑い、ジョーカーは楽しげに舌を出す。

その舌にはギルドの紋章――暗殺ギルド『道化師の嘘(クラウンアライル)』の紋章が、道化師のような怪しい笑みを浮かべていた。



アイリーゼは状況判断に苦しんでいた。

さっきまでいた広い空間とは異なり、いきなり狭く薄暗い空間に引きずり込まれたからだ。しかも、さっきから何者かに後ろから口を塞がれている。まるで誘拐されたような気分になって暴れようとすれば、しかし後ろからの声が抑制した。


『大人しくして、気づかれる』


凛とした美しい声は女性のそれで、言葉の意味を理解すると同時にドアが開かれメイド長の声が聞こえてきた。


「旦那様の不在中はお部屋に入るなとの事でしたので、少々埃があるかと……」

「構わん。物を取りに来ただけだ。お前はそこで待機していろ」


厳格にそう言うと、部屋に入って来たのか足音が近づいてきた。

一歩、また一歩。着実にリゼ達の所に近づいてくる足音は、心音と呼応しリゼの鼓膜をどくどくこつこつと揺らす。後ろにいる何者かも緊張しているのか、手に少しだけ力が入っていた。


「…………ロゼリア……」


と、足音が止まり何か物音がした後、ぽつりと呟きが聞こえてきた。

儚く苦しげで、懇願するようにも聞こえる呟き。

それはさっきまで厳格だったはずの、ランドールから発せられたものだった。

リゼは光の射している隙間をそっと覗き込み、外の様子を窺う。ランドールはさっきリゼが見ていた写真を手に立ち尽くしていた。声同様、儚さと懇願の混ざった複雑な表情で写真を見ている。


(ロゼリアって、あの女の人?)


ランドールが漏らした呟きから推測し、リゼは情報を収集する。しかしこれはクライドに言う必要もないだろうと、大して深くは考えなかった。

 ランドールは強く写真を握る。


「…………必ず、見つける……っ」


苦々しげに呟き、ランドールはやがてそれをスーツの懐に仕舞った。大事そうに、壊れ物を扱うように。その動作から、大切さは手に取るように伝わった。しかし、


(……見つける?)


何処か思いつめたような様子と、奇妙な決意の呟き。

まるで彼女がいなくなってしまったような、切迫した感じだった。それならランドールの様子も、今回の遠出も全て辻褄が合う。けれどそんな情報も、今のリゼには必要なかった。ただ、苦しげなランドールを見て考えてしまった。

大切な人を失った時の悲しみは、絶望よりも深い闇なのだろうと。


(……馬鹿みたい。あたしには、関係ないのに……)


どうせ自分にはそんな人はいない。今までもこれからも、きっといない。こんな苦しみ味わう事もない。だから関係ないと、リゼは卑屈に考えて沈黙した。

そんなことをしている内に、いつの間にかランドールは執務室を後にしていた。メイド長と二人分の足音が遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなると、とりあえずリゼは目の前の壁のような物を軽く押した。

ぎぎぃという歪な音と共に目の前の壁が開かれていく。やがて完全に開ききると、二人は転がる様に外に出た。二人で居るにはあまりに狭い空間――時計の中からようやく脱出できたのだ。


「ぷはっ、あー危なかったぁ」


リゼを押さえていた何者かの声に、リゼは息を整えながら振り返った。

そこには少女が一人、リゼと同い年くらいの活発そうな子が、外の空気を思いっきり肺に送り込みのびのびと背筋を伸ばしていた。麦色の髪は二つに分けて三つ編みにされており、服装は作業服の様な物で少し土の香りがする。庭師だろうか? そこまで考えてじっと見つめていれば、少女は「さて……」と呟きリゼと視線を合わせた。


――――その瞬間、リゼは身の危険を感じた。


が、回避する暇はなかった。少女が腰のベルトから剪定鋏を取り出し、リゼに切っ先を突きつける方が速かったのだ。喉元の鋭い切っ先がリゼにいやな緊張感を与える。しかし少女は意に介した様子もなく淡々と述べた。


「質問に答えて。あなた、泥棒?」

「…………」

「答えて」


さっきまでとは打って変わり、少女は鋭い雰囲気を放つ。意地でも答えを聞き出すという意思が麦色の瞳にありありと灯っていた。迷いがない、真っ直ぐな瞳だ。

逸らすことも、しかし答える事も出来ずにリゼは逡巡し、やがてぽつりと答えを述べた。


「……泥棒では、ありません」

「そう。じゃあ何者?」


メイドです。そう言っても信じてもらえないのは目に見えていたので少し考え、


「…………お答えできません。ただ、わたしはランドール侯爵に手を出す気も、侯爵家に危害を加えるつもりもありません」


一応、リゼの仕事は情報提供であって、直接的に何かを仕掛けるわけではない。だから嘘は言っていないだろうと、心で言い訳を吐きながらリゼは述べた。

少女は眉を顰める。


「じゃあ何故ここに忍び込んだの? 納得いく説明をしてちょうだい」


問われて、リゼはどう返すべきか判断に迷った。

素直に言う訳にはいかないし、だからと言って簡単に誤魔化せる相手とも思えない。

どう対応すべきか……。少し考え、そしてすぐに結論を出した。


「お言葉ですけど、そっくりそのままお返しします」


まるで喧嘩でも売る様に、強く少女を見据えるとリゼははっきりと言い切った。

実質、この少女もリゼと同じように潜入していたのだろう。だったら、目的は?

情報収集の一環として疑問を抱いたリゼに、しかし少女は無言で瞳を細めた。そして予想外なことに、すぐに何てことない様に答えを述べる。


「ランドール様の追っかけよ。悪い?」

「……え」


あまりにあっさりした爆弾発言にリゼは一瞬呆け、まじまじと少女を見つめる。しかし少女は説明する気もないようで、わざとらしく肩を落として見せた。


「はあ、もういいわ。これ以上聞いても不毛みたいだし」


手にしていた剪定鋏をベルトに戻し、少女は窓枠に手をついた。

鍵を開け、おもむろに窓を開け放つ。まさか……とリゼが勘付いた時には、少女は既に飛び降りる体勢に入っていた。


「ランドール様に危害を加えたら許さないから」


じゃあね。それだけ言うと少女は窓から飛び降りた。慌てて、リゼは窓から外を見る。

意外にも、少女は無事に着地したようで、そのまま振り返らずに走り出していた。ほっと安心し、リゼはしばらく少女を眺める。

活発改めおてんばな少女は、颯爽と庭を駆けて行った。



終業後。結局、執務室潜入や屋敷内の調査で一日中歩き回ったリゼは、しかし有力な情報を手に入れることはできなかった。そう簡単にいくものではないと分かってはいるが、こうもうまくいかないと気が滅入ってしまう。

深いため息を吐き、リゼは応接室に向かっていた。

相変わらず埃ひとつない煌びやかな廊下を歩き、窓の外に視線を移す。昨日より太めの三日月が夜空に浮かび、その下に美しい薔薇園が広がっていた。真紅の薔薇が儚い美しさを纏い、昨日同様リゼの心を虜にする。歩きながら見つめていれば、流れるように真紅の薔薇が瞳に映った。ほうっと、人知れず感嘆のため息を漏らす。すると、


「そんなにいい? わたしの育てた子供たちは」


言いながら、前方から庭師の少女が近づいてきた。午前中、執務室に居た少女だ。


「あ…………」


声を漏らし、リゼは多少警戒を示す。一度は刃物を向けられた身だ、当然の事だろう。が、一方の少女はそれを見てため息を吐き、


「今朝は悪かったわね。安心して、もうあんな物騒なことはしないから」


事も無げにさらりと謝り、少女はじっとリゼを見つめる。返事も聞かずに言葉を繋げた。


「まあ、信用もしてないけど」


つまり、リゼはまだこの少女に警戒されているらしい。少し厄介な事になったと思いながら、しかし一方で、リゼの容姿を全く気にしない少女の存在は嬉しくもあった。

少女の表情は、リゼを見てもあからさまに嫌悪したりしないから。


「あの、追っかけさん」

「ちょっと、妙な名前で呼ばないで。私にはロアって名前があるのよ」


話しかければむっと顔をしかめ、庭師の少女――ロアはリゼの前に仁王立ちする。リゼより多少小さいロアは、下からリゼをじっと見上げていた。


「で、何?」

「さっきの……子供たちってなんですか?」

「ああ、薔薇よ、そこの薔薇達。わたし庭師だから、皆わたしが育てたの」


誇らしげに胸を張り、ロアは窓の外に広がる薔薇を愛おしそうに見下ろした。まるで子供を愛でる親のように、その瞳は優しさを帯びている。そんなロアを横から見つめ、リゼも薔薇に視線を落とした。

一本一本、夜の闇にも負けず美しく咲き誇る薔薇達。愛され、育てられ、期待に応えるように欠けることなく咲いている。その全てに、きっとロアの愛情が注がれているのだろう。そう思うと、不思議なことに、さっきよりももっと薔薇が美しさを纏った。

――――ああ、なんて、


「……綺麗、ですね……」

「でしょ? わたしが丹精込めて」


育てたんだから。その言葉を遮り、リゼは自分でも気づかない内に呟いていた。


「薔薇も愛情も…………きれい」

「――――っ」

 

予想外のリゼの呟きにロアは思わず息を止めた。理解が遅れ、同時に目が見開かれていく。やがて言葉が頭まで届くと、ロアは途端にそっぽを向いた。


「あ、わた、わたし、あなたのこと信用したわけじゃないから! だって怪しいし何企んでるか分からないし、ランドール様に害成すものは信用しないんだから!」


声を上げ、ロアはリゼに背を向ける。そのまま歩き出し、しかしすぐに足を止めた。


「でも、薔薇を褒められるのは嫌いじゃない。…………ありがとう」


それだけ言うと、ロアは廊下を駆けだした。

走りながら、ロアの頭の中にはぐるぐると色んなことが渦巻いていた。


(ああもう! 警戒しなきゃいけない相手なのに、調子狂う!)


一日リゼの観察をしていたロアは、リゼの怪しい行動の数々をしっかりと目撃している。それなのに、たった一言でここまで乱されてしまうのが、悔しくもあり嬉しかった。

薔薇は何よりもロアの大切なものだ。ランドールと、同じくらい。


(満月も近いのに、次から次へと問題ばっかり!)


心の中で叫びロアは足を止めた。窓から見上げた夜空には、ロアを嘲笑うかのように太めの三日月が見下ろしている。あと八日もすれば月は満ちるだろう。


(――お願い、早く私を見つけて…………ランドール!!)


少女の懇願は、しかしただ焦燥を掻き立てるだけだった。


ロアが立ち去った後、リゼは再び応接室へと足を進めていた。

信用していないと言い放ち去って行った少女が頭をかすめる。けれど、それが妥当な判断だとリゼ自身も思った。それに、


(お礼、言われた……)


誰かにお礼を言われるのは初めてで、リゼは少しだけ心が浮いたような感覚に浸っていた。それは雲の上にいるような、ふわふわした感覚。初めて味わう妙な居心地だった。だからリゼは、少しだけ戸惑っていた。

それが、自分が求めていた喜びだとは知らずに。


(何だろう……ふわふわしてる。変だな……)


珍しく、リゼの表情がほんの少し緩み感情が表に現れている。本人は気づいていないが、それでも年相応の少女らしかった――その時。

 どんっと言う濁音が響き、リゼの体が後ろに傾いた。角を曲がってすぐ、誰かにぶつかったらしい。そのまま、リゼの体は後ろに倒れ――途中で止まった。

ぶつかった誰かに体を支えられたようだ。


「おっと、ごめんね。大丈夫?」


背中に回された腕と間近で聞こえる優しげな声。男の人だと顔を上げれば、リゼの視界には真っ先に真紅が飛び込んできた。真紅の髪に真紅の瞳。

奇抜な髪形の青年は使用人の服に身を包み、歪な模様が刻まれた顔には優しげな笑みを浮かべていた。リゼはしばらく顔立ちの整った青年を見つめ、やがて思い出したように青年の腕から抜け出す。


「……大丈夫、です。すみませんでした」

「そう。大丈夫そうならよかった」


リゼを開放し、青年は人のよさそうな雰囲気を放つ。実際、表情は優雅に笑っていて好青年らしい風体だった。しかし、


(なん、だろう? この感じ……?)


リゼは彼に言いようのない違和感を覚えていた。常日頃の人間観察の賜物か、リゼは人の表情に敏感だ。だからこそ彼女は気が付いてしまった。青年の、その表情の裏側に。


(――っ! 目が、笑ってない……ッ!)


目の前の青年は確かに笑っている。けれど、瞳はひどく冷たく凍てつくような怜悧さを湛えていて。途端に、リゼはそれが作られたものだと認識した。クライドの時より格段に巧妙で、酷薄な笑み。それはリゼに計り知れない恐怖を与えた。


――――人は、こんなにも冷たく笑える。


ぞわり。認識し、リゼの恐怖は掻き立てられる。本能的に、逃れるように口を開いた。


「ぁ……っ、あの、ありがとうございました。わたし、失礼します!」


震える声を紡ぎだしリゼは男に背を向ける。すぐに全力疾走でその場を離れた。

こんなに何かを怖いと思ったのは、初めてだった。あと数秒行動が遅れていたらもう声すら出せなかっただろう。それくらい男の表情は酷く冷め、瞳には一点の光も存在しなかった。

あれは、ヤバい。


(人じゃないっ。あれは飢えた獣の目。…ううん、違う。もっと、もっと適切な何かが――)


そこまで考え、リゼははっと昔のことを思い出す。

いつだっだか、孤児院で虐殺未遂が起こったことがあった。孤児院から引き取った子供が犯罪に手を染め家族を崩壊させたと、その男は狂ったように刃物を振り回していた。その時は傭兵ギルドの人間が近くにいたためすぐに取り押さえられ、幸い孤児院の人間に死者は出なかった。それでも取り押さえられてなお暴れる男の闇に染まった目を、リゼは今でも忘れることができなかった。

殺意の滲んだ、血走った闇色の瞳。

そう、それはまるで人を殺すことになんの厭いもないような、狂気じみた瞳だった。そしてそれは――


(――――あの人も、同じ目をしていた)


今の男も、同じ目だった。

人を殺すことになんの厭いも迷いもないような――いや、それよりもっと研ぎ澄まされて超越された瞳だっだ。

まるで殺意も悪意も隠すことに慣れているような、そんな


(暗殺者、みたいな……ッ!?)


――ありえない。

恐怖心を過度に膨らませて浮かんできた安易な考えに、リゼは軽率すぎると首を振る。

それでもありえないとはわかっていても恐怖は収まらなくて、リゼはクライドのもとへと一心不乱に足を進めた。




「ふぅん。女王陛下の情報通り、観察力があるっていうか鋭いっていうか…」


リゼが走り去った廊下を見つめ、青年──ジョーカーは無表情につぶやきを漏らしていた。敏いとは聞いていたがまさかここまでとは思いもしなかったのだ。

けれどいくらリゼが自分の正体に気付いたところで、ジョーカーはなんの焦りも後悔も感じない。彼女がどんな人間かは女王陛下からの情報で大方わかっている。だから断言できるのだ。

きっと彼女は報告しないだろう、と。


(自分の言葉、まして今回みたいな世迷言など誰も信じはしないだろう。

――なんて、あの子は考えているんだろうねェ)


リゼの性格から考えを分析し、ジョーカーは内心でほくそ笑む。

馬鹿な女だ。

そう罵り、けれどその観察力に敬意を讃えて彼はうそぶくようにつぶやいた。


「―――厄介だなァ」


言葉とは裏腹に愉快そうに唇を歪め、ジョーカーは凄惨な笑みを浮かべる。そしてそのまま屋敷の奥へと姿を消した。まるで神隠しのように、彼の姿はもう屋敷のどこにも存在しなかった。



空気を引き裂くような、けたたましい音と共に開かれた応接室のドアに、クライドとノアは視線を向けた。クライドは足を組んだまま、ノアは主を庇うように入口を窺っている。

そこから、二人の見知った顔が現れた。


「リゼ? どうしたんだい、そんなに慌てて」


走って来たのか、肩で息をしているリゼは、俯いたままドアに寄りかかりクライドの問いにもひたすら沈黙を貫く。自分はそんなに彼女を急かしただろうか? とクライドが首を傾げた時、リゼの体が小刻みに震えている事に気が付いた。


「……リゼ?」

 

ただ事じゃないと認識し、クライドはリゼに歩み寄る。

ノアも遠目から怪訝そうにリゼを見つめていた。


「何かあったのかい?」


肩に手を置き、クライドは覗き込むようにリゼを窺い見る。

するとリゼは拒絶するようにびくりと肩を揺らし、次いでゆっくりと顔を上げた。その表情には恐怖が渦巻き、漆黒の瞳は焦点を失ったように揺らいでいる。……おかしい。

クライドは内心で怪訝に思いリゼを見つめる。リゼはしばらく気が動転したように視線をさ迷わせ、やがて覚醒したように目を見開いた。


「あ…………」


声を漏らし、リゼはクライドを見つめる。肩に置かれた手を認識し、リゼは震える口を僅かに開いた。しかし、その口から言葉は紡がれない。俯き、翳った表情からは戸惑いと嫌悪感が滲んでいた。


(この子は、また…)


自分を卑下しているのか。

そう内心でつぶやくが、クライドはそうとわかっていながらリゼに言葉を促そうとはしなかった。自分から言ってこなければ意味がないのだ。

特にリゼのように、自分自身を嫌悪している人間は……


「っ、ごめん、さない。なんでも……ない」


結局、悟られないように顔を俯けたままのリゼははぐらかすように弱々しくつぶやいた。

何かあったのは明白だが、しかし彼女は語らない。だからなのか、クライドも余計な詮索はせずただ黙ってリゼを見下ろした。

手を離し、努めて明るい声をだす。


「……そう、何もないならいいよ。それより帰ろうか、迎えに来たんだ」


いつも通り柔和に微笑み、クライドはリゼを促す。リゼは訊かれないことに安堵しながらこくりと頷き、そのままノアが開けたドアから退室した。

ほどなくして、三人は侯爵家を後にした。


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