表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

第一章 罠にかかった悪魔堕ち


初めてだった。

あんな風に、あたしを見る人は…



ラスティーユ港、一隻の船。甲板。


「……さん、お客さん! いい加減起きなって。着いたよ!」


微睡の中誰かに肩を揺さぶられ、アイリーゼ——リゼは重たい瞼を僅かに開いた。ぼんやりと、視界には自身の灰色の髪が映る。人によっては銀灰色だと言う長めの前髪だ。

ぼーっと、数秒眺める。次第に覚醒してくると、リゼはゆっくりとテーブルに突っ伏していた体を起こした。


「あ、やっと起きた! ほら、もう着いたから下りてよお客さん。アンタが最後なんだからね!」


呆れ半分安堵半分にそう言い放ち、乗務員はリゼから離れていく。無言で見送った後周りを見回せば、甲板に残っているのは確かにリゼだけだった。


(ああ、着いたんだ)


ようやく理解すると、リゼは気だるそうに椅子から立ち上がった。午前中の弱々しい日差しがローブ越しにリゼの白い肌に降り注ぐ。見上げた空は昨夜の雨が嘘のように、えらく快晴だった。

旅立ち日和、なのだろうか。

考えて自嘲する。そんなはずないか、そう思った。


「早く下りてよ!」


と、先ほどの乗務員が戻ってきたのかリゼを急かす。

リゼは、けれどのんびりした動作で傍らに置かれていたトランクを手に取った。古ぼけた薄汚いトランク。ドレスが四着入るか入らないか、その程度の大きさだった。それがリゼの唯一の所持品だ。


「…すみませんでした。ありがとう、ございました」


リゼはおっとりと、けれど凛とした声で言葉を紡ぐと頭を下げた。そしてまたゆっくりとした足取りで船から降りて行った。


「はあ、全く困ったお客さんだ」


遠くなったリゼの背中を見つめ、乗務員は愚痴をこぼす。

焦げ茶の背中。

深く被ったフードと、全身をすっぽり覆う体に不釣り合いなローブ。声を聞かなければ、女の子だとも気づかなかった。


「……にしても、つくづく変わり者を引き寄せるな。この街は」


呆れたように呟き、乗務員は眼前の街を見やった。レンガ造りの建物がおのおの個性的に彩られ、全くと言っていいほど統一感のない、その街。


——ギルド連合都市、ラスティーユを。




(……眠い、な)


船から降りたリゼは、酔っぱらいのような千鳥足で目的地に向かっていた。

ほぼ毎日。眠れないのではなく眠らない夜を過ごしていれば、リゼの体はすっかり昼夜逆転に慣れてしまった。結果、毎日のように寝不足で瞼が重たい。いつもは木に登ってそろそろ眠る時間だが……これからはそうはいかない。これから彼女は、成人として働くのだから。



知らせが来たのはつい先日だった。


「奉公に出なさい」


唐突に、院長はリゼに告げた。

院長室に呼び出されてすぐ、言われた言葉にリゼは内心驚いた。しかし、その様子が表に出ることはなかった。彼女は大抵、無表情な子だった。


「どこに、ですか?」


平坦に、拒否することなくリゼは問うた。


「ラスティーユのシルフォード侯爵家です」


無表情で院長は答えた。


「当主のランドール・シルフォードが使用人を探していると聞いたので、駄目もとでお前を申請しました。運と言うのは、お前にもあったようですよ」


皮肉めいたように薄く笑い、院長は冷淡にリゼを見下ろす。リゼはじっと、無表情のまま漆黒の瞳で見つめ返した。それは人形のように無垢で冷たく、何の感慨もない瞳で。


「……っ。と、とにかく。お前の採用は決まりました。明日、出ていきなさい」


息を詰めると、院長は視線を逸らし、背を向けて冷たく言い放った。

——凍てつくような黒い瞳。

いつだったか、そう言ったのは院長だった。院長はリゼの黒い瞳が嫌いだった。

けれども、それでも。

一向に振り向かない背中を見つめ、リゼは深く頭を下げた。


「……ありがとうございました。お世話になりました」


返事も聞かずリゼは院長室を後にした。



厄介払いなのだと気づいていた。十六年間、孤児院で育てられたアイリーゼは自分の立ち位置をよく理解していた。

白く細い手足に灰色の長いくせ毛。大きな、闇にすら同化しそうな漆黒の瞳。

——他と相容れない、異質な存在。

それこそがリゼの立ち位置であり、不吉な容姿だった。

普通、エトワール王国に生まれる子供は赤や青、金や琥珀などの美しい色を持って生まれてくる。そこに黒はない。しかし、リゼは黒を持ち、異質な容姿で生まれ落ちた。

——悪魔堕ち。

暗い色素のリゼの容姿はそう呼ばれた。悪魔の成り損ないなのだ、と。

だから、なのだろうか。

リゼは生まれて間もない頃に孤児院の前に捨てられた。親にすら見放されたリゼは孤児院でも一人だった。誰もリゼに近づこうとはしなかった。そしていつしか、リゼ自身も自ら一人を好み、静かな、人のいない場所を好むようになった。けれど、決して悲観している訳ではなかった。

ただ、自分は人とは違うから仕方がない。そう受け入れていた。だから今朝、見送る者が誰一人としていなくてもリゼは平気だった。

『そういうものなんだ』と、受け入れる事を覚えていたから。


「……いってきます」


出発前、何となく言ってみた。返事はなかった。

それでも、彼女は決して孤児院が嫌いではなかった。嫌いには……なれなかった。



時は戻り、午前九時。ラスティーユ。

船を降りたリゼは、未だ覚束ない足取りでシルフォード侯爵家に向かっていた。渡された地図ではラスティーユの東、貴族街に位置している。右も左もわからない土地で方向を確かめながらリゼは歩みを進めた。

歩きながら、リゼは初めての街を無表情ながら興味深く観察していた。

これといって統一された所のない、まさに個性の塊のような街。

デザイン、色、大きさに至るまで、異なる建物がいくつも建ち並び、けれどもそれらは同じ一つの連合に所属していた。

それがこの街の特徴、ギルド連合だ。

ギルド連合とは文字通りギルドの組合であり、ラスティーユにはギルドがいくつも存在していた。

そのためラスティーユは別名『ギルド連合都市』と呼ばれている。

それはエトワール王国でも絶大な知名度を誇っていた。

勿論孤児のリゼでも知っている。

もともと本が好きで博学な彼女だが、それを差し引いても知名度はかなりのものだった。


海沿いの市場を歩くリゼの目にもいくつものギルドが確認できる。

大きさこそ異なるがそれぞれのギルドが建物にでかでかと紋章を掲げていた。恐らく、その存在を誇示しているのだろう。

リゼは、けれど何の感慨も持たずに無表情でそれらを眺めた。冷めているのではなく単に興味がなかったのだ。

結局、すぐに意識は削がれリゼは先を急いだ。昨夜の雨でできた水溜りも、気にせず踏み込み市場を抜けた。と


「あ…………」


滅多に変わらないリゼの表情が少しだけ崩れた。突風が焦げ茶のローブを振らし、同時にリゼの地図を奪っていったのだ。

あれがなくては奉公先に行けない。リゼは人混みに割り込み、無我夢中で地図を追った。

幸いにも、地図は数メートル先の水溜りに落ちそこから動かない。追いついたリゼは安堵しながら、地図を拾おうと腰をかがめた。——それは、道路の真ん中だった。

リゼは気づかず地図を手に取る。多少濡れてしまったが見る分には問題ない。それが分かると再び安堵した。


その時。


「嬢ちゃん、危ないぞ!」


道路の脇から老人に声をかけられた。そこでようやく、リゼは自分の状況に気が付く。早く退いた方が良さそうだ。そう思い踵を返そうとした——瞬間。


『 ダ メ だ よ 』


雑音にも似たノイズが、リゼの鼓膜を揺らした。

足元の水溜りが小さく跳ねる。


(え?)


……なに?

そう思考する前に事は起こった。


「危ない!?」


悲痛な声が辺りに響く。と同時に、タイヤが地面を擦る音が空気を裂いて。

リゼの眼前には一台の車が迫っていた。彼女の足は止まっていたのだ。

誰もが助からないと思った。勿論、彼女自身も。終わったと思った———が。

衝突の瞬間、リゼの眼下で何かが光を放った。淡く、優しいその光に誘われるようにリゼは目を見開く。

それは一瞬だった。


「……っ!」


数メートル先で、ついさっき自分を轢こうとしていた車が横切ったのだ。悲鳴やブレーキ音、騒然とした雰囲気が空気に乗って伝わってくる。しかし彼女は轢かれてはいなかった。薄暗い、建物の間の路地にいたのだ。

——まるで瞬間移動のように。


「っ、え…………」


困惑し声が漏れる。心臓がどくどくと高鳴なり、じっとりとした汗が頬を伝った。そして、


「——大丈夫かい?」


何分にも何時間にも思える感覚の中で、不意に声が聞こえた。落ち着きはらった、リゼの心境とは真逆の声。

それは、リゼの真後ろから発せられた———男のものだった。


「………………」


数秒、沈黙する。やがて落ち着きを取り戻すと、リゼはゆっくりと首を上向けた。

白い肌を辿り、瞳を探す。かち合った視線の先には上質な、貴石のような瞳があった。

男はしばらくリゼの無垢な視線を受ける。やがて柔らかな笑みを浮かべた。


「君は……変わった子だね」


後ろからリゼを抱えたまま男は唐突に呟いた。

深みのある翡翠色(エメラルドグリーン)の瞳には、上向いたせいで垣間見えたリゼの容姿がしっかりと映っている。

銀灰色の髪に漆黒の瞳。

悪魔堕ちと恐れられ疎まれるそれはどんな者にも拒絶されてきた。黒があるだけで、それは罪深いことだからだ。だからこそ、隠していた容姿を見られた事にリゼは知らず身を強張らせた。が、それは杞憂に終わった。


(…え? な…に……?)


予想外の反応だった。男の表情は、今までリゼが見てきたものとはどこか違っていた。

それは哀れむようにも、受け入れているようにも見える。全く意味が解らなかった。

リゼは真意を探る様にじっと男を見つめた。男は、しかしはぐらかす様に微笑して、


「この地図、大事なものだったのかい?」


いつの間に手にしたのか、男はリゼの眼前で羊皮紙の地図をひらひらと煽って見せた。

数秒の後、反射的に手を伸ばす。しかし掴む前に上に上げられ、リゼの手は空を切った。


「でもね、いくら大事でも周りは見るべきだ。それに道路に棒立ちなんて自殺行為だ。次からはダメだよ。いいね?」


子供をあやすように言い聞かせ、男はリゼの腰に回していた腕を解いた。解放され、リゼはゆっくりと向き直る。

正面で対峙すると、男は柔和な笑みを浮かべた。


「私の言葉、わかるかい?」


ゆっくりと、あやすように男は問うた。リゼは無言で、けれどもきちんと頷いた。


「うん、いい子だ」


柔らかく口端を上げ、男はリゼの頭を撫でる。拒む理由もなかったリゼは静かにそれを受け入れた。

完全に子ども扱いだと、彼女は理解していた。けれど、誰かに頭を撫でられたのは、こうして接するのは初めてで。

何だか、ひどく心地よかった。


「さて、と。怪我はないみたいだね」


ひとしきり撫で終わり、男はリゼから手を離した。無意識に、リゼの視線は細くしなやかな指を追う。そのまま、視線は男を捉えた。

艶やかな金髪に、全てを見透かすようなエメラルドの瞳。

白い肌は男の細い体躯を覆い、長い髪は、後ろで三つ編みにして束ねられていた。

貴族を思わせる品のいい装いも、けれどその容姿の前ではただの飾りにすぎなかった。

———ぞくりとするほど、美しい。

魅せられれば、見透かすようなエメラルドが優美に細められた。


「これは返すよ。君の物だろう?」


男に地図を差し出され、リゼは思い出したように「あ……」と声を漏らす。そろりと受け取れば、男は悪戯っぽく笑みを浮かべた。


「じゃあ私は行くよ。君も気を付けてね」


軽くリゼの頭に手を置くと、男は踵を返して歩き出した。ぴちゃぴちゃと水溜りが跳ねる音だけが辺りに響く。

数秒見送った後、リゼも踵を返した。近くに落ちていたトランクを手に取り、フードを被り直す。歩き出そうと一歩を踏み出し、けれど思い直したように振り返った。


「あの…………」


——名前は?

そう続けようとした言葉は、しかし口から出ることはなかった。男はいなかった。ただ閑散と、木箱だけがそこに在る。

リゼは夢でも見たような気分になった。けれど、確かに。頭を撫でられた感覚は彼女の中に残っていて。


(……夢じゃない。だってちゃんと温もりが残ってる)


フードごしに頭をおさえ、リゼは落ち着かない感情を胸の内に感じた。けれどそれは決して不快なものではない。


(…不思議な人だったな)


珍しいものにでもあったような感覚を覚え、その場を後にする。

残された大きな水溜りだけが、じっと、全てを見つめていた。





シルフォード侯爵家は貴族の中でも一目置かれた名家だった。

歴史ある貴族であることは勿論、一代一代が着々と業績を伸ばし、王国内にその名を馳せていったからである。

中でも現当主のランドール・シルフォードは、若くして〝別格〟と言われる存在であった。それほどまでに彼にはカリスマ性があり、同時にビジネスセンスが備わっていたのだ。

ただ、そんな完璧と思われる彼も、自身の屋敷には無頓着だった――――



「貴方にはここの掃除をお願いします。埃ひとつ残さないように。いいですね?」

「…………はい」


平然を装い、リゼは返事をした。目の前に広がる巣窟は一体なんなのだろうか? そう思いながら。


シルフォード侯爵家の一室。巣窟の前にて。

約三十分前に到着したリゼは、支給された紺のメイド服に身を包み、後ろで髪をまとめると簡単な説明の後にここに連れて来られていた。

屋敷の奥、人の寄り付かないような暗い部屋がリゼに割り当てられた掃除分担だった。何年も使われていないのか、古ぼけたかび臭い臭いすらする。そんな掃除もされていなかった部屋をメイド長はリゼに押し付けたのだ。

誰が見ても、今さら掃除をする必要性は感じられない。しかしリゼは反論しなかった。無駄だと知っているからだ。


「では頼みましたよ」


吐き捨てるように言い、年老いたメイド長は足早に離れていった。

踵を返す直前、確実に彼女はリゼの容姿を確かめ、あからさまに「何で旦那様はこんな娘を採用したんだ」と、顔を歪めていた。

——つまりは、そういう事だった。

悪魔堕ちのこの容姿を受け入れる者などいないのだ。だから一人こんな場所に分担された。

それでも、リゼは別段気にしなかった。慣れと、一人の気軽さだった。


「…………よしっ」


小さく気合いを入れリゼは腕を捲った。立っていても仕方がない。さっそく巣窟の掃除は始まった。



数時間後。

いつの間にか掃除に没頭していたリゼは、ふと時計に目をやった。午後四時。

窓一つないこの部屋で時間の感覚を失っていたリゼは、もうそんな時間なのかと息を吐いた。

没頭してやった甲斐あって、巣窟——もとい倉庫は、見違えるほど綺麗になっていた。やったリゼとしても気持ちがいい。しかし、あれだけ汚れていたのだから恐らく使われることはないのだろう。そうはわかっていても、リゼはやりだしたら凝ってしまう質で、自分の性格に少しだけ疲れを感じた。


(…でも掃除は嫌いじゃないし、いいよね、頑張ったって……)


自分で自分を励まし、ぐっと立ち上がる。見渡した倉庫内は、庶民のリゼからすれば煌びやかなお宝の山だった。

高そうな絵画や石像、アンティークな家具まで、ありとあらゆるお宝がびっしりと並んでいる。多少埃を被ってはいるが、それでも十分価値はありそうだった。海賊や賞金稼ぎなら間違いなく目の保養だろう。けれど、


(…本、本本本だらけ!)


リゼの興味はそれとは別の、もっと価値の低いものに向いていた。

倉庫の側面、お宝たちの横にひっそりと佇む大きな本棚だ。上から下まで、ぎっしりと本が詰まっている。それだけでリゼにとっては宝よりも価値があった。自然と手が伸びる。

欲の少ない少女が唯一人間らしさを示すのは、他でもない、本という紙の束だった。

ぺらぺらと軽快にページをめくる。その顔には柔らかな笑顔が浮かんでいた。大抵無表情な少女の、数少ない表情の変化だ。


(おもしろい。やっぱり本はおもしろい……!)


心が弾み、リゼは年相応に無邪気に本を読み続ける。

ランプの点いた薄暗い部屋でも、何の支障も感じずに読書に没頭した。と、


「……? 人魚の涙……?」


数冊読んだところで、ある一冊の本に何故だか目を奪われた。

何の変哲もない、一冊の児童文学。

表紙を開けばあらすじが載っていた。どうやら、歴史に名だたる『人魚』をテーマに、その生きざまを書いた物らしい。リゼはすぐに興味を示した。

もともと本が好きで博学なリゼだが、孤児院には人魚にまつわる本は少なかった。しかも容姿のせいでリゼはほとんど外に出してもらえず、また、自分から外に行こうとも思わなかったため、買いに行く手段もなかった。

それが今、求めていた物が目の前にあり、リゼはたまらず漆黒の瞳を爛々と輝かせた。嬉しくて仕方がなかった。さっそく、リゼはページをめくった。


「数百年前、この世界にはあらゆる種族が存在していました……」


物語は短く、簡潔だった。それはリゼの口からゆっくりと語られていく。



エルフや妖精、人間が生きる世界で、人魚は一際美しい種族でした。

長い髪に白い肌。

人間にはない美しさでした。

けれど、人魚はとても悪い生き物でした。

美しさで人間を魅了し、その瞳で、人間を海へと誘って食べたのです。

美しく儚く、そして罪深い種族でした。

人魚の瞳には、人間を惑わす力がありました。

あるいは、魔力だったのかもしれません。

人間は、人魚に騙されました。

何人もの人間が食べられ、次第にその悲しみは憎しみに変わりました。


そして、人間は魔力によって人魚に呪いをかけました。


  【水生の呪い】


後にそう呼ばれた呪いは、「海が人魚を拒む」という残酷なものでした。

住む世界を奪われた人魚は泣きました。枯れるほど、泣きました。

その涙は美しく、けれど、もう人間を魅了することはありませんでした。

人魚は海に焦がれ、死んでいきました……———



読み終えたリゼは何とも言えない気持ちになった。同情を、彼女はしないからだ。

だから何を感じればいいのかわからなかった。ただ、


(…歴史に名だたる種族、人魚)


海に拒まれ、住む世界を奪われた美しき種族。少しだけ、自分みたいだとリゼは思った。


人に拒まれ、居場所のない自分が。

人魚と似ていると、そう思った。

もうこの世界には、人間しかいないけれど……


本を戻しながらふと時計を見れば、時刻は午後五時。さすがに仕事をサボり過ぎたと反省しながら、リゼは倉庫を後にした。



侯爵家と言うだけあって、屋敷はかなりのものだった。一歩廊下に出れば煌びやかな燭台が等間隔に配置され、床には真紅の絨毯が敷かれていた。

先が見えないほど長い廊下には、同じデザインのドアがずらりと続いている。庶民ならまず気が遠くなる長さだった。加えて、大きな窓から外を見れば手入れの行き届いた広大な庭園が広がっていた。床と同じ真紅の薔薇が美しく咲き誇っている。

どこか奥ゆかしさまで感じられ、そこはかとなく品もあった。誰が見ても美しい。

立ち止まって見惚れていれば、しかし視界には別の物が映りこんできた。馬車だ。


屋敷のロータリー。玄関先に一台の馬車があったのだ。車の復旧してきている今となっては少し珍しい。しかし、貴族の中には雰囲気を重んじる者もいる。きっとその類だろうとリゼは適当に考えた。


(あれってお客さん、かな? こんな時間に? それとも今から晩餐会?)


思いつくのはこのぐらいで、真相はわからない。それでも客人が来ている以上メイドのリゼがサボっている訳にはいかないだろう。足早にリゼはメイド長の元に向かった。



応接室の前まで来た時、リゼはメイドたちが集まっているのを発見した。ただ集まっているだけなら何の問題もないのだが、しかしその表情は皆一様に怯えている。不審に思い歩み寄れば、小声での言い争いが聞こえてきた。


「む、無理です! あんな不吉な従者を従えているお方に、お茶なんて…無理です!」

「お茶をお出しするだけです! 災いなんてありません!」

「でも、無理ですぅ…!」

「っ、仕方ありませんね。他に、誰か行ってくださる方は!」


瞳に涙を浮かべたメイドの説得を諦め、メイド長は他のメイドに呼びかける。しかし、反応を示す者は誰一人としていなかった。

何故だろう? とリゼは思う。

客人にお茶を出すのにそんなに揉める理由がさっぱりわからなかった。

けれど、理由はともかくこのまま放っておく訳にはいかない。お茶を出さないなんて、客人にあまりにも失礼だからだ。


「……あの」


小さく、しかし凛とした声でメイド長に話しかける。すると誰もリゼの存在に気づいていなかったのか、過剰な反応を示した。不意を突いたから、だけではなさそうだったがリゼは別段気にしなかった。


「わたしがお出ししましょうか?」

「あ、貴方が? …い、いいえ。それは許しません」

「…そうですか。では、メイド長が直々にお出しするのですね?」


周りを見て、リゼは純粋な質問をする。


「それはっ…」


顔を歪め、メイド長は言葉に詰まった。事実、人に言っておきながら自分が行くのは嫌だったのだ。しかし、そんな微妙な心境を知りつつもリゼはメイド長に詰め寄る。

これ以上の時間の経過は失礼を通りこすのではないかという懸念があったからだ。


「では、メイド長。お願いします」


泣いているメイドからティーセットを受け取り、リゼはメイド長の前に差し出した。自分が行けないのならもう適任者は他にいない。

彼女はそう考えていたのだが、しかしメイド長は頬を引きつらせ、必死に言い訳を述べ始めた。


「あ、わ、私は、他に仕事があります! ですから、あ、貴方が行ってきなさい!」

「……? ですが、さっきは許さないと…」

「許可します! いいから行きなさい! さあ、皆さんは仕事にお戻りなさい!」


もはや小声すら忘れメイド長は声を上げる。他のメイドもその声に促され、あっという間に去って行った。リゼ一人だけその場に残される。

しばらく立ち尽くし、やがて手元のティーセットに視線を向けた。まだ湯気が上がっている。

冷めないうちに行かなければ。そう思いリゼはドアをノックした。


「どうぞ」


数秒もしない内に中から許可が下りた。なんだかおかしい気もしたが、とりあえず「失礼します」と理をいれリゼは中に入った。すると、


「おや、君が来たか。タイミングがいいね」

「…………あ」


驚いた。そこに居る人物はリゼの知っている人だったから。


「ほら、固まってないで。こっちで一緒にお茶を飲もう」


ドアの前で突っ立っているリゼを促し、客人——今朝の男は、人の良さそうな笑みを浮かべた。リゼはゆっくりとテーブルにティーセットを置く。


「あなたでしたか、客人と言うのは……」


カップに紅茶を注ぎながらリゼは失礼のないように話しかける。男は答えるように微笑み、冗談めかして口を開いた。


「そんなに硬くならなくても、捕って食べたりはしないよ」

「……そういう訳にはいきませんから」

「硬いねぇ。せっかく君に会いに来たのに」

「え…?」


いきなりの事で、リゼはカップを差し出していた手が止まる。男はエメラルドの瞳を細め、リゼの手からカップを奪った。一口、口づける。


「うん、不味い。ここの屋敷の紅茶はひどいね。ねぇ、ノア」

「……左様ですか」


差し出されたカップを受け取り、男の後ろに控えていた少年は抑揚のない適当な相槌を打つ。と、そこでリゼはようやく気が付いた。

ノアと呼ばれた少年の、その容姿に。


(漆黒の髪に、黒と暗緑のオッドアイ……)


黒を持っているだけでも悪魔堕ちと言われるのに、その上厄災を呼ぶと言われるオッドアイまでその少年は持ち合わせていた。服装も仕立てのいい黒の燕尾服と、随分硬い。

そして何より、まだ十歳程度であろう顔立ちからは驚くほど鋭い雰囲気を放っていた。

生き物のように蠢き突き刺さる、鋭い威圧感。心なしか、それは暗緑の瞳から発生しているように感じた。道理でメイドたちが嫌がるはずである。

妙に納得しながら、けれど同情も畏怖も感じずにリゼは男に視線を戻した。


「あの、紅茶は…すみませんでした」

「ん? ああ、君のせいじゃないから気にしてなくていいよ。それに、君は自らお茶を出すって志願してくれたしね」


聞こえていたのか、男は事も無げにさらりと告げた。普通なら棘を感じるが、しかし軽く笑い飛ばすその様子からは全くそれが感じられない。不思議に思いながらも、リゼは男に問いかけた。


「あの、今日は侯爵様に用があっていらした訳ではないのですか?」

「うん、違うよ。さっきも言った通り、君に会いに来たんだ」

「? それは、どういう意味ですか?」


今日が初対面。ましてや名前も知らないのにどういう事だろうか?

疑問に思うリゼの前で、しかし男は突然笑って見せた。

人のいい笑みでも、柔和な笑みでもない。

ただ笑うという顔の形を作り、男は笑ったのだ。ひどく冷たく、そこには何の感情も感じられない。唐突な男の変化にリゼは驚き硬直した。思考が停止し、同時にすっと、エメラルドの瞳が怪しげな光を放つ。


「取引をしないかい? 私と」

「……取、引…っ?」

「そう、取引」


言いながら、男は質のいいソファから立ち上がる。リゼの元に歩み寄り、すっと、しなやかな指を自身の従者に向けた。


「あれ、ノアに取ってきてもらった君のトランクだよ。わかるかい?」

「え…なんで……?」

「それは今から見せるよ、ノア」


頷き、ノアはリゼのトランクをテーブルに置くと何の躊躇もなくそれを開いた。質素なドレスが四着、他にはブラシなどの小物が入っている。しかし、そこには身に覚えのない、ありえないものが混在していた。


「っ!? ダ、イア…? な、なんで……っ!」

「ここの侯爵、ランドール卿の経営している宝石店のダイヤだよ。今朝君を助けた時にノアに入れておいてもらったんだ」


淡々と語られる説明は、しかしリゼの頭には全く入らずただ右から左へ流れていった。

何故そんなことをするのか、取引とはなんなのか、わからなかった。


「君には悪いけどね、数日前から君の事利用しようと思って色々調べてたんだ」

「え……?」


調べる? あたしを? 利用、しようとして…?


「名前はアイリーゼ、ファミリーネームはなし。十六歳の成人。孤児院育ちで、その容姿から〝悪魔堕ち〟として恐れられていた。院長の意向により奉公に出ることになる。本日よりシルフォード侯爵家でメイドとして働くことになっている新人。――違うかい?」


淡々と、箇条書きの書類を朗読するように語られリゼは目を見張った。普段の無表情も今は完全に崩れている。

男の目的が、わからなかった。


「沈黙は肯定、かな。じゃあもう前置きはいいし単刀直入に言うよ」


男は薄い笑みを消し、そしてまたゆっくりと、焦らすように口を開いた。


「―――私は情報屋だ。シルフォード侯爵家の情報が欲しい。私に協力してくれるね?」


『取引』と言いながらも強要するような言い方は、もはや命令で。

リゼは眼前の男を見ながら、何故自分のトランクにダイヤを入れられたのか何となく理解した。

―――あたしの言葉を誰が信じる?

悪魔堕ちのリゼの言い分と、貴族の、目の前の男の言い分。訴えても誰もリゼを信じてはくれない。一度こうして卑怯なやり方でも弱みを握られれば、リゼに勝ち目はなかった。

だから、必然的に。


「…うん、いい子だ」


リゼは、頷いた。

別に、侯爵家に恩もなければ思い入れもない。裏切りだとしても、今すぐ失業する訳にはいかなかった。生きていく術が、なくなるから。


「じゃあ後は私に任せて、君は普通に仕事をするんだ。大丈夫、うまくやるから」


一体何のことを言っているのかよくわからなかった。それでも、とりあえず頷いてリゼは顔を上げた。


「じゃあ、私は行くよ」


ノアが開いたドアから出ていこうとする男の背を、リゼはじっと見つめていた。罪悪感は微塵も見られない。それでも、リゼは嫌悪感を抱かなかった。不思議と嫌じゃなかったのだ。


「ああ、そうだ」


と、出ていく寸前で男が振り返った。


「まだ言ってなかったね。私の名はクライド・ディオール。クライドでいいよ」


不敵に笑い、男──クライドは一方的にそう告げる。そのまま、リゼの反応も見ずにノアを従えて応接室を後にした。

残されたリゼは立ち尽くし、やがて渇いたのどを潤そうと置かれていたカップを手に取った。一口、口に含む。


「……まずい」


クライドの言う通り確かに不味かった。嘘ではない。脅されはしたけど、それでも。


(…利用される。必要とされるのと、似てる)


似て非なるものだと知りながら、リゼは嫌だとは思わなかった。心は少しだけ抉られたけど、平気だった。慣れているから。

リゼはカップを置いた。そしてティーセットをトレイに乗せると応接室を後にした。

揺らめく紅茶はすでに冷めて確かに不味そうだった。

本当に、嘘ではなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ