Escape5:黒濁の水晶
どこまでも続く虚無。終わらない迷宮。何もない空間で輪郭をくっきりと示す無数の小さな水晶があちらこちらに散らばっている。
一人、どこまでも、どこまでも、落ち着きなく歩いていた。
「ここは……どこだ」
リデルはラルクに連れて来られ、得体の知れぬ空間を彷徨っていた。
「どこかも分からないのに、どうしてこんなにも……懐かしく思うんだ?」
散らばる破片。それに触れようとしたら破片は粉々に崩れた。
「フィリカ――いったい何なんだ」
ゼーウェル達と同じくリデルも思っていた――フィリカは不思議な場所だと。
歩いているうちに視界が右往左往に揺らぐ空間で歩き回り、彼は目眩を覚えて立ち止まり眉間にシワを寄せる。
本当に静かな筈なのに、蚊の鳴くような小さな雑音が脳内に直接刻まれるような……。
幽かな物音より更に小さい音なのに、正体だけは鮮明に浮かぶ――悲鳴と金属音と罵倒の声。
聞きたくなくて耳を塞ぎ、座り込んだ時だった。
「──リデル!」
心配そうな声で呼び掛ける存在があったことに。
「……アイーダ、ディール……」
「リデル、大丈夫?」
「ああ」
ここに、ディールとアイーダがいた――それだけで安心した。
先程までの目眩はもう感じなかった。
「ディール達こそ、大丈夫なのか?」
「うん、平気だよ。暫く身動きは取れないんだけどね」
「そうか、でも無事で何よりだ……どうしてだろう」
「どうしたの?」
ディールの無邪気な表情がいとおしいだけなのか、それとも別のものがあるのだろうか。
「何故か知らないが、懐かしいな……二人を見ていると」
サッグとして魔術師を極めた時に会っただけのアイーダと、サッグを作り出した研究者の息子。
そのこと以外、知らないはずなのに。
誰かを思い起こさせる顔だと考えてしまう――名前以外、知り得なかった存在のはずなのに。
「……考えるのはやめておこう。ところで」
一つ、気になった。
それはアイーダ達も気になっているようで。
「……姉さん、無事かしら」
「……ルイズ殿はどこへ行ったんだ?」
「分からないの、ヴァンに連れて行かれたまま帰ってこないのよ」
ドクン――心臓が大きく脈打つ。
リデルは後ろの二人に悟られないよう、しかし緊張感を持って目の前の黒い水晶を見つめた。
一人だけいない、彼女の身を案じながら主の帰りを待つ。
****
大きな扉はしっかりと閉められており、目の前には最上階へ続く巨大な階段が堂々と立ちはだかる。
階段の傍らには鋭い目付きと頭の上に尖る双角、皮膜の翼を生やした獣の銅像が両側に並んで出迎えている。
邪悪なる黒塔の広間。
階段の前に浮かぶようにゆっくりと現れた彼らは嘲笑うように「待つ」と言い放った。あの甘ったるい声が焼き付いて離れない。
大きく広がる次への階段の下に立つゼーウェルは不安を露にしつつも覚悟を決めて一歩ずつ踏み出した。
「レイザさんはきっと無事でいる。何としてでも最上部に行かなければ」
きっと、単純にはいかない。
ここで姿を現したヴァンも、自分とよく似た悪魔のような高笑いを浮かべた男も待ち構えている。
どちらも自分の貧弱な力が通用するとも思えない相手。けれども、レイザの為だと思えば自然と階段へ向かって歩き出す。
目を閉じ、階段まで歩き出すと研ぎ澄まされた感覚で何かが蠢く音が聴こえる。
再び目を開けると銅像に扮していた悪魔が目を光らせ、ゼーウェルの目の前に躍り出た。
「エアスラッシュ!」
風の刃を発生させ、悪魔──ガーゴイルに命中させる。
一体目のガーゴイルが驚愕とともに反撃し咄嗟に突き出した腕に鈎爪の痕が深々と刻まれる。
至近距離でエアスラッシュを放ったせいだ。
もがくように手足をじたばたしているから、当たってしまったのだろう。
痛みを振り払うようにしてエアスラッシュをもう一度放つ。
光の粒子となり散っていく悪魔にズキリと胸が痛みつつもゼーウェルは漸くハーディストタワーの内部に続く階段を駆け足で登る。
二階へ上がると女神像が二人、優しげな微笑みを浮かべて待っている。
途中までは真っ直ぐとしていた階段が緩やかに円状を描き出し、二階に繋がっていた。
「……!」
壁の一点が一瞬光ったかと思うと、突然ゼーウェルの真横をすり抜けた。
誰かが通ると反応する仕掛けになっているのだろう。
警戒しながら通路を走り抜ける度に赤い閃光が鋭く煌めいて発射される。
走って、走って、走って。
漸く角を左に曲がるとランプが点々と、彼の目線より少し上に取り付けられているのが見えた。
──ガシャン!
彼が通るとランプが落ちて火が八方向に勢いよく飛んでいく。
「打ち消せ、ライトウォール」
薄い壁が張られて火が粉のようになって下に落ちた。
覚悟を決めて走ると、ランプが派手な音を立てて次々と落ちて火を撒き散らした。
闇が覆う内部が赤くギラギラと照りつけるような激しい熱を持っていく。そのせいか視界も赤一面になって目を軽く瞑る。
それでも何とか通路を走り抜けた。
――今度はさっきとは真逆だ。
菱形が幾重にも重なる模様と、辺りに蔓が描かれた床と――グランドピアノが目に写る。
机の上には茶色のクロスに水色の小さな花が一輪、薔薇の花が薄く出ている花瓶に挿されていた。
客人を迎えるためのエントランスだろう。
しかし、戦いを感じさせない、安らぐ空間がそこにはある。
(私は、この景色を覚えている)
だが、思い出す取っ掛りがないのだ。
一先ず呼吸を落ち着けて歩くと、青年が泣きながら黒髪の人を抱いている。
青年の姿は朧気でよく見えない。
(見えないのに、泣いているって、何故分かるんだ)
どうして、軋むように心が痛むのか。
絶対にこうあってはならないと強く思ってしまう何かが、これにはある。
(忘れてはいけない、忘れては、いけないんだ……)
この空間から離れたくないと思いながらも、ゼーウェルは通りすぎていった。
青年が、歩くゼーウェルをチラリと見たのは、果たして幻覚だろうか。
「……ん?」
ふとした拍子で、ゼーウェルは振り返るが、そこにはもう花も青年の姿も何もない。
悪魔が笑う銅像がそこにあるだけだった。
****
老師が描かれた壁面の部屋で、ルイズはヴァンに連れて来られた。
連れて来られたところでヴァンに突き飛ばされ、受け身を取れずに尻もちをついてしまった。
「なにするんだ、ヴァン! ……私が何をしたっていうんだよ」
床に叩きつけられて睨まれて……けれどもヴァンはルイズを見下ろして笑っていた。
「……申し訳ありません、ルイズ様?」
口だけは丁寧だが彼女を嘲笑う意思がそこにはある。
ルイズは顔を歪めてヴァンを見上げると彼はまたしても楽しそうに笑う。
「あなたは私にとって大先輩です。敬意を払いたいのですよ。だから――私が作った素晴らしい舞台をぜひ貴女にも見て欲しくて」
「冗談じゃない!」
「そんなに怒っては可愛い顔が台無しだ」
冷たい手を伸ばし、ルイズの頬に触れる。
ひんやりとした感触が、混乱を引き起こす。
「さ……触るな!」
混乱のあまり、彼女はヴァンの手を押しのけて身を縮めていた。
「まあ、いいでしょう。寧ろそのくらい強気でなくては……貴女を燻ることができない」
ルイズをじっと見つめる彼の瞳には――動物的捕食本能と、憎しみの炎が絡み合っているように見える。
食べられてしまうのではないかという非現実的な妄想。
気味の悪さからルイズは無意識に胸を抑えた。
「私は貴女が憎いのですよ、ルイズ。ユリウスは貴女を信頼していた……私も信頼していた。それなのに裏切るなんて」
「……ヴァン」
「待っていて下さい…積年の恨み、全て晴らす時だ……ルイズ」
「やめて……」
「もう、遅いのですよ、ルイズ。私を倒しても、私は何度でも生まれ変わる……そして何度でも理想を掲げる」
「やめて、ヴァン……」
「貴女もきっと、そこから離れられない――ルイズ・オールコット」
恍惚と笑う彼はもう、きっと。
歌うように憎悪を吐き出す彼は、彼は……。
「やめるんだ、ヴァン!」
「……」
ルイズに近付こうとするヴァンを制止する声が、どこからともなく響いた。
声の主のことは分からないけれど、入り混じる絶望の中にまだあった光を感じて振り向いた。
「ヴァン、もうやめるんだ! こんなことしても、事実は変えられないんだぞ!」
「……代行者」
代行者、即ち何かの代わりに動く者。刃に近いもの。
「そうだよ、今は代行者。なにもできないけれど」
「……お前は俺の手中にいる。俺の代行者に、近いうちになるんだ」
「ヴァン……もう、やめるんだ。これ以上、フィリカも現実も捻じ曲げちゃいけないんだ!」
「うるさい!」
「!!」
ヴァンが激高し、腕を振り回すと呻き声が上がった。
「……思い通りになる世界を創るんだ。ここは、何でも叶う――こんな素晴らしい世界を手放すつもりもない、計画も実行する」
「……ヴァン!」
「……ふふ、代行者、ルイズ、見ていてください」
勝利を確信したように笑う狂気。
敗北を突きつけたように笑う歓喜。
自分が一番だと示すように笑いながら、ヴァンはその舞台を立ち去った。
****
辺り一面は黒。
炎と円だけが床に浮かび上がる何もない広間。
先程、退けたとはいえ自分の理想が紡がれることを邪魔されたヴァンは靴音を盛大に立てて歩きながら舌打ちをする。
「代行者の分際で俺に刃向かうなんて……あいつは俺が眠らせた筈なんだ、何でまだ動くことができる」
「――ほう、代行者自ら邪魔をするとは……お前が余程目に余ったのか」
ただでさえ不愉快な感情が抑えきれないのに、それを助長させる厄介な存在の声に憤る。
「ダーク!」
「元々お前が無理矢理従わせた可愛いやつじゃないか、正義感の強さが致命傷を招き兼ねない危うい性質を持っているが」
「ダーク、それ以上言わないで下さい。今、私はとても不愉快なんです。これ以上私を傷つけるなら貴方でも――殺す」
「おお、何と怖い怖い。優等生が下品な言葉づかいとは時代も変わったものだな……それに、あれはとお前とは深い繋がりがある。奴はただお前を止めたいだけだろう」
「──どういうことなのですか」
代行者がヴァンと繋がりがあるということに彼自身が困惑する。ヴァンの疑問には正確に答えず、ダークは心底残念そうに告げる。
「だがお前が理から外れてしまっていることも心得ているがな」
それ以上は語らないと背中を向けた時点で彼にはもう分かっている真実だった。
「まあ、よく考えよ……お前の成すことが正しいのか過ちなのか、そんなものは誰にも決められない」
それだけを告げて彼は今度こそ姿を消す。
よくわからない。
彼が、自分が、何もかもが。
まだ怒りが静まらないヴァンは消された炎を再び灯した。
今度は赤く照らし出しているフロア。
「……セティ」
微動だにせず固まったまま、ヴァンの傍らにいる彼に話しかける。
返答はない。
彼も結局は自分ではなくディールを選んだ――選んだからこんな結果になったのだとヴァンは彼を責める。
責めて、責め続けて、漸く満足したのだろう。
セティから離れるとフロアを立ち去った。
『──ヴァン』
彼の呼び掛けは通じない。
冷たく閉ざされた極寒の大地が阻む。
凍った大地に春を告げるのは、果たして誰だろうか。
「願わくば、俺の望む世界に」
何もないフロアの中心部。
炎が道を照らし、円を描いてヴァンを守るように囲う。
冷たく、怒りを帯びた赤き炎は一斉に蒼に変わり、黒一つの空間を柔らかに不気味に光を放つ。
持つべくして持った虚無からの狂気を身体から放ち、目の前に現れる誰かの存在を彼は嬉しそうに待っていた。