Charge6:夜明け
何色にも例えがたい空間。例えば黒と白が混じり、色を形成する成分が分離するような薄気味悪い空間。まさに奈落と呼べる深層へと足を運んだ彼女は、背を向けたまま立つ男の前で止まる。
男を守るように囲われた朱色は今も粒子を散らしながら揺れている。
決して消えることのない焔。業火へと繋がる火種を飼いながら男は背を向けたまま。そんな男の後ろに人影が重なる。
「ヴァン」
凛と透き通る彼女の声が男の名前を呼んだ。
「──ルキリス」
呼ばれた男もまた彼女の名前を囁いて、漸く火種から離れて前を向く。
緩めた目許には幾重にも刻まれた隈が色濃く、白い肌には些か病的に映る。少なくとも、彼女の目には。
だが、そんなことは構わなかった。彼女は開口一番、ヴァンに切り出した。
「聞きたいことがあるの」
「──なんだい?」
緩慢に響く声は低く、血が通っているのかどうかさえ考えてしまう。けれども彼女は怯まず、ヴァンに問いかける。
迷いのない凛とした声を響かせながら。
「ヴァンは誰を憎んでいるの?」
煌めく光は不自然なほど澄んでいて、目を囲う隈は対照的に暗く淀んでいた。そんな危うい彼の真の意図を知りたいと思うのは彼女が──彼女が、ある行動を決めるためだった。
「聞かせてあげようか、ルキリス」
「ええ、聞きたいわ」
内に秘めた感情を、彼は察するだろうか。内に秘めた決意を彼は暴くだろうか。どうか、どうか暴かないでくれ。
祈りにも似た感情を声に出さぬよう、努めて冷静に彼女は次の言葉を待っていた。
「端的に言った方がいいね──僕は、全てが憎いんだ」
「……エルヴィス、だけではなく?」
「ああ、存在する全て、血潮が流れる命も、何もかも。君は、僕を狂っていると思うかい?」
「……分からないわ」
はっきりと答えは示せなかった。突き放せるほどの強さがあれば、此処にはいないはずだ。此処にいるのは相反することも憎しみを向けられることも嫌だったという逃避によって今がある。
ヴァンを一概に否定することはできなかった。ルキリスはじっとヴァンを見ていた。
「レディン……レディンさえ、いなければ、僕は……僕は、憎むこともなかった……」
「レディン……」
レディンの名前を呟いたヴァンの声色からは深い憎しみを感じ取ることができた。だから、ヴァンはセティを幽閉したのか。
「生きることも死ぬことも儘ならない、あの空間に閉じ込めたら、彼はずっと苦しんでくれる。ユリウスを助けなかったことも、僕をこんな風にしたことも、全て──全て!」
「リデルも幽閉したの?」
「ああ、あいつは、僕から全てを奪ったから」
虚ろな瞳に蠢く焔は、全てを焼き尽くすまで消えはしない。口元に描いた笑みが不気味に写る。
「ヴァン、聞かせてくれてありがとう」
対するルキリスは毅然としながらも柔らかな笑みを浮かべた。ある決意を固めて、彼女は背を向けた。
****
どこまで続けば終わるだろうか。白と黒が分離して混じる景色の中を歩く彼女は終わりを想像していた。
例えば、この景色が光溢れる虹色になれば、幸せになれただろう。例えば、晴れた空を仰ぎ見ることが許されたなら、幸せでいられただろう、と。
だけど、一時の幸せを求めるあまり、方向を見失って、決意を固める勇気も出なかった。勇気を出せば、 また結末は違っていたのかもしれないが。
「ルディアス……」
「ルキリス、どうかしたのか?」
「行くの?」
彼は、レディンの呼び掛けを聞いて、迷いを滲ませていた。ルディアスとて、ヴァンの中にある憎しみに気づいているだろう。彼は、決して自分達の願う結末には持っていかないことも気づいているだろう。だから、迷うのだ。
「ルキリスはどうするの?」
「……そうね。でも、まずはルディアスがどうするかを聞きたいなって思ったの」
濁る赤が彼女を優しく見つめている。その眼差しに何度救われただろう。その眼差しに縋って生きてきた気もする。
「俺は……」
──貴方は優しいのね。
そんな顔をさせたつもりはないのに、悲しみを滲ませてこちらを見つめる。
そんな顔をしたら、せっかくの決意が揺らぐ。弱い心が縛り付ける。だけど、今度こそ間違えない。
「俺は……!」
床にポタリと落ちた滴──見上げれば綺麗な涙が溢れてる。ルディアスは涙を流していた。
「……泣かないで、ルディアス」
愛しいと思う。掴みたいと思う。
だけど、綺麗な雫は手に取ることもなく、きっと崩れていくのだろう。欲しいと思った雫は、この手に落ちれば黒く歪んでしまうのだろう。
「私が泣かせているのね……」
「……そうじゃ、ない、そうじゃないよ……でも、泣きたくなるんだ。ダメなのに……」
「貴方はいつも優しかったわ」
こんな脆弱な私を好きだと言おうとしてくれて。まるで夢のようだった。だけど──だけど。
言う前になくなってしまった……。
「エルヴィスさえいなければ、ううん、エルヴィスの周りにいた人達も全て許せなかったの。ルディアス」
憎んでしまってごめんね──……。
だから、ヴァンがエルヴィスを抹殺したと聞いた時、どれほど喜んだだろう。でも、それだけで済むわけではない。
エルヴィスがいなくても、彼の唱える理想に共感する者がいるかもしれない。いや、絶対にいる。そして、同じことを繰り返すだろう。
ならば、成すべきことはひとつ。
「私ね、ルディアス……ずっと言いたかったの」
両手を伸ばして、広い背中を抱き締めた。ああ、彼の体温は暖かくて心地よい。
「──私、ルディアスのことが好きよ」
「ルキリス……」
「ごめんね、言えなくて」
やがて、自分の背中に心地よい熱が点る。ルディアスの両手だということに気づき、ルキリスは身を任せた。
たった一時の夢、たった一瞬の幸せ。それを求めて犠牲を払い続ける自分達は何と愚かな人間だろう。
だけど、この温もりは手放したくない。例え、罪を重ねても、例え、許されなくとも。
「──俺、ルキリスがずっと好きだった」
「うん」
「いつも叱ってくれるルキリスが、好きで。だからヴァンに賛同した。リデルやレディンを突き放しても」
「うん、うん……」
「ずっとそばにいたい」
「うん……私も」
「ルキリス……」
「うん」
やがて、ルディアスは両手を離して、真っ直ぐとルキリスを見る。彼女の青い髪が、青い瞳が煌めく。
「俺は、ルキリスのいた世界がやっぱり好きだ」
さ迷い、悩み、深淵に手を伸ばしながらも、憎しみに身を焼きながらも、奥深くで飼っていた答えはひとつだった。ただ、その答えを示すには足りないものが多すぎただけで。
「レディンだって変わっているだろう。ずっと前を歩いてる。だから、聞いてみたいんだ」
「……うん」
「ルキリス、許してくれる? ──変わることを許してくれる?」
いつまでも変わらない景色。いつまでもそのままの過去。いつまでも繰り返す幻影。そこにいて心地よいのはきっと誰もが思う。だから、サッグという組織は素晴らしかった。
「もちろんよ──ルディアス」
「……必ず、必ず、君を連れ出しに来る。俺一人では出来なくても、必ず君を連れ出して。元に帰ろう」
「──待っている」
ルディアスはゆっくりと彼女から遠ざかる。段々小さくなる姿。遠くなる赤。ルキリスはいつまでも見送っていた。
漸く答えを見つけ出し、止まっていた歩みを再び始めたルディアスの姿をじっと見送っていた。
彼の姿が見えなくなった頃、ルキリスは歩み始めた。
再び、名前のない深奥にいる場所へと──彼に会うために。
****
崩壊したアエタイトから続く森の先を歩めば、そこはアエタイトとルキアを繋ぐ港町。疎らな人が緩やかに生活をしていたであろう場所──そこは記憶に残っている場所と大きく違っていた。
「誰も、いない?」
「そう言えば……」
レイザとディールが疑問を抱き、後ろを振り返ると、やはり深緑が広がっていた。
「フィリカが現実のものになって、繋がったのか?」
「……そうだよ! ここにはアエタイトから船で来たんだよ! ここは港町だったはずだよ!」
手探りで記憶を取り出して、思い出す。最も、始まりの場所だから忘れるはずもないのだが。
懐かしさを滲ませて感慨深く歩くはずだった場所は──手を加えられ、不気味な場所へと変貌した。
とにかく答えがほしくて、答えを知る人物に問うたのは、一番近くで此処を見つめていたルイズだった。
「なんでこんなになってしまったんだい。何処に行ったのさ、此処にいた人達は──まさか」
「そう、ヴァンです。ヴァンがこの者達を封じ込めた。いずれ、魂を抜かれ……虚像にされるでしょう」
「どうしてそこまでして……」
「──彼は世界を滅ぼす。そのままのことをしているだけ……そして、取り戻す」
「取り戻す?」
「──ユリウス、君を。彼は君が死んでいるものだと見なしている。ヴァンは魂を捧げて、君を蘇らそうとしている。だけど、君は死んでいないから……」
「……!」
「この世界は消え去り、ヴァン独りだけになる。彼は知らないから……だから」
求めた未来のために幾多の犠牲を払い、憎しみを燃やした果てにあるのは耐えがたい孤独ただひとつだけ。もしも彼が知れば更なる暴走を生み出すだろう。
ヴァンによって自分の大切な場所が踏み荒らされるのは耐えられない。同時に、ヴァンが報われないのも耐えられないと思う。
事実を受けて口を閉ざした瞬間、しくしくとか細い声を出して泣き始めた──ユリウス。
「ヴァンは……私のことに気付いていないのね。酷いわ……気付いてくれると思っていたのに。どんなときでも見つけてくれると思っていたのにね……私、またヴァンに期待していたのね」
「……ユリウス」
「私、どれだけヴァンに甘えていたのかしら……でも、ヴァンなら私を見つけてくれると思っていたのに」
「甘えすぎだろ、だからこうなるんだ」
「レイザ!」
「お前もヴァンもレディンも! 甘えすぎなんだよ! この際だからはっきり言ってやる!」
ディールの制止も振り切り、レイザはユリウスの肩を掴む。強く──強く。
「もっと先を見つめろ! お前たちだけじゃないんだぞ、生きているのは! 悲しんで何か変わるのか、変わるなら誰だって変えられる!」
「……レイザ」
「泣いたところで、嘆いたところで変わらないんだ……だから、歩くしかない。言うしかないんだよ。泣くだけじゃ何も変わらないし変えられない!」
肩を掴む両手が震えている。ふと見れば、レイザは今にも泣きそうな顔でユリウスを見つめている。
今までずっと堪えてきた。堪えて、それでもいつか必ず全てが終わると、全てが分かると信じてきたのに。
その全てが、こんなにも愚かで滑稽なものなのだろうか。
溜めていたものが爆発──ではなく、ひとつ、ひとつ、溢れ落ちるように。
「お前たちのせいで、俺の全てが変わってしまった……でも、仕方ないじゃないか……こうなってしまったからには……歩くしかないだろ……信じるしか、ない……お前たちが弱音を吐いたら……俺のやり場のない怒りは何処に向けたらいいんだ……」
「……そうね……」
優しく頷いて、ユリウスは泣くのをやめてレイザを見る。その瞳にはもう迷いは見当たらなかった。
「私、甘えるの、やめるわ……もう失いたくないもの」
レイザの眼差しに、懐かしさを覚えた。
──嗚呼、この眼差しは、自分が最も愛した人のもの。
『姉さん』
優しく、深く、そして力強く──最後まで守ってくれた人と重ねる。
「だから、私はレイザに出会ったのかしら」
姿が変わり、一人で迷っていたところをレイザに出会って変わった。
散りゆく姉に──不満をぶつけて、真実を語らないまま。だが、姉は全てを知るように静かに聞いていた。
あんな風になりたい、なりたいのだ。
「……分かったか。分かったなら二度と言うなよ」
「うん、もう言わない」
拗ねたように、でも何だかんだで気遣う彼は心配そうに問いかけるので、彼女は涙を消して笑顔で答える。
さあ、歩こう。そう、決めた矢先だった。
──ゴゴゴ……。
「?」
──ゴゴゴゴ……。
「な、なに?」
「聞こえたか?」
「うん、何か動く音だったよね」
不安を訴える彼らを嘲笑うように、突如として異変が襲いかかる。
ゴゴゴゴゴ……!
「!?」
ゴォォォォッ!
大きな地響きをならし、唸り声をあげるように、下から上へと上り詰める……巨塔。
ブワアアアン!
広がる青い空は一瞬にして赤黒い闇へと変わる。夜とも、夜明けとも言えない、空の色には相応しくない色へ。
「レイザ、あれを見ろ!」
ゼーウェルが悲鳴を上げるように指を指したのは、この森を越えて遥か向こうにある塔。
「──白い城?」
「……ハイ……ト」
「ゼーウェル?」
ずっと、前から……ずっと前から、いや、遥か昔から、その名前は一度として忘れたことはないだろう。
「ハイブライト……」
白い巨城の本当の名前。今まで歩いてきた場所の真の姿。
「あれは……古の巨城だ。エルヴィスが追い求めていた──」
追い求めていた理想郷の姿が、ついに目の前に現れたのだった。
「──レディン!」
バサバサと翼を広げて、叫びながら舞い降りてきたのは──追い掛けていた青年ルディアスだった。
彼は巨鳥から降りて、レディンに縋る。
「──レディン、助けてくれ!」
「ルディアス……」
「ルキリスが──ルキリスがまだあの中にいるんだ!」
どうにか逃れてきた青年は悲痛な叫びをあげて彼らに助けを求めた。




