Charge5:終わる罪と夜明け
友人が来いと言ってくれた言葉の意味には、まだ暖かなものがあったと、信じていた──いや、確信を抱いていた。彼等に届く言葉がある、と。
微かな希望の先にあったのは──身を焦がす絶望に近い憎悪の眼差しだった。
「……ヴァン!」
「ガバッ……」
吐き出す嘔物。湿っぽく生暖かな苦味が口腔内に広がり、ああ、腹部に手があったので殴られたとわかる。スローモーションのように映る風景をぼんやりと見る。
「……ヴァン……」
「許さないよ、レディン。絶対にね。俺を裏切ったこと、絶対に許さない」
「……うっ……」
「可愛がってやったのに、救ってやったのに。辛かったろう、エルヴィスの下につき、期待され、望まぬ理想に付き合わされるのは。何が豊かにする、だ。人を使って人ならざる力を手に入れ、国を作り出そうとしたエルヴィスの理想にはさぞ辟易しただろう。だから、救ってやったのに。それなのにどうして君は俺と対峙する。この二人に叫ぶ。この世界を救うということは、エルヴィスに賛同するということ、だ」
「……ちが……う」
「違わないよ。この世界を守ろうとするやつはすべからく俺の敵だ。いや、この世界に住むやつも、この世界を愛するやつも、この世界でしか生きられないやつも、皆消さなければならない。エルヴィスの理想の詰め込んだ世界など不要、廃棄物だ」
「……ヴァン……」
「さあ行こう、二人とも。君たちの力で……」
「待って……頼む、待ってくれ……二人とも……待って……く、れ……」
手を伸ばす前に憎悪に燃える朱色が青と赤を守るように引き寄せて離れていく。
鬱蒼と茂る森を貫いて、空を舞う。深緑に遮られ見えない空はどんな色をしているだろうか。しかし、空を見ることなく、青年の意識は遠退いていく。与えられた痛みが今さら悲鳴をあげて爆発していた。
どうして、どうして今。
憎らしく思いながら、諦め得ぬ心とともに足掻く。足掻けば、動かせば、まだ追いかけられるのに。
だが──もう動かなかった……。
絶望に伏して目を閉じたら、心地よい声が降る。
「セティ!」
ああ、優しい声だ。力強い声だ。焦がれた音だ、求めた歌だ。
もう許されないと思っていた君はまだ、名前を呼んでくれた。とても嬉しかった。
会いたいな……愛してる、大切だった。そんな繋がりを脆弱な自分は容易く裏切ってしまったのに、まだ求めてる。
──ディール。
呼びたくて口を開こうとしたが、音にするにはかなわなかった。けれど、聞けただけで、嬉しい。だから──。
****
「ん……」
目を開いた先には、不安げに揺れるブラウンの瞳。今は涙でキラキラしていた瞳が微かな喜びを点していた。
「セティ……よかった。間に合ったんだね」
「……君が」
「……みんなだよ、ここにいる皆が、セティ──ううん、レディンを助けてくれたんだ」
ディールの後ろには、横には様々な顔が並んでいた。凛と、可憐に、気高く、優しく。一人一人の吐く言葉は違えど内にある感情に大差はなかった。
「レディン……何があったんだ」
真っ先に聞いたのはルイズだった。何故、レディンが傷を負っているのか。その理由をある程度分かっているようだ。だからこそ、余計に不安を抱いている。
「……ヴァンが、来たんだ」
「……!」
皆の顔は、納得したような表情だった。やはりか、と言いたげだった。影に潜めていた彼が徐々に本性を現している。何をやっても可笑しくなかった。
「僕は──ルディアス、ルキリス、この二人を説得しようとした。僕の親友だから……」
「……レディン」
彼の思いを聞いていてリデルが顔を曇らせる。
振り切った筈の感情だったが、どこかで分かり合えないかとまだ信じていた。今まで相見ることが無くて安堵したほど。
遠くなってしまった二人と、もしかしたら戻れるかもしれないと淡い期待を募らせ。
「すまない……レディン」
「リデル……」
「自分が迷っていたから……もっと早く、エルヴィス、ヴァンを止められたなら。もっと強ければ、弱くなければ、苦しめることはなかった」
「リデル……もういいよ」
「いいや、ゼーウェル様も、エルヴィスも、ヴァンも──ルディアスもルキリスもかけがえのない存在だった。失いたくなかった、だから、一度はフィリカに全てを懸けた。それが間違いだと、気づいていたのに」
「……私もよ、レディン」
次に口を開いたのは……鍵を握る少女、ユリウス。
「君はユリウス……! 生きていたのか……」
「そうよ……エルヴィスに殺されかけて……助けてくれたの──メーデルに」
「……メーデル」
「メーデルは代わりに犠牲になって、ヴァンの亡霊になってしまったの。私、だからヴァンが憎かった。でも……私、皆に依存していたことに、気付いたの。だから、ここにいるの」
「……ユリウス」
「話そう? 全て。そして終わらせようよ。フィリカを封印して、素敵なお伽噺に戻そう?」
何て優しい言葉なんだ。
何て純心でいじらしい心を持っているんだ。
「……俺も、知りたいよ。セティのこと。セティが何でいなくなったのか、知りたいよ」
「……ディール……」
もう二度と、聞く筈のなかった言葉を、生きている内に聞けるなんて……。
──応えなければならない。
ここにいる全ての人に、応えなければならないのだ。語らなければ、ならない。
──終わらせると、決めたんだ。
意を決して、口を開き、真っ直ぐ視線を向けた先には、耳を傾けている皆がいた。
****
遡ること十年前。まだ自分は幼い子供だった。行く宛もない自分を拾ってくれたのが──エレザ・クラヴィアと、ティア・オールコットだった。
『大丈夫?』
二人の少女が優しく声をかけ、手を差し伸べた。
その頃、自分は両親というものを知らず、最下層と呼ばれる虚構で命を繋いでいた。この二人の出会いはそんな荒んだ生活を変える切っ掛けだった。
『君、名前は何て言うの?』
『……ない』
『そう……じゃあ、名前をつけてあげるわ、取り敢えずおいでよ』
『……』
『さあ、行きましょう』
優しく優しく誘われる。この時、紛れもなく自分にとって二人は天使だと思っていた。
──本当は、合理的に、もっと先のことを見据えていたなんて、露ほども知らずに。
「私たちの祖母だわ。間も無く姿を消したと、エルヴィス様から聞いたわ」
驚いたのはルイズ、アイーダだった。
「間も無く内乱によって戦死したけどね……三十五年前に起きた緋色の動乱。そして、アルディは混乱した。そんな中で、一人の人間が立ち上がった……それが、ディールの父親にして才ある歴史研究家エルヴィス・クラヴィアだった」
「エルヴィスはエレザの息子か何かか?」
「いいや……ティアの息子だと、思う。エレザは子を産めなかったと、エルヴィスの日記に書いてあった」
「ティアとエレザが戦ったから、今のアルディがあるのだな」
「うん、大きく言ったらそうかもしれない。同じ名前の戦乱が幾つも起きて、今のアルディがあった。だけど、アルディの大都市であるアエタイトは中心部として発展しすぎた」
「アエタイトは港もある、位置的に他の国にも繋がりやすい。確かに集まるな。だから、ここ最近では人が溢れすぎて住む場所もないと騒がれていた」
人が溢れる世界、蠢く都市、行き交う無数の点。点を詰めこみすぎた空間が滲むように微妙なバランスで保っていたアエタイト……アルディはどんどん崩れていった。
「他の村にも溢れる人、もう支えきれないと分かっていたのはアエタイトにいる無数の歴史研究家たちだった。そうして、探し求めた果てにあったのは……古の国フィリカだった」
お伽噺にある、何でも叶う理想郷。夢の国。幸せになれる場所、緑溢れる世界。資源と場所を求めていた歴史研究家達にはぴったりな国だった。
「ありとあらゆる本をかき集めて、フィリカに関する書籍と在りかを求めた……そして、見付けたんだ。そこは、アエタイトの直ぐ近くにあった」
アエタイトから真っ直ぐ伸びた線の先にある……人里離れた先にある小さな島。
「それが──ルキア」
地平線の上にひっそりと佇む緑の楽園。踏み入れたら、未知の生物が生きる──紛れもなく求めていた世界だった。何と言う奇跡だろう、直ぐそこに答えがあると言うことは。エルヴィスはさぞ喜んだに違いない。
「ルキアを開いて、封印を解くのに必要な材料を揃えたらよかった。けれど、封印を解くために戦わなければならない。ここにいる者達は豊かな土地を開拓するために犠牲になった人々だ。とうとう、その手は僕らにまで伸びた」
エルヴィスはどんどん狂っていった。豊かになれと豊かにしようと苦心するあまり、不信を深めていったのかもしれない。
「怖かった……次は自分ではないかと不安を抱えながら過ごすのは怖かったんだ。だから──決めた」
「……父さんを殺すのを?」
「……そうだよ。もういやだったんだ。最初に相談したのはヴァンだった……僕が、ヴァンを引き入れたんだ」
『──ヴァン!』
『セティ、どうしたんだ』
『エルヴィス様がまた使いの者に掴み掛かったんだ。何とか止めたけど……あのままじゃ僕らも疑われてしまう! どうしたら、どうしたら終わるんだ。もう帰りたい、帰りたいよ!』
『セティ、落ち着け。そんなことを言ったところでどうするんだ。エルヴィス様を殺す気か? まさかそんなことしないだろ?』
『……殺す?』
死という単語が急に浮かび上がって、いつまでも離れない。不穏で陰鬱な意味を孕む単語の筈なのにどうして今は眩しく見えるのだろう。これで、自分は救われるのだろうか。
助けて、助けて、助けて、助けて、助けて助けて助けて助けて──……。
『ヴァン……ちょっと、いいことを思い付いたかもしれない』
『セティ?』
『ヴァン……やっぱり君がいてくれて、よかった』
『あ、ああ……』
「……ユリウス、君に謝りたい。何なら、僕は君に殺されても構わない。特別な力を──魔法を使う力を与える犠牲者に君の名前が上がっても僕は止めなかった。エルヴィスの失敗を待っていたんだ」
彼が過ちを犯し、大きな事を起こせば皆が彼をバッシングするだろう。その機会を待ってさえいた。これが、自分の罪だ。
結果的に、自分は多くの人間を傷付けた。
「ヴァンだってそう、ユリウスが死んだと分かったら直ぐにエルヴィスへの殺意を高らかに述べたよ。僕はもう、何にも分からなかった。日常を終わらせたかった」
「──セティ」
疲れきった表情で語る過去に、セティが随分思い詰めていたことがありありと分かる。もしかしたら誰かはこのセティの心境を狡猾で卑怯だと感じるかもしれない。
「どうして話してくれなかったの?」
「そんなの……話せるわけないだろ、ディール」
「でも、どうしてそんなになるまで話してくれなかったの? セティにとって俺はただの子ども? 俺のこと、ずっと疎ましかった? 俺は邪魔だった?」
「……」
「俺ね、ずっと悲しかった。セティが父さんを刺したと聞いて。裏切られた気がした。セティなら、ずっとそばにいてくれるって思ってた。俺に話してくれなかったのが悲しかったよ、俺はセティにとって、いらない人間だったんだと、言われた気がした」
「……ディール……」
一番大切な存在を、傷付けた。エルヴィスが非道な行為をしていたとはいえ、彼にとって父は誇らしく映っていたことを知っていた、だから、ディールには話せなかった。
──嫌いになれたら、楽なのに。
「嫌いになんて、なれないよ」
拾われて、出会って、可愛く時に生意気な笑顔を見せる彼を弟のように思ってた。家族を知らない自分にとって、ディールは生きる全てだった。
「叶うなら、君の手に掛かって死にたかった。ディールに泣いてくれたら幸せだよ……だから、敢えて敵対した。君の目の前に立てば、君は必ず乗り越えてくれると思ったから。でも、何で君は……何でなんだろうね」
「セティと同じだよ。俺は、セティを憎めなかった」
ディールは、泣きながら微笑んだ。それは、いつまでも変わらない笑みだった。焦がれて止まない、まるで──。
──君が僕の救世主だったんだ……。
セティはそうして、一番近い人物。自分が代行者となった理由を作った存在へ向ける。
同じ時を分かち合った者、同じ道を歩いた者、同時に道を分かつのは必然といえる存在。自分と対成す存在へ視線を向けた。
「──ゼーウェル」
「セティ……」
「君だけは何物にも染まらなかった。君だけは、最後までエルヴィスを止めようとしていた。君はいつか驚異になる。怯えていたよ、君とエルヴィスがぶつかるのをずっと。君は、戦うことを選ぶからね」
「今でも……変わらない。いざとなれば、エルヴィスと戦うつもりだった」
「そうだろう。エルヴィスを刺して、フィリカの封印を解いたヴァンと僕が恐れていたのは君とレイザだった。レイザは魔法に囚われず己の力で切り開ける。ゼーウェルは信念のままに戦える。君たちは驚異だったよ。でも──だから、君たちを選んだ。この、脆弱な心を射抜いてくれるだろうと思ったから」
「そんなのあんまりだ!」
「……」
レイザが憤る。無理もない、たった一人の迷いや弱さのせいで、こんなことになってしまったからだ。
「レディン、勝手なこと言うなよ。俺はな、お前みたいな弱いやつが嫌いだ。向き合おうともしないお前みたいな弱いやつが、一番、一番嫌いだ」
「……君には、分からないだろうね。いや、君には分かるまい。強い君には」
「ああ、分からないよ。俺には一生分からない。分かりたくもない。だけど、お前の望むことなんて、絶対してやらないから」
誇り高い言葉だ。気高くて誇り高い振る舞いだ。やはり、彼は光だ。故に自分には目映い。レディンは悲しげに笑っていた。だが、ゼーウェルは違っていた。
「……セティ……」
「……ゼーウェル」
「私は……お前の気持ち……分かる。もしかしたら、私がお前のようにヴァンや……いや、レイザかもしれない……リデルかもしれない……誰か分からないけども……もしかしたら、弱さを利用して堕ちて行くかもしれない……私は、お前でよかったと、安心さえしていたよ、セティ、私は、お前と同じ弱い人間だ」
「……」
「だけど、私にはレイザがいた。ディールも、リデルも……もちろん、セティもだ。エルヴィスの理想に振り回されて失うのは耐えられない……だから、エルヴィスとは相反することを決めた。もし、お前を利用するとエルヴィスが言うなら、私は許さなかった」
『──お止めください、エルヴィス!』
『ゼーウェル、お前はいつもいつも意見をする。お前なら、分かるだろう。資源が増えたらアルディはもっと豊かになる! アルディは住みやすくなる! 今よりも快適に! 今よりも便利に!』
『その為に仲間を犠牲にするくらいならそんなもの、要らない! 私には必要ない!』
毎日のように聞き続けていた口論に辟易していた。ゼーウェルさえ方針に従っていれば、平和にいられたのに、どうして彼は逆らうのだ。
疎ましささえ覚えていた彼の真っ直ぐな思いが、今では嬉しかった。
「……僕が、勇気を出せば……変わっていたかな。ディールに話していたら変わっていたかな?」
後悔しても遅い。自分は取り返しのつかない過ちを犯し、弱さのあまり多くの血を流してしまった。
自分は、軽蔑していたエルヴィスと同等、若しくは信念を貫こうとした冷酷なエルヴィス以上に憎むべき存在かもしれない。どうして気付かなかったのだろう。
「今からでも変われるよ。俺はね、セティが脆いの知ってるから。だから、一緒に罪を償おう。ヴァンを止めにいこう。セティが嫌だと言っても、連れていくよ」
「ディール……!」
明けない夜明けはないと、誰かが言ったのか。
自分は永遠に独りだと思ってた。独りでさみしく朽ちていくと。罪を犯した自分の罰は誰もいない、何もない孤独だと思い生きるのだと。
壮絶な孤独に耐えきれず責める日々、鬱積した感情を晴らしてしまいたい衝動。苦しみながら生きてゆくのだと。
「──変わってみせるよ」
だけど違う。
この手が、その言葉があれば変われる。
自分はまだまだ変われると、答えを得た。
だから、歩こう。
──君に繋がる道を、ともに。
皆が空を見上げれば、空が光を帯び、朝を告げようとしていた。




