Escape9:狙われたゼーウェル
ここは、希望を持った者たちが迷い込む闇の迷宮だ。
永遠に時間が止まったと思われる迷宮を闇雲に進む青年は、まさしく希望を持った者、と言えよう。
だが――ところどころで鮮やかな虹彩で塗られた光景が背景として映し出されるけれど、これはどういう意図を以て演出しているのだろう。
一部分だけが虹彩、ということに疑問を持っていて、もう一つ。
いつまでも合わないパズルのように明確に欠けた何かがずっと心の中で引っ掛かって、違和感を覚える。
その正体が未だ分からない――だから進みたいと思うのだろう。
知りたいから、疑問を晴らしたいから。
それが、命取りになることも知らないままに。
「ヴァン、どうだ。奴らは向かっているのか?」
「ええ――我らの作った幻を容易く破壊して、こちらへ」
「……そう、か……戦わないといけないのか」
「あなたも、わかっておいででしょう」
貴方――即ち己の傍で舞台の行く末を見つめる象徴を指してヴァンは厳しく諌めた。
今になって何故戦いを躊躇うのか、ヴァンには彼が分からない。
「何か思うことでもあるのですか? もう直き完成するというのに」
「そうか……もう直き……あっさりと事が進む」
「フィリカの力を使えば既存の世界を破壊することなど容易い。それが――アルディの破壊をすることなら、祝うべきです」
「我らを追い詰めた、既存の世界の王国、か」
「そうです、ダーク。だけど、貴方には危惧すべき存在がいらっしゃる」
ヴァンの唇が、弧を描きながら、名前を囁く。
何も知らぬ子――手を加えられた子、新たなチャンスを与えられた子。
「ダーク、貴方も分かっているでしょう。勝手に産み落とされ、勝手に死を告げられ、炎の中で尽きた屈辱を。だからこの箱庭が必要なのです。私もあなたも」
「……お前は時々、憎しみを口にする」
「そうですか? もしあなたが感じるならそれは」
「いや、もっと深いものだ」
「……随分と、分かり難いことを」
ヴァンの目が鋭く細められたことで、ダークは固く口を閉ざした。
この目は獲物を喰らう肉食獣のそれだ、と、ダークは言いたかったのだ。
ただただ、世界を破壊したいという衝動。
「……なあ、ヴァン」
突如として、ダークは声を上げた。
滅多なことでは声を上げない彼が、叫ぶように呼んだものでヴァンも面食らう。
「いきなり驚かさないで下さい……」
理想を語る口だけは人間らしく思うのに、理想に酔っている姿は奇妙な何かだと認識してしまう不安定さが、きっとヴァンにはあった。
「お前は、このフィリカをどうしようとしている」
本当に?
――本当に、それだけ?
「貴方は、なかなか鋭い」
ダークが口に出さない疑問をどこかで受け取っていたのか、ヴァンは愉快に笑って答える。
「でも今はまだ知る必要がないでしょう? さあ、始まりですよ、ダーク」
頂点を示すこの場所の、中心に立って彼は高らかに叫ぶ。
「我々を脅かす勇敢な者たちを迎える儀式がね!」
****
まだ、暗闇と蝋燭が延々と続く色のない不気味な城壁が続く。
あまりにも統一されすぎてどこがどこなのかさっぱり分からなくなっている。
「もうずっと前に向かって進んでいる筈なのにどうして同じものばかりなのでしょう――今となっては敵でさえ恋しいくらい何もないです」
ある意味挑発的な言葉を吐いて歩いている。
あまりにも事が起こらなくて退屈し、遂には……。
「ああ眠い、眠いです! どうしてこんなことになるんです! 私は早く寝たいんですよ!」
壁に向かってローキックを放ち、八つ当たりをする始末である。
これをレイザやディールが見たら一生話の種にされること間違いなしであるが、そんなことは今の彼が知るはずもないのである。
「蝋燭の灯りがまた程よくて眠い……あとここにお茶とサンドイッチがあると最高ですね……」
どうやらお腹が空いているようだが、生憎ここには何も食べ物はない。
ただ蝋燭台が一連に並んでいて、一つ一つに説明しがたい複数の模様が刻まれた石造りの壁が続いている、それだけである。
ゼーウェルがどんなに疾走してもローキックをぶちかましても消えることのない灯りを頼りに歩いているが一向に扉も階段も──敵さえも見えないままだ。
摩訶不思議な巨大迷宮ハーディストタワーに真っ向から挑むゼーウェルは完全に行くべき道を見失っていた。
妄信的に前に進みたいと願う気持ちが焦りを生み出していたことなど彼に顧みる余裕などなかったようである。
「全く、何のつもりで……あの笑顔は私を侮辱している!」
――あの二人を助けたいなら頂上まで登ってきなよ。
「まるで私が何もできない赤ん坊みたいなあの言い方! 絶対私を嘗めてる!」
ドカッ!
腹立ちと悔しさまぎれにローキックを思いっきり放つ。すると……。
ブシャアア!
「冷たい冷たい冷たい!」
四方八方に動き回り、取りあえず走りまくったところで振り返る。
「壁から、水が……噴き出ている!?」
ここからはもう必死である。
ゼーウェルは持てる全ての力を持って走った。
邪魔な壁は鉄拳で壊し、一心不乱に壁を蹴り回って、である。
一連の騒動をどうにか切り抜け、悪魔の銅像が左右対称に並び、大きな螺旋階段を目にしたところで冷静に立って一言。
「ここからが本番だ」
今さらキリッとした顔をされても、説得力など皆無であると――発言に遠慮がないレイザがいたらきっぱりと断言するだろう。
まだまだ道のりは果てしなく長そうである。
****
一方、ハーディストタワーの入り口。
上を見れば首を痛めること間違いなしの巨大な扉の前で四人は立っていた。
ついさっきまで、ここには自分たちにルイズやアイーダを助ける道標を示していた代行者――レディンが常に立っていた場所だが、今はもう彼の気配がしない。
ただただ、何の物音もない広い空間で奇妙なまでに静かに、微動だもせず立っていた。
ルイズの言った名前が、心臓を鷲掴みにされたようで動けなくさせたのだ。
「どういうことなんだ――セティって!」
「ディール……」
ディールが、今にも泣きそうな声でルイズに詰め寄る。
自分を庇って捕まったこと。
父を刺して行方を眩ませたこと。
一度だけ対峙し、戦ったことはあれど彼は最後まで語ることはなく。
「何で、何でセティが……」
「……」
「どういうことなんだよ、ルイズ」
ルイズが何でも知っていることに不信を持ったのはディールだけではない。
レイザも険しい顔でルイズを問い詰める。
「ルイズ、そういえばリデルを呼んだのもあんただよな。あれ以来敵の襲来がパッタリ止まったんだ。どういうことなんだ」
「ちょっと二人とも! 今そこで対立してる場合じゃないでしょ!」
その場にいたアイーダが二人の間に入って場を諌め、ルイズに向き直る。
「姉さん、私も知りたいの。姉さんの知っていること、何でも教えて。そうでないと……」
アイーダもまた、彼女が知っていることを知りたいと思う側の人間である。
ルイズは暫く黙っていた。
「……姉さん」
彼女が何か大きなものを抱えている――姉妹だから分かるのだ。
だから、言いたくないのも。
けれど、ヴァンが彼女を執拗に狙うことを考えれば知っておくべきだと思うから。
「……分かった、知っている限りのことを話すよ……」
アイーダの瞳が、決断を促した。
「あたいと、ヴァンと――ユリウスとメーデルは同じ志を持って集まった人間だよ……」
****
「……ルイズ様、話すのですね」
ここは彼らといた階層とは別の、どこともしれない闇の中。
それでも、ここから起こっていることすべてが見られるのは幸いか、不幸か、それはもう彼には判断できない問題であった。
「私は――逃げてばかりだ」
今も、昔も。
無意識に右腕を押さえ、微笑んだ。
ここはディールが自分の攻撃を止めるために咄嗟に狙った場所。
痛みはもうないが、今でも忘れられない場所であった。
「セティは、与えられた名前だ……」
彼――エルヴィスはどういう理由か定かではないが、レディンの名前を激しく嫌っていた。
『きみの名前はセティだ――うん、いい名前じゃないか。正義と真実を語る。君は、正直な子になるだろうね』
自分の名前を塗り替えられた時点で既に偽りの存在となったわけだったが、それでも、エルヴィスは自分の恩人で尊敬する主だということには変わらなかった。
だから、自分の名前が奪われたことによる悲しみも疑問も不信も、心の奥底に仕舞い込んだ。
そして、遺物として忘れ去られていった。
エルヴィスに人生と忠誠を捧げ、自分ができることは何だってやってみせた。
──結果的に争うことになっても、最後まで尊敬する人だったのに……。
『セティ……または、レディン。どちらが本物のお前か……』
その先は、流れ落ちる血に呑まれて聞こえなかった。
エルヴィスを刺した後、巧みな言葉で誘惑されて連れて来られたのが此処。
すぐ後に誘惑を断ち切ったのも――此処だ。
「どうしてこんなことに」
それ以来、見た目まで変わってしまった。
見る度に心を抉られるような思いがするのに、目に入ってしまうのは間違いなく彼の報復である。
床に散らばる小さな鏡に映る己の姿──楠む赤が交じる髪、ほんの少しだけ若葉の交じる髪。
全然別物だが、どちらも本物の彼の姿だ。
その、二つの本物が交互に移り変わり、双方が遠く彼方を見つめた。
「もうすぐ、もうすぐ……」
この空間が色のない灰に変わり始めている。
ヴァンの願いが、憎悪が少しずつ姿を芽吹き始めている。
世界を変えようと願った彼の野心が姿を表し始めている。
元有るべき姿が歪むまで、あと少し。
だが、世界を変えようとする者がいれば、世界を守ろうとする者がいるのも必然だ。
正義を持つ者として選ばれたのは、この世界や暗躍する人間たちの目的さえ知らずに。
――唯、かの人を助けるという想いだけで突き進んで来た無謀な人たち。
「──ディール」
とうの昔に切り捨てたはずの名前を囁き、レディン──セティは確かな足取りで進み始めた。
彼もまた、長い苦悩の果てに答えを見つけたのである。
「ヴァン――あなたに答えを示さなければならない」
迷いを捨て、彼は行く──ヴァンが待ち受ける塔の中心へ。
****
暗闇に道を隠して蝋燭で見る者を惑わせた空間。
その中から漸く階段を見つけ、闇雲に登るゼーウェルを追うように後ろから精霊がやって来る。
先ほどまで退屈だと八つ当たりしていた彼にはある意味素敵なサプライズとも言えるが、「はあ、はあ」と荒い息を吐いて登っている様からは優雅さなど欠片もない。
「待て! 我らを脅かす愚か者よ!」
「待つものか!」
「お前が死ぬまで我は追いかけるぞ! 死の底までも!」
「くっ……邪悪を照らせ! サンダー!」
掌から放たれた光が邪悪を切り裂き、気配を振り払う。
然し、人の心を具現化した概念。実態もない概念が尽きることもなく。
次から次へと邪悪な形で生かされた命は現れる。
「……何故!」
焦っていた。
もう力も殆ど残っていない。
先程までの勢いも失せていて。
「……くっ」
再度、詠唱を始めようとしたところで目の奥が点滅する感覚を覚え、ふらついた。
視界が霞み、情け知らずの精霊が迫る。
『ここで、私は』
弧を描くように華麗に振るった銀は鋭い傷を深く刻みつけて――腕に痛みを覚えた。
嗚呼……次は……胸を引き裂くのか――。
朧気に映る曲線が自分の腕を切り裂き、次は――。
朦朧となる意識の中で冷静に敵の動きをなぞりながら、片方では。
──ごめん……レイザ。
自分を庇った彼への謝罪を呟きながら意識が遠退いていく……。
屈託のない彼の笑顔を思い浮かべながら、痛みに背を仰け反り、意識を手放しかけたその時だった。
──諦めるな!
自分が、多分一番に思っている──レイザの叱咤激励の言葉を聞きながら彼は意識を手放していく。
「……諦めるな!」
──どうしても忘れられないことがあった……。
──朝焼けを見つめながら、大地を見下ろしている自分と、自分の目に映る大地が。
思い出す度に心が震えていた。
──あの感覚を、自分は忘れられないでいる。あれは、何と言うのだろう。
あと、もうひとつ。
何故か知らないが、レイザを見る毎に自分は大切なことを忘れているような気がした。
どうしても、どうしても──レイザを失いたくないと思ってしまった。
「──諦めるわけには、いかない!」
心に深く刻まれた活気ある声に背中を押され、気力を奮い立たせて立ち上がると、迫り来る生命体を凪ぎ払った。
まだ少し、あと少し──もう少し、戦いたい。
切り裂かれた腕の痛みを引きずりながらゼーウェルは通路を走り抜いた。
そして、果てしなく長い道を歩いて彼は先に続く階段を見つけた。
やっと、ここまで来たのだ。
次に繋がる階段なら、躊躇う必要などない。
胸に抱く希望を胸に、強く踏みしめながら登っていった。
──まだ、戦いは始まったばかりだ。
「……諦めないさ、絶対に」
今度こそ……。
****
『彼は、必ずここへ来るはずだ』
黒幕に仮面をつけ、七色に輝くガラスを見つめている。
中にあるは、純粋なる愛情と一点の曇りもない想い。
「この世界をどれほど、どれほど、どれほど憎んだだろう!」
時代は移り変わり、平和に歌い、戯れながら過ごす生まれ変わった大地にどれ程の憧れを向けてきただろう。
「いつだって、いつだって」
ただ、ただ、目の前にある理をなぞり、反れてきた者達を制しただけなのに。
「君が、君だってそうじゃないか」
たかが古い書物の夢物語に惹かれた者に利用され、周りは『希望』だと祭り上げられた美しき彼女。
希望だと言った彼女の傍らにいる人を──わざわざ目の前で切り裂いたのに。
「どうして邪魔をされなければならないんだ!」
お前たちは何ら関係ないはずだったのに。
何時しか、敵だと目を向けられた彼らの意識は大きな力へと変えて、行動へと変えて。
そして、命を燃やしながら希望を信じて歩を進める彼がこの塔を進んでいる。
彼を信じている者も。
彼と関係のなかった者も。
全て、全てが。
もうすぐ、もうすぐだ。
「見ていて、君を殺した世界を創り変える僕の姿を、じっと」
二度と失わないようにしてあげる。
儚いものではなく、強固な形に変えてあげる。
きみが願っていたことも、全て叶えてあげるよ。
「そのためには、まず」
声高らかに反対を叫ぶ、彼を罰しなければならない。
今、ある世界を頑なに守ろうとする彼を、この手で、必ず。
「待っていろ、ゼーウェル──セイシェル・ハイブライト」
諦めを表に出しながらも、本当は何も諦めていない愚かな青年。
費えることのない無限の炎を背に、彼は罰するべき相手が迫るのを待っている。
──まず、狙うべきは、お前だよ。




