Prorogue: 現在地点
遠くから、幽かに響く囁きが自分の耳にふきかけられる。
まるで呻くように、或いは泣くように、しかし哭くように、幾重にも混ぜ込んだ感情を加えた質問が聞こえた。
「どうして置いていくの?」
すがるように、噛み付くように。私を咎めるような雰囲気を以て聞いてくる。
「どうして置いていくの?」
何度も何度も何度も同じことを繰り返す。
答えを待っているらしいが、そもそもどうしてこんなことを聞いてくるのか分からない自分には答えようもないはずだ。
これは何の声か、声の主は誰なのか、支離滅裂な疑問が浮かんでは消えていく。
無言でいたままの自分に対して投げかけられた呼び声。
「ゼーウェル」
最後に名前を呼んだ声は怒りを孕んだものに聞こえたのは気のせいか。
「……ウェル、ゼー……ル……!」
先ほどのものとは違う声で私は光の中に吸い込まれていく――そこで視界が開けた。
****
――ハーヴィストタワーから逃げている間は必死だった。
アイーダとルイズが意識のないゼーウェルの手当に努めていて、ディールも二人をサポートしていた。
巨鳥とはいえ背の上で動くには限界がある。
加えてゼーウェルと瓜二つの――狂気を覆ったダークの存在は未だ驚異だった。
想像を超えた力を容易く駆使できる者が今度はどんな手段を使うのかは予想もできなかった。
敵から狙われたまま、負傷者を抱えて逃げなければならない状態は正に危機的だったと、彼らは冷や汗をかき、警戒していたのだが。
そんな彼らの予想に反して嵐は訪れる兆候さえ見せることなく安全な場所へたどり着いた。
レイザ達が着いたのはロックレンブレムにあった小屋。
「こんなものがあったのかよ」
彼の最もである。
それに答えたルイズも初めて見たときのことを思い出し、感慨深く答えてくれた。
「あたしも発見した時は驚いたんだけど、レイザ達の話をしたら小屋を出してくれたんだよ」
「そんなことできるのかよ!?」
そこに無かったものが現れるなんて摩訶不思議な現象、レイザには想像できなかったが助っ人であるルイズが新たに付け足す。
「傷だらけの妖精を手当てしたらやってくれた」
彼女があっけからんと種明かしし、指で示した先には。
「レイザ、久しぶりなのネ!」
いつぞやの妖精である。名前はフィーノ。変な喋り方が特徴的な生き物だ。よく見たらまだ小さな傷がちょこちょこと残っている。
少しだけの間だが確かに仲間として共に戦ったことのあるレイザは初めて出会った場所――リーフグリーンのその後の様子を彼女から詳しく聞きたくなった。
「ああ、あの時はありがとネ。無事にお友達にも会えたんだネーそうそう、ハワードがいなくなってから太陽の光も出てきてすっごく過ごし易かったんだけどネー……暫く経ってからかな、突然燃えちゃったのネ」
「はあ!?」
さらっと返ってきたのは襲撃を受けたという答えだったのだから、これにはレイザも驚くばかりである。
リーフグリーンが禍々しい空気を放っていたのはハワードのせいではないのか。
すると彼女は俯いて答えた。
「炎が高く舞い上がって、こっちに降り注ぐ様を見たわ、あれは――『召喚』じゃないのかしら」
「召喚……!」
そこで食いついたのはルイズだった。
「ルイズ、どうしたんだよ」
今までのらりくらりと話していた彼女の表情には明らかな焦りが全面に出されていた。
「炎を扱う鳥か、悪魔なのかなー……考えただけでも恐ろしいわ」
火のように赤く舞い上がり、禍の炎を吐き、森を焼き尽くす様を思い起こしたフィーノは怯えていた。
「やっぱり、やっぱり……あいつが、あいつが」
ルイズは俯き、暫く一人でぶつぶつと何かを言っていたようだが、レイザがルイズをじっと見つめたところで彼女はバツの悪そうな顔をして説明した。
「そんな顔をするなよ、話すしかないだろ。最初から話せば良かったんだけどなあ、あんたがゼーウェルの部下だって聞いて話せなかったんだ」
「どういうことだよ、それ」
ゼーウェルの部下だから話したくないとはどういうことなのだろう。
「だけど、その前に――どうしても話して置きたいことがあるんだ。聞いてくれないかね」
彼女はどこか懇願するような瞳で言った。
「あ、ああ、この先について、なんだろ?」
「勿論さ」
「じゃあ聞かないとダメだろ」
レイザはハハッと快活に笑ってルイズに返す。
「でも、ついていけるのかしらねえ」
「……ああ、どうだろ」
先ほどから黙って聞いていたディールとアイーダが拗ねたように笑ってレイザに突っかかる。
「僕ら置いてけぼりだねー」
これにはレイザも苦笑を禁じ得なかった。
****
「リーフグリーンの火は、突然空からやってきた……召喚」
「召喚って何だよ」
レイザは疑問を呈した。
召喚という単語は今までどこにも登場しなかったからだ。
だが、この単語はとても重要な――敵である彼らの核心に迫る切り札に成り得るかもしれないとさえ思う。
「精霊と契約し、力を使役するものね。だけど、それは存在し得ないものだと言われていた」
「そりゃそうだろ。神様すらいないって言ってる奴だっているのに」
「レイザはそういうの嫌いな感じがするね」
「嫌いに決まってるだろ。縛られるなんてごめんだ」
「わーお、レイザらしいね」
「まあ、煩わしいから無理もないんだけど、話は続けるけどもね」
「うんうん」
召喚は彼女の口から実しやかに語られた。
元々は自然現象に対する畏怖を表したもの、そこから派生して存在する神聖な名前のものに対する敬意と戦意を合わせたもの、そして奇跡に対する感謝と願望を名前にしたものが召喚というらしい。
「でもさ、そんなもの、どうやって見つけるんだよ」
レイザの疑問は最もだった。
そんな超現象を起こすものを彼らはどこで会得したのか。
仮に具体的な存在――そう、精霊の存在だ。
いるかいないかすら分からない精霊の存在を、居場所を、どうして掴めたのか。
疑問は膨らむばかりだが、きっとこの辺りもルイズが順を追って説明してくれると思うのでレイザは何も言わずに黙っていた。
勿論、若干焦れていたものの。
「ふあああー、難しいねー……」
勉強が苦手なディールは難しい話に早くもパンクを起こしたのか遠慮なく眠気を見せつけてくる。
(人が折角眠気を堪えているのに)
ディールの無邪気さには救われたことも多かったが、この発言を見る限り前言撤回したくなる。
「それでね、召喚は人間には使えないものだったんだよ」
「理由は分かる! だって何に使うか分からないもんね」
さっきまで眠たそうに話を聞いていたのにここで張り切りながら答えるなんて、呆れて物も言えないとレイザは溜息をつく。
「そう、正解だよ。だから人間には使えないようにされた。さて、目は覚めたかい?」
「あ、うん……」
どうやらディールが眠たそうに話を聞いているのはルイズも把握済みのようだ。やはり彼女は一枚上手らしい。
「禁術といわれた召喚……魔法はね、思わぬ形で実現した」
「思わぬ形?」
ディールとレイザは揃って首を傾げる。
「命――これをエネルギーとして駆使すれば実現できる……エルヴィス様がそれを発見した」
「……!」
精霊の存在も、自然も、奇跡も、根底にあるのは「命」だ。
自然にも命があり、精霊は無論、奇跡も「命」を救うことを指しているなら共通項と言える。
「だから、だから駆り出されたの?」
「……」
ディールの質問にルイズは流暢な喋りとは一転して沈黙した。
「……人の命を、破壊のために使うから?」
禁術である以前に神秘的な現象に名前をつけたものが、破壊活動のために使われている。
それが、ディールには許せなかった。
「……ごめんな、ディール。理由は、分からないんだ」
止められたことを止められなかった。
彼は、父の言動に迷いながらも信じていたに違いない。
儚い命を粗末にするようなことをするような奴だと思いたくないのだろう。しきりに頭を振っている。
だが、ルイズでさえ発見者たるエルヴィスの――ディールの父の意図は分からないままだった。
何故、禁じられたものに手を下すまでに至ったのか。
ただの衝動か、それとも。
「まあ、話は長くなるんだけど。厄介なことに共感した人がいてねえ、特にヴァンとリデル、それから……」
「それから?」
「……私とゼーウェルも賛同した」
「……」
ディールはルイズの一言を聞いて、何も言い返せなかった。
どうして賛同なんてしたのかと言わんばかりの視線だが、理由を話すのをルイズはまだ躊躇っていた。
「……ディール」
「レイザ」
「大人の事情があるんだろ、追求するなよ」
「……うー」
納得いかないと唸り声を小さく上げたが、レイザが焦れているのを見て渋々追及をやめて置いた。
核心を突いて、もたらすことはあまり良い事ではないと本能が告げている。
だからレイザはこれ以上追及したくなかったのである。
「……レイザ」
「何だよ」
ルイズが不意打ちで彼を呼んだので、噛み付くような攻撃的な返答をしてしまったのである。
「悪いな、ルイズ」
「いいや、そんな風に反応されても当然だよ。あんたがあたしに対してどう思ってるかは分かってるつもりだよ」
「へえ、何か意外だな」
「でしょ?」
「……姉さん」
「あ、アイーダ……」
ははっと快活に笑っているところをアイーダに睨まれ、彼女は口を噤んだ。
どうやらここで一番賢いのはお淑やかな少女のようである。
「ちゃんと説明してよ……で、退屈な話かもしれないけどサッグっていうのは元々魔術研究をするために作られた組織なの」
確かに長ったるい説明である。
まだまだ続くのかとげんなりしたレイザだが先ほどのルイズを見て口出しもできないでいた……事実。
「眠っちゃだめよ?」
お茶目な笑顔とは裏腹に目はちっとも笑っていなかったのであった……。
ただでさえ雪山の冷風が身に染みるのに、彼女の放つオーラは芯から底冷えするほど寒々しかったとか何とか。
****
仄明るい火が壁に灯されても尚邪悪な気配を色濃く残す広大な空間の中心。
それぞれの者たちが一列に並び、背筋を伸ばしていた。
「マスター・ダーク」
彼らの前にある祭壇の中央に現れた――漆黒の男。
それぞれが揃って名を呼ぶと、男は嬉しそうに笑って話し始める。
「ここに来た客人はなかなかの優等生だった。我々は彼らの力を少々甘く見ていたようだ」
「……現在、彼奴らはこの塔の土台『ロックレンブレム』にて潜伏しています」
「ほう、報告をありがとう――ヴァン・フェイ」
「はっ」
ヴァンと呼ばれた男は一歩前に出て恭しくお辞儀をし、真っ直ぐとダークを見つめた。
「ヴァンよ、お前にとっても我々サッグにとっても裏切りとはどういう罪なのか教えてくれないか」
「はっ、ダーク様。我々にとって裏切りとは大罪。理想を否定することは禁忌。大罪並びに禁忌を犯す者は万死に値する」
「よろしい、ではできることはただ一つ」
「――裏切り者には我々の理想の礎となって頂きましょう」
「そうだ。ヴァン――頼んだぞ」
「はっ、必ずや良い成果をダーク様に捧げて見せましょう……私の誇りにかけて」
ヴァンはにこやかに笑ってダークに高らかに宣言すると、振り返って整列する者たちに呼びかける。
「行くぞ、我らが偉大なる正義の使者『サッグ』の同志よ――サッグに刃向った愚か者を成敗するのだ。彼奴らに与えられたこの痛み、決して忘れてはならぬ!」
「御意!」
彼らはそれぞれの武器を持ち、勇ましく駆けて行く。
――狙うべきは裏切り者の在所。
「……もう直ぐだ、もう直ぐで手に入る」
一人残ったダークはしきりに呟いた。
自らが欲するもの、願い、祈りを。
『何ものにも囚われぬ、思いどおりになる世界が』
****
「でもさ、魔術なんて存在しなかっただろ?」
ロックレンブレムの小屋でレイザ達は再び話を聞いていた。
実際には聞かされたと言っても過言ではないが、折角の有難い話は聞いておかねばならないと腹を括ったのである。
「レイザさん、質問はある程度聞いてからにしてね」
「は、はあ……」
にっこりと切られ、レイザに大きな痛手をもたらしたがアイーダは全く気にすることなく話を進める。
「まあ、存在しなかったのは事実。これもおとぎ話の一部でしかないんだけど、偶々フィリカに迷い込んだ旅人がフィリカの住人が使う摩訶不思議な力のことを魔術って呼んだのよ」
「へえ、フィリカでしか使えなかったのか」
「その通り。因みにフィリカを出ると使えなかったみたいね。で、その理由なんだけどフィリカには全知全能の神様がいてね、その神様が自分の思い通りになる世界に発展することを願って住人たちに力を与えたの。神様にとって住人はある意味下僕だったのかもしれないわね」
「でも、そんな力、狙われるに決まってるだろ」
レイザが切り返すとアイーダも頷いて彼に同調した。
「勿論よ。人間には知恵があるもの。狙われた住人達は捕まえられて生贄にされたの。中には得体の知れない存在として処刑された者もいるのかしら」
「そっかあー……人間も結構えげつない生き物だねえ」
「そうよ、人間みたいに醜く理想を追い求める生き物、他にいないんじゃないのかなあ」
「で、滅び去ったのか」
「レイザさん、さっすが! 結局人間は住人たちを食い潰し、フィリカは無人島になってしまったのね。無人島になった場所に統治者がいたって意味もないから神様は命を絶ち、フィリカは滅び去ったのよ」
話の内容は実に分かりやすい幻想的なお伽話だ。
「しかし何でサッグはそんなお伽話に目をつけたんだ?」
レイザからすれば夢物語でしかない。
そこに執着する理由も分からない。
「そうねえ、これはあくまで私の推測なんだけど」
「うんうん」
「単純に力が欲しかったんじゃないのかな、なんて」
「ええええ~!」
その場にいた人たちの誰もが声をあげた。
あまりにも単純で単調な理由だったからだ。
「でも、そんなものよネー」
そんな中、アイーダに同調したフィーノが笑いながら続ける。
「まあ、人間って複雑怪奇な生き物だし? 何をしでかすか分からない恐ろしい動物だもんネー」
「複雑な感情回路をした生き物だからね」
うふふと二人は茶目っ気たっぷりに笑うが、笑いどころではないのだ。
事態は危険な方向に転がり続けているのである。
これを食い止める方法が知りたいのに、これでは話が一向に進まないではないか。
「話が逸れたわね。サッグはいわば一種の研究団だったわけだけど、これがある日突然凶悪な危険思考を持つようになるのね」
アイーダが切り替えて再び真面目な表情で語る。
「それが今の状態か?」
「そうよ、どうしてかは知らないけれどね」
そこでアイーダは話を切ったが、ピンと人差し指を立てて一つの答えを打ち立てた。
「多分、魔法を再現する方法を編み出したか、見つけたかなのよね」
「ほうほう、いよいよ嫌な流れになっているな」
「そうなのね。そして再現した力を植えつけるか何かして実際に具現化した人間が現われたのよ!」
「だとしたらサッグが放っておかないな!」
「でしょう! そう、いたのよ。名前はユリウス――ユリウス・ナナキ」
「いたのかよ!」
今まで話していたことは一種の空想的推理かと思っていたが、どうやら全て現実で起こっていた話である。
レイザはそれに驚きを隠せないでいたが、そもそも知らなければここまで具体的な話をする必要もないのだ。
「ユリウスは凄かった。ありとあらゆる奇跡を起こして人々を助けたの。不治の病を治したり地位を格段に向上させたり。まさに全知全能の神様みたいだった。だけど、彼女の力を狙ってサッグは執拗に責めたのよ。あとは――彼女の力に憧れてサッグ側に付いた人もいたかしら」
「だ、誰なんだ。サッグ側についた人間って」
いよいよ、話が核心に迫っている。
ふと、先ほどの――ルイズが話を濁したことを思い出して彼女を見やると、彼女は憂いを浮かべて耐えている。
ルイズは知っているのだ、全て。
きっと、ルイズでは話しにくいと思ったアイーダがレイザにうまく伝えようとしていたのだろう。
少なくともアイーダはルイズより冷静さがあるとは思っていた。
冷静さがある故に、逆らえないわけだが。
「誰なんだよ」
レイザは無意識に声が震えるのを感じた。
誰か……誰かは何となく予想できてしまう。
聞かなければならない、聞きたい、けれども聞けない。
相反する感情がせめぎ合う中、アイーダは静かに答えた。
「あなたの主、ゼーウェル様よ」
****
「彼奴らの潜伏地が見えない……ゼーウェル、ゼーウェルはこの手で殺さなければならないのに。見えないとは……忌々しい」
冷風吹き荒れる雪原の高山ロックレンブレム。
ダークの命令を受けたヴァンは空から彼らを探し出している。
ゼーウェルへの殺意を吐きながら、敵意を示しながら。
「あいつが同調しなければ……あいつが、弱くなければ、あいつが、フィリカに……ゼーウェルが、ゼーウェルが」
思い出すのは痛みを伴う過去。
忌々しい記憶。
フィリカという単語は何度聞いても忌々しさが拭えないばかりか、強くなる一方である。
自分にとってこれは青臭く苦い記憶として底に沈めた筈なのに、ふとしたきっかけで思い出されその度に鮮やかな色彩を以て立ち塞がっては彼を苛んだ。
「これは、罰だろうか?」
灰色の空を渡る途中、ヴァンは小さく呟いた。
「――ユリウス」
今もそう。
ゼーウェルも攻撃の目標としてあるのだ、奴は自分の苦い記憶の中心を担っている。
目を閉じれば、やはり彩色で塗られた過去が蘇るのだ。
よいことではない。
悪いことばかりだ。
『魔術は大きく分けて二つある。白と黒。白は回復、黒は攻撃を司る』
――才能に溢れていた今は亡き彼女の声。
その時の自分は白も黒も使えない。
剣だって扱えない。
勉強だって秀でたわけでもなく、当たり前にあるようなものだってなかった。
努力はしてみた、恨まないように慎ましく生きてきた、けれども彼を蔑む視線は耐えられるものではなかったのである。
――誰に勝てるというのだ。
つまらない日々の中で鬱積だけが堪るある日、彼女は現れた。
「どうしたの? 何か辛そうよ」
彼女は天真爛漫で世間知らずな娘だった。
何も不自由せず過ごしていたに違いない。
「話してよ」
けれども、数少ない優しさに触れた心はあっけなく彼女への恋心に変わった。
本当は誰でもいいから自分を見てほしかった――認めてほしかった。
――居場所が、欲しかった。
『誰かに勝ちたかった』
誰かに勝てば、負けた人は認めてくれるかもしれない。
自分の傍にいてくれるかもしれない。
いくつもいくつも湧き出る虚無感を彼は涙で表現した。
「そう、じゃあ、一緒に行きましょうよ」
彼女は突然自分に来いと言った。
彼は何処へ、とは聞かなかった。
必要とされている事実が嬉しかったのである。
「フィリカという単語さえ聞かなければ、聞かなければ」
彼女はいなくなった。
彼女は必要だからと、彼から奪っていたのだ。
「みんなの希望を無駄にできない」
馬鹿な娘だと心の底から思った。
けれどもこの娘は馬鹿みたいにまっすぐだった。
結果は、結果は――……。
「許せない」
怒りが湧いた。
憎しみが心を歪めた。
狂気は――明確な対象へ向けられた。
「あいつがいけないんだ」
目を開けば遥か下に対象がいる小屋らしいシルエットが見えた。
それと同時に微笑む恋しい娘の顔が浮かんだ。
「ユリウス」
思い出す度に涙が止まらない。
****
「ところでフィーノ」
「何なのネー」
「お前いつから聞いてたの?」
素朴な疑問である。
最初の方はフィーノの面影などどこにもなかったのにいつからいたというのだろう。
するとフィーノはクスクス笑って「結構最初の方だネ」と答えた。
「じゃあ早く言えよ」
「んー、それから、ゼーウェルって人が目を覚ましたことを教えようと思ったのネ」
「何でそんな大事なこと言わないんだ!」
「何となく?」
「何だよ!」
突っ込み放題の切り返しだが相手は不思議生物である、反論するだけ無意味なことはリーフグリーンで十分学習した。
「早く言ってあげたほうがいいと思うのネー」
「何か納得いかねー」
「世の中そんなものなんだネー、ささ、早く行った行った。先にちっこい子がいったから」
「そう言えばあいついつからいなかったんだよ!」
もう踏んだり蹴ったりである。
フィーノに弄ばれながらもレイザはゼーウェルのところに向かったのである。
彼が目を覚ましたのはレイザにとってこれ以上ない喜びでもあったからだ。
けれども、一つの言葉が脳裏に過った瞬間、彼は足が縫い付けられたように立ち止った。
『私はお前をわすれる』
彼は、自分を忘れると言ったのだ。
今でも鮮明に覚えているが、それはどういう意味なのだろう。
彼がいなくなってしまうのではないかとさえ思った程だ。
けれども、無事だった。
迅速に対応してくれたルイズやアイーダには感謝しなければと思う。
ミディアのことを考えたら如何なる理由でも自分たちに快く協力はできなかったと思う。
彼が倒れてからは兎に角不安だった。
ゼーウェルやディールがいなければ果たして一人でルディアスやルキリス、メーデルやミディアのことは耐えきれなかったかもしれない。
「……ゼーウェルは、無事かな」
ダークの攻撃を必死に庇った彼。何とか命だけは助かった。
だが、不安だ、安心できない。
幾度も感情が重なる中でも躊躇はなかった。
会いたい一心からカラカラと音を鳴らし、やや乱暴に引き戸を開けると、ゼーウェルとディールが一斉にこちらを振り向いた。
「レイザ、話は終わったの?」
珍しく神妙な表情のディールが気遣うように話し掛ける。
「あ、ああ、フィーノが促してくれたんだ」
「そうなんだ、フィーノって子が見てくれてたんだって」
ディールがやや悪戯っぽく笑うとレイザは彼を睨んだ。
この口ぶりで大分前にゼーウェルが意識を取り戻したことは知っていたようだ。
「まあまあ、落ち着いて。ゼーウェルさんなら向こうにいるよ。ただ、うん」
恨めしく笑うレイザを見て彼はぎこちなく笑って肩を叩く。
慰めにも取れる行動に何か悪いことでもあるかもしれないと思ったが、ディールは何も言わず去っていった。
「どうしたんだ?」
首を傾げたが、聞いても仕方ないとゼーウェルの元へ向かう。
「……えっと、ゼーウェル」
程よい距離まで歩くと彼は立ち止まり、ゼーウェルの名前を呼ぶ。ごく自然なことだったが。
「……あなたは……レイザ、さん……ですか? 先程、ディールさんが話してくださいましたが……」
――頭の中が真っ白になるかと思った。
『私は全てを忘れる』
薄暗い塔内での彼の言葉が蘇る。
血塗れの彼が倒れ込んだあの時、彼は淡々と、然しはっきりと告げたことを。
「レイザさん? レイザさん!」
レイザは崩れ落ち、ゼーウェルは状況を掴めず、覚えたばかりの名前を呼んだ。
「ゼーウェルさん、どうかした?」
やって来たのは外で待機するディールだ。
ディールを見たゼーウェルは安堵し、レイザの背中を擦りながら事情を話した。
「私、何かしたのでしょうか……レイザさんが急に倒れたので……でも、私には何の対応もできなくて……」
狼狽えるゼーウェルを余所にレイザは弱々しい力ながらも彼の腕を掴んで立ち上がった。
「レイザさん! 大丈夫ですか?」
彼が起き上がったのを見てゼーウェルは駆け寄る。
「悪いな……ゼーウェル。ちょっと、倒れただけだ」
元来の性格なのか、レイザは強気に笑って答えた。
「良かったです……ディールさん、いきなり大きな声を出してしまい申し訳ありません」
「いいよ、気にしないで、ゼーウェルさんのためならなんだってやるよ」
彼の明るい笑顔を見てゼーウェルは緊張のとれた安堵の笑顔を浮かべた。
****
ゼーウェルのいる場所にレイザを残し、一人になったディールは決意を示した。
「決着をつけなくちゃね」
フィリカまで現してしまった。
心の中に根付いた怒りは恐ろしい。
負の力を得たヴァンと戦うには今まで蓄積された記憶は全て消さなければならないのだろう。
そうでなければ、ヴァンの思うがままになってしまうからだろうか。
ただ、彼がヴァンと戦う決意を示した理由があるとするならば――レイザが彼の前に現れたことだろうか?
「ディール」
そこへ、なかなか戻らないディールを心配してアイーダはやって来た。
「ゼーウェル様は?」
「大丈夫。記憶もない」
「そう……やっぱり忘れたのね」
「仕方ないよ、ヴァンやセティ、ダークと戦うには一度リセットするしかない。ゼーウェルさんだって分かっているよ。レイザと違ってゼーウェルさんは覚えてるんだから」
それでもやるせない。せめてこの話がレイザの耳に入らないことを祈る。
それにしても、と、アイーダがディールを見つめる。
「どうしてこうなったのかしら」
「そうだよ、いくら変わっても簡単には断ち切れないんだろうかねえ。でも、今までだって、これからだって俺たちの願うことは変わらない。そうだろ?」
アイーダを安心させるようにディールは笑った。
「……ディール、ヴァンを止められるのかしら?」
それでも、アイーダは不安と悔しさを滲ませながらディールに問う。
また――『前みたいなこと』になるのではないか、と。
「分かんないよ、そんなこと。やってみないとね」
ディールは首をふって返答し、続けて話した。
「最善は尽くすけどね。絶対にできるって断言するの、懲り懲りだよ。でも可能性はある。可能性がある限り試してみせるよ」
「ディール……私も頑張るわ」
「そう来なくっちゃ」
恐れながらも前を向こうとするアイーダを見てディールが白い歯を見せて無邪気に笑った。
そして彼はアイーダに笑って背を向ける。
「レイザのところに行ってくるね」
無邪気で頼もしい背中が、再び戦いに赴く。
「……セティ、あなたには見えてる? ディールは相変わらず強いわ。私やセティは今も昔も怯えているだけなのにね」
仄かな光を瞳に宿し、アイーダもまたディールの後を追う。
――再び、立つ時が来たようだ。




