前世の話 川上 彬の生き様と英雄の死後
この話は、英雄 川上 彬の生き様と英雄の死後についての話である。
俺、川上 彬は神奈川県藤沢市のとある病院で生まれた。母親は清王朝の大貴族の末裔の王家の末娘だった。だが、親が決めた許嫁を嫌い俺の父親 川上 竜也に一目惚れして、親と絶縁して日本にやって来た中国人だった。上手く、父の竜也を丸め込み結婚に漕ぎ着けたが、父の家には毛嫌いされていた。
父は、結婚して7年(俺が生まれて4年)の時に深原 智津夫率いる新々宗教の「闇の翼真理教」の「日本浄化作戦」の「東京皇居新型ウイルス事件」に巻き込まれ、死亡した。
母は、「マンモン真理教」を憎みマスコミに被害者の家族という立場を利用して、反宗教運動を起こそうとしたが中国人だった為、無視された。
母は、父の家族からも実家からも支援を受けられなかった為に俺を育てるのに過労になっていた。
その為、母は俺が7歳の時に過労死してしまった。そして、俺は親戚に見捨てられていた為に孤児院に入り12歳までそこで暮らした。
孤児院5年間の生活の時に、ハッカーとしての才能に目覚め日本で一番強く世界でもTOP10に入るほどのハッカーに成長した。
12歳の夏休みのとある日、俺は「東京皇居新型ウイルス事件」の黒幕を知る事が出来た。
「マンモン真理教」の教祖は、中国人に洗脳された日本を支配下にいれる為の工作員だったのだ。そして、その工作員達や核爆弾の管理を母親の一族である王家がしていたのである。
彼は、王家の過激派のパソコンの㊙データーファイルをハッキングしたら、日本で捉えれたファイルの本家を見つけた上に、10年後に、世界34ヶ所に原爆を投下するという驚愕の計画を知った。
そして、日本に密かに存在していた「中国崩壊計画・実行会」に入会した。
そこを拠点として、5年かけてスパイ活動が不備なく出来るように訓練した。そして、一人前に認められてから1年かけて中国の核ミサイル発射基地を調べあげた。
完全に調べあげた後、核ミサイル発射基地を全て叩き、その事と中国の計画を全世界に流した。
だが、一つ忘れていた事があった。それは、中国は一艘の原子力空母を所有していてその中に核ミサイルが1発あったことである。
俺は、任務を終えて船で上海に台湾から戻ろうとした時に、俺が乗っていた船に核ミサイルが狙い撃たれた。そして、俺ごと船は沈没した。
俺の死後、イスラム教,キリスト教,ユダヤ教などからは、「復活した預言者」、「現代の救世主」、「ヤハウェが遣わした天使」などと色々な称号が与えられた。
中国は失態から常任理事国を追放され、「川上 彬」を育てた日本が常任理事国に入った。
日本では、「川上 彬」が英雄に祭り上げられ靖国神社に葬られ、「救世の英雄 彬」と言う本が出版され3000万部を超える量が売り上げられたり、「救世の英雄〜英雄の生き様〜」と言う映画が放映され1億人が見ると言う現象が起こり、日本の景気はV字回復した。また、彼が育った孤児院は英雄を輩出したところとして成長し、「日本総合孤児院協会」になるに至った。
世界転覆を狙っていた組織は、日本を中心とした国連の平和維持活動によって殲滅されられた。
また、ノーベル賞の規定を変えて彼に与えようと言う運動が起こり、特例としてノーベル平和賞が与えられ、彼の棺桶の中に一緒に葬られた。
彼の死後、半世紀は戦争が起こらず平和な世界になった。
原爆が投下される予定だった都市
「ワシントンDC,ニューヨーク,サンフランシスコ,ホノルル,メキシコシティー,カラカス,ブエノスアイレス,ブラジリア,ロンドン,パリ,ローマ,ベルリン,ウィーン,モスクワ,サンクトペテルブルク,ストックホルム,オスロ,マドリード,リスボン,アテネ,イスタンブール,エルサレム,メッカ,メディナ,カイロ,アジスアベバ,オークランド,メルボルン,デリー,ソウル,大阪,京都,名古屋,東京」の34ヶ所である。