スマートな人間が溢れる社会。
生き方やものの考え方の話である。体型とは関係ない。スマートと言えば、今は専ら携帯端末を指す言葉となり、人間は若干お株を奪われた形になるが、もともとこの言葉はどこか非人間的な雰囲気を持ち合わせていたように思われる。
現代風で、洗練されていて、垢抜けている。スマートという言葉が体現するのはそう言ったようすである。賢く、抜け目がないと言っても良いし、ちょっと意地悪な言い換えをすれば、ずる賢いということになる。
情報社会となり、様々な知識、テクニックが拡散した結果、人間が行使する悪知恵も日々その数を増しているようだ。
人間は自分が得をしたこと、幸運にも美味い汁を吸ったことを人に自慢する傾向にある。SNSには不幸自慢と同じくらい、幸せ自慢が溢れている。
自分はこんな人間だと人に示すための道具として、幸福と不幸は実に都合が良いもののようで、幸福も不幸も同じ価値を持っているのではないかと思うほどである。
優しく、住みごごちが良い、平和な社会を維持するためにモラルは不可欠である。
例えば、日本の公共サービス、福祉制度といったものは、仕組みのややこしさ、手続きの堅苦しさが難点だが、正式な手続きを踏めばほとんどの場合に援助が届く点で優しさが根底にある。
肝心なところで詰めが甘いというか、制度の抜け道のようなものが問題になることもしばしばだが、これも困っている人を迅速に、幅広く助けたいという考えを優先した結果のように思える。
しかし、そこにつけ込んで、制度を悪用し、その趣旨から外れた使い方をする人間が増えたらどういうことになるか。公共サービスや福祉制度を支える資源は無尽蔵ではない。無節操にサービスや制度が利用されれば、資源の注入が消費の速度に追いつかず、本当に援助が必要な人間に手を差し伸べる前に枯渇し、機能を停止してしまうことになる。
そのようなことが起きるとサービスや制度の手続き、内容が厳格化され、社会のすみごごちが少し悪くなる。その継続によって社会は様々な意味でどんどん貧しくなり、人心は荒廃し、戦いや争いに傾くようになる。平和な社会の終わりである。
公共サービスや福祉制度に限った話ではないが、社会や他人の優しさ、甘さにつけ込んで、自分の利益を優先する人間が増えているように感じる。そのようなテクニックを売りにしている商売もよく見かける。
法律やルールに違反していなければ何をしても良いという考え方は、実は法治国家の思想から最も遠いところにあるのだが、法律を盾に好き勝手なことをする人間が実に多い。そう言った人間は、モラルというものを見ないフリをしているのか、初めから持っていないかのどちらかである。
あからさまに悪事を働くことはせず、ずるく、スマートに、抜け目なく社会や他人を利用して自分の得になることばかりする人間。そんな人間の数が少ないうちは、まだ社会という器の中に収めることができるが、器から溢れるほどに増えてしまえば、その先にあるのは地獄のような無法地帯である。
スマートな人間が多数派となった社会は、奪い合いの活性化した社会である。スマートな人間は、そうでない人間から、資源を掠め取って得をする。しかし、掠め取る相手の数が減り、自分と同じようにスマートな人間が増えれば、今度はスマートな人間同士の騙し合い、奪い合いが始まる。それは悪知恵の比べ合いであり、周りの人間も巻き込んだ不毛で不幸な争いになるだろう。その行き着く先、究極形が戦争ではないだろうか。
平和な社会にスマートな人間が増えてきたら、それは凶兆の足音である。その足音がどれくらい近づいてきているか、用心をしないといけない。終わり




