問題ない
朝、目が覚める。
スマホを見ると6時32分で、いつもと同じ時間だった。問題ない。体を起こし、顔を洗い、歯を磨く。全部いつも通りだ。
洗面所の鏡の前に立つ。見慣れた自分の顔がそこにある。私は軽く笑ってみる。口角が上がり、歯が見える。――そのあとで、ほんの一瞬だけ遅れて目が動いた気がした。
思わず止まる。
……気のせいだ。
そう思い直して、私は洗面所を出る。問題ない。
学校に行くと、教室はいつも通り騒がしい。友達が話しかけてくる。
「昨日さ、あの動画見た?」
私は笑いながら「見た見た」と答える。
そのあとで、わずかな違和感が残る。笑うタイミングが、ほんの少しだけ遅れた気がした。友達は一瞬こちらを見るが、すぐに話を続ける。
問題ない。
昼休み、弁当を食べる。一口、また一口。味はちゃんと分かる。けれど、どこか遠い。自分が食べているというより、食べている自分を外から見ているような感覚がある。
私は手を止める。
――これ、なんだ?
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
けれど、それ以上は分からない。
気にしすぎだ。私はまた箸を動かす。問題ない。
帰り道、駅のホームに立つ。白線の内側に足を置き、ぼんやりと線路を見下ろす。暗い。ただ暗い。
「最近さ、大丈夫?」
横から声をかけられる。クラスのやつだ。
「何が?」
「なんか、ぼーっとしてること多くね?」
私は少し考える。ぼーっとしている、とは何か。うまく説明できない。
「問題ないよ」
そう答えると、そいつは少しだけ不安そうな顔をした。
やがて電車が来る。音が近づき、風が強くなる。前を見ると、人がすぐ前に立っている。背中が近い。
近すぎる。
なぜこんなに近いのか、分からない。
私は一歩前に出る。白線に触れる。さらに少しだけ前へ。気づくと手が伸びていた。
触れる。
軽い。
体が前に傾く。
落ちた。
大きな音がして、誰かの叫び声が響く。風とブレーキ音が混ざる。
――次の瞬間。
私は白線の内側に立っていた。
「危ないって!」
横で声がする。さっきのクラスのやつだ。
私は線路を見る。
誰もいない。
「……今、前出てなかった?」
そいつが言う。
私は少し考える。
前に出た、とはどの程度の動きか。
定義できない。
「出てないよ」
そう答える。
そいつは何も言わなかった。
私は何もしていない。
問題ない。
その後も、すべてはいつも通りに進む。授業、ノート、黒板。けれど、どこか少しだけ違う。みんなの声が遠い。自分の手も、わずかに遅れて動く気がする。
ノートに書いた文字が、ほんの少しだけズレる。
私はペンを止める。
――本当に、問題ないのか?
その考えが、一瞬だけ浮かぶ。
けれど、すぐに消える。
理由は分からない。
帰宅して、また鏡の前に立つ。顔がある。
私は笑う。
口が上がり、歯が見える。
今度は、はっきり分かった。
目が遅れて動いている。
確実に。
私はじっと鏡の中の自分を見る。向こうの自分もこちらを見る。同じ顔、同じ動き。
……本当に同じなのか。
翌朝、また目が覚める。スマホを見ると6時32分。いつも通り。問題ない。
洗面所へ行き、鏡の前に立つ。顔がある。
私は笑う。
今度は完全に同じタイミングだった。
問題ない。
そう思った瞬間、ふと昨日のことが頭に浮かぶ。
あれは、本当に何もなかったのか。
少しだけ考える。
そして、やめる。
まあいい。
問題ない。
私は今日も学校へ向かう。
すれ違う人たちは誰もこちらを見ない。
駅のホームが見える。
白線の内側。
人の背中。
私は、ちゃんとここにいる。
そう思って、前を見る。
白線の向こう側だった。




