約 束
目を覚ますと、まだ、やや薄暗い紫の明け方。僕はベッドを起き上がると、手早く出勤準備を済ませ、いつもの海老茶色のコートを引っ掛け、人通りの激しい、いつものバス通りをゆっくりと歩いて会社へ向かった。
その日、変わらない仕事を終わらせると、僕は会社を出て、急ぎ足で、電車に素早く乗りこんだ。すると、その時、電車に座っていた美しい一人の女性と目が合った。彼女はちらりと僕を見て、すぐ目を伏せた。僕が彼女を見たからかもしれなかった。
僕は、特別気にもせずに、次の駅で電車を降りると、コートのポケットに手を突っ込みながら、カラスの鳴き声が妙に冷たく耳に響く裏通りをしばらく歩き、いつの間にか赤黒い、古びた暖簾の垂れた店の前に立ち、開きづらい扉にギシギシと力を込めていた。
僕がタバコの臭いが染みついたコートを着たまま、カウンターに座り、ぼんやりと前を向き、タバコを口に咥えると、つまらなそうに焼き鳥を焼いていた親父は、僕の前にビールを置きながら言った。
「何か食うか?」
咥えていたタバコを手元の灰皿に置き、僕は何も言わずにビールに手をかけた。
「どうした、飯はまだなんだろう?」焼き鳥を焼いていた手を止め、親父がしつこく僕に絡んで来た。
それでも僕は黙ったまま、口を閉ざしていた。すると親父は軽く舌打ちして再び焼き鳥を焼き始めた。
この店の親父は、話したくて話したくて仕方無い様で、店の中はいつも無口な酒飲み達で占められていたのだが、時々、話が盛り上がった相手には、平気でビールの中ジョッキをサービスする始末だった。
しかし、今しばらくは、静かに無口な時間が流れていた。そして酒飲み達がそろそろポツリポツリと口を開き始めた頃だった。
親父が突然つまらないことを僕に言って来た。
「お前、今日は嫌におとなしいな、えっ、女に振られたか?」
僕が黙っていると、何時も親父は口を閉ざすのだが、その日の親父はなぜか黙らなかった。
「そうだな、お前に女がいる分けなかったか。どうした、おまえ、会社で本当に仕事してんのか?」
「え、何やってんだ?」
無口だった酒飲み達の絡みついて来るようなニヤニヤ笑う視線がうるさかった。そんな時、ざわついた店の厨房の奥から僕に、思ってもいない援軍が現れた。
「何言っているのよ、仕事してなきゃお店に来れないでしょ!」
すず子だった。彼女は、店の手伝いに来ている、三十歳の妙に影のある女だ。
親父はすず子に頭が上がらなかった。なぜなら数字を扱えない親父は店の経営全般をすず子に任せていたのだ。
その日、僕が、固く口を閉ざしたままに、静かに酒を飲んでいると、今度はそんな僕を見ながら親父が心配そうに言った。
「お前、今日はもう帰ったほうがいいんじゃないのか? そろそろ給料日前だろ」
「うちじゃカードもツケもきかさねえぞ」
僕はその時、初めて自覚した。そうだった、そろそろ給料日前なのだ。言われるままに、僕は俯いたまま、ユラリと立ち上がった。
「二五〇〇円よ」カウンターの向こうから、すず子が無造作に、僕に手を差し出し言った。僕は使い古した財布の中から、皺の寄った千円の札を三枚抜き取って、彼女の手に乗せた。
そしてその日、初めて店で口を開いた。俯いたまま。
「ごちそうさん」
*
店を出た僕は、そのまま帰る必要もなく、一人で街を歩き回った。人気の無い、時間の止まった街かど。数人の若者が面白そうに僕を見ていた。
なんとなく回り道をして、近くの小さな公園で、僕はゆっくりと足を止めた。
誰もいないベンチに座り、風に揺れるブランコを見つめながら、ポケットから残り少ないタバコの1本を取り出し、火をつけた。
そして、一息吸い込み、大きく煙を吐いた時、
「コラ、公園でタバコを吸うな」
突然、聴きなれた女の声が聞こえた。振り向くとそこに、何と無く影を纏ってすず子が立っていた。待ち合わせをしていた分けではない。僕は驚いて聞いた。
「どうしたんだ?」
「どうしたって・・・・。今、帰るところよ、あなたこそ、こんなところで何してるの?」
彼女の顔を見つめ、僕は何も言えずにいたが、そんな僕を見つめながら、そっと僕の横に座った。
真正面に見える公園の中の古い二つのブランコが風に小さく揺れ、心に響いてくるようなコオロギの鳴き声が美しかった。
「もう、とっくに終電は行ってるわよ。どうするつもり?」そんな今に酔っていた僕に、彼女は軽く嘲る様に言った。
そう言われ、僕は驚いて、その日、初めて左の手首の安物の腕時計を見て、大きな衝撃を受けてしまった。
しばらく時計を見つめていた僕は、むしろ愉快そうに僕を嘲笑しているすず子の視線を感じていた。そして僕は何故か、無意識に助けを求めるように、横に座るすず子を見つめてしまっていた。彼女は何も言わずに空を見上げていた。
そして僕らは、何も言わずに、ゆっくりと彼女の部屋に向かった。
*
次の日の朝、休日だった。なんとなく疲れていた僕は目を覚まし、ベッドの横の緑のカーテンを開けた。するとそこに薄く真っ白な銀世界が広がっていた。
彼女はすでに起きて朝食の準備をしていた。少し寒い朝だった。
僕は起き上がり、ベッドに腰を掛け、テーブルの上にあった昨日のタバコの箱から1本取り出し、咥えた。
すこしして、すず子が朝食を持って部屋に入ってきた。
「まさか、これで終わりにしようっていうんじゃないでしょうね?」
僕の前にそっと灰皿をさし出して彼女が言った。
朝食を終えると僕らはまた、二人で昨日の公園に出かけ、ベンチに腰を掛けた。
「あなた、会社を辞めてアルバイトをしながら作家を目指して、あなたなら作家になれる。私も店の手伝いを辞めて働く。そして私の部屋で一緒に暮らしましょ」
彼女はなぜか学生時代の僕の夢を知っていた。
そう、僕は大学は文学部だった。
高校の三年の頃、僕は「憧れの綺麗な女の子」に手紙を渡したことがあった。そんな僕が、文学部を目指したのだ。
「あの店の親父も知ってるわよ・・・バカ」すず子が言った。
「あなた,酔った時に自分が何しゃべってるか知ってるの?」彼女が笑いながら僕の顔を覗き込んできた。
彼女の言葉を聞いて僕の顔は赤く蒸気を発するようだった。
その時だ。
「おい、松坂、松坂じゃねえのか?」僕は驚いた。
振り向くとそこには会社の同期の坂本が古びたジャンパーに手を突っ込み、面白そうな顔で立っていた。
「よう、誰なんだその人、姉さんか?」彼はすず子を見つめ、ニヤニヤ笑いながら言った。
「失礼ね、彼の婚約者よ!」彼に向かって、真剣にすず子が言った。僕は特別否定する気も起きなかった。
「最近、婚約したんだ」
「ろくに仕事もしないくせにやることはやってんだな、どこで知り合ったんだ?」
彼はさらに僕に詰め寄った。
すると隣に座っていったすず子が立ち上がり、大きな声で彼に向かい怒鳴りつけるように叫んだ。
「あんたに関係ないでしょ ‼」
坂本は驚いたようにすず子を見つめ、一歩あとずさった。
「行きましょ!」すず子は僕の手を取り言った。
僕らはそのまま、すず子の部屋へと向かった。
そして僕は彼女に言われるままに会社を辞め、僕らは、すず子の部屋で、一緒に暮らし始めた。
*
1年ほど経った頃だ。ある日の日曜だった、僕は買い物を終えて部屋に戻ると、すず子が僕に訊ねて来た。
「あなた、この前のコンテストの結果はどうだったの?ご案内の封書が届いていたの・・・」
「コンテスト?封書?」
「ええ、どこかの出版社から、ご案内の封書がご丁寧に届いてたじゃない」
「応募したんでしょ?」
「あっ、ああ・・・」
「どうだったの?」
「だめだった」
「・・・・・・・・・・」彼女は何も言わなかったが、全てを見透かしたような表情だった。
彼女と一緒に暮らし始めて、ろくに小説など書いてはいなかった。僕は、その日から真剣に机に向かうようになった。
ところがその年の秋、十月だった。
「キョウ、カアサンガシンダ、ソウギアス」アルバイトの最中に、メールが妹から突然届いた。僕はそれまで母の見舞いには一度しか行っていなかった。
僕が部屋に帰えると、その日は出勤だったはずのすず子がいた。
「どうしたの?」
すず子が不思議そうな顔をしていった。
「い、いや・・・」
すず子には、母がいることを話していなかった。
「何があったの?」
「じ、実はお袋が亡くなったらしいんだ」
「え、お母さんがいらしたの?」
「いやいいんだ、君はまだ婚約者ということだから」そう言って、すず子を振り切り僕は部屋を出た。
病院に着くと、僕は病室の片隅の窓際にある小さな椅子に腰を下ろし、一度だけ見舞いに来た時の事を何となく思い出していた。
医師からの話だと母は苦しまずに死んだそうだ。 葬儀が始まると、僕は隅っこで一人、酒を飲んでいた。知らない祖母さん達が大勢来ていたが僕はただ頭を下げるしかなかった。そこへ兄の健一が高そうな喪服を着て僕に声をかけてきた。
「どんなんだい。調子は」
彼は酒のコップを手に、僕に近づいてきた。
「えっ・・・」
「頑張ってるんだろう?」
兄と話すのは五年振りだった。兄は大学でフランス文学を勉強し、今は保険の外交員をしていたはずだ。
「とりあえず・・・」
「小さい頃から本が好きだったからな、お前は」
「・・・・・・・・」
「あまりいい噂は聞かんが、どうなんだ?やっていけそうなのか?」
彼が言うと、僕は口元を少し歪めて笑った。
「兄さんこそどうなんだ?」
「まあ、給料はいいよ。最近、婚約もしたんだ」
彼はコップの酒を煽ると、僕の前に置いてあった徳利から、自分のコップに酒を注ぎ、再び酒を飲みだした。
「・・・・・・・・」
「がんばれよ、やれるだけやれるのは今のうちだぞ」
そう言うと健一は立ち上がり、振り向きもせずに席を離れていった。
葬儀が終わり、最後に見た母の遺影は僕に向かってかすかに微笑んでいた。
その日、僕はろくに親族に挨拶もせずに斎場を後にした。
部屋へ向かうためのバス通りに向かい、誰もいないバス停に立つと、珍しくバスはすぐに来た。
するとその次のバス停で、一人の美しい女性が乗って来た。
美しい女性は、ただつり革につかまったまま、背筋を伸ばして、真直ぐと前を向いて立っていた。
するとその時、彼女がゆっくりと頭を少しかしげて、ちらりと僕を見つめた。そして僕に近寄り、そっと紙を一枚手渡した。
『約束です。今日の六時、福住ヨーカ堂地下入り口で待ってます』
次のバス停に着き、顔を上げると、彼女はもういなかった。
部屋に戻ってもすず子は何も言わなかった。
時間はまだ、五時を過ぎた頃だった。札幌の十月はもう寒く、一日は短い。しかし、その日の一日はいつもの一日に比べてどこか長い。
いつの間にか僕は、すず子に何も言わずに部屋を出る準備をしていた。
「・・・・・・・・」すず子は、うつろな表情で、出かける準備をしていた僕を黙って見ていた。そして、いつのまにか僕は部屋を出ていた。
ヨーカドー地下入り口を、六時が五分ほど過ぎた頃だ。
するとそこに女が一人、薄いベージュのコートを着て憂鬱そうに立っていた。
そして彼女は顔を上げると僕を見つめ妖しげにニッコリと微笑んだ。
もう日の暮れた道を二人で急ぎ足で歩き、僕らは彼女の部屋に向かった。
「お久しぶりね・・・・」彼女は冷たくそう言うと、ベッドの横で僕の上着にそっと手をかけた・・・・・。すず子にはない美しい女の匂いだ、「美」を漂わせ、「美」を匂わせている。
*
次の朝、僕は目覚めてみるとどこか知らない部屋にいた。
何とか起き上がってみると、柔らかいベッドに一人で横になっていた。が、昨日の感激は何も残っていなかった。が、それが感激だったのかすら覚えていなかった。ただ掌にわずかに柔らかな胸の膨らみの感触が残っていただけだった。その時、僕は突然怖くなった。
僕の頭に火が付き、目の前が真っ暗になった。僕はベッドを飛び起きた。
そして逃げるように部屋を出た僕は、大きなマンションの部屋を出た。
スマホをポケットから取り出し「すず子」と投入し、検索した。しかし反応があるはずもない。目をつぶり大きく息をついた。
僕は何もない道に迷ってしまった。
右へ進めばよいのか、それとも左へ進めばよいのか。助けを求めても誰も答えを教えてはくれない。自分のすべての過去が重くのしかかってくるようだった。まるでもう一人の自分の様に。
小走りに走り回っていると、遠く彼方に小さくバス停が見えてきた。
ありがたい。
僕はホッとしたが、静かで、新しい住宅街、彼女がこんな住宅街、しかもあんなマンションに住んでいることが僕にとって意外だった(というより僕がこんな高級マンションに連れ込まれたのが意外だった)
人通りもなく、風のない少し霧がかった様な肌寒い朝だ。僕は、部屋にすず子がいるだろうか混乱していた。もし、いなければ僕はどうなるのか?。
バス通りに出ると、大勢の小学生が重たそうなカバンを背負い、自分よりも大きな傘を差しながら歩いていた。わずかに雪が降ってきた。
バスを降りると市電を待った。いつの間にか日は暮れかけている。
札幌の市電はいつ乗っても、心が初恋のときのように、ドキドキさせられた。が、その時は帰ったらすず子が何を言うかドキドキしていた。
僕がそしらぬ顔で、部屋に帰ると、夕日を浴びながら、すず子が何食わぬ顔で洗濯ものを取り込んでいた。
そこへ僕も何食わぬ顔をして入っていった。
「ただいま」
すず子が洗濯物を取り込む手を止めた。市電の音が夕日を裂くように鋭く響いた。
「どこ行ってたの?」
「吉田と飲みに出て、ちょっと飲みすぎてやつの部屋に泊めてもらった」
「・・・・・・・・・・」その眼差しには懐疑の色が薄くにじんでいた。
「連絡くれてもよかったんじゃない」
「ああ、ゴメン。奴と飲むのも久しぶりだったから」
「・・・・・・・・・・」彼女は何も言わずに再び物干しの洗濯物に目を向けた。
「まあ、いいわ・・・。これから夕食の買い物に出るけど付き合ってね、約束よ」
「えっ・・・」
彼女の ”約束” という言葉に、僕は瞬時に闇へ落とされ、あの美しい女性の幻影が目の前に現れた。
その日、夢に見た母の遺影の微笑みは消えていたのだった。
終わり
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このような稚拙な文章、最後まで目を通していただき、感謝感激であります。
ありがとうございます。
もしよろしければ、他の文章ものぞいていただければと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。面白かったかどうかわかりませんけど。よろしければ【☆】でも頂ければと思います。また、他の作品もあります。読んで頂ければと思います。




