第76話 春の訪れと麦畑の守りの夢
今日は麦の消毒です。
長かった花巻の冬が終わり、ようやく春の陽気が村を包み込んだ。山の雪はすっかり解け、小川は勢いよく流れ、畑では麦が青々とした芽を揺らしている。
「よーし、いい感じに育ってるね!」
ミツが満足げに麦畑を眺める。弟子たちも頷きながら、畑に目を向けた。
「でもね、この時期に油断してると病気になります。せっかくの麦をダメにしないように、今日はしっかり消毒します!」
ミツの声に、弟子たちはピリッと気を引き締めた。
今日使うのは「ボルドー液」という殺菌剤。お坊さまがみんなに教えたこの液は、硫酸銅と石灰を混ぜたもので、麦に害を与えるカビや細菌を防ぐ効果がある。原料の硫酸銅は裏山の銅精錬の副産物。石灰も山にいくらでもある。
「ただね、これは直接肌につかないほうがいいです。みんな、ちゃんと装束を着てくださいね!」
ミツが手を叩くと、弟子たちは作業着に着替え始めた。手袋、脚絆、目出し頭巾にゴーグルまでつけると、まるで忍者のような姿になる。
「忍びの者みたいで俺好きなんだ、この装束!」
お調子者の弟子がくるりと回ってポーズをとると、みんながクスクス笑う。
「ははは、まるで忍者だね!でもね、今日はふざけてる場合じゃないですよ。しっかりやらないと、麦が病気になっちゃいますからね!」
ミツは笑いながらも、きりっと釘を刺した。
ボルドー液の調合、それはまるで錬金術のような作業だった。
まずは生石灰を少しずつ水に入れると、ジュワッと音を立てて高温になり、白い湯気がもうもうと立ち上る。弟子たちは思わず後ずさる。
「うわっ、熱っ!これ、大丈夫なんですか!?」
「大丈夫、大丈夫!ただし、一気に入れたらダメですよ。少しずつ慎重にね!」
ミツがニヤリと笑いながら、慎重に加えていく。やがて石灰は熱を放ちながらも落ち着き、どろりとした石灰乳ができあがる。
「よし、次はこっち!」
ミツが硫酸銅の塊を取り出す。弟子たちが見る中、それを細かく砕いていく。鮮やかな青色の粉がぱらぱらとこぼれるのがなんとも美しい。
「これを水に溶かしますよ。全部は使わないで、まずは水の中にゆっくり……」
青い粉が水に溶けていき、まるで澄んだ湖のような色に変わっていく。
「さて、見ててくださいね!」
ミツが石灰乳の入った桶を大きくかき混ぜる。その流れに乗せるように、弟子が硫酸銅の液を少しずつ注ぎ込む。
すると
「おおっ!」
弟子たちが思わず息をのんだ。白かった液が、みるみるうちに淡い青白色へと変わっていく。
「これがボルドー液!麦を守る薬です!」
ミツが胸を張ると、弟子たちは感嘆の声を上げた。錬金術さながらの調合作業。こうして、麦畑を守るための大切な薬が完成したのだった。
史実では1882年にフランスのボルドー大学のミランダ教授が開発した殺菌剤だが、作り方は比較的簡単で江戸時代初期の若者たちにも可能だ。効果は穏やかだがほとんどの細菌やカビに効く。作物の重症の病気を治療する力はないが、早めに予防的にまけば効果が期待できる。現代でも有機農業などで使われている。
(作者注 実際に現代でボルドー液を作るときは農薬取締法で認められた材料で作ってください。)
「これがボルドー液か」
「思ったより簡単にできるんですね」
弟子たちは興味津々だ。
「だけどね、濃すぎても薄すぎてもダメなんですよ。ちゃんと分量を守らないと、効果が出なかったり、逆に麦が傷んじゃいますからね!」
ミツが言うと、弟子たちは「なるほど」と真剣な顔になった。
ボルドー液を桶に入れ、背負い桶を担いで麦畑へ向かう。桶から竹筒が伸びていて小さな穴が開いている。革袋のフイゴで風を送ると竹筒の先から霧のようになったボルドー液が出る。三郎の力作、霧吹き型手押し散布機である。
「ちゃんと葉の裏にもかけるんですよ!表だけじゃダメですよ!」
ミツが声をかけると、弟子たちは「はいっ!」と元気に返事をして、懸命に作業を続けた。
「ふぅー、なかなか大変だな」
「でも、これで麦が元気に育つならやるしかないよね!」
汗を拭いながらも、弟子たちは前向きな様子だ。
夕方、すべての畑への散布が終わった。弟子たちは寺の前で装束を脱ぎ、井戸の水で手や顔を洗った。
「ふぅー、やっと終わった!」
「忍者みたいで楽しかったけど、ずっとは大変だな」
お調子者の弟子が伸びをすると、みんなが笑う。
「まあまあ、これで麦が元気に育てば、苦労のかいがありますよ!」
ミツが明るく言うと、弟子たちも「はい!」と頷いた。春の仕事は始まったばかり。これからも、みんなで力を合わせて乗り越えていくのだった。
ボルドー液は現代でも有効な農薬です。
製造には裏山で取った材料は使わないでください。
農薬取締法で認められた材料で作ってください。




