「灰雪の庭」5
四肢を動かすだけでも、魔力を消耗する羸弱な肉体。血の味を呑み込みながらも木造りの階段を駆け上がり、廊下を辿る。
騒がしい一室は扉が開いていた。男の声がする。呼吸を整えて室内を覗き見れば、五十代ほどの男が電話機を片手に紙をばらまいていた。内装を見る限り、ここは書斎らしい。
「アテナ様はいないのか!? 増援を寄こしてくれ、研究員もまた死んだ。もっと人員が必要だ。……何を言ってるんだ。まさかココを切り捨てたりしないだろう? っ、待て、切るな、おい……!」
「──話は終わったか?」
見開かれた眼が振り向く。彼は俺を眼差したまま、受話器をテーブルに置いていた。
彼の眉間にも目尻にも、深い皺が刻まれている。吐き出された低声も苛立ちに満ちていた。
「小僧……魔女はどうした。魔女の声がしない……まさか、一人で倒したというのか?」
「お前には話がある」
「近付くな!」
ジャケットから抜き出されたのは拳銃。紅燭を浴びた銃身が黒光りする。眇目を向けてやれば、彼は憤慨して悪相を震わせていた。
「いいか。これは、国から言われてやっていることだ。私達は悪人ではない。お前は人助けのつもりでこんなことをしているのかもしれないが、お前の行いこそ国に背く行為だぞ……!」
「そんな話はどうでもいい。コーデリアという少女を知っているか? 過去の実験体に、該当する少女はいないか。鈍色の髪に赤い瞳の少女だ」
三年前、連れて行かれた妹。妹を攫った『あの女』は、魔女を生む組織の頭たる存在だ。妹はどこかの研究施設にいる可能性が高い。
仇敵の居所も掴めたら良いが、電話での会話を聞く限り、この男にはアテナと接触できるほどの権限はないのだろう。
そしてどうやら、妹の居場所さえこの男は知らない。
彼は呆れ顔を傾げ、憐れむように苦り笑った。
「手向けに教えてやっても良かったが、生憎知らない少女だよ」
言下に銃声が轟く。魔法で速度を上げれば弾丸は血痕を散らすことなく壁際へ。
絨毯の蓮を右足で踏み抜き、それを軸に左足を旋回。革靴は彼の腕時計とぶつかった。そのまま勢いを衰えさせず蹴りのける。
鉄塊が空無で踊る。拳銃を手放した彼は無防備。ナイフを逆手に握り込み、彼が態勢を立て直すまでの細隙に太刀影を捻じ込む。
彼は手の甲を翻し、俺の腕を外側へ弾いた。裏返した刃。暖色の照明がほの赤い奔星を描く。寡少の間もなく切り返す──つもりだった。
軌道は彼に遮られ空空に留まる。武骨な手が、こちらの手首を捻り上げていた。
「ぐっ……!」
指先まで魔力を込める。けれども熾した熱は腕まで至らず気道へ上る。
切歯には喀血が絡みつき、魔法の解けた体が脱力していく。揺らぎかけた情景。ダマスク柄の壁紙が重複して見える。血が滲むほど下唇を噛み締めた。踏み止まれ──深念に応えてくれるほどこの肉体は強くはない。
魔法が解けた体は人形のように無力。彼の靴裏が肋骨を撓折する感触。蹴飛ばされるまま机に倒れ込み、卓上ランプとインク瓶が床に落ちていく。
割れる硝子の音すら聞こえないほど、耳鳴りが五月蝿い。血の匂いがする。血の味がする。魔力が足りない。けれども、四肢はまだ三本も繋がっている。
秒針の音が、耳鳴りを劈いた。振り仰いだ先、彼の動作はあまりに悠揚。蹴られた際に俺が手放していたナイフは彼が携えていた。
光芒を散らし、かち下ろされる秋霜。机上に滑らせた手で分厚い本を振り上げた。くぐもった紙の擦過音。剣尖は鳶色の表紙を打突。尖鋭は裏表紙を傷付けず、引き抜かれていた。
一歩後退した彼の横隔膜を、逆手に掴んだ本で打擲。彼が怯んでいる寸閑に本を投げ捨て、万年筆を掴み取った。
蒼玉とよく似た胴軸は色深しい繊月を描く。身構えた彼が前腕部で急所を庇う。万年筆の鋒端は彼の手首を穿通した。
細い骨と骨の間をこじ開け、深く、深くまで。黄金に輝くペン先の刻印が見えなくなるほど、貫き通す。
赤いインクが吹き零れる。それを欺くほどの白銀が目を射る。目の前の男が一寸もたじろがなかったのは想定外。霜刃が一直線に心臓へ向かっていた。
それを、手の平で受け止めた。
革手袋を、肉と血管をも食い裂き、骨を歪める刀鋩。拳を固めれば、ナイフの柄を握り込むことが出来た。己の甲から赤黒く突き出している切刃。その長さは得物の刃渡りとして申し分ない。
肉薄した彼の驚駭が、差し向けた炯眼に映り込む。手甲を外側に据えた状態で腕を振るった。彼の首を圧壊していく。奥歯を噛み締める。
咽頭を裂いていけば自身の掌中も同時に穴を広げる。されどこの一閃が致命傷になるのは彼だけ。だから──止まる理由は露もない。
一思いに切り据えた。生温い紅雨が篠突く。彼は血の吹き出す首を押さえたまま、崩れ落ちて息絶えていた。
寂寞はほんの数秒間。一花のあいだ、彼の流血を眺めていた。
目の前が明滅する。机に腰掛け、深呼吸をした。魔力は、呼吸によって少しずつ回復することが出来る。それでも全快するには時間が必要だ。
自分の掌を見下ろした。疲労のせいか、痛みのせいか、震えている黒手袋。血で染色された生地からは、ナイフの柄が突き出している。その柄をしかと咥え、刃をずるりと引き抜いた。
開いた穴は魔法で止血。幻聴が止まないが、手足は動く。激しい動作をしなければ喀血もしないだろう。
あとは一階に戻り、片腕を回収して帰路を辿るだけ。
顎を持ち上げれば赤い眼と見合っていた。壁掛け鏡に映っているのは、この身。その色彩はどうしても妹を想起させる。魔女の研究施設をいくつ回っても、未だ彼女の影さえ掴めない。
妹と分かたれたあの日。幾本もの劔で体を地面に縫い留められ、ただ、攫われる妹を見ていた。あれから三年だ。
妹も、背丈が伸びているだろうか。少しは器用になって、自分で髪を結べるようになっただろうか。無邪気に語ってくれた夢を、約束を、まだ覚えているだろうか。
どうか、と祈る。彼女が、せめて存生していることを。
彼女をこの手で、殺さずに済むことを。
四
白昼のX通りはどこか心寂れている。ここは夜を好む者達の一路。日中の軒並みはいつも寝静まっていた。
ジャスパー・ベンソンは店の前にある立て看板を雑巾で拭っていた。彼の営む『バー・タウンゼント』はまだまだ開店前。従業員も出勤しておらず、彼も普段なら眠っている時間だ。
やつれた瞼は重たげに、深い影を頬骨へ落としている。煉瓦道にしゃがみ込んだまま、彼はしばらくぼうっとしていた。
ふ、と、その頭上が翳る。彼は寝ぼけたように碧天を仰ごうとして、目を皿のように丸めていた。
ロングコートを羽織った少年──或いは、青年というべきか──が、ジャスパーを見下ろしていた。
ジャスパーはしかと彼を覚えていた。当然だ、忘れられるはずがない。彼を初めて視認した時、ジャスパーは己の拍動が一拍遅れたのを、よく覚えている。
絡まることを知らない鈍色の髪が、さらりと光風に靡く。長い睫毛がまたたき、洋紅色の瓊玉が見え隠れする。白皙は白光に溶けてしまいそうなほど透き通っていた。
芸術品じみた冷艶たる顔気色。いや、腕のいい芸術家でもきっと彼を描けない。空想の中にしか存在できないような、或いは人々の理想を具現したような、現実離れした麗容。それが今、ジャスパーの現前に佇んでいる。
「お前さん、昨日の……」
「これを、渡しに来ました」
彼は片腕をコートの中に収めたまま、もう片方の腕だけをジャスパーの方へ伸ばした。真新しい黒手袋に包まれた指先で、ローズクォーツのイヤリングが揺らめく。その目映さはジャスパーを惹きつけた。
メイジー、と、ジャスパーの喉元から溢れた名前。イヤリングの持ち主は、彼の酒場の従業員だった女性。
涙眼が、受け取ったイヤリングを間近でみつめる。愛を溶かしたような淡い色彩が、陽を浴びて華やいだ。
「ありがとな。……なあ、せっかく来てくれたんだ。一杯奢らせてくれよ」
「いえ……生憎、酒は好きじゃないので」
「そうか。せめて名前くらいは教えてくれないか? お前さん、名前はなんていうんだ?」
少年は、夢ばかり瞼を持ち上げていた。意外な質問だったのかもしれない。切れ長の瞳が涼やかに細められる。ジャスパーには、それが柔らかな微笑として映った。
「……エドウィンです。エドウィン・アッシュフィールド」
笑み交わした時間は一秒程度。彼──エドウィンはもう靴音を鳴らしていた。遠ざかっていく背中に、ジャスパーは慌てて声を張り上げていた。
「エドウィン! 今度は客として来てくれよな!」
硬質な跫音は止まらない。彼は一顧することもなく、大通りの方へ歩いていく。
後ろ姿が見えなくなってから、一人残されたジャスパーは、白昼夢を見た心持になっていた。
魔女という存在も、エドウィンという少年も、幻だったのではないか。
けれどもその手に残ったイヤリングが、全てを現実なのだと物語る。メイジーという想い人が、もう帰ってこないことも。
晨風が吹き抜ける。ジャスパーは息を引き攣らせた。彼女の残り香が、ふわりと漂ったような気がしていた。
【Ashfield──灰雪の庭】fin.